耳嚢 巻之四 耳中へ蚿入りし奇法の事
耳中へ蚿入りし奇法の事
右の席に柳生主膳正(しゆぜんのかみ)かたりけるは、耳中へ蚿(むかで)の入りしは、中をも損ざし苦敷ものゝ由。同人召仕の者右の苦しみ有りしに、或人の言、猫の小便をさせば右百足を殺し即効を得るの由、是を用ひしに早速快復せし由。猫の小便を取には、猫をぬりもの抔(など)の上へ捕置、生姜をすりて猫の鼻の先へすり付れば極めて小便を通ずる由。一事の奇法ゆへに爰に記し置ぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:外耳への虫の侵入への施術で直連関。というより、前話の池田筑州長恵外耳道米搗虫侵入事件の談話場面からの続き。但し、今度の侵入者は、恐るべし! ムカデ、である。ムカデが睡眠中の人の鼻や耳、口の中に稀に侵入することは知っていたが、数年前のネット上で、東南アジアのさる国の婦人、かなり以前から鼻の違和感を覚えており、専門医に診てもらったところが、鼻腔内に数年(!)に亙って数センチのムカデ(この場合は真正のムカデであった)のが寄生しており、生きたムカデが彼女の鼻腔から目出度く摘出されたというショッキングなニュースを読んだことがある。これ、ホントよ!
・「蚿」「むかで」のルビは底本のもの。音は「ケン・ゲン」。「むかで」と訓じているが、「廣漢和辞典」には『馬蚿は、やすで。おさむし。あまびこ。』とあり、ここに並ぶ呼称は節足動物門多足亜門ムカデ上綱唇脚(ムカデ)綱
Chilopoda に属するムカデではなく、総て、「おさむし」(筬虫)も「あまびこ」(雨彦)も多足亜門ヤスデ上綱倍脚(ヤスデ)綱Diplopoda に属するヤスデ類の異称である。「オサムシ」は形状が機織の用具である「筬」(「をさ(おさ)」:竹の薄片を櫛歯状に並べて枠をつけた織目の密度を決める道具。)に似ていることから、「アマビコ」は雨後によく出現することから、他に刺激を受けた際に丸くなり習性から「ゼニムシ」(銭虫)・「エンザムシ」(円座虫)、また形状の類似から「ババムカデ」(婆百足)などと呼ばれる。恐らく、この時代、現在のようにはムカデ類とヤスデ類を区別していない(現在でも生理的に嫌悪する方は大抵、同類と見なす)ので、ムカデの訓も、あり、であろう。但し、形状は似ているものの(実際にはヤスデ類は倍脚類と称するように前三節の体節のみ一節に一対脚で四節以降の後方節は総て一節二対脚であるのに対し、ムカデ類は総て一体節一対脚で観察すれば容易に判別出来る)、ムカデのような咬害や咬毒を持たず、生物学的にも近縁関係にはない。なお、人体に侵入する可能性は家屋内への侵犯が多いムカデの方が高いと言える。ところで、「和漢三才図会」の「巻第五十四 湿性類」では「蜈蚣」(むかで)と「百足」(をさむし)として、連続して記載し、ちゃんと別種で扱っているのだが、面白いのは、その「蜈蚣」の項に以下のようにあることである。
凡性畏蜘蛛。以溺射之即斷爛也。又畏蛞蝓。不敢過所行之路。觸其身則死。又畏蝦蟇。又雞喜食蜈蚣。故人被蜈蚣毒者、蛞蝓搗塗之、雞尿桑汁白鹽皆治之。
○やぶちゃんの書き下し
凡そ、性、蜘蛛を畏る。溺(ゆばり)を以て之を射る時、即ち斷(き)れ爛(ただ)る。又、蛞蝓(なめくじ)を畏る。敢へて行く所の路を過ぎず。其の身に觸るる時は則ち死す。又、蝦蟇(ひき)を畏る。又、雞、喜んで蜈蚣を食ふ。故に人、蜈蚣に毒せらる者、蛞蝓をば搗きて之を塗り、雞の尿・桑の汁・白鹽、皆之を治す。
クモの「尿」やニワトリの「尿」が挙がっている点、本話との共通性が認められる。しかしニワトリはいいとして、クモの「いばり」は私自身、見たことがない。さればこそ、面白い。
