鎌倉覧勝考 今唱鎌倉中の村名
○今唱鎌倉中の村名[古へ町名に呼しも今は村名となり、地名の古き唱へは地の小名に殘れり]
雪ノ下村[小林郷山ノ内庄] 古へ鶴ケ岳の大別當所の邊より今の十二院の境内、夫より馬場小路、横小路邊までの地名にして、雪の下と稱せしか、中古以來は村名となれり。
堯惠法師【北國紀行】に、[文明十七年]彌生半ばになりぬ。東ノ常和に誘れて、扁舟に浦傳ひし又鎌倉に至り、建長、圓覺兩寺巡見して雪の下といふ所を見侍るに、門碑遺跡かづしらず。あはれなる老木の花、苔の庭に落で道を失ふかと見ゆ。
春深き跡あはれなり苔のうへの、花にのこれる雪の下道
[やぶちゃん注:「東ノ常和」東常和(とうのつねかず 康正二(一四五六)年~天文十三(一五四四)年)は武将・歌人。尭恵は当時、相模国三浦郡芦名(現・横須賀市芦名)にいた彼に古今伝授を行っている。]
浄妙寺村[小林郷] 元は大倉の内なれど、今は此邊を一村に稱して浄妙寺を村名に唱ふ。
二階壁村[小林郷] 爰も大倉の内にて、右大將家二階堂建立のころも、【東鑑】に大倉の二階堂と唱え、《二階堂寺》其後二階堂谷(ヤツ)と地の名に稱しけるか、其伽藍も廢したれと、古名を一村の名となせり。
[やぶちゃん注:編者の頭注の「二階堂寺」は「二階堂谷」の誤記であろう。永福寺をこうは呼称しない。]
十二社村[小林郷] 古えは大倉の地名なるを今は村名とすること、光觸寺の邊よりの地なり。土俗の誤りを傳へて、むかし此邊に家數十二所ありしゆへ、十二所村と唱へしといふ妄誕の説は取にたらず。此社は地の鎭神にて、既に鶴岡大別當の兼帶所なりし事は【社務職次第】に見へて、大倉の熊野堂と出たり。其比は大堂にて有し事しらる。今は衰廢し光觸寺の境内鎭守となりし小社なれど、謂れある社ゆへに後世に至りても村名に稱せり。他所にても熊野社のある地には必ず十二社(ソ)と唱ふる地名あり。時宗流の寺ある所には道場と稱する小名あるのたぐひなるべし。
西御門(ニシミカド)村[小林郷] 右大將家御所の西御門ありし舊跡ゆへ名附、東御門の在し所は是も東御門(ヒガシミカド)と唱ふ。
山ノ内村[小坂郷山ノ内庄] 巨福呂坂邊より巨福呂谷村迄の間をいふ。むかしは離山粟船村邊は勿論、吉田本郷邊迄も山ノ内なりし事ものに見へたり。今は圓覺寺總門外より西續き、巨福呂谷村を堺とする由。往古は此地に寺はなく、皆武家屋敷と村民なりしかど、今は悉く寺院内に入、上杉管領屋敷跡といふも寺地に屬す。村地とする所は僅なり。治承四年十月六日、右大將家は武藏路よ鎌倉へ着御し給ひ、同九日、大庭平太郎景能を奉行として山の内の知家事(チケジ)兼通が宅を移して、假の御亭に營作せらるゝとあり。又山ノ内を氏に稱するものは此地の産なり。建久三年三月廿日、後白河法皇の御追福の爲に、俊兼奉行し、山ノ内の地にして百ケ日の間浴室を施行せられ、往還の諸人並村民等浴すべき由、路頭に札を建られしとあり。其地今は知べからず。建仁二年十二月十九日、賴家卿山ノ内の荘へ鷹場御覧に出給ふとあり。仁治元年十月十九日、前武州[泰時]の沙汰として、山ノ内の路を造らる。この路頭嶮難にして往還の煩ひあるに依てなり。いまも道路狹く、南の方は山に接し、北の方の路傍、建長寺境内より流出る水路有て嶮隘なる道路なり。建暦三年和田亂の時、一味の山ノ内の人々廿人とあり。《北條氏の領所》其人々没收せられし地を同年に北條義時に賜ふとあれば、是より北條氏が領所と成けるゆへ、泰時に至て粟船村に常樂寺を基立し、又時賴は此地に別業を設け、建長寺、禪興寺を建立し、其子時宗圓覺寺を開基し、時賴の孫師時は浄智寺を創建し、又時宗が妻室の禪尼は松ケ岡の東慶寺を剏建せり。是所領の地なるゆへ數ケ寺院を造りし事なり。
[やぶちゃん注::「知家事」は鎌倉幕府の政所の職名。案主(あんじゅ・あんず:文書・記録等の作成保管に当たった職員。)とともに事務を分掌した。「剏建」は「そうけん」で、初めて建立する、創建に同じい。]
宗久が【都のつと】云、さてさがみの國かまくら山の内といふ所につきて、古えゆかりありし人をたづねしに、昔かたりになりぬと聞しかば、やうすみける所のさまなど見侍りて、いとゞ世のはかなさもおもひしられ侍りき。
みし人の苔の下なる跡とえば、空行月も猶かすむなり
[やぶちゃん注:「宗久」(そうきゅう 生没年未詳)は南北朝期の僧・歌人。俗名、大友頼資。豊後大友氏の一族か。応安四・建徳二(一三七一)年に九州探題となった今川貞世の使僧となった。「新拾遺和歌集」「新後拾遺和歌集」などに四首入集。その著「都のつと」は観応年間(一三五〇年~一三五二年)に彼が諸国を放浪した折りの紀行文。]
極樂寺村[小坂郷] 《常盤の里》此邊古名常盤の里とも唱へ、北條陸奥入道重時常盤に住し、康元二年の頃、極樂寺創建せしより極樂寺の名も起り、坂の名も極樂寺切通と唱ふ。建長より後の事なるゆへ【東鑑】に坂の名は見へず。
長谷村[小坂郷深澤庄] 《深澤》古へは此地深澤と唱え、大佛切通も深澤切通とも唱ふ。
坂下村[小坂郷] 極樂寺切通の坂下をいふ。
扇ケ谷村[小坂郷] 亀ケ谷の内なり。
小町村[小坂郷] 塔の辻の續き。
大町村[同上] 小町より續き両所ともに古くは町名なりし。
亂橋(ミダレハシ)村[小坂郷] 逆川邊より材木座へ續く石橋の名を村名に唱ふ。
材木座村[小坂郷] 亂橋より南の濱迄の地をいふ。昔の魚町も此地の内なり。御打入の後、鶴岳の宮殿並堂塔佛寺等迄御修營の砌、爰の海濱に諸國よりの筏木、其餘竹木を積置しより、材木座の唱へは始れるといふ。