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2012/05/25

耳嚢 巻之四 實情忠臣危難をまぬがる一事

今回のものは、もともと原文が異様に長い。しかし、だから二日もかかったわけでは、ない。
ちょいとこの訳には拘ったためである。
お暇な折りに、是非、僕の浄瑠璃風現代語訳を、御笑覧あれかし。


 實情忠臣危難をまぬがる一事

 

 明和天明の此とかや。下総國古河(こが)に豪家の百姓次郎右衞門といへるは、壹人の倅次郎吉才發怜悧成しが、年此に成て勞症ともいふべき病を受けて鬱々と暮しけるを、兩親をはじめ大きに歎き、江戸橘町に出店有りける故療治保養に差出しけるに、惡友にいざなはれて吉原町へ通ひ大金を遣ひ捨ける故、次郎右衞門大に怒り、早々村方へ呼下し一間をしつらひ嚴敷(きびしく)蟄居せしめけるに、恩愛の忍(しのび)がたく母の歎きやるかたなき故、一類打寄て次郎右衞門へ願ひ圍(かこ)ひを出しけるに、吉原町にて深く馴染ける俵屋の半蔀(はじとみ)といへるを戀こがれける故、無程鬱病を生じ又々煩けるが、近頃は心底も改(あらため)うわきなる氣色もなければ、又々打寄次郎右衞門へ江戸表へ出養生(でやうじやう)の事願ひけれども、始は得心不致(いたさざり)しが、一子を見殺しなんも無意の所爲のよし頻(しきつ)て申者有りて、又々橘町の出見世へ遣しけるに、始に替り自身升秤(ますはかり)をとりて實躰(じつてい)に家業なしける故、一類の悦び大方ならず。しかるに夏の頃也しが、又々風與惡敷にさそはれ吉原町へ至り半蔀に馴染、多分の金銀を遣ひ捨候故、次郎右衞門大に怒り早速江戸表へ出、かゝる不所存の者は家を失ふ前生の因果成べしと、一類手代共の申をも不取用(とりもちひず)舊離勘當なしけるゆへ、次郎吉も今は詮方なく、しるべとてもなければ、吉原町にて以の外目を懸し茶屋船宿のかたへ尋行しに、勘當請(うけ)し事もしれたる事なれば、古へに引かへ能き言葉をかけ候者も無之、中々半蔀抔に可引合躰(ひきあはすべきてい)ならざれば、しほしほとして衣紋坂(えもんざか)を徘徊せしに、むかし座敷へ呼び心安かりし牽頭持(たいこもち)義兵衞といへる者に出合しに、此者志厚きものにや、次郎吉が樣子を深く尋とひて、當時居住(ゐすまひ)なくば我方へ來り給へとて、己が宿へ伴ひ食事をあたへ、毎度半蔀より御身の事を尋問給へば、今宵引合可申迚(まうすべしとて)、損料にて衣類を拵へ、金子壹兩與へて俵屋へ同道せしに、半蔀が歡び大かたならず。何分御身の方に暫くかくまひ給へ、入用は我身より出さんとて親切に世話致し、義兵衞もともども介抱すれども、いつを限りと世話に可成(なるべき)も如何(いかが)なれば、奉公にてもいたし可申由ゆへ、次郎吉義兵衞相談の上、いにしへ次郎吉召仕ひし長八といへる者、麻布市兵衞町に居(をり)けるを尋て至りしが、此長八は夫婦暮(ぐらし)にて身薄(みうす)の者なれども、あく迄忠臣成者にて深くかくまひ、本店へ申なばいづれ手當も出來なんに、男氣なる者にや又は子細やありけん、一衣をぬぎて夫婦して次郎吉を介抱しけるに、義兵衞よりしらせけん、半蔀よりは度々次郎吉へ文を差越けるを、吉原よりの屆文と聞ては若旦那の身のむし成と、請取ては破り捨候樣子故、次郎吉も深く歎けども詮方なし。是は扨置き半蔀は、次郎吉ヘ音信(おとづるれど)も一度もいなせの返事だになければ深く案じ煩しが、彼義兵衞を呼て深く相談に及びしに、さ程に思ひ曲輪など缺落いたし候はゞ、大雨か大雪の日など宜かるべしと教へければ、或日大雪の降りけるに妹女郎卷篠(まきしの)へむかひ、御身數年兄弟のちなみ大方ならず、誠に我身一生の賴(たのみ)承知有之成と尋ければ、卷篠も幼年より深く世話に成りし事、いか樣の事也とも命にかへて受合(うけあは)んといゝし故、次郎吉が事を語り、此雪に紛れ曲輪を拔出で次郎吉を尋んとおもふ間、裏の方水口(みづくち)の〆(しま)りをゆるめ給はるべしと賴しかば、其姿にては遁れ出ん事かたかるべしと尋しに、兼て拵らへ置きし哉(や)、木綿の布子に麻の衣頭巾迄拵へ、此通りにて出候由申ければ、卷篠かの水口を明け置ければ、道心者の躰(てい)にて竹の子笠をかむり、夜明前右切戸より出て、大門をも難なく拔出しに咎(とがむ)る人なければ、麻布市兵衞町と尋て遙々尋行て、漸(ようやく)に長八が宅へ尋當り次郎吉を尋、長八にもしかじかと語りければ、長八もその貞節深切を感じ、元より男氣成者なれば安々と受合(うけあひ)、次郎吉一同にかくまひ置しが、兼て不勝手(ふかつて)の長八、ことに兩人の厄介何れも手助に成べき者にもなければ、朝暮の煙も立兼し故、夫婦相談の上女房を奉公に出し可申とて彼是承合せけれ共、年もはやたけぬれば遊女奉公にも出しがたく、何卒給金宜(よろしく)、勝手に成べき方をと搜しけるに、市ケ谷邊にて御先手細井金右衞門組與力にて笠原何某といへる者、妻相果(あひはて)家事の世話いたし候女子を尋ける故、右笠原方へ金弐兩弐分にて奉公濟(すみ)いたしけるが、右金も長八程なく遣ひ果しまたまた困窮、詮方なく色々心を苦しめけるが、主人の爲には盜(ぬすみ)致し候者も有之事と風與惡心出て、盜にてもせばやと