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2012/05/30

「鎌倉攬勝考卷之一 物産  / 全テクスト化・注釈完了 

「やぶちゃんの電子テクスト:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇」の「鎌倉攬勝考卷之一」全テクスト化と注釈を完了した。
15日間で出来上がった。恐らく、「新編鎌倉志」「鎌倉攬勝考」の各巻の現在までの作業で、最も早く出来上がった。既に自分で注したものからの引用が多いせいもある。がしかし、手は抜いていない。
特に今回の最後の「物産」――実はこういうパートが、僕は好きで好きでたまんないんだ。――ついつい入れ込んだ注を附して、膨大な分量になってしまった。
――とりあえず、そのマニアックなパートを御目にかけよう。

 

  ○物産

水仙花 十月には咲けり。

[やぶちゃん注:単子葉植物綱ユリ目ヒガンバナ科スイセン属 Narcissus。つい先日も、ニラと誤って葉を食べ、食中毒を起こした事例をニュースで読んだが、スイセンは立派な全草が有毒である。食中毒及び接触性皮膚炎を起こす。毒成分は鱗茎に多く、その主成分はリコリン(lycorine)と蓚酸(しゅうさん)カルシウム(calcium oxalate)で、致死量は十グラム、死亡例もあるから、ゆめゆめうっとりと見入って水辺の仙人、ナルシスのように、なるなかれ。

松露 鎌倉の地所々に生ぜり。

[やぶちゃん注:菌界ディカリア亜界担子菌門ハラタケ亜門ハラタケ綱ハラタケ亜綱イグチ目ヌメリイグチ亜目ショウロ科ショウロRhizopogon roseolus。マツ属の樹木の細根の外生菌根と共生して生育し、未成熟体を食用とするが、現在では希少である。鹿児島で育った私の亡き母は、小さな頃、山中で採るこれが好物だったと話していた。]

薫蘭 房州より出るものと同品。

[やぶちゃん注:日本産のランは日本春蘭と呼ばれるシュンランCymbidium goeringii、シュンラン属カンラン(寒蘭)Cymbidium kanran、フウラン(富貴蘭)属フウランNeofinetia falcata、長生蘭などと呼ばれるセッコク(石斛)属セッコクDendrobium moniliforme があるが、このうちで薫りの強いものは本州南部以南に植生し、初夏に花を咲かせるフウランNeofinetia falcate である。取り敢えず、フウランに同定しておく。]

柴胡 藥品、鎌倉柴胡の名あれど、多くは龜井野、長五等の野原より堀出す。

[やぶちゃん注:双子葉植物綱セリ目セリ科ミシマサイコ Bupleurum scorzonerifolium(亜種としてBupleurum falcatum var. komarowi と記載するものもあり)の根。漢方で柴胡と呼ばれる生薬であり、解熱・鎮痛作用がある。大柴胡湯(だいさいことう)・小柴胡湯・柴胡桂枝湯といったお馴染みの、多くの漢方製剤に配合されている。和名は静岡県の三島地方の柴胡がこの生薬の産地として優れていたことに由来する。「龜井野、長五」は現在の藤沢市亀井野(六会附近)と長後を言う。私が先日まで最後に勤務していた高校は長後にあった。いやさ――奇しき縁を感じたよ。]

防風 藥品なり。葉莖酒品に用ひ、味ひ上品、園蔬とせり。

[やぶちゃん注:双子葉植物綱セリ目セリ科ボウフウ Saposhnikovia seseloides。根及び根茎を防風と呼び、漢方薬とし、発汗・解熱・鎮痛・鎮痙作用があり、十味敗毒湯・防風通聖散などの漢方製剤に用いられ、和食のツマとしても売られている。]

細辛 藥品なり。山谷所々に生ず、前庭石に添えて栽るもの。

[やぶちゃん注:双子葉植物綱ウマノスズクサ目ウマノスズクサ科カンアオイ属ウスバサイシンAsarum sieboldii(シノニム: Asiasarum sieboldii /カワリバウスバサイシンAsarum sieboldii var. cineoliferum)。根及び根茎を細辛と呼んで生薬とする。解熱・鎮痛作用があり、小青竜湯・麻黄附子細辛湯・立効散などの漢方製剤に用いられるが、近年、地上部分に含まれているアリストロキア酸による腎障害や発癌性リスクが報告されている。]

槇椎靑冬樹(モチノキ) 是は自然に山谷にあり。

[やぶちゃん注:「槇」裸子植物門マツ綱マツ目マキ科Podocarpaceaeに属する樹種の総称。種名としての「マキ」はない。代表種はイヌマキ Podocarpus macrophyllus。雌花の種子の基部の丸く膨らんだ部分は花床と言われ、熟すと次第に赤くなり、多少の松脂臭があるものの、甘く食べられる。但し、種子自体には毒成分が含まれるので、食してはいけない。庭木や防風林として古くから植栽されている。

「椎」被子植物門双子葉植物綱ブナ目ブナ科シイ属 Castanopsis に属する、関東以西に分布するツブラジイ(コジイ)Castanopsis cuspidate 及び北方進出種であるスダジイ(ナガジイ、イタジイCastanopsis sieboldii を指す。実は縄文の昔から食用にされてきた。

