宇野浩二 芥川龍之介 二十三~(1)
宇野浩二「芥川龍之介」は遂に最終章に入った。残り、凡そ八〇ページとなった。
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二十三
『玄鶴山房』は、芥川の晩年の作品ちゅうの傑作の一つであり、芥川の全作品の中でも最も勝〔すぐ〕れた作品の一つである。そうして、強〔し〕いて「本格」という言葉をつかうと、大正十三年の春頃から死んだ年〔とし〕の昭和二年の初夏の頃までの四年ちかくの間〔あいだ〕の数だけ多い作品の中で、本格的にちかい小説といえば、『玄鶴山房』だけである。
[やぶちゃん注:お気づきになられたか? 宇野は、「玄鶴山房」は、「本格的な小説」と言うには、見え透いた作為性と如何にもな出来過ぎた結構に於いて躊躇を感じないでもないが、芥川龍之介の『大正十三年の春頃から死んだ年の昭和二年の初夏の頃までの四年ちかくの間の数だけ多い作品の中で、本格的にちかい小説』と呼んでやっても、まあ、許してやろう、その程度には「上手い創作」「小説と呼んでも許し得る」作品だ、と言っているである。ここでは宇野が、芥川の「玄鶴山房」を除く後期作品を(初期作品も恐らく宇野にとっては厳密には「評価出来る上手い物語」であって「本格小説」ではないのだと私は思う)、その分量と結構に於いて小品(小品文)とし、小説としては決して認めないぞ、という強烈な意識が露呈している部分と言えるのではあるまいか?]
『玄鶴山房』は、ずっと前に述べたように、大正十五年の十二月の初め頃から、手をつけているが、その大部分は、昭和二年の一月の中頃から下旬にかけて、書いたものであるから、『玄鶴山房』は昭和二年の一月の作、と見るべきであろう。
[やぶちゃん注:前掲の私の関連表を参照されたい。看護婦からの聴取の推定も妥当なものと思われる。この六月の中下旬、芥川は下痢(後に大腸カタルと診断)に悩まされ、合併症の痔でも苦しんだため、妻文の母塚本鈴が心配して、塚本八洲附きの看護婦を鵠沼の芥川の元に送っている(宮坂年譜に拠る)。]
芥川は『玄鶴山房』の構想はずいぶん前から立てていたにちがいない。
ずっと前に引いた、芥川が、私に宛てた手紙[昭和二年一月三十日]の中に、「あの話[つまり、『玄鶴山房』]は『春の夜』と一しよに或看護婦に聞いた話だ、」と書いているのが本当とすれは、芥川は、大正十五年の六月二十日頃に、義弟[文子夫人の弟、塚本八洲]の附き添い看護婦から、『春の夜』の話と『玄鶴山房』の話を聞いた筈である。
『春の夜』はNさんという看護婦が話し手になっており、『玄鶴山房』でも甲野という看護婦が主役の一人になっているから、この二〔ふた〕つの作品の種〔たね〕は看護婦から聞いた、というのは、本当であろう。(猶、この二つの作品で、両方とも、作者の芥川が、看護婦にいくらか重点をおいているように見えるのは、作者が、看護婦をつかって、作中の人物を観察しているように見える、そうして、その観察は、冷たいばかりでなく、なかなか意地がわるいようである。)
それから、両方とも、人がもっとも嫌〔いや〕がる肺結核の病人が主要な人物としてあつかわれ、両方とも、無気味で沈鬱な作品であるのは、どうも、その時分の芥川の好〔この〕みであるらしい。
それから、この二つの作品は、一〔ひと〕つは小品であり、一〔ひと〕つはちゃんとした小説であり、一〔ひと〕つは軽〔かる〕いものであり、一〔ひと〕つは念を入れたものであるが、どこか似たようなところがあるので、私は、はじめ、看護婦から聞いた話は一〔ひと〕つで、芥川が、その一〔ひと〕つの「話」を本にして、別別の構想を立てて、『春の夜』と『玄鶴山房』を、作〔つく〕ったのではないか、と思った程である。