次郎吉、半蔀へは用事有りて山の手迄參り候間能く能く留守し給へと言て、市ケ谷佐内坂牛込邊を夜通しあるきしが、中々盜抔可致場所もなきゆへ、うかうかと市ケ谷邊を立歸りけるが、ある與力躰の屋敷に表の塀に階子(はしご)かゝり居しゆへ、天の與(あた)へと思ひしが、我より先に盜賊と見へ立入り、大きなる風呂敷包を表へ投出し頓(やが)て階子を下りける故、後より階子共おし倒し、迯(にげ)んとするを取て押へ、某(それがし)は主人の爲(ため)金子無之(これなく)候ては難成(なりがたき)事ありて、命を捨て盜に入らんと思ひし處、今御身に廻り逢ひし也、定て盜たる金子可有之(これあるべし)、何卒貸し呉候樣、實意を顯(あらは)し歎きければ、流石盜賊ながら彼實情にや感じけん、此方へ來り給へと市ケ谷の土手へ至り、扨々御身は感ずるに餘りあり、今晩盜取候金子何程に候哉(や)數も存ぜざれ共、是を御身に與ふるなりと言ひしかば、忝(かたじけなき)段挨拶に及び、いづれ右金子主人の勘當ゆるされば一倍にして可返(かへすべき)間、住所名乘(なのり)をかたり給へと申ければ、彼盜賊答へて、何ぞ住所も有べきや、かゝる非道の生業なせば程なく刑死すべき身也、何ぞ禮に及ぶべき哉(や)と取合ざれば、左はあるべけれ共我盜賊に候共(さふらふとも)恩を請て其恩を報ざらんとひたすら申しければ、かの盜賊にある事ならば我は程なく刑死すべき間、今日を忌日として跡を吊(とむら)ひ給はるべしと、止(とむ)る袖をふり切ていづくともなく迯去りし故、長八も詮方なく、貰ひし金を改見けるに三拾五兩有りし故押戴き居たる所に、最初の盜賊盜計(ぬすみばかり)にも無之(これなく)火を附けたりしや、ありし場所の遠火事とてさはぎ燃立(もえたち)ける故、驚きて早々其場を遁れ歸る道にて、加役方を勤し金右衞門組の笠原何某通り懸り、怪敷由にて聲をかけ捕候故、品々申譯致せども不聞入(ききいれざる)故ふり切て又々迯出すを、追缺(おひかけ)て單物(ひとへもの)の袖を捕(とらへ)、糸やゆるみけん袖引ちぎられて、這々迯延(はふはふにげのび)て市兵衞町へ立歸り、彌々兩人を介抱しけるが、或日豆腐調(ととの)へに長八出しに、かの市ケ谷にて引(ひき)きられし單物へ新しく切レを縫付(つけ)着(ちやく)いたし候を、彼笠原廻り先にて見咎、彼片袖に引合(ひきあはせ)段々と詮儀して、町内組合も出て長八に於(お)き惡事致侯者に無之由強(しい)て申立けれ共、取用無之(とりもちひこれなく)入牢いたしけるゆへ、町内の者より次郎右衞門橘町の店へ通じければ、早速次郎吉半蔀は橘町へ引取、段々長八が譯もしれ、何故に橘町の店へは不通哉(つうぜざるや)、扱々是非なき次第也と、是又長八が惡事可致者に無之段日々訴ける。次郎右衞門も江戸表へ出、諸神諸佛日々のごとく足手を空に長八が命乞をなしけるとかや。佛神は正直の頭(かうべ)に宿り給ふの諺空しからず、諸神の加護也けるや、爰に不思議の事こそ出來ぬれ。長八は日々の責呵にて最早命も續べきにあらず、何れ火を付候に落可申(おちまうすべく)候、日毎に笠原何某相役高田久之丞無躰(むたい)の吟味に絶兼(たえかね)、盜に入(いり)火を附候趣に落けるが、彼(かの)長八妻は笠原何某方に勤けるが容色いやしからざる故笠原事度々戀慕して口説(くどき)けれど、夫有し由にて其心に隨はざりしに、或日笠原儀渠(なんぢ)が夫長八盜に入火を附候儀、某(それがし)が吟味にて白状いたしたれば、迚も助るべきにあらず、夫(それ)よりは我心に隨へなど醉狂の儘口説ける故、彼女大きに驚き、扨は笠原が横戀慕故に夫を無實の罪に落すならんと、町奉行依田豐前守方へ駈込願いたし候處、段々吟味の上長八儀盜賊に無之段相分り、殊に長八に金子を與(あたへ)し盜賊も其節入牢いたし居(をり)、右市ケ谷の火附其身にて長八に無之由申立、笠原高田は不正の吟味故改易に成、細井金右衞門も不念(ぶねん)の御咎にて御役御免有し由。さて又長八夫婦は次郎右衞門方へ引取、厚く賞して作大將(さくだいしやう)とやらにいたし、半蔀は受出して次郎吉が妻と成し由。次郎吉儀沈淪(ちんりん)の内恩義有し者へは逸々(いちいち)其禮を述、今に榮へ居ける由。右次郎吉直々の咄しを聞しとかたりぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:論理的な連関は感じないが、読み終えた際の爽やかさは妙に共通している。この話、濡れ場もあり、また、主役が実は好男子次郎吉ではなく、一回の元使用人長八であって、その長八の手に汗握る波乱万丈の最終展開が眼目という、まるで浄瑠璃の五段構成にそっくりであるが、以下の注で検証したように、これは作り事ではなく、その主要なコンセプトは事実に基づいているらしい。実に面白い。善玉長兵衛と長八、悪玉笠原某と高田久之丞、絡む美形の長八女房、無名ながら愛すべきピカレスクの火つけ盗賊と、役者は十二分に揃っている。長八の奉行所での拷問責めという、観客垂涎の眼目もあればこそ、まこと、文楽の舞台にしたいというのが、実は私の正直な感想なのである。――さればこそ、今度(このたび)のやぶちゃんの現代語訳は、半端なく、凝って御座るぞ――東西東西(とざいとうざ~い)……

