宇野浩二 芥川龍之介 二十三~(5)
『芥川龍之介』の人と芸術について書いている人たちが、「十人が十人まで」と云ってもよい程、『点鬼簿』、『玄鶴山房』、『河童』、その他について述べる時、「既に死を覚悟していた作者は、……」という文句を、使っている。しかし、これらの作品を、発表された時、はじめて読んだ時は、私は、作者が「死を覚悟」して書いたなどという事は、まったく考えなかった。いや、はじめて読んだ時は、そんな事は少〔すこ〕しも頭〔あたま〕に浮かばなかった、そんな事が頭に浮かびようもなかったからでもある。
凡そ一〔ひと〕つの作品は、作者が、それを書く時、どういう心の状態にあったか、というような事と殆んど関係はない。
ところが、こんど、芥川の最晩年(つまり、昭和二年)の幾つかの作品をくりかえし読んでみて、芥川の最晩年の作品だけは、「作者が、その作品を書く時、どういう心の状態にあったか、」という事と、かなり関係がある事を、私は、感じたのである。
*
……芥川龍之介! 芥川龍之介、お前の板をしつかりとおろせ。お前は風に吹かれてゐる葦だ。空模様はいつ何時〔なんどき〕変るかも知れない。唯しっかり踏んばつてゐろ。それはお前自身の為〔ため〕だ。同時に又お前の子供たちの為だ。うぬ惚れるな。同時に卑屈にもなるな。これからお前はやり直すのだ。
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これは『闇中問答』の最後の一節である。
[やぶちゃん注:「闇中問答」の私の電子テクストは、こちら。]
私が、この『闇中間答』をはじめて読んだのは、昭和二年の九月号の「文藝春秋」に出た時である。(この「文藝春秋」は、『芥川龍之介追悼号』であり、その「文藝春秋」の発行所は、東京市麹町区下六番町であるから、文藝春秋社が、有島武郎邸を借りていた時分である。その頃、直木三十五が、有島邸の近くに、住んでいた。さて、文藝春秋社は、この『芥川龍之介追悼号』を出してから間もなく、あの内幸町の大阪ビルディングの二階に、移転したのである。――こういう事を書いていると、その時分の事をよく知っている私は、懐しさとともに、ありふれた言葉であるが、そのありふれた言葉どおり、『感慨無量』である。)
さて、その「文藝春秋」には、遺稿として、巻末に、この『闇中問答』が出〔で〕、巻頭に、『十本の針』と『或旧友へ送る手記』とが出ている。(猶、この『或旧友へ送る手記』は、「文藝春秋」、のほかに、「改造」にも、都下の新聞にも、出たように思う。)
[やぶちゃん注:「或旧友へ送る手記」は、宇野の言う通り、自死の翌日の昭和二(一九二七)年七月二十五日の『東京日日新聞』と『東京朝日新聞』に初出掲載され、同年九月号『文藝春秋』と『改造』に再掲されている。]
それから、ついでに述べると、前に書いたほかに、芥川の死後、遺稿として、『西方の人』は、「改造」の八月号に、『続西方の人』は、「改造」の九月号に、『歯車』は、「文藝春秋」の十月号に、『或阿呆の一生』は「改造」の十月号に、発表せられた。
私がこういう事を殊更に書いたのは、『西方の人』や『続西方の人』や『十本の針』や『闇中問答』や『歯車』や『或阿呆の一生』などを、芥川が死んでから二三箇月後〔かげつのち〕に読むのと、全集になってから読むのと、その全集をずっと後に読むのと、では、それぞれ、読む人に、随分ちがった感銘をあたえるに違いないと思うからである。
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若し天国を造り得るとすれば、それは唯地上にだけである。この天国は勿論茨〔いばら〕の中に蕎薇の花の咲いた天国であらう。そこには又「あきらめ」と称する絶望に安んじた人々の外には犬ばかり沢山歩〔ある〕いてゐる。尤も犬になることも悪〔わる〕いことではない。
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これは、『十本の針』の中の『天国』という一節であるが、この一節を、芥川が死んでから二た月〔つき〕も立たないうちに、「文藝春秋」の九月号で、読んだ時は、私は、ぞっとした。