・「柳生主膳正」は旗本柳生久通(延享二(一七四五)年~文政十一(一八二八)年)。柳生久隆長男。歴代の勘定奉行の中で最も長い期間、二十八年強勤めている。官位は玄蕃、後に従五位下主膳正に叙任されている。天明八(一七八八)年に勘定奉行上座に異動し、勝手方を担当しており、前項の寛政七年のクレジットであれば、その任にある。参照したウィキの「柳生久通」には『松平定信の近習番を務めた水野為長が市中から集めた噂を記録した『よしの冊子』によると、町奉行に就任した当初、「三代将軍・徳川家光の剣術指南役を務めた柳生一族の家系の者が町奉行になった」』と江戸市中で専らの噂となったものの、『町奉行としての仕事ぶりは、「白洲の場においては、大した知恵も出ず、衣服を取り繕ったり、帳面に書かれていることを繰り返し穿鑿したりしている」と評され、前任者の石河政武のような知恵も出せず、久通が百年勤めても石河の一年分の仕事にも及ばないとまで言われた。また、仕事に念を入れすぎるために「怪しからずめんみつ丁寧」と評され、処理に時間がかかり経費もその分余計にかかったという』とあるが、一方、『勘定奉行上座に就任した久通は、老中の松平定信には気に入られ、当時勘定奉行だった根岸鎮衛たちが申請してもなかなか承知しなかった案件を、久通に頼んで上申してもらったら、すぐに許可が下りたという。仕事には熱心であったが、同時に江戸城からの退出時間は非常に遅かった。久通の部下である御勘定たちは、奉行が帰らないので先に退出するわけにもいかず、そのために毎日のように日没後に下城することを強いられ、非常に難儀した。同僚の勘定奉行である久世広民から「もうよかろふ」と催促されても仕事を切り上げず、寛政四年(一七九二年)に定信が久世を通して「暑い時は御勘定所も早めに仕事を終えた方がいい」と伝えたところ、久通はその日は特に遅くまで仕事をし、その後も同様に遅くまで城に残って仕事を続けたと』の逸話を記している(引用中、アラビア数字は漢数字に代えた)。ここに筆者根岸鎮衛の名が登場するのも、頗る面白いではないか。
・「損ざし」はそのまま「そんざし」と読む。「ざす」は使役の助動詞「さす」で、「傷つける」「損なう」の意味のサ行四段活用の他動詞である。
・「生姜をすりて猫の鼻の先へすり付れば極めて小便を通ずる」ショウガやニンニク、タマネギなどの香辛料相当の素材が、犬猫には有意に毒性を持つことはよく知られている。ショウガが猫の強い利尿作用を持つかどうかは知らないが、この民間療法、猫にとってはとんだ受難と言えよう。
■やぶちゃん現代語訳
耳の中へ百足が入ってしまった際の変わった対処療法の事
先の池田筑州長恵殿の米搗虫耳入りの一件を、同席して御座った柳生主膳正久通殿が聴かれ、
「――拙者も虫の耳入りでは少々変わった療法を知って御座る。――」
と、語りだされた……
――そもそも、まず――耳の中にムカデが入(い)ってしまった折りには――ムカデのこと故、耳の穴を無二無三に暴れ回って傷つけるがため――これ、大層――痛う、御座る、での。――
――実は、拙者の召し使う或る者の耳に――その、まさに正真正銘、かのムカデが入っての、甚だ苦しんで御座ったじゃ。
すると、ある者が言うに、
「猫の小便(いばり)を耳に注せば、このムカデ、たちどころに死んで即効を得ること、間違いない。」
とのことじゃ。
さればこそ、まずはともかくもこれを試してみようという仕儀になって御座ったところが――まっこと、瞬く間に本復致いた、ということで御座る。
……時に、猫の小便は如何にして取るか、で御座るか? それに就きては、まず――
①猫を、塗り物なんどの椀の上に、捕えて押さえ置く。
②擂(す)り下ろいた生姜を、その猫の鼻先へたっぷり擦り付くる。
……これにて、万事、瞬時に猫は、小便(いばり)を致す、ということなので御座る……
はあん……そういうもので御座ろうか……ともかくも、極めて稀なる一事への、飛び切り変わった処方、なればこそ……ここに、記し置くもので御座る。
« 耳囊 卷之四 原文・語注・現代語訳 始動 / 耳へ虫の入りし事 | トップページ | 耳嚢 巻之四 小兒餅を咽へ詰めし妙法の事 »