・「明和天明」安永を中に挟んで西暦一七六四年から一七八九年まで。明和の前が宝暦、天明の後が寛政。

・「勞症」辞書では労咳、則ち、肺結核としか記載しないが、近世物ではしばしば神経症や精神病の様態に対してもこの語を用いており(この次郎吉の話柄時制での状態と、『次郎吉儀沈淪(ちんりん)の内恩義有し者へは逸々(いちいち)其禮を述、今に榮へ居ける由。右次郎吉直々の咄しを聞しとかたりぬ』という点から見て、予後の良い一過性の心因性神経症であったと考えてよいか)。最後にから見ると、ここでもその意で採るべきであろう。岩波版の長谷川氏の注にも『肺病。また一種の神経症。』とある。

・「橘町」日本橋橘町。江戸時代初期にここに京都西本願寺別院があったが、その門前に立花を売る家が多かったことから立花町、後に橘町に改めた。現在の東日本橋の南西部分、両国と道を隔てた反対側の一画を言う。次郎右衞門の「出店」は具体的に如何なる商売かは示されていないが、次郎右衞門が豪農であることから、何らかの農作物の販売に関わる商店か問屋であった可能性が高いように思われる。

・「俵屋」天明八(一七八八)年作の山東京伝の黄表紙「時代世話二挺鼓(じだいせわにちょうつづみ)」にも登場する吉原でも評判の妓楼であった。

・「半蔀(はじとみ)」は底本のルビ。この源氏名を持った遊女は実際に吉原の俵屋にいた岩ことが、岩波版長谷川氏注の『宝暦期の細見に吉原京町一丁目俵屋小三郎(後には四郎兵衛)抱え、揚代昼夜二分として名が出る』で分かる。但し、宝暦だと冒頭の時代設定からやや厳しい気はする。但し、遊女の源氏名は継がれた場合もあるから、本話が事実譚である可能性の有力な証左の一つであることには変わりがなく、更に以下の「細井金右衞門」の注で明らかになるように、本件は明和四(一七六七)年の事件であることが明らかにされることから、まさにこの宝暦期の細見に出る「半蔀」こそが彼女である可能性が高くなるとも言える。因みに古語難読語としてしばしば出題される半蔀とは、内藤藤左衛門作の三番目物謡曲「半蔀」に基づくもので、実は源氏物語の夕顔を意識した源氏名と思われる。謡曲「半蔀」は、雲林院の僧が立花供養で夕顔の花を捧げる女の言葉により五条辺りを訪ねると、夕顔の絡まった半蔀を押し上げて夕顔の霊が現れ、源氏との昔を語って舞う、という結構である。

・「惡敷にさそはれ」底本には「惡敷」の右に『(惡友カ)』と傍注する。「惡しき(者)」と読んでも問題はないと思われるが、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は「悪友」となっており、それで採る。

・「舊離勘當」「舊離」は、不行跡の子弟が失踪などした際、その者が残した負債の連帯責任から免れるため、親族が奉行所に届け出て、失踪者を人別帳から除名し、絶縁することを言う。現在の失踪宣告に近いか。対する「勘當」は、親が子との縁を絶つことを言い、これは正式に奉行所への届出が必要であった(この法的措置は主従・師弟関係でも有効であった)。但し、前者は、しばしば勘当と混同され、ここでも勘当の接頭語のように附帯しているものと考えてよいであろう。

・「衣紋坂」日本橋土手通り(日光街道)から吉原大門の間にあった坂でS字型を成していた。遊客がここで身なりを整えたことに由来するとされ、湾曲しているのは将軍家日光参拝など際、街道から遊廓を見通せないようにしたためという。

・「牽頭持(たいこもち)」は底本のルビ。「太鼓持」や「幇間」と書くのが普通であるが、小学館の「日本国語大辞典」には、引用例にまさに「耳嚢」のここを引いている。但し、「牽頭持」の字の意味については明らかにされていない。滑稽御愛想を言って人の気を引くのを、「頭を牽く」と言ったものか。識者の御教授を乞うものである。

・「身薄」金がないこと。貧乏。

・「身のむし成」隠喩で「身の虫なり」(御身に附く悪(あし)き虫なり)の意か。但し、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『身のふため成』とあって『ふため』の右に『(不為)』とあって、これは「身の為にならざるなり」(御身がためにならざることなり)の意で、こちらの方が文脈からは(この後の半蔀に対する長八の誠意に満ちた行動などから)、より自然でよい。後者で採る。