ところが、その時から二十五六年も過ぎた今、この一節をおちついて読むと、これも、亦、散文詩のようなものである。しかし、最後の方の「人々の外には犬ばかり沢山歩いてゐる、」というところなどは、今よんでも、ずいぶん気味がわるい。
[やぶちゃん注:「十本の針」の私の電子テキストは、こちら。]
ところで、『或阿呆の一生』は、前に述べたように、気の向いた時に、一節ずつ書いて行って、六月(何日〔なんいち〕かわからぬが)に、脱稿している。それから、『十本の針』は、これも何日かわからないけれど、七月に、脱稿している、が、芥川は七月二十四日に世を捨てたから、七月の上旬に、書き上げたものであろう。
[やぶちゃん注:現在の年譜的知見によれば、「或阿呆の一生」の脱稿は六月二十日で(同日中に久米正雄に同作を託す文章を書いている。「十本の針」の脱稿は不詳。]
『或阿呆の一生』も、『十本の針』も、一節一節が極めて短かいのは、根気がなくなったからである。それから、大正十五年の末から昭和二年の七月までの作品の中に、ときどき、同じような事を、書いているのは、書くべき事を殆んど書きつくしてしまったからである。そうして、それらの作品の中に出てくる、芥川のもっとも得意なものとされているアフォリズムの文句も、つまらなくなり、精彩がなくなった。(私には、大抵の人がほめる、『侏儒の言葉』は、面白いところもあるが、殆んど興味が感じられない。しぜん、『或阿呆の一生』の中のアフォリズムめいた文章を、私は、あまり取らない。)
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あらゆる古来の天才は、我我〔われわれ〕凡人の手のとどかない壁上の釘に帽子をかけてゐる。尤も踏み台はなかつた訣ではない。
しかしああ言ふ踏み台だけはどこの古道具屋にも転がつてゐる。
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これは、『侏儒の言葉』の中の、ふと開いたところから、引いたのであるが、ちょいとは面白いようであるが、私には、つまらない。
[やぶちゃん注:以上の引用は「侏儒の言葉」の「作家」十一章の内の、連続する二つを並べたもので、これはこの十一章全部を通読して初めて面白い。私の電子テクスト『「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版)』で確認されたい。]
ところで、『闇中問答』(何という陰気な題であろう)は、(昭和元年十二月)とあるから、わかりよく云えば、大正十五年十二月二十六日以後に、書かれたものであろう。とすると、この作品は、芥川が、心のもっとも迷っていた時分に、書いたものである。それで、今よむと、死ぬ覚悟をきめていたらしいようなところも窺われるが、弁解めいた、(いや、はっきり弁解をした、)文句が随所にあり、後に、『河童』や『或阿呆の一生』などに出てくるのと同じ話が方方〔ほうぼう〕に使われている。そうして、この同じような話が到る処に出てくると、何〔なに〕か痛痛〔いたいた〕しい気がする。
[やぶちゃん注:「闇中問答」の初出である昭和二(一九二七)年九月号の『文藝春秋』の「編集後記」で、菊池寛はその執筆時期を『昨年末若しくは今年初のもの』と推定している。]
しかし、又、その同じような話の中〔なか〕の一〔ひと〕つである、「僕は死ぬことを怖れてゐる。が、死ぬことは困難ではない。僕は二三度頸〔くび〕をくくつたものだ。しかし二十秒ばかり苦〔くる〕しんだ後は或〔ある〕快感さへ感じて来る。僕は死よりも不快なことに会〔あ〕へば、いつでも死ぬのにためらはないつもりだ、」などというところを読むと、相変らず痩せ我慢を言っているな、と思って、苦笑するような気もちになる。
ところが、又、この『闇中問答』の中には、まだこの世に、(芥川の好きな言葉をつかうと、この裟婆に、)未練たっぷり、というような口ぶりが、随処に、見られる。