「靑冬樹」、鳥や小動物・昆虫などを捕獲するのに用いた鳥黐(とりもち)の原材料となる双子葉植物綱バラ亜綱ニシキギ目モチノキIlex integra。樹皮を数ヶ月間流水に漬け置いた後、引き上げて臼で砕き、軟らかな塊状になったものを流水で洗浄して鳥黐を造った。]

トベラ木檞(モツコク) 是も山中所々にあり。トベラの文字未考。

[やぶちゃん注:「トベラ」バラ亜綱バラ目トベラ科トベラ Pittosporum tobira。潮風や乾燥に強く、密生した光沢のある葉を有することから観賞用や街路樹として用いられた。また民俗社会では、枝葉を切ると悪臭が発生するところから、節分にイワシの頭とともに魔除けとして戸口に掲げられた。そこから「扉の木」「扉」と呼ばれ、これが訛ってトベラとなり、学名もこれに由来している。
「木檞」双子葉植物綱ツバキ目ツバキ科モッコク Ternstroemia gymnanthera。江戸時代、造園木として珍重された江戸五木(他にアカマツ・ イトヒバ・カヤ・イヌマキ)の一つで、美しい樹様から庭木として植栽するほか、堅く美しい赤褐色を帯びた材を床柱などの建材や櫛などの木工工芸材として用いる。樹皮は褐色染料としても利用され、葉を乾燥させ煎じたものは腎臓や肝臓に利く民間薬として用いられた。]

八手 最も山中所々にあり、八手の本名未考。

[やぶちゃん注:双子葉植物綱セリ目ウコギ科ヤツデ Fatsia japonica。葉形は掌状であるが、実は七つまたは九片の奇数で裂けており、八つに裂けることはない。参照したウィの「ヤツデ」によれば、『学名のFatsia は日本語の「八」(古い発音で「ふぁち」、「ふぁつ」)または「八手(はっしゅ)」に由来するという』とあり、『葉を乾燥させたものは八角金盤と呼ばれる生薬になり、去痰などの薬として用いられる。しかし葉などにはヤツデサポニンという物質が含まれ、過剰摂取すると下痢や嘔吐、溶血を起こす。このため昔は蛆用の殺虫剤として用いていたこともある。古い鉄道駅の一角に栽培されていることが多いが、これはかつて汲み取り便所の蛆殺しにその葉を使っていたためである』とあり、最後の部分など、昔からの疑問に目から鱗であった。サポニン(saponin)はステロイド・ステロイドアルカロイド(窒素原子を含むステロイド)或いはトリテルペンの配糖体。水溶性で石鹸様の発泡作用を示す物質の総称で、サイカチ・ムクロジ・トチノキ・オリーブ・キキョウなどに含まれる。変わったところでは棘皮動物のナマコもこれを体内に含み、自己防御に用いている。]

琉球芋 味ひ至て甜し、是は園蔬なり。

[やぶちゃん注:双子葉植物綱ナス目ヒルガオ科サツマイモ Ipomoea batatasウィキ「サツマイモ」によれば、本邦での栽培の歴史は、原産地である南アメリカ大陸のペルー熱帯地方からスペイン人やポルトガル人によって東南アジアにもたらされ、そこから中国を経て、『一六〇四年、琉球王国(現在の沖縄県)に伝わる。野國総管(明への進貢船の事務職長)が明(今日の中国福建省付近とされる)からの帰途、苗を鉢植えにして北谷間切野国村(現在の沖縄県中頭郡嘉手納町)に持ち帰り、儀間村の地頭・儀間真常が総管から苗を分けてもらい栽培に成功、痩せ地でも育つことから広まった』。その後、『一六九八年(元禄十一年)三月、種子島に伝わる。領主種子島久基(種子島氏第十九代当主、栖林公)は救荒作物として甘藷に関心を寄せ、琉球の尚貞王より甘藷一籠の寄贈を受けて家臣西村時乗に栽培法の研修を命じた。これを大瀬休左衛門が下石寺において試作し、栽培に成功したという。西之表市下石寺神社下に「日本甘藷栽培初地之碑」が建つ』。下って宝永二(一七〇五)年(一七〇九年とも)、薩摩山川の前田利右衛門が『船乗りとして琉球を訪れ、甘藷を持ち帰り、「カライモ」と呼び、やがて薩摩藩で栽培されるようになった』。享保十七(一七三二)年の『大飢饉により西日本が大凶作に見舞われ深刻な食料不足に陥る中、サツマイモの有用性を天下に知らしめることとなった。八代将軍・徳川吉宗はサツマイモの栽培を関東に広めようと決意する。そして起用されたのが、青木昆陽であった。当時、彼は儒学者としての才能は評価されていたが、その才能を買っていた八丁堀の与力加藤枝直が、町奉行・大岡忠相に推挙、昆陽は、同じ伊藤東涯門下の先輩である松岡成章の著書『番藷録』や中国の文献を参考にして、サツマイモの効用を説いた「蕃藷考」を著し、吉宗に献上』、享保十九(一七三四)年には青木昆陽が『薩摩藩から甘藷の苗を取り寄せ、「薩摩芋」を江戸小石川植物園、下総の幕張村(現千葉市花見川区)、上総の九十九里浜の不動堂村(現:九十九里町)において試験栽培』を始め、翌享保二十(一七三五)年に『栽培を確認。これ以後、東日本にも広く普及するようにな』ったとある。
「甜し」は「あまし」と読む。]

