宇野浩二 芥川龍之介 二十三~(11)
さて、遺書は、芥川夫人、小穴隆一、菊池 寛、竹内得二[註―養父の道章の弟、つまり芥川の叔父]あての四通と、伯母のふきと甥の義敏と、別に、『或旧友へ送る手記』とである、ところが、これらの中で、芥川は、殊更に、『旧友へ送る手記』の中に、「どうかこの手紙は僕の死後にも何年かは公表せず措いてくれ給へ、」と書いているが、これは、『思わせ振〔ぶ〕り』で、実は、この原稿だけは、「死後にすぐに公表」される事を予期していたのである。(こういう所にも芥川の仕組〔しくみ〕があるので、それは、芥川が、この手記風の手紙も、『或阿呆の一生』も、菊池に託さないで、融通のきく久米に、託している事だけでも、窺われるのである。)
[やぶちゃん注:芥川龍之介の遺書は、厳密に言うと(現在、作品に数えられている「或旧友へ送る手記」を除いて考える)、宇野が挙げている「小穴隆一」宛は昭和二(一九二七)年四月七日に「歯車」脱稿後、帝国ホテルで心中平松麻素子と心中未遂をした頃に書かれたものと推測される五枚から生前遺書で、外の実際の自死直近の遺書群とは区別する必要がある。その遺書群も「芥川夫人」宛一通(+断片二通)、「わが子等に」宛一通、「菊池 寛」宛一通、「竹内得二」宛(一通?)、「伯母のふき」宛(一通?)葛巻「義敏」宛(一通?)等、小穴宛生前遺書を含めると確実に総計七通を超える数の遺書があった。その内、紛失(焼却?)も含めて芥川文宛の複数(若しくは一通の一部)の一部、竹内得二宛・芥川フキ宛・葛巻義敏宛の四通から五通が未発表(恐らくは最早公開されないか、存在しない)である。この後、宇野は遺書の内容に触れていないが、私の渾身の電子テクスト「芥川龍之介遺書全6通 他 関連資料1通≪2008年に新たに見出されたる遺書原本やぶちゃん翻刻版 附やぶちゃん注≫」及び先行する旧全集版「芥川龍之介〔遺書〕(五通)」の私の注は是非お読み戴きたい。]
さて、午後四時頃、久米は、佐佐木たちと一しょに、既に白木の台と晒木綿などの置いてある玄関をあがり、うすい掛け蒲団をかけてある既に仏〔ほとけ〕になつた旧友の枕元でしばらく目をつぶって黙禱し、それから、そこそこに、二階に、あがって行った。
永眠した芥川の顔は、顎〔あご〕のへんに少〔すこ〕しばかり不精鬚〔ぶしょうひげ〕が生えていたが、平静で、清浄〔せいじょう〕で、冴え切って神神〔こうごう〕しく見えた。
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僕はこの原稿を発表する可否は勿論、発表する時や機関も君に一任したいと思つてゐる。
君はこの原稿の中に出て来る大抵の人物を知つてゐるだらう。しかし僕は発表するとしても、インデキスをつけずにおいて貰ひたいと思つてゐる。
僕は今最も不幸な幸福の中に暮らしてゐる。しかし不思議にも後悔してゐない。唯僕の如き悪夫、悪子、悪親をもつたものたちを如何にも気の毒に感じてゐる。ではさやうなら。僕はこの原稿の中では少くとも意識的〔やぶちゃん注:「意識的」には底本では傍点「ヽ」。〕には自己弁護をしなかつたつもりだ。
最後に僕のこの原稿を特に君に托するのは君の恐らくは誰よりも僕を知つてゐると思ふからだ。(都会人と云ふ僕の皮を剥ぎさへすれば)どうかこの原稿の中に僕の阿呆さ加減を笑つてくれ給へ。
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これは、『或阿呆の一生』にそえた、久米正雄にあてた、手紙で、日づけは「昭和二年六月二十日」となっているから、『或阿呆の一生』を脱稿した月に、書いたものである。(実に『一糸〔し〕みだれず』という観があるではないか。)
この手紙(『或旧友へ送る手記』)と『或阿呆の一生』の原稿を、久米は、二階の座敷(芥川の書斎であった部屋)で、籐椅子〔とういす〕に腰をかけていた時、芥川家の人から、わたされた。