『春の夜』は、その看護婦から話を聞いてから、一と月〔つき〕半あまり後、大正十五年の八月十二日に、鵠沼で、書き上げた。この作品については前に書いたが、これは、七枚ぐらいの小品であるけれど、今いったように、陰気で、冷〔つめ〕たい作品である。そうして、小品としては、中途半端〔ちゅうとはんぱ〕な物である。唯、姉より病気が重い清太郎という二十一歳の青年が、殆んど氷嚢を頭〔あたま〕に載せどおしで、いつも仰向〔あおむ〕けに寝ているところなど、妙に無気味〔ぶきみ〕である。
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……離れへ行つて見ると、清太郎は薄暗い電燈の下に静かにひとり眠つてゐる。顔も亦不相変透〔あひかわらずす〕きとほるやうに白い。丁度〔ちやうど〕庭一ぱいに伸びた木賊〔とくさ〕の影の映〔うつ〕つてゐるやうに。
「氷嚢をお取り換へ致しませう。」
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最後の、「氷嚢をお取り換へ致しませう、」と云うのは、むろん、看護婦であり、眠っている清太郎はいつ死ぬかもわからない病人である。
このぞオッとするような冷たさは、後の、『玄鶴山房』に、通じるものである。
八月十二日に、芥川は、この小品を書き上げてから、苦心惨憺して、九月九日に、やっと、『点鬼簿』を書き上げた。
[やぶちゃん注:九月九日の脱稿後、十五日頃に数枚を追加する加筆の上、再度推敲して改造社へ決定稿を発送した(宮坂年譜に拠る)。]
『点鬼簿』を書いてから、芥川は、あいかわらず、極度の不眠症になやまされながら、『悠々荘』、『彼』などを、書いた、が、何〔なに〕か、落ちつかなかった、頭〔あたま〕の中に、絶えず、『玄鶴山房』が、あったからである。
芥川の頭には、『春の夜』を書く頃から、『玄鶴山房』の、ぼやっとした、構想が、湧き出していたのではないか。
芥川は、『春の夜』は、もとより、不満であった、一心をこめて書いた『点鬼簿』も、自分では思いきって書いたつもりでも、不安であった、ずっと前に引いた、芥川が、廣津に、はじめて出した手紙[大正十五年十月十七日]の中で、廣津が『点鬼簿』をほめたことを、「近来意気が振はなかつただけに感謝した、」と書いているように、その時分の芥川は、幾つかの病気になやみながらも、それ以上に、猶〔なお〕、且〔かつ〕、やはり、芸術上の煩悶をしていたのである。
芥川が『玄鶴山房』を書きたい、と思ったのは、自分が芸術上の不振を感じるとともに、それ以上に、世間で自分が不振である、と思っていることを痛感していたので、この一作によって、自分(つまり、芥川龍之介)が健在である、という事を、示〔しめ〕したかったのだ。
芥川が、これもずっと前に引いた、佐佐木や斎藤[茂吉]や室生などに宛てた手紙の中に「暗タンたる小説」とか、「陰鬱なもの」とか、「陰鬱極マル力作」とか、書いているのは、そのような沈鬱な小説を書くのが、その頃の芥川の好みではあったが、それとともに、そういう、暗澹たる、陰鬱極まる、無気味な、小説を発表して、世の人人〔ひとびと〕をあッと云わせるつもりなども、大〔おお〕いに持っていたからである。
いずれにしても、それだけの、必死の、意気ごみを持って、いざ腰を据えて書こう、と思った時に、(つまり、昭和二年の一月の初めに、)先きに稍〔やや〕くわしく書いた、義兄の鉄道自殺という事件が起こり、そのためにさまざまの事件が次ぎから次ぎと起こつたために、芥川は、「東奔西走」しなければならなくなったのである。