・「いなせ」「否諾」「せ」は肯定の意で、①不承知か承知か。諾否。②安否。ここは②の意。

・「さ程に思ひ曲輪など缺落いたし候はゞ、大雨か大雪の日など宜かるべしと教へければ」この台詞が幇間の台詞であることを考えると、私は辛気臭い真剣な話し合いでは、逆に興が殺がれる気がする。これは幇間の洒落のめした戯れ唄や踊りのイメージで語られてこそ臨場感があると思う。例えば「思ひ曲輪」は「思ひ狂は」の掛詞のようにである。これは私の勝手な解釈である。でも面白いと自分では思っている。そもそも遊廓の中で幇間が遊女相手に、あろうことか、遊廓足抜けの指南をするという驚天動地のシークエンス、どうして凡百の映像や演出で我慢出来ようか?! 私の現代語訳では思い切った翻案訳を施してある。――御笑覧♪ 御笑覧♪

・「承知有之成」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版の「承知有之哉(これあるや)」でないと台詞としておかしい。

・「水口」本来は、台所の水を汲み入れるための口を言うが、そこから台所の意。

・「朝氣」底本では「氣」の右に『(餉)』と傍注する。

・「御先手組」「卷之二」の「明君其情惡を咎給ふ事」の注参照。若年寄支配、江戸の治安維持を職掌とした。泣く子も黙る火付盗賊改方長官は、御先手組の頭が加役として兼務した。

・「細井金右衞門」細井正利(ほそいまさとし 享保二(一七一七)年~安永九(一七八九)年)。底本の鈴木氏注に、明和四(一七六七)年、彼が正に本話の事件処理に関して、役目落度のため処罰されたことが「寛政重修諸家譜」に載るとあって、原文が示されてある。以下、該当箇所を正字に変えて示す。

「明和三年六月十八日より盜賊追捕の事を役す。四年六月二十日これをゆるされ、閏九月十六日さきに放火せしものをとらへて獄に下し、罪科に處すべきむね言上にをよぶにより、なを穿鑿あるのところまさしく寃罪なるに決せり。總じて囚人を糾明することは、その情をつくし、ことにかゝりあへるものをもあまねくとひたゞすべきに、たゞに與力高田久之丞にのみまかせをきしよし、よりて久之丞を推間あるのところ、かれも罪にあたらざるとは心得ながら、もとめて放火の科にをとせしむね白状にをよぶ。しかるうへは正利がはからひ疎なるに論なし。しかのみならずこの事により、ひそかに久之丞がもとに文通し、其餘配下の同心等市店にをいて不束なる所行多かりし條、みな正利が職務にこゝろを用ふることゆるがせにして、配下の制導の等閑なるによれりとて職をうばひ、小普請に貶して逼塞せしめられ、五年正月二十七日ゆるさる。」

記述から読み取れる事件、高田久之丞という名の一致といった本記載によって、本話の信憑性は各段に上がるといってよい。それにしても――正にいつの世にも、こういった輩は絶えないものと見える。……これまさに、どこかの検察庁の不祥事そのものと同じではないか。

・「佐内坂」現在の新宿区市谷左内町の西南にある。現在は町名と同じく「左内坂」と表記される。

・「かの盜賊にある事ならば」の右には『(專經關本「彼賊さ有事ならば」)』という傍注がある。傍注の方でないと意味が通じない。

・「加役方」ある役職にある者がさらに別の職を兼務することを言う。先の「御先手組」注を参照。

・「單物へ新しく切レを縫付(つけ)着(ちやく)いたし候を」は「單物へ新しく切れを縫付けしものを着用致し候を」ということである。

・「責呵」は「呵責」の意。

・「依田豐前守」依田政次(よだまさつぐ 元禄十六(一七〇三)年~天明三(一七八三)年)。「卷之一」の「石谷淡州狂歌の事」に既出。旗本。ここではウィキの「依田政次」から引用しておく(数字を漢数字に変えた)。『享保元年(一七一六年)、十四歳の時に八代将軍徳川吉宗に拝謁、享保十年(一七二五年)に小姓組に入り、小納戸、徒士頭と昇進し、目付になる。そこから作事奉行を経て、能勢頼一の後任として宝暦三年(一七五三年)に北町奉行に就任し、明和六年(一七六九年)まで務めた後、さらに大目付へと栄進し、同時に加増されて千百石の知行を得た。晩年は留守居役となり、大奥の監督に尽力したが、大奥の女中達と反目し、天明二年(一七八二年)に老齢を理由に致仕、翌年に死去』した。『北町奉行在任中には』尊王論者の弾圧事件と知られる『明和事件の解決に手腕を振るい、彼らに死罪、獄門、遠島などの処分を下した。他にも、札差と旗本の間で対立が生じてエスカレートした際に仲介を務め、一方で踏み倒しや不正な取立てを行う者に対しては徹底した調査を行って厳罰に処し、不正の横行を抑止することに尽力した』とある。彼の北町奉行勤務と本事件時は一致している(但し、ウィキには豊前守ではなく、『官位は和泉守』とある)。

・「改易」武士の身分を剥奪、領地・家屋敷などを没収する刑で、切腹に次ぐ重刑である。

・「不念(ぶねん)の御咎」「不念」は江戸時代の法律用語で、現在の過失犯の中で重過失に相当する。予見出来たのにも拘わらず、不注意で事件や犯罪事実が発生したと認定された様態を指す。重罰が下される。対義語は軽過失に相当する「不斗(ふと)」。

・「作大將」農家の作男の頭。冒頭にあるように次郎右衛門は下総国古河(現在の茨城県古河市)の豪農である。

・「沈淪」ひどく落魄れること。零落。

・「逸々(いちいち)」は底本のルビ。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 忠厚によって危難を免れた事

 

「……東西東西(とざいとうざ~い)……「契情實忠臣蔵(けいせいぼんちゅうしんぐら)」全段……演じます大夫(たゆう)……豊竹藪之大夫……東西東西(とざいとうざ~い)、東西(とうざ~い)と……」