水漉石 是は山より切出す石にて、柔かなる石ゆへ水鉢の如くに凹に掘て、水を入ければ下へ漉水出る、砂こしにすると同。酒なとを漉に妙なり。

[やぶちゃん注:「水漉石」は「みづこしいし(みずこしいし)」と読む。まずは、木内石亭の「雲根志』補遺三編(享和元(一八〇一)年刊)の「卷之三」に載る記事を引用しておく。底本は昭和五(一九三〇)年刊の日本古典全集版を用いた。誤字と思われるものは後に〔 〕で正字を示した。

     水漉石(みづこしいし)

水漉石(みづこしいし)は蠻人(ばんじん)船にたくはふるものにして價もつとも貴し船中水盡(みづつき)たる時潮を漉て水を取(とる)甚要用の物なり和産あることを聞ず蠻來(ばんらい)の物いまだ見ず所は産物會に其名あれど甚凝〔疑〕はししかるに濃州垂井(たるゐ)の近郷圓光寺(ゑんくわうじ)山にて堀〔掘〕出せりとて同郡市橋裏谷氏これを贈らる石質柔軟(やはらか)にて色薄白く形狀浮石(かるいし)の如くにして重し石面を窪(くぼか)にして茶酒(ちやさけ)を漉(こし)試るに忽滴るところ淸水(せいすい)なりしかれども用をなす物にあらず弄石家の慰ものなり

希代の石フリーク木内石亭は、ここで本邦に産しない本物の「水漉石」と、類似効果を持つ国内産の似非「水漉石」を厳密に分けているが、私にはこのいずれの「水漉石」も、現在の鉱物学で何に当たるのか、よく判らない。俗に言う「鎌倉石」の中に、スコリア質砂岩というのが含まれるが、これか? 鉱物学の専門家の御教授を乞いたい。]

稚海藻(ワカメ)、滑海藻(アラメ)、鹿尾菜(ヒジキ)

[やぶちゃん注:「稚海藻」褐藻綱コンブ目チガイソ科ワカメUndaria pinnatifida を代表種とするグループ。ワカメの代用種として用いられるものとしては他にヒロメUndaria undarioides・アオワカメUndaria peterseniasa のほか、アイヌワカメ属アイヌワカメAlaria praelonga・チガイソAlaria crassifolia・ホソバワカメAlaria angustaが挙げられるが、ワカメ・ヒロメ・アオワカメ以外は生息域が北方に限られている上、且つ極めて限定された地域に棲息するため、その地方での消費に止まることが多い。ワカメUndaria pinnatifida は、北海道東岸と南西諸島を除く各地沿岸と朝鮮半島の特産であり、分類学的には胞子葉と葉状体とが隔たっているか近接してるかによって前者をナンブワカメUndaria pinnatifida form. Distansとし、後者をワカメUndaria pinnatifida form. Tipicanoの2品種を挙げる場合もある。なお、ワカメ属の属名 Undaria は「皺を持つ」、アイヌワカメ属は「翼を持つ」の意である。更に伊豆半島以南の暖流域では本来、天然のワカメUndaria pinnatifidaが余り採れなかったことから、コンブ科アントクメ属のアントクメEcklominiopsis radicosaが代用品として用いられる。
「滑海藻」褐藻綱コンブ目コンブ科アラメEisenia bicyclis。種小名の bicyclis は「二輪の」で、本種の特徴である茎部の二叉とその先のハタキ状に広がる葉状体の形状からの命名である。かつては刀の小刀の柄として用いたほど、付着根とそこから伸びる茎部が極めて堅牢である。太平洋沿岸北中部(茨城県~紀伊半島)に分布し、低潮線から水深五メートル程度までを垂直分布とする。茎が二叉に分かれ、葉状体表面に強い皺が寄る。似たものに、カジメEcklonia cava とクロメ Ecklonia kurome があるが、カジメは太平洋沿岸中南部に分布し、水深二~十メートルまでを垂直分布とし、茎は一本で上部に十五枚から二十枚の帯状の葉状体が出るものの、葉の表面には皺が殆んどない点で区別出来、クロメは、カジメよりもやや南方に偏移する形で太平洋沿岸中南部及び日本海南部に分布し、垂直分布はカジメよりも浅く、二種が共存する海域では、カジメよりも浅い部分に住み分けする。茎は一本で上部にたはり十五枚から二十枚の帯状の葉状体が出るが、葉の表面には強い皺が寄っている。また、乾燥時にはカジメよりもより黒くなる。但し、クロメ Ecklonia kurome の内湾性のものは葉部が著しく広くなる等の形態変異が極めて激しく、種の検討が必要な種とされてはいる(以上の分類法等は二〇〇四年平凡社刊の田中二郎解説・中村庸夫写真の「基本284 日本の海藻」に依った)。
「鹿尾菜」褐藻綱ヒバマタ目ホンダワラ科ホンダワラ属ヒジキSargassum fusiforme。「比須木毛」(ヒズキモ)というのが古称とされ、その転訛でヒジキとなったとするが、この「ひず」という如何にも厭な発音を含む語源は不詳である。
以上の博物学的叙述は、私の電子テクスト、寺島良安の「和漢三圖會 卷九十七 藻類 苔類」で私が注したものを省略加工して示した。よろしければそちらも参照されたい。]