芥川は、それにもめげず、堪えがたい病苦を押し切って、十日ほどの間に、『玄鶴山房』を、書き上げたのだ。しかし、その十日ほどの間は、芥川は、『玄鶴山房』のために、真に骨身を削る思いで、一字、一句、と、ペンを、すすめた。これ(この小説)を見よ、という念に燃えながら、芥川は、『玄鶴山房』を、書きつづけたのである。それは、大形〔おおぎょう〕に云えば、もし、芥川が『玄鶴山房』を書いているところを、端〔はた〕から見れば、何物〔なにもの〕にかに復讐をしているような緊張した顔をしていたかもしれない。しかし、又、その引き締まった気もちのゆるんだ時は、ふと、いたく衰えている自分の体〔からだ〕のことが考えられ、声名の花やかであった頃の事を回想して、心が弱くなった事もあったにちがいない。(ダンテの『神曲』の中の『地獄篇』の後〔うしろ〕の方に、「フランチェスカは我〔われ〕に言ふ『悲しみの中にありて楽しかりし時を想ふより痛ましきはなし。……』」[生田長江訳]という一節がある。)
[やぶちゃん注:最後の「神曲」からの引用について一言附言しておく。原文は“Nessun maggior dolore che ricordarsi del tempo felice nella miseria.”で、生田の訳の通り、イタリア語で「逆境にあって幸せな時代を思い出すこと程つらいことはない。」といった意味である。ダンテ「神曲」の「地獄篇」第五歌で、ダンテが地獄の第二圏に至り、フランチェスカ・ダ・リミニに出逢う部分に現れる台詞。昭和六十二(一九八七)年集英社刊寿岳文章訳訳「神曲」の該当シークエンスの脚注を引用しておく。ダンテがヴィルジリオに『つねに離れず、頬よせて、いともかろがろと風を御するかに見える、あの二人とこそ語りたい。』の「二人」に附された注である。『フランチェスカ・ダ・リミニとパオロ・マルテスタ。北イタリアのラヴェンナ城主グイド・ミノーレ・ポレンタの娘フランチェスカは隣国の城主で狂暴かつ醜男ジャンチオット・マラテスタと一二七五年頃政略結婚させられた。初めジャンチオットは結婚の不成立をおそれ、眉目秀麗の弟パオロを身代わりに立てたが、婚後事実を知ったフランチェスカのパオロに対する恋情はいよいよつのり、フランチェスカにはジャンチオットとの間にできた九歳の娘が、そしてパオロにも二人の息子があったにもかかわらず、一二八五年頃のある日、ジャンチオットの不在を見すまして密会していたところ、不意に帰宅したジャンチオットにより、二人は殺された。フランチェスカはダンテがラヴェンナで客となっていたグイド・ノヴェロの伯母なので、特に親近の感が強かったに違いない。(後略)』。寿岳文章の訳では、地獄の苦界の只中にいる彼女がダンテの『フランチェスカよ、あなたの苦患〔くげん〕は、悲しさと憐れみゆえに、私の涙をひき出す。/だがまず語りたまえ。甘美なためいきの折ふし、何より、どんなきっかけで、定かでない胸の思いを恋とは知れる?』という問いに対する答えの冒頭で、『みじめな境遇に在〔あ〕って、しあわせの時を想いおこすより悲しきは無し。』と訳される。以下、フランチェスカはパオロ・マルテスタとのなれそめを語る。なお、特にこの台詞について寿岳氏は、『ダンテは多くの古典をふまえてこれらの言葉を書いたと考えられるが、ポエティウス(四八〇-五二四)の『哲学の慰め』二の四、三-六行とのかかわりは最も深い。』と注を附している。]
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……成程〔なるほど〕ゴム印の特許を受けた当座は――花札や酒に日を暮らした当座は比較的彼の一生でも明〔あか〕るい時代には違ひなかつた。しかしそこにも儕輩〔さいはい〕の嫉妬や彼の利益を失ふまいとする彼自身の焦燥の念は絶えず彼を苦しめてゐた。
[やぶちゃん注:「儕輩」は、仲間・同輩。「せいはい」とも読む。]
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これは、玄鶴が、だんだん衰弱して行き、床〔とこ〕ずれの痛みの辛〔つら〕さを唸り声をあげて僅かにその苦〔くる〕しみをまぎらせる、というような状態になった上に、底知れぬ孤独の寂しさを感じて、その一生を回顧した時のことを書いた文章の一節である。