 

《古河屋敷座敷牢の段》

 明和から天明頃の話、と聞いて御座る。

 下総国古河(こが)に豪農の百姓で次郎右衛門と申すものが御座ったが、彼には次郎吉という、才気煥発にして怜悧なる一人息子がおった。

ところが、その次郎吉、成年になろうという砌り、世間で言うところの労症の如き病いを患い、日々鬱々として暮らして御座ったを、両親を始め、一族郎党、大いに嘆いて御座った。

 さてもそこで、次郎右衛門、江戸橘町にちょいとした商いを致す出店(でみせ)を持って御座ったれば、次郎吉を江戸での療治の便(べん)や、商いをさせてみるのも、これ、気分を変えよう保養にもなろうほどに、と送り出した、と思しめされい。

 ところが、次郎吉、知り逢(お)うた悪友どもに唆かされ、吉原へと通うようになり、次郎右衛門が渡いて御座った大枚の金子も、湯水の如くあっという間に使い捨ててしもうた故、次郎右衛門、これを知ると、大いに怒り、早々に次郎吉を実家へと呼び戻いて、一間を座敷牢に設(しつら)え、厳しく蟄居させてしもうた。

 が、恩愛の情、忍びがたく、母ごは、この我が子の狂人の如き扱われようを嘆くこと、詮方なく、一族の者も仲に入って、次郎右衛門に懇請したによって、次郎右衛門も己が所行を幾分か後ろめたく思うて御座ったのでもあろう、直きに次郎吉を座敷牢から出だいた。

 ところが次郎吉はと言えば、吉原町にて深く馴染んで御座った俵屋の半蔀(はじとみ)という女に、すっかり恋い焦がれてしもうて、程のう、重い鬱の病いを生じ、またまた煩いつく仕儀と、相い成って御座った。

 しかし、暫くすると、この度(たび)は見た目も、浮かれて御座った心底も改まった様子、浮ついた気色も、これ、御座らなんだによって、またまた一族打ち寄って談合に及び、次郎右衛門へ再度、次郎吉を江戸表へ出養生(でようじょう)させることを願って御座った。

 が、次郎右衛門、これ、なかなか得心致さぬ。されど、

「――一子を見殺しにせんとするは、無惨の所行じゃ!」

と頻りに申す者が御座って、次郎右衛門もしぶしぶ許諾致いて、再び次郎吉を橘町の出店へ遣わすことと、相い成って御座った。

 さて、出店へ舞い戻った次郎吉、前とはうって変わって、自分から升や秤を手にし、実直に商売に勤めて御座った故、次郎右衛門一類の悦びようは、これ、尋常では御座らなんだ。

 

《橘町出店勘当の段》

 しかるに、その年の夏のことで御座った。

 不図、またしても悪友に誘われ、またしても吉原町を訪れ、またしても半蔀に馴染み、またしても大枚の金銀を使い捨ててしまった故、次郎右衛門、またしても大いに怒ったかと思うと、この度は即座に、自ずから江戸表の店に駆け込むと、次郎吉に向かって有無を言わさず、

「――かくなる出来損ないを倅れと持つは――家産を失(うしの)う前世の因果に、ほかならぬ!」

と一喝致いたかと思うと、その場に御座った親類やら手代どもの止めるも聞かず、

「――旧離勘当じゃ!――」

と吐き捨てて、次郎吉を店から追い出してしもうた。――

 

《吉原大門衣紋坂の段》

 ……さて、次郎吉、かくなっては最早致し方なく、こんな時に頼りとする方もなければ、吉原町にて殊の外目をかけて御座った茶屋や船宿なんどを訪ねる――が、こうした世界の常で、次郎吉が勘当を受けたことは、先刻承知の助、既にすっかり知れ渡って御座って――かつてに引きかえ、すってんてんの馬鹿息子に、親しげないつもの挨拶すら掛けて呉れる者も御座なく、かくなる上はなかなかに、愛しい半蔀を垣間見ん、なんどという話ですら、ない。――

 そんなかんなで、悄然として衣紋坂(えもんざか)辺りを徘徊して御座ったところ、昔、半蔀との座敷へ呼んでは、心安うして御座った幇間(たいこもち)の義兵衛という者に出逢った。

 ――さてもこの男、蔑(さげし)まるる幇間なれど、奇特なことに、人情には厚い者ででも御座ったか――次郎吉の尋常ならざる風情を見、問い訊ね、訳を知れば、

「……ご当座、お住まいもご座らぬとなれば、儂(あっし)の浅茅が宿へ、まずは、お泊りおくんなせぇ。」

と、自分の家へ伴い、食事を与えると、徐ろに、

「……次郎吉の檀那……実はね、儂(あっし)が逢うたんびに……半蔀さん、『……次郎吉さんはどうしておりゃる……次郎吉さんのこと、あんた、知らんかぇ……』と……そりゃもう、しょっちゅう年中、責めてお尋ねになるんでげす。……されば――今宵一つ、儂(あっし)が旦那方を、お引き合わせ致しやしょう――」

と、義兵衛、言う――

 

《俵屋の段》

 義兵衛は次郎吉を連れて、貸衣装屋にて衣裳を拵えさせ、手ずから金子一両を与えて、俵屋へと同道する。

 半蔀の、悦んだの悦ばないの――

「……次郎吉の檀那のこと、どうか義兵衛殿、お前さんの方で、暫く匿っていておくんなまし。入り用の金子は、これ、あちきが出だしやんす。」

とは半蔀の言葉で御座った。

 