その頃は、小島政二郎、南部修太郎、野上豊一郎、野上弥生子、香取秀真、犬養 健、その他の人たちが、その応接間になっている座敷の中に続続とつめかけていた。
[やぶちゃん注:「犬養 健」(たける、明治二十九(一八九六)年~昭和三十五(一九六〇)年)は政治家・小説家。元首相犬養毅三男。法務大臣。長与善郎や武者小路実篤は義父の弟に当たり、彼等の影響下、白樺派の作家としてデビュー、大正十二(一九二三)年、処女作品集『一つの時代』を刊行、精緻な心理描写と繊細な感性が評価され、後に政治家に転身してからも文士の知友が多かった。昭和二十七(一九五二)年に吉田茂首相の抜擢で法務大臣に就任したが、造船疑獄における自由党幹事長佐藤栄作の収賄容疑での逮捕許諾請求を含めた強制捜査に対して重要法案審議中を理由に指揮権を発動、逮捕の無期限延期と任意捜査へと強引に切り替えさせて不評を買った。指揮権発動の翌日には法務大臣を辞任したが、この指揮権発動によって事実上の政治生命は絶たれ、この指揮権発動を理由として日本ペンクラブは彼の加入を拒否している(以上はウィキの「犬養健」を参照した)。]
久米は、ずっと後に、『或阿呆の一生』の原稿を「もう少し早くわたしてくれたら、死因などもすっきりして、別にいろいろ云われずにすんだと思うのだが、ごたごたがあってから渡されたものだから、……」と、こぼしたが、その時は、『或旧友へ送る手記』を発表すべきかどうか、というような問題などが出て、それがやっと決定する、というような状態であった。
さて、やっと菊池がついたのは、長い夏の白が暮れて、もう暗〔くら〕くなった頃であった。菊池は、遺骸の前に、長い間、だまって、うつむいて、坐っていた、が、急に立ち上がって、小走りにあるき出し、二階にあがると、皆に目もくれず、噎〔むせ〕び泣きながら、廊下の隅の籐椅子の方へ、すごすごと、あるいて行った。
菊池が着く少し前から、いろいろな新聞の記者が、おしよせて来て、これと思う人に、面会をもとめた。しかし、みな、「九時に、『竹むら』[前に書いた、六月十日頃の夜、私が高野と、芥川をたずねて行った家か]で、すべて、発表するから、」と云って、断った。
[やぶちゃん注:「竹むら」は芥川邸の近くにあった貸席。宇野の推測は恐らく誤りである。]
さて、菊池が来〔く〕ると間〔ま〕もなく、軽井沢から、室生犀星が、駈けつけた。つづいて、斎藤茂吉、土屋文明、山本有三、その他も、やって来た。それから、どこからか聞き知って来〔く〕るのも可也〔かなり〕あった。又、悔みに来た人の中には、その頃めずらしかったラジオのニュウス放送で知ったと云うのもあった。
[やぶちゃん注:日本初のラジオ放送は、先立つ二年前の大正十四(一九二五)年三月二十二日に仮放送、本放送は同年七月二十一日に開始されたばかりであった。なお、このラジオの一件の記載は小穴隆一の「二つの絵」の「芥川の死」の末尾の記載に拠るものと考えてよい。
喪主は満七歳の長男芥川比呂志が務めた。通夜の様子は『納棺は今暁四時ふみ子夫人外二三の家族ばかりでしめやかに済ませ棺を玄関突き当りの八畳間に移し、すべて仏式でねんごろなる通夜をした』とあり、位牌の戒名(後の墓碑も)は故人の遺志によって俗名のまま、白木に「芥川龍之介之靈位」とあったとする(昭和二(一九二七)年七月二十六日及び二十七日附『東京日日新聞』の記事を引いた翰林書房「芥川龍之介新辞典」の池内輝雄氏の「葬儀」の項より孫引き。「霊」のみ正字に改めた)。『棺のうへの写真には、頬杖に倚つて前面を凝視したものを選んである。守刀がこれに添えられてある。此処には満室の花輪の香と香水の匂が強い。花の香に酔ふもののあるくらゐに強い』(昭和二(一九二七)年九月号『改造』所収の犬養健「通夜の記」より。前記の池内輝雄氏の「葬儀」の項より孫引き)。]