それで、さきに引いた、この『闇中問答』の最後の、「芥川龍之介! 芥川籠之介、お前の根をしっかりとおろせ。お前は風に吹かれてゐる葦だ。空模様はいつ何時〔なんどき〕変るかも知れない。唯しつかり踏んばづてゐろ。……」という文句を、仮りに、芥川が、自らを戒め、自らを励ます言葉と取れば、これは、まったく、文字どおり、悲壮な覚悟ではないか。(芥川が、この『闇中間答』を、せっかく書きながら、生前に、発表しなかった気もちが、私には、よおく分かる気がするのである。)
芥川は、こういう覚悟をして、『玄鶴山房』、『蜃気楼』、『河童』、と、つづけざまに、必死に、書いたに違いない。(『必死』とは、「死を決してなすこと」とか、「死力を尽すこと」とか、いう程の意味であるが、芥川が『玄鶴山房』と『河童』をつづけさまに書いた時は、文字どおり、「必死」であったのだ。)
芥川は『玄鶴山房』に精根〔せいこん〕をかたむけ、『河童』に精根をつくした。
仮りに芥川が、『河童』と『或阿呆の一生』との中で、自分の事と自分の気もちとを述べた、とすれば、先きに述べたように、『或阿呆の一生』には飾りが多く、『河童』の方が、飾りが少なく、芥川という人を、ひょいひょいと、現しているところがある。
私は、ずっと前に述べたように、『河童』の中に、随処に、芥川の、苦悩、悲哀、不平、不満、その他が、現れているのを、殊更に高く買うのである。
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……殊に家族制度と云ふものは莫迦げてゐる以上にも莫迦げてゐるのです。トツクは或時窓の外を指さし、「見給へ。あの莫迦げさ加減を!」と吐き出すやうに言ひました。窓の外の往来にはまだ年〔とし〕の若い河童が一匹、両親らしい河童を始め、七八匹の雌雄〔めすをす〕の河童を頸のまはりへぶら下げながら、息も絶え絶えに歩いてゐました。
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これは、一〔ひと〕つ戯画として見ても、面白いばかりでなく、何ともいえぬ物悲しいところもあるではないか。
しかし、これは『河童』の中のほんの一〔ひと〕つの場面であって、人物(いや、河童)として、作者がもっとも身を入れて書いているのは、トックという詩人とクラバックという音楽家とマッグという哲学者である。そうして、この三匹の芸術家は、それぞれ、作者の分身である。
トックは超人(超河童)であり、クラバックは「この国の生んだ音楽家中〔ちゆう〕、前後に比類のない天才」であり、マッグは、「いつも薄暗い部屋に七色の色硝子〔いろガラス〕のランタアンをともし、脚の高い机に向ひながら、厚い本ばかり読んでゐる」哲学者である。
さて、この河童の国に、クラバックとならんで称せられているロックという音楽家がある。クラバックは、そのロックの存在を大〔たい〕へん気にしていて、「ロツクは僕の影響を受けない。が、僕はいつの間〔ま〕にかロツクの影響を受けてしまふ、……ロツクはいつも安んじてあいつだけに出来る仕事をしてゐる。しかし僕は苛〔い〕ら苛〔い〕らするのだ。それはロックの目から見れば、或〔あるひ〕は一歩〔いつぽ〕の差かも知れない。けれども僕には十哩〔マイル〕も違ふのだ、」と云う。――このクラバックの言葉は、つまり、芥川の本音〔ほんね〕である。
芥川の本音、と云えば、私が、『河童』の中で、いろいろ心を引かれた所の中から、その一〔ひと〕つを、すこし長いけれど、つぎに、うつそう。
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「………」
「この近頃マツグの書いた『阿呆の言葉』と云ふ本を見給へ。――」
クラバツクは僕に一冊の本を渡す――と云ふよりも投げつけました。それから又腕を組んだまま、突〔つつ〕けんどんに、かう言ひ放ちました。
「ぢやけふは失敬しよう。」
僕は悄気〔しよげ〕返つたラツプと一しよにもう一度往来へ出ることにしました。人通りの多い往来は不相変山毛欅〔あひかはらずぶな〕の並〔な〕み木のかげにいろいろの店を並〔なら〕べてゐます。僕等は何と云ふこともなしに黙〔だま〕つて歩いて行きました。するをこへ通りかかつたの髪の長い詩人のトツクです。トツクは僕等の顔を見ると、腹の袋から手巾〔ハンケチ〕を出し、何度も額を拭ひました。