《麻布市兵衛長屋の段》

 それからというもの、半蔀は俵屋の主人に隠れ、秘かに次郎吉へ真心のこもった世話を致し、義兵衛ともども次郎吉の面倒を見て御座ったが、ある時、次郎吉が、

「……いつまでも、こうして、世話になっておるというのも……如何なれば……何処ぞに……奉公にでも出ようと思う……」

と申す。

 しかし――義兵衛の見たところ、如何にも弱々しく頼りなげで、「奉公」の「ほ」の字は、半蔀に「ほれた」の「ほ」しか知らぬといった様子なればこそ――次郎吉の行く末につき、更に義兵衛と委細相談の上、ともかくも、と、昔、次郎吉が召し使って御座った長八という者を、麻布市兵衛町に訪ねて御座った。

 この長八なる者、夫婦(めおと)二人、如何にも貧しい暮らし振りで御座ったが、あくまで忠厚なる者にて、次郎吉を預かると、しっかりと秘かに匿って御座った。かの次郎右衛門の出店へ、かくかくしかじかと内密に申し出でれば――勿論、次郎右衛門へは内密で、であるが――取り敢えずは、なにがしかの当座入用の金子も得られたであろうに――この長八――男気のためか、はたまた、何ぞ、そうは出来ぬ過ぎぬる奉公の折りの事情でも、出店の者や次郎右衛門に対し、何ぞ御座ったものか――裸同然になるも覚悟で、夫婦して全力で、次郎吉の世話をして御座った。

 また、義兵衛より知らされたのであろう、半蔀よりは、度々長八へ文が寄越されて御座ったが、それを長八は、

『――吉原からの届け文と聞きては――若旦那の御為(おんため)に、ならぬ――』

と受け取るそばから、破り捨てて御座る様子故、蔭でこれを知った次郎吉は内心、深い嘆きを抱いてはおったが、匿われた居候の身なれば、詮方なく、凝っと黙って御座ったのであった。

 

《雪景色吉原俵屋の段》

 それはさて置き、半蔀はと言えば、次郎吉に何度も文を書いておるに、一度として、一言(ひとこと)の安否を知らせる返事さえも御座ない。されば、深く案じては、ひどう煩悶致いて御座った。

 思い余った半蔀は、義兵衛を呼び、思いの丈をありのまま、ぶつけて御座った。

 すると義兵衛――すっきりとした不思議に優しげな笑みを浮かべると――

「……♪チャカポコ♪チャカポコ♪チャチャチャ♪……♪さほどに思い曲輪など♪……♪思い狂わば♪……♪曲輪なぞ♪……♪駈け落ち致すが相場に候(そうろ)♪……♪曲輪を駆け落ち致すには♪……♪そうさな、大雨、大雪の♪……♪日など宜しく然るべし♪……♪チャカポコ♪チャカポコ♪チャチャチャ♪……」

と幇間の洒落節を唄(うと)うて御座った――。

 

 それから程のう、大雪が、降った。

 半蔀、妹女郎の巻篠へ向かい、

「……お前さん、この数年、お互い、二つとない姉妹の契(ちな)みを以って過いて参りやんしたのし……なれば、まことにあちき、一生の頼み……これ、承知して呉れやんすか……」

と訊ぬる。巻篠、

「……幼き日より深(ふこ)うお世話になった姐(ねえ)さんの頼み……いかさまのことなるとも……命に代えて……受け合いましょう……」

と答える。

 されば――と、半蔀は次郎吉とのことを巻篠に語る。

「……この雪に紛れ……曲輪を抜け出で……次郎吉さんの元へ、参ろうと存ずれば……裏の厨(くりや)の戸締まりを……ちょいと緩めて……おかしゃんせ……」

と頼む。

「……アイ。……なれど、姐さん、そのお姿にては……遁れ出づること……難しゅう御座んせんかのし?……」

すると、半蔀、かねてより、この時のために用意しておいたものか、木綿の布子(ぬのこ)に、麻の衣と頭巾まで拵えたを、取り出だいて、

「この通りにて……曲輪を――出、ま、す――」

ときっぱりと、言うた。……

 

 ……巻篠、出て来て、かの厨の戸口の、締めて御座った鍵を開け、そのままにしておく……

 ……暫く致いて、道心者の体(てい)をなし、粗末な竹の子笠をかぶった半蔀、出て来る……

 ……夜明け前で御座る……

 ……半蔀、かの厨の潜り戸を抜け……

 ……大門をも、難なく抜け出で……

 ……真っ白なる雪の中……

 ……寒々とした薄き白無垢の姿にて……

 ……咎むる者とて一人もなく……

 ……人気のない衣紋坂……

 ……これ、半蔀の、下って参る……

 

《謠 道行》

 ……半蔀の……

 ……かくて……

 ……麻布の市兵衛町……

 ……市兵衛町へと……

 ……訊ね尋ね……

 ……遙々……

 ……尋ね行き行きて……

 ……漸く……

 ……市兵衛長屋の長八の……

 ……家(や)にぞ確かに……

 ……附き当たりけり……

 ……アア、当たりけり……

 

《長屋雪中の段》

 半蔀は次郎吉と対面(たいめ)致し、長八にもかくかくしかじかと語りければ、根が正直者の長八、半蔀の稀なる貞節と、その情けの、いや深さに感じ入り、元より男気のある長八なれば、やすやすと受け合(お)うて、次郎吉ともども、匿い養(やしの)うことと、相い成って御座った。

 

《市ヶ谷屋敷端の段》

 されど、兼ねてよりの赤貧の長八、殊に、かの二人の厄介、言わずもがな、匿(かくも)うて御座ればこそ、何の手助けの役にも、これ、立ち申さざれば、あっと言う間に、朝餉(あさげ)の煙も立たざる仕儀と相いなって御座った。