鎌倉海老

[やぶちゃん注:以下、私の電子テクスト、寺島良安の「和三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「紅蝦」を、原文・訓読及び私の注も含めて、総て引用して注に代える。但し、一部の煩瑣な記号は省略し、注の一部を追加してある。本文中の〔 〕は私の補注。

   《引用開始》

Isebi

いせゑび
かまくらゑび
紅鰕

※【音浩】 海鰕[やぶちゃん字注:※=「魚」+「高」。]
【俗云伊勢鰕
又云鎌倉鰕】[やぶちゃん字注:以上三行は、前三行下に入る。]

本綱紅鰕乃海鰕也皮殻嫩紅色前足有鉗者色如朱長

一尺許其肉可爲鱠鬚可作簪杖大者七八尺至一丈

五色鰕 閩中有之長尺餘彼人兩兩乾之謂之對鰕 
                    仲正                                                   

夫木 今は我世をうみにすむ老ゑひのもくつか下にかゝまりそをる

△按紅鰕勢州相州多有之紫黑煮之正赤色口有四鬚

 鬚長過一二尺根有硬刺殻有如鋸沙者而尖手足有

 節掌指如毛尾端如花葩是稱海老以爲賀祝之肴或

 謂有榮螺變成紅鰕而半螺半鰕者人徃徃見之蓋悉

 不然也紅鰕腹中有子則是亦山芋變鰻之類矣

□やぶちゃんの訓読

いせゑび

かまくらゑび

紅鰕

※【音、浩。】 海鰕[やぶちゃん字注:※=「魚」+「高」。]
【俗に伊勢鰕と云ふ。又、鎌倉鰕と云ふ。】

「本綱」に、『紅鰕は乃ち海鰕なり。皮殻、嫩(のん)に紅色たり。前足に鉗(はさみ)有る者は、色、朱のごとく、長さ一尺ばかり。其の肉、鱠と爲すべし。鬚、簪杖(しんぢやう)に作るべし。大なる者、七~八尺より、一丈に至る。
五色鰕 閩中()〔=福建省中部〕に之有り。長さ尺餘。彼の人、兩((ふた)つ兩(づ)つ之を乾かし之を對鰕(ついか)と謂ふ。』と。

「夫木」 今は我世をうみにすむ老ゑびのもくづが下にかゞまりぞをる 仲正

△按ずるに、紅鰕は勢州〔=伊勢〕・相州〔=相模〕、多く之有り。紫黑く、之を煮れば、正赤色。口に四の鬚有り。鬚長くして一~二尺に過ぐ。根に硬き刺有り、殻に鋸沙(をがくづ)のごとくなる者有りて尖り、手足に節有り、掌指は毛のごとく、尾の端、花葩(はなびら)のごとし。是、海老と稱して以て賀祝の肴と爲す。或る人謂ふ、榮螺の變じて紅鰕と成り、半螺半鰕なる者有りて、人、徃徃、之を見ると。蓋し悉く然らざるなり。紅鰕の腹中に子有ることは、則ち是も亦、山芋鰻變ずるの類か。

[やぶちゃん注:エビ亜目(抱卵亜目)イセエビ下目イセエビ上科イセエビ科 Panulirus japonicusの外、本邦産種をのみ挙げるならば、カノコイセエビ Panulirus longipes、シマイセエビPanulirus penicillatus、ケブカイセエビPanulirus homarus、ゴシキエビPanulirus versicolor、ニシキエビPanulirus ornatus である。「本草綱目」の記載も、同科の仲間を指すものとして全く違和感がない。

・「鎌倉鰕」例外を注記するならば、カマクラエビは関東に於いてイセエビを指すが、和歌山南部ではイセエビ下目セミエビ科ゾウリエビ属ゾウリエビPariibacus japonicusを指すという(「串本高田食品株式会社」ののページ)。正直、これは初耳。

・「嫩に紅色たり」は、「嫩緑」が新緑の意味であり、「嫩」(中国音“nèn”。そこから音に〔ん〕を補ってみた)には別に見た目のよいさまという意味もあるから、生き生きとした鮮やかな美しい赤という意味か。薄い、という意味もあるが、イセエビとはピンとこない。

・「簪杖」かんざしの柄の部分を指すか。

・「五色鰕」はズバリ、ゴシキエビ Panulirus versicolor ととってよいであろう。古くから以下のように観賞用に剥製にされてきたものらしい。

・「對鰕」これは「喜」の字を二つシンメトリックに並べることに繋がるような慣わしであろうか。ちなみに現代中国ではクルマエビ科 Penaeidae に「対※科」[※=「虫」+「下」=蝦]の名が付けられており、単に対蝦と言った場合はクルマエビ属タイショウエビ Penaeus chinensis を指す。

・『「夫木」』は「夫木和歌抄」。鎌倉末期、延慶三(一三一〇)年頃に成立した藤原長清撰になる私撰和歌集。

・「仲正」は源仲正(生没年未詳。仲政とも書く)。平安末期の武士、酒呑童子や土蜘蛛退治で有名なゴーストバスター源頼光の曾孫である。即ち、ひいじいさんの霊的パワーは彼の息子、鵺(ぬえ)退治の源頼政に隔世遺伝してしまい、仲正の存在はその狭間ですっかり忘れ去られている。しかし歌人としてはこの和歌に表れているような、まことにユーモラスな歌風を持つ。当該歌は「夫木和歌抄」巻廿七雑九にある。