「やあ、暫らく会〔あ〕はなかつたね。僕はけふは久しぶりにクラバツクを尋ねようと思ふのだが、……」
僕はこの芸術家たちを喧嘩させては悪〔わる〕いと思ひ、クラバツクの如何にも不機嫌だつたことをトツクに話しました。
「さうか。ぢややめにしよう。何しろクラバツクは神経衰弱だからね。……僕もこの二三週間は眠られないのに弱つてゐるのだ。」
「どうだね、僕等と一しよに散歩をしては?」
「いや、けふはやめにしよう。おや!」
トツクはかう叫ぶが早いか、しつかり僕の腕を摑みました。しかもいつか体中〔からだぢゆう〕に冷〔ひ〕や汗を流してゐるのです。
「どうしたのだ?」
「どうしたのです?」
「何〔なに〕あの自動車の窓の中から緑いろの猿が一匹首を出したやうに見えたのだよ。」
僕は多少心配になり、兎に角あの医者のチヤツクに診察して貰ふやうに勧〔すす〕めました。しかしトツクは何と言つても、承知する気色〔けしき〕さへ見せません。のみならず何〔なに〕か疑はしさうに僕等の顔を見比べながら、こんなことさへ言ひ出すのです。
「僕は決しで無政府主義者ではないよ。それだけはきつと忘れずにゐてくれ給へ。――ではさやうなら。チヤツクなどは真平御免〔まつぴらごめん〕だ。」
僕等はぼんやり佇〔たたず〕んだまま、トツクの後〔うし〕ろ姿を見送つてゐました。
*
この一筋の中で、特に、トックが気違いになりかかっているところの書き方は、巧妙を極めている。
ところで、この一節を読んで、私は、『歯車』の㈡『夜警』の中の次ぎの一節を、思い出した。
*
或精神病院の門を出た後、僕は又自動に乗り、前のホテルへ帰ることにした。が、このホテルの玄関へおりると、レエン・コオトを着た男が一人何〔ひとりなに〕か給仕と喧嘩をしてゐた。給仕と?――いや、それは給仕ではない、緑いろの服を着た自動車掛りだつた。僕はこのホテルへはひることに何〔なに〕か不吉〔ふきつ〕な心もちを感じ、さつさともとの道を引き返して行つた。
*
この主人公も一種の精神病者であるが、この書き方も、やはり、実に旨いものである。
ところで、作者はこの哀れな詩人のトックを、(この『河童』の国に登場する河童たちの中で作者が一ばん愛していたらしいトックを、)自殺させている。
硝子会社の社長のゲエルに、「何しろトツク君は我儘だつたからね、」と云われ、医者のチャックに、「トツク君は元来胃病でしたから、それだけでも憂鬱になり易かつたです、」と云われたトックは、つぎのような詩を、書き残している。
*
いざ、立ちて行かん。裟婆界を隔つる谷へ。
岩むらはこごしく、やま水〔みづ〕は清く、
薬草〔さくさう〕の花はにほへる谷へ。
*
哲学者のマッグは、「これはゲエテの『ミニオンの歌』の剽窃ですよ。するとトック君の自殺したのは詩人としても疲れてゐたのですね、」と云う。
しかし『万葉集』の中にも、
神さぶる岩板こごしきみよしぬのみくまり山を見ればかなしも
という歌もある。
いずれにしても、作者の芥川は、自殺したトックについても、身に抓〔つま〕れたように、いろいろと、書いている。
*
「あなたはトツク君の死をどう思ひますか?」
「いざ、立ちて、……僕も亦いつ死ぬかわかりません。……裟婆界を隔つる谷へ。……」
「しかしあなたはトツク君とは親友の一人〔ひとり〕だつたのでせう?」
「親友? トツクはいつも孤独だつたのです。……裟婆界を隔つる谷へ……トツクは不幸にも、……岩むらはこごしく……」
「不幸にも?」
「やま水は清く、……あなたがたは幸福です。……岩むらはこごしく。……」
*
これは、トックの自殺の報を聞いて駈〔か〕けつけて来た、哲学者のマッグと音楽家のクラバックが、死んだトックの亡骸〔なきがら〕の傍で、交〔か〕わしている話である。
芥川は、『河童』の中で、こういう事を、書いているのである。
私は、『河童』は、芥川の最晩年の作品の中で、いろいろな欠点はあるけれど、最後のかがやかしい「火花」である、と、確信するのである。
[やぶちゃん注:引用では分かり難いので注しておくと、台詞の話者は、
マツグ「あなたはトツク君の死をどう思ひますか?」
クラバツク「いざ、立ちて、……僕も亦いつ死ぬかわかりません。……裟婆界を隔つる谷へ。……」