 そこで長八夫婦は相談の上、長八の女房を奉公に出ださんことと決したが、齢いも最早過ぎぬれば、遊女奉公にも出だし難しと、女房、

「……何とか、給金よろしゅう……少しは、愛する長八さんと勝手になれるお仕事は、ないかいな……」

と捜して御座ったところ、市ヶ谷辺に御先手細井金右衛門組の与力にて笠原何某という者、妻を病いにて亡くし、家事の世話致すに相応しい女子(おなご)を捜しておる、ということ故、この笠原方へ前金二両二分にて奉公致すことと相い成り、それも成ったれど、この金も、長八、次郎吉、半蔀二人のために瞬く間に使い果たいて、またまた困窮致す仕儀と相い成る。

 散々に心を苦しめ、途方に暮れた長八、

「……主人のためとなれば……盗みを致し候うも……また、ようある事じゃ……」

と、かの長八に不図、悪心の起こって――盗みでもするしか御座らぬ――と、次郎吉、半蔀へは、

「……用の向きがご座いまして、山の手まで行って参りますによって、よくよくお留守を、お頼(たの)申します。……」

とさり気なく言いて、市ヶ谷左内坂、牛込辺を夜通し歩いて御座ったが、なかなかど素人が盗みなんどの出来るような屋敷など、これ、あろうはずもなく、ぼんやりと、もと来た道を引き返し、市ヶ谷辺まで立ち戻ったところが、ある与力のと思しい屋敷の塀に、梯子が一つ掛かって御座った。さればこそ、

『――これぞ! 天の恵みじゃ!――』

とここに押し入らんと思うたが――しかし、これは玄人の盗賊の仕儀にて、既にそれらしき者、先に押し入って御座って――丁度まさに、その折り、その男、大きなる風呂敷包みを、ぽん! と表へ投げ出す――それがまた、長八の立って御座った足元へと転がる――やがて、梯子を降りて参る盗賊――

 長八、すっと梯子を降りかけた盗賊の背後に忍び寄り、梯子諸共押し倒し、驚いて逃げんとするとする盗賊を取り押さえ、

「……我らは、主人の為、金子、これ、御座らねば、如何ともし難き儀の御座れば……命を捨てて盗みに入らんと思って御座ったところ……今、かくもお前さまに、ここで廻り逢(お)うた……これ、まさに巡り合わせに御座る……定めて盗みたる金が御座ろうほどに……どうか! その金――お貸し――下されぃ!……」

と、持ち前の真正直さから、奇妙に誠意を尽くいて嘆願致いたところが、流石に盗賊とは申せ、その心根とまっとうなるに感じたものか、

「……まずは……こちらへ来たり給え……」

と、盗賊は市ヶ谷の土手へと長八を誘(いざな)い、

「……さてさて……お前さんの思いにゃ、これ、すっかり心、打たれわい。……今晩、盗み取って御座った金子……これ、いか程あるやも知れぬが……これ総て……お前さんに――やろう。」

と言うた。長八、

「忝(かたじけ)い!」

と地べたに附して平服に及び、

「――何れ、右金子、主人の勘当許さるる時には、倍にしてお返し申す! どうかご住所お名前など、お教え下されぃ!……」

と申す。盗賊、

「……ちゃんちゃら、可笑しいわい! 盗賊なんどにどうして住所の御座ろうか。かかる非道の生業(なりわい)を致いておれば、ほど無(の)う、刑死となろうが、身の上。礼なんど、及ぶものには、御座らぬて……」

と取り合わず。長八、

「……そうは申さりょうが、我ら、たとえ御身の盗賊にて御座ろうとも、恩を請けて、その恩に報わずば……これ、なりませぬ!……」

と只管(ひたすら)、頼む。なれば、かの盗賊、

「……そうたって申さるるのであれば……そうさ、我ら、ほど無(の)う、刑死となろうによって――今月今夜を忌日と致いて――我らが跡――その弔(とむろ)いを、よろしゅう、お頼み申す――」

と、盗人は長八の止(とど)める袖を振り切って、何処(いずく)ともなく逃げ落ちる――。

 残された長八も詮方なく、まずは、と貰った風呂敷の内なる金子を改め見れば、三十五両も御座った。

 長八、いや高々と、夜空にこれを押し戴いて御座った。

――と――

……最前の盗人……これ、盗みばかりでなく、屋敷内に火をかけでも致いたので御座ったか、かの屋敷のあった辺り、

――火事じゃ!

という騒ぎの声あって、焰の燃え立つさまも見えければ、驚いて、早々にその場を遁るる。

 

 ところが、その帰るさ……火付盗賊改方を勤めて御座った金右衛門組の――何としたことか、勿論、長八には一向に分からざれども、こは長八が女房の奉公して御座る――笠原何某、不図、通りかかり、長八を怪しんで、誰何(すいか)致すと、路に押し止める。

 長八、いろいろと言い訳なんど致いたものの――みすぼらしき風体(ふうてい)、不審なる大風呂敷、やって参った方向の火事……これら総て、誰が見ても、クロ、と疑(うたご)う趣き故――聞き入れず、捕縛せんとすればこそ――

――長八、笠原を振り切って逃げ出す

――追っ驅くる笠原

――笠原、長八が単衣(ひとえ)の袖を摑む

……と……袖の糸の、古び緩んででも御座ったか、

――袖、引き千切られ

――長八、ほうほうの体にて

――市兵衛町へと立ち戻った。……

 