やぶちゃん訳:今、私は、世の中倦み疲れ果ててしまい、海に住んでいる老いたエビが、哀れ、藻屑の下で腰もすっかり老い屈まって居るのと同じように、最早、惨めに隠棲しております。

・「半螺半鰕なる者有り」について私は、これはサザエ類の殻に入ったヤドカリの仲間を誤認したものと思う。ヤドカリ科 Diogenidae のオニヤドカリ属 Aniculus やヤドカリ属 Dardanus には相当に巨大で、鋏脚も立派な種や個体がおり、充分考えられることだと思うからである。

・「蓋し悉く然らざるなり……」について。彼は「巻九十六 蔓草類」の「※1※2」(ひかい・ところ)[※1=(くさかんむり)+「卑」。※2=(くさかんむり)+「解」。]=ヤマイモの項では「山芋鰻變ず」について全く語っていないし、「卷五十 河湖無鱗魚」の「鰻※3(うなぎ)」[※3=「魚」+「麗」。]=ウナギの項では「又有薯蕷又濕浸而變化鰻※3者自非情成有情者是亦不必盡然也」(又、薯蕷(やまのいも)又た濕浸されて變じて鰻※3に化する者有りと。非情より有情と成ること、是れ亦、必しも盡ごとく然るにはあらざるなり。)と述べる。この口調は、本件の最後の口調と極めて類似している。いわば、イセエビの腹の中に子があることは(観察によって明白で、彼らは通常は卵生である)、従ってこのイセエビがサザエに変化するということもまた、『山芋が鰻に変化する』というのと同じ(如何にも稀な、いや、信じがたい化生の)類なのではなかろうか、と言っているのである。ここで我々は、良安が、このような当時信じられた自然発生説的俗信に対して、冷静な自然観察者として、かなり懐疑的な視点を保持していたことを読み取るべきであると私は思うのである。

   《引用終了》

私の「和漢三才図会」に少しでも興味を持たれた方は、是非、こちらにも御来駕あられたい。私の渾身のテクストの一つである。]

堅魚 或は鰹又は松魚の字をも用ゆ。古書には頑魚とかけり。幷堅魚の説は次に出す。

《堅魚の説》堅魚は江戸にて殊に賞翫するうをなり。初夏の節に至れば魚賣の聲を待得て、必ず其價の高下を論ぜず、人より先に食ひしを自賛するは、繁華の地にすめるの餘潤なれど、是は卑賤の蕩子等がする處なり。俳諧師の素堂が句に「目に靑葉山ほとゝきす初堅魚」云云。【徒然草】に、鎌倉の海にかつほといふ魚は彼さかひにもさうなきものにて、此ごろもてなすものなり。それも鎌倉の年寄の申侍りしは、此うをおのれがわかかりし世迄は、はかばか敷人の前へ出ること侍らざりき。頭は下部もくはず、切て捨侍りしものなりと申き。かやうの物も世の末になれば、上さままでも入たつはさにこそ侍れと云云。按ずるに兼好の如き物しれる人も、上古のことに疎けるにぞ。【日本月令】云、景行天皇五十三年八月、伊勢の國より轉じて東國に到り給ひ、上總、安房の浮島の宮に到らせ給ひ、御船を還し給ふ時、舳を顧に魚多く御船を追ひ來る。陪從せし磐鹿六獦命、角弭の弓を以て遊魚の中へ投入給ふに、其弭につひて出、忽數多の魚を獲給ふ。《頑魚の由來》竹て此魚を名附て頑魚と稱し給ふとあり。是今いふ堅魚と註せり。今も角を以て堅魚を釣は此時より始れる事なりとあり。按ずるに、頑魚と名附給ひしはをろかなる魚といふ事にや。扨御船より陸にあがらせ給ひければ、先に獲たる白蛤の大ひなるものと、釣得たる頑魚と件の二種のものを捧しかば、殊に譽させ給ひ悦せ給ひてもふさく、其味ひ甚淸鮮ならん、造りて供御の料とせよと宣ひしかば、无邪國造上祖大多毛比知(ムサノクニノミヤツコノカミノヲヤヲホタモヒチ)に、夫國造上組天上腹(フノクニノミヤツコノカミヲヤアマノウハハル)、天下腹(アメノシタハル)の人等に六獦命(ムツカリノミコト)下知して、膾につくらせ奉るとあり。是上古より堅魚を天子の供御に奉れる始なり。されば兼好がはかばか數人の前へ出すことなきものと書しは誤りならん歟。又云、【續日本紀】天平九年、諸國に痲疹流行せし時、同年六月、諸國へ下し給ふ官符に云、鯖(サバ)及び阿遲(アジ)等の魚幷年魚くろふべからず。乾鰒(ホシアハビ)、堅魚等は煎じ、然る時は皆良(ヨシ)とあり。堅魚と出たるは堅魚節の事なり。【日本紀】【延喜式】にも堅魚とあるは、みな堅魚節の事なることとしるべし。上世は節といふを略して堅魚といひ、今の世の兒女子は堅魚を略して節とのみいふ。或は又おからとも唱ふるは、みやこなまりの方言にや、上世より高貴の人の食料に備ふるものなり。