マツグ「しかしあなたはトツク君とは親友の一人〔ひとり〕だつたのでせう?」
クラバツク「親友? トツクはいつも孤独だつたのです。……裟婆界を隔つる谷へ……トツクは不幸にも、……岩むらはこごしく……」
マツグ「不幸にも?」
クラバツク「やま水は清く、……あなたがたは幸福です。……岩むらはこごしく。……」
である。私の電子テクストで確認されたい。
以下、本引用に現れた部分について、私の『芥川龍之介「河童」やぶちゃんマニアック注釈』から引用しておく。出来れば、この前後の注も参照されたい。
・「こごしく」古語「凝(こご)し」で、凝り固まっているさま。険しいさま。
・「これはゲエテの『ミニヨンの歌』の剽竊ですよ」ここでマッグが剽窃だ言う Johann Wolfgang Goethe ゲーテ(一七四九年~一八三二年)の“Mignon”「ミニヨンの歌」は、現在、「ヴィルヘルム・マイスター修業時代」の第三巻に収められている南欧への憧れを詠った著名な詩“Mignon”の内(“Mignon”と称するものは他にも三種ある)、最終第三連である。以下にドイツ語原詩を示し(引用はドイツのテキスト・サイトから)、後に該当部分の訳詩集「於母影」の森鷗外訳を(岩波版新書版選集を底本として正字に直した)、その後に高橋義孝訳を示し(こちらは新全集三嶋氏注解に示されたものの孫引き)、最後にトックの詩を掲げて参考に給する。
Kennst du den Berg, und seinen Wolkensteg?
Das Maultier sucht im Nebel seinen Weg;
In Höhlen wohnt der Drachen alte Brut;
Es stürzt der Fels und über ihn die Flut,
Kennst du ihn wohl?
Dahin! Dahin
Geht unser Weg! o Vater, laß uns ziehn!
*
立ちわたる霧のうちに驢馬は道をたづねて
いなゝきつゝさまよひひろきほらの中には
もも年經たる竜の所えがほにすまひ
岩より岩をつたひしら波のゆきかへる
かのなつかしき山の道をしるやかなたへ
君と共にゆかまし
*
ご存じなの、その山を、雲の行きかう山道を?
らばは霧の中で道をさがし、
ほら穴には、年老いた龍の族が住み、
岩は切り立って、その上を滝が流れていて――
御存じなの、あの山を?
さあゆきましょう、あの山へ、
この道真直ぐに。お父さま、
さああの山へ!
*
いざ、立ちて行かん。娑婆界を隔つる谷へ。
岩むらはこごしく、やま水は淸く、
藥草の花はにほへる谷へ。
それにしてもこのマッグは残酷である。自殺したトックの死体の前で微苦笑さえ浮かべて、こんな死者を辱しめる言葉を吐けるとは。いや、それが河童の世界なのである。いや、人間世界のように虚飾を排した正直な感懐と言うべきなのかも知れない。そうして――そうしてこの時、芥川龍之介は、五ヶ月後の、自分自死の後に集まった文人たちの思いを、既に以ってここに悪意を以って(こうした行為を果たして「悪意」と言うだろうか?)予言してもいたものであろう。
「神さぶる岩板こごしきみよしぬのみくまり山を見ればかなしも」は、「万葉集」巻七の一一三〇番歌、
芳野にて作れる
神〔かむ〕さぶる岩根〔いはね〕こごしきみ吉野の水分山〔みくまりやま〕を見れば悲しも
で、詠み人知らず。「水分山〔みくまりやま〕」とは奈良県吉野郡吉野町の吉野山最南端にある青根ヶ峰のこと。この峰は極めて特異な分水嶺で、この山に降った雨は東に流れると音無川となり、蜻蛉の滝を経て吉野川に合流する。また、南に流れるそれは丹生川となり、下流の五条市で吉野川に合する。更に、西は秋野川から吉野川へと続き、北は喜佐谷を流れ下って(「象の小川」と呼ばれる)宮滝で吉野川と合流している。「悲しも」は「愛しも」である。
〇やぶちゃん通釈
……神々しくも岩と石が積み重なり聳え立つ吉野の水分山〔みくまりやま〕……それを見上げると……不可思議な畏敬の念と不可思議な帰属の念と……むらむらと湧き起こってくる、この私の心に……切ないまでに!……]