そうして、これは、芥川が、「神経衰弱なほるの時なし、」と慨歎し、ますます募〔つの〕る不眠症のために、主治医である下島 勲に内証で、斎藤茂吉から、ヴェロナァル、ノイロナァル、阿片丸、その他を、都合しでもらって、飲んでいるような状態の時に、書いた小説の一節である。
すると、「画家としても多少は知られてゐた、」堀越玄鶴が、全盛時代に、「儕輩の妖妬や彼の利益を失ふまいとする彼自身の焦燥の念は絶えず彼を苦しめてゐた、」と書いた芥川も、亦、全盛時代には、「儕輩の嫉妬」や自分の「利益を失ふまいとする」焦燥の念に絶えず苦しめられたのであろうか。
そこで、ますます臆測を逞〔たくま〕しくすると、この小説を書いていた時分の芥川は、全盛時代とは又ベつの、もっとイライラした焦燥の念に駆られていたのではないか。そうして、更に、臆測を逞しくし、極言すれば、この頃の芥川は、「儕輩の嫉妬」の反対に、「儕輩を嫉妬」し、創作力を回復しようとする焦燥の念に駆られていたのではないか。そのために、芥川の神経は興奮し、それとともに、芥川の気もちは、誇張して云うと、氷のごとく冷〔ひや〕やかになり、鬼のように残酷になった。そうして、物を見る目が、意地わるくなり、異常に鋭くなった。
『玄鶴山房』は、芥川の心が、ざっと、こういう状態になった時に、書かれたのであろう。
『玄鶴山房』には、子供と女中まで入れると、十一人の人物が、出てくる。子供や女中まで数えたのは、この小説の中では、ちょいと出てくる子供や女中まで、巧みに使っているからである。
さて、この小説の主要人物をつぎつぎに上げると、「門の内へはひるが早いか、」妙な匂〔におい〕のする、離れで肺結核の床に就いている、玄鶴老人、「七八年前から腰抜けになり、便所へも通へない体」になっている、玄鶴の老妻の、お鳥、或る相当な政治家の次男で、「豪傑肌の父親よりも昔の女流歌人だつた母親に近い秀才」である、銀行員の、婿の、重吉、苦労知らずであるが、よく細かい事に気のつく、内気な、家つきの娘の、重吉の妻の、お鈴、小学校に入〔はい〕ったばかりでありながら妙にませたところのある、息子の、武夫、それから、だまって一家の人びとを観察して意地わるな目で見ている、渡〔わた〕り者〔もの〕の、看護婦の、甲野、信州生〔うま〕れの女中のお松、――と、これだけの人たちが、玄鶴山房の中で、別別の心をもって、暮らしているのである。そこへ、「或〔ある〕雪の晴れ上つた午後、二十四五の女が一人〔ひとり〕、か細〔ぼそ〕い男の子の手を引いたまま、引〔ひ〕き窓越〔ご〕しに青空の見える堀越家の台所へ顔を出した、」という所から、静かで打ち沈んでいた玄鶴山房に波瀾を起こさせ、玄鶴山房の内に思い思いに暮らしていた、先きに上げた、七人の老若の男女の心を、それぞれ、違った形で、動揺させる、(大人〔おとな〕たちは腹の探〔さぐ〕り合いをする、)というのが、この小説の『山』である。そうして、その 『山』をつくる元〔もと〕の「二十四五の女」とは、前に堀越家で女中をしていた、玄鶴の妾の、お芳であり、そのお芳に手を訂かれている「か細い男の子」とは、玄鶴とお芳の中に生〔う〕まれた、武夫と同い年〔どし〕ぐらいの、文太郎である。
されば、この小説に出てくる人たちの中に、その時分の芥川の好みである、醜悪な病人なり捻〔ひね〕くれた人間なりが出てこなければ、この小説は、おそらく、「新派悲劇」というような作品になったであろう、それから、この小説の中に芥川らしい気取った説明が随所に出てこなかったら、この小説は、たぶん、「通俗小説」になったであろう。そうして、ついでに云えば、舞台に向く脚色のできる人(あるいは、脚色を本職にしている人)がよくやるように、この小説を、暗い陰気なところを、省〔はぶ〕くか、それとも、出来〔でき〕るだけ明〔あ〕かるくし、芝居に必要な人物だけを取り上げ、場面を三場か四場ほどにし、脚色すれば、さしあたり、新生新派ぐらいで、上演できるであろう、もし久保田万太郎あたりがその気になれば。