[やぶちゃん注:種としてのカツオKatsuwonus pelamisは、スズキ目サバ亜目サバ科カツオ属の1属1種である。但し、同定に際しては、以下の五種辺りをカツオの仲間として認識しておく必要があろうかとは思われる。

サバ科ハガツオ属ハガツオ Sarda orientalis

サバ科スマ属スマ Euthynnus affinis

サバ科イソマグロ属イソマグロ Gymnosarda unicolor(本種にはマグロの名がつくが、分類学上ハガツオに近縁。但し、魚体もカツオからそう離れていないので挙げておきたい)

サバ科ソウダガツオ属ヒラソウダガツオ Auxis thazard

サバ科ソウダガツオ属マルソウダガツオAuxis rochei

カツオについては、私の電子テキスト「和漢三才圖會 巻第十一 魚類 江海無鱗魚の「鰹」の項を参照されたい。

「餘潤」「大漢和辭典」に、ありあまるうるおい、余財、とある。金に任せた贅沢、といった意味であろうか。

「目に靑葉山ほとゝきす初堅魚」は、現在でもしばしば見られる誤りで、

 目には靑葉山ほととぎす初がつを


で、初句は字余りである。

「徒然草」の以下の叙述は、第百十九段。植田の引用にしては、珍しく間違いなく(失礼!)引用しているが、最後の「上さままでも入たつはさにこそ侍れ」の「はさ」は「わざ」。ともかくも植田のこの、力を入れた兼好の鰹叙述への指弾には、私も百二十%助太刀致す! 私は丸一尾買って三枚に捌いて食うほどの大の鰹好きだからである!!

「日本月令」「本朝月令」。明法博士惟宗公方の手になる平安中期の年中行事起源や沿革、その内容を纏めた現存最古の公事書。

「景行天皇五十三年」西暦一二三年。

「安房の浮島」国学者伴信友は安房国平群郡勝山(現在の千葉県安房郡鋸南町勝山)の浦賀水道にある浮島に比定している。

「磐鹿六獦命」磐鹿六雁命(いわかむつかりのみこと)のこと。景行天皇の侍臣で料理の祖神とされる。以下、ウィキの「磐鹿六命」によれば、『大彦命の孫と伝えられ、日本書紀によれば、景行天皇は皇子・日本武尊の歿後、その東征の縁の地を歴訪したが、安房国の浮島宮に行幸したとき、侍臣の磐鹿六雁命が堅魚と白蛤を漁り、膾に調理して天皇に献上した。天皇はその料理の技を賞賛し、磐鹿六雁命に膳大伴部の姓を与え』、『その子孫の高橋氏は代々宮中の大膳職を継いだ』。『磐鹿六雁命は宮中・大膳職の醤院で醸造・調味料の神「高倍神(たかべのかみ)」として祀られていた。また、高家神社(千葉県南房総市)、高椅神社(栃木県小山市)、およびどちらかの神社から勧請を受けた各地の神社で祀られており、料理の祖神、醤油・味噌などの醸造の神として調理師や調味業者などの信仰を集めている』とある。

「白蛤」これは二枚貝綱異歯亜綱マルスダレガイ科ハマグリ亜科ハマグリ属 Meretrix lusoria でよい。近年の「白蛤」という和名はマルスダレガイ科メルケナリア属ホンビノスガイ Mercenaria mercenaria に用いられるが、近年、魚屋にも、まま見受けられるホンビノスガイは北米大陸東海岸を原産地とし、一九九八年以降に東京湾で現認されて定着が確認された新参外来侵入種であるから、ここでは、あり得ない。

「无邪國造上祖大多毛比知……」以下、三人はすべて人名。現地の豪族で、景行天皇の食事の相伴役である。

「天平九年」西暦七三七年。

「痲疹」天然痘。特に九州地方では旱魃と重なって猖獗を窮め、消滅する郷村が出るほど、多くの民草が死んだ。都でも藤原宇合(うまかい)を始めとする藤原四家(南・北・式・京の各家)の全当主及び政界の実力者の罹患・死亡が相い次いだ。

「鯖」スズキ目サバ亜目サバ科に属するサバ属 Scomber・グルクマ属 Rastrelliger・ニジョウサバ属 Grammatorcynus に属する魚類の総称。通常、単に「鯖」と言えばサバ属のマサバ Scomber japonicas であるが、ここでは同族のゴマサバ Scomber australasicus も含めてよいであろう。御承知の通り、ヒスチジンを多く含むためにアレルゲンとなるヒスタミンを生じ易く、魚類アレルギーのではよく挙げられるが、ここでサバ食を禁じているのも、アレルギー反応の蕁麻疹が天然痘の症状と同一視されたからであろう。サバの博物誌は私の和漢三才圖會 卷第四十九 魚類 江有鱗魚の「鯖」を参照のこと。