《市兵衛長屋路次(ろし)の段》

 長八、かくしてこの大枚にて、いよいよ主(あるじ)次郎吉と半蔀を世話致いて御座った。

 ある日のこと、長八、豆腐を買いに出るに、笠原に引き千切られた袖に、新しく端切れを縫いつけて御座った、かの単衣を来て歩いて御座ったところ、かの笠原、たまたま見廻りの途次にて見咎め、笠原、かの折りより常時持ち歩いて御座った、かの片袖端切れを取り出だいて、長八の袖の繕いとためつすがめつ、

「それ! まごうかたなき同じ品、同じ破れ目なればこそ!」

と、段々に長八を問い詰めたれば、市兵衛町町内の組合方も出張って参り、笠原に、

「――長八に限って悪事を致す者にては、これ、御座りませぬ――」

と申し立てたものの――端切れの符牒、美事に一致、かかる実証あればこそとて――全く以てお取り上げにならず、そのまま入牢と相い成って御座った。

 直ぐに、町内の次郎吉の一件を知れる者より、次郎右衛門方の橘町お店(たな)へ、かくかくしかじかにて、と通じて御座った故、ことの成り行き、訳も分からず、途方に暮れて御座った次郎吉、半蔀は、早速に橘町へ引き取られた。

 

《橘町出店の段》

 店内(みせうち)にて、段々に長八の次郎吉を匿(かくも)うて御座った趣きなんども知れるにつれ、かつて長八とも親しくして御座った手代衆は、

「……何故(なにゆえ)、我らがこの橘町のお店(たな)へ、正直に通ぜなんだものか?――さすれば、いかさまにも出来たものを――さてさて是非もない仕儀と相い成って御座ったのぅ……」

と、こちらも途方に暮れて御座ったが、取り敢えず、手代衆からも、これまた、御奉行所へ、

「――長八儀、これ、悪事を致す者にては御座らぬ――」

段、毎日のように訴え出て御座った。

 そうこうする内、知らせを聞いた次郎右衛門も江戸表へ参って、己れ自ら願い出でて、長八冤罪の趣きを訴え、また、市中の諸神諸仏へも日参致いては、長八の命乞いをなして御座ったという。

 

《奉行所拷問蔵の段》

 ――「仏神は正直者の頭(こうべ)に宿り給う」――

との諺、これ、まことにて、諸神の御加護にて御座ろうか、ここに稀有の不思議が出来(しゅったい)致いた。――

 「――長八儀、日々の責めに耐えかね、最早、命も続こうとも思われず……何れ、早晩……『火を点け申した』と、落ちましょうぞ……フハフハフハフハ……」

とは、笠原何某が相役高田久之丞の、笠原への言上(ごんじょう)……

……その高田が日ごとの無体(むたい)の拷問……鞭打ち、石抱き、海老責め、吊るし……責めに次ぐ責めの、その吟味、遂に耐え兼ね、長八は……

「……盗みに入りて……火を……つけ……申した……」

と嘘の自白を強要され……落ち、申した。――

 

《市谷笠原屋敷の段》

 その間、長八が妻は、笠原何某方にずっと精勤致いて御座ったが、その容色、殊の外に美麗なればこそ、笠原こと、度々、横恋慕致いては口説いて御座ったれど、女房は、

「夫がおりまする。」

ときっぱり突き離いて、決して随わなんだ。

 ある日のこと、笠原、かの女房が供した酒肴に舌鼓を打ちながら、いやらしき舌なめずりなんどして、かの女を眺め、

「……汝が夫、長八儀……今日、盗みに入って火を点けましたと……某(それがし)が吟味にて……白状致いた……されば、とても命の助かろうはずも、これ、ない……どうじゃ?……これよりは、我らが心に従え……」

なんどと、酔った勢いで口説いた。

 

《北町奉行所御白洲の段》

 女房、これを聞いて大きに驚き、

『……さては笠原、妾へ横恋慕の故、夫を無実の罪に落といたに違いない――』

と、即座に、北町奉行依田豊前守様方へ駆込訴え致いた。

 名奉行として名高い依田政次様直々、段々に再吟味がなされ、その結果、まさしく長八儀は、これ、盗賊にあらざる段、これ、相い分かったよって――

 殊に、長八に金子を与えたかの盗賊も、丁度、その折り、別の科(とが)によって入牢致しおり、呼び出だされた御白洲にて、御奉行様に向かい、

「――確かに、市ヶ谷の火つけ盗賊は我らの所行にて――そこにおわす長八にては、これ、御座ない――」

と申し立てたから、これ、大騒ぎとなって御座った。

 かくなればこそ、依田豊前守様は、

――長八儀証言と盗賊儀自白は、これ、真実(まこと)なること明白にして、長八儀は――冤罪

と相い決し、

――笠原儀及び高田久之丞儀は、不正の吟味、これ、あれば――改易

と相い決し、

――細井金右衛門儀は、職務怠慢にして配下の支配、等閑(なおざり)なるによって過失重く不念(ぶねん)なりとて――御役御免の上、小普請に貶(おと)し、逼塞

申し付けられた由。

 

 ……さて、無罪放免となった長八とその女房は、次郎右衛門実家へと引き取られ、手厚く褒賞を受け、長八は次郎右衛門小作の作大将とやらになって御座った。

 ……半蔀儀は、次郎右衛門世話によって、俵屋より正式に請け出だされ、次郎吉が妻となった、とのこと。

 ……また次郎吉儀は、勘当されて御座った間、恩義のあった長兵衛や巻篠らを、一人ひとり訪ね歩いては、かの折りの礼を述べ……今も古河にて次郎右衛門二代目として、栄えて恙なし、とのこと。

 

「……さても、右の長き伝、これ、正しく、この次郎吉本人の、直々にての話を聞いてのもの。……」

と、私の知れる人の語ったことで、御座る。

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