「阿遲(アジ)」スズキ目スズキ亜目アジ科アジ亜科 Caranginae に属する魚の総称。一般にはマアジ Trachurus japonicus を指すが、アジ科レベルでは三〇属一五〇種を数え、多数の種が含まれる。青魚であるから、やはり魚アレルギーの一種に挙げられる。アジの博物誌は私の和漢三才圖會 巻第十一 魚類 江海無鱗魚の「鰺」を参照されたい(良安はアジを無鱗と誤認している。但し、これはアジに限った誤認ではない。リンク先を参照のこと)。

「年魚」生まれて一年で死ぬ魚の意で、アユの別名として知られるが、実は産卵後にすぐ死ぬのが実見されることの多かったことから、やはり一年で死ぬと思われていたサケの古名として「和名抄」等に載る。私はここはサケ目サケ科サケ属サケ(シロザケ)Oncorhynchus keta 及びサケ属を指していると考える。何故かと言うと、サケ類には仮性アレルゲンであるノイリンが含まれ、発疹・皮膚の掻痒感及び口腔アレルギー症候群を引き起こすことが知られているからである。サケの博物誌は和漢三才圖 卷第四十八 魚類 河湖有鱗魚を参照されたい。

「乾鰒(ホシアハビ)」腹足綱原始腹足目ミミガイ科アワビ属 Haliotis のアワビ類の加工品。羅鮑・身取り鮑などと呼び、内陸で食すために殻を取り去ったアワビを干して乾燥させたもの。アワビの博物誌は和漢三圖會 四十七 介貝部」の冒頭にある「鰒」を参照されたい。

「堅魚節」ウィキの「鰹節の「歴史」によると、『カツオ自体は古くから日本人の食用となっており、縄文時代にはすでに食べられていた形跡がある(青森県の八戸遺跡など)。五世紀頃には干しカツオが作られていたとみられるが、これらは現在の鰹節とはかなり異なったものであったようだ(記録によるといくつかの製法があったようだが、干物に近いものであったと思われる)』。『宮下章が、『鰹節考』の中で「カツオほど古代人が貴重視したものはない。(中略)米食中心の食事が形成されて以来、カツオの煎汁だけが特に選ばれ、大豆製の発酵調味料と肩を並べていた」と述べているように、カツオが古代人にとっては最高の調味料だったといえる』。『飛鳥時代(六世紀末-七一〇年)の七〇一年には大宝律令・賦役令により、この干しカツオなど(製法が異なる「堅魚」「煮堅魚」「堅魚煎汁」に分類されている)が献納品として指定される。うち「堅魚」は、伊豆・駿河・志摩・相模・安房・紀伊・阿波・土佐・豊後・日向から献納されることとなった』。『現在の鰹節に比較的近いものが出現するのは室町時代(一三三八年-一五七三年)である。一四八九年のものとされる『四条流包丁書』の中に「花鰹」の文字があり、これはカツオ産品を削ったものと考えられることから、単なる干物ではない、かなりの硬さのものとなっていたことが想像できる』。『江戸時代に、紀州印南浦(現和歌山県日高郡印南町)の甚太郎という人物が燻製で魚肉中の水分を除去する燻乾法(別名焙乾法)を考案し、現在の荒節に近いものが作られるようになった。焙乾法で作られた鰹節は熊野節(くまのぶし)として人気を呼び、土佐藩は藩を挙げて熊野節の製法を導入したという』。『大坂・江戸などの鰹節の消費地から遠い土佐ではカビの発生に悩まされたが、逆にカビを利用して乾燥させる方法が考案された。この改良土佐節は大坂や江戸までの長期輸送はもちろん、消費地での長期保存にも耐えることができたばかりか味もよいと評判を呼び、土佐節の全盛期を迎える。改良土佐節は燻乾法を土佐に伝えた甚太郎の故郷に教えた以外は土佐藩の秘伝とされたが、印南浦の土佐与一(とさのよいち)という人物が安永十年(一七八一年)に安房へ、享和元年(一八〇一年)に伊豆へ製法を広めてしまったほか、別の人物が薩摩にも伝えてしまい、のちに土佐節・薩摩節・伊豆節が三大名産品と呼ばれるようになる』とあって、『江戸期には国内での海運が盛んになり、九州や四国などの鰹節も江戸に運ばれるようになり、遠州(静岡)の「清水節」、薩摩の「屋久島節」などを大関とする鰹節の番付表が作成され』るまでになった。更にモルディブ起源説が示されるが、筆者同様、私も残念ながら採らない(引用中のアラビア数字は漢数字に変えた)。

「或は又おからとも唱ふるは、みやこなまりの方言にや」これは……「おかか」の誤植では……あるまいか? 因みに、子供向け(だが、侮れませんぞ)教育情報資料センター 資料番号1914に語源説の一つが示されており、宮中の女官の女房言葉として鰹節が「かか」と呼ばれており(これは鰹節を掻き削ったものの意か)、この「かか」に接頭語の「お」が付いて「おかか」となって、後に広く一般にも使用されるようになったとあるから、植田の「みやこなまり」というのは、本女房言葉起源説から言えば正しいと言える。]

松 海岸の地には松樹のよく生茂するものにて、濵風に吹れておのつから風情をなせるあり。爰も海濱ゆへむかしより松多く有しかば、和歌にもよみ合せ、松の岡といふ地名も舊く唱ふれば、松は此地の名産となせり。

[やぶちゃん注:裸子植物門マツ綱マツ目マツ科マツ属 Pinus。針葉樹では最も種が多く、分布域も広いが、ここではクロマツPinus thunbergii 及びアカマツ Pinus densiflora と考えられる。]

鎌倉櫻 《實朝愛翫の櫻》是は古え、大御堂の勝長寺院の境内へ實朝將軍植させられし櫻をいふ。建永二年、右府諸大名へ課せられ、其内にて珍花なるものを勝長壽院へ根こして移され、年々花盛の節に至れば渡御有て和歌の御會を催されしと、往々【東鑑】に見へたり。又京都にても此花を賞せられて鎌倉櫻と名づけ給ひしといふこと、ものに見えたり。されば當所の名産なるゆへ、今は跡かたもなけれど茲にしるせり。

[やぶちゃん注:「建永二年」建永二 (一二〇七)年三月一日の「吾妻鏡」の記事に、

一日丙子。櫻梅等樹多被植北御壺。自永福寺所被引移也。

一日丙子。櫻・梅等の樹多く北御壺へ植ゑらる。永福寺より引移さるる所なり。

とはあるが、私が管見した限りでは、以下に続く「右府諸大名へ課せられ、其内にて珍花なるものを勝長壽院へ根こして移され、年々花盛の節に至れば渡御有て和歌の御會を催されし」に相当する記事は見当たらない。「鎌倉廃寺事典」はこの勝長寿院について二九頁に及ぶ記載がなされており、そこには「吾妻鏡」などの諸資料に出現する勝長寿院の記事の、時系列の恐るべき詳細探索が示されるのだが、これに該当する記事はやはりない。但し、同書七〇頁に『建暦元年(一二一一)十二月二十二日にも「実朝の参詣あり、是歳末の恒規也」といっているから、『吾妻鏡』に記事がでなくても以前から行われていたのであろう。勝長寿院が義朝の廟所として年末の墓参が行われていたことを察するに足りる』とあり、ここを頻繁に実朝が参拝していたことが分かり、更に「金槐和歌集」には、この勝長寿院で詠んだと思われる梅や桜の歌が幾つかあって、特に、前書にそれが明白に示されている連続する二首、

   三月すゑつかた勝長壽院にまうでたりしにある僧山

   かげに隠れをるを見て花はと問(と)ひしかば散りぬとな

   む答へ侍りしを聞て

 行て見むと思しほどに散(ち)りにけりあやなの花や風たゝぬまに

 さくら花咲くと見(み)しまに散にけり夢かうつゝか春のやま風

によって、ここで実朝が頻繁に花見や歌会をしていたことも分かるとは言える。本記載の典拠を知っておられる方は、是非、御一報願いたい。鎌倉勝考卷之十一附録」の金沢文庫の称名寺の中にある桜の名木普賢象桜の記載(正確には「八木」の項に記載)に、

普賢象櫻 堂の前、西の方にあり。八重なり。花の心中より、新緑二葉を出したり。【園太暦】に、延文二年三月十九日に。南庭へ櫻樹を渡し栽。殊絶の美花也。號鎌倉櫻とあり。按に、稱名寺に在櫻樹なるにや。昔鎌倉勝長壽院永福寺の庭前へ、櫻を多く植られ、右大臣家渡御有て櫻花を賞せられ、和歌を詠じ給ふと、往々見えたり。仍て鎌倉櫻と有は是ならん歟。又按るに、延文の頃迄有しにや。鎌倉櫻と稱せしものは、一樣ならぬ珍花なりし由。勝長壽院なとは、將軍家御所より遠からぬゆへ、正慶の兵燹にて、皆燒亡して絶たりといふ。延文の頃の櫻は、古えの※樹にや。

《字注:「※」=〔上〕(くさかんむり)+〔中〕「執」+〔下〕「木」。これは恐らく「しふじゆ」「でふじゆ」と読み、「※」は木が生い茂る形容であろう(「蓻」の字義から類推した)。》

「延文」年間は南北朝の北朝方の元号で、西暦一三五六年から一三六〇年。「兵燹」は「へいせん」と読み、「燹」は野火の意で戦火・兵火を言うから、「正慶の兵燹」というのは正慶二年が元弘三(一三三三)年で鎌倉幕府の滅亡を指している。これを読むと、延文の頃まで勝長寿院(跡)に残っていたというのは、正に書かれている通り、源実朝が花見をした昔、植えられてその頃まで生い茂っていた、生き残っていた桜であり、それこそが正しく本当の鎌倉桜であったのではなかろうか、の意であろうと思われる。但し、細かいことにツッコミを言うようであるが、どうも叙述が前後しておかしくはないか? 幕府滅亡で焼燼し尽して完全に「絶た」というのなら、「延文の頃迄有」ったという伝承は嘘、ということになるのではなかろうか?――ともかくも、この勝長寿院にあった鎌倉桜について、何か別文献等に記載があるのをご存じの方、是非是非、御一報あられたい。実は、「鎌倉攬勝考卷之十一附録」の当該記事をアップした直後、鎌倉に在住される鎌倉桜の保存と研究をされている方から、情報提供を乞われているのであるが、残念ながら私の知見は、これ以上の進展を見そうもない。よろしく御教授の程、お願い申し上げる。]

鎌倉攬勝考巻之一終

 

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