「傾城反魂香」土佐将監閑居の段 「艶容女舞衣」酒屋の段 「壇浦兜軍記」阿古屋琴責の段
昨日、国立劇場にて「傾城反魂香」土佐将監閑居の段・「艶容女舞衣(はですがたおんなまいぎぬ)」酒屋の段・「壇浦兜軍記」阿古屋琴責の段を観る。
今回はこの午後の部のキャスティングが凄い。太夫三味線の筆頭無形文化財保持者である竹本住大夫と鶴澤寛治が出、人形に至っては吉田蓑助・文雀に玉女のオール・スター・キャスト。演目も演技も申し分なく、期待を裏切らない極めて高い満足度であった。一つ難点を言えば館内の冷房が不十分であったことか。
又平の「チャリ」が「チャリ」に見えない。僕は目頭が熱くなって来さえした。吃音にコンプレクスを抱いてきた弟子を、手水鉢の一刀両断で治癒してみせる土佐将監光信、僕はタルコフスキイの「鏡」の冒頭シークエンスが鮮やかにオーバー・ラップした。玉女の演ずる又平の頭(かしら)は神々しくさえあった。差別注記など不要の、如何にも健康的な芸術的感動の世界が、この「傾城反魂香」土佐将監閑居の段エンディングには――「踊っている」――私は、素直に、そう思った。
「艶容女舞衣」のお園「クドキ」、その「後ろ振り」(私は文楽で初めてエロスを感じたことを告白する)には完全にノック・アウトされた。蓑助は不世出の人形遣であるという感を新たにした。――上演中、「お園」は一秒たりとも「人形」に戻らない――悪いけれど、そう感じさせる遣い手は――私の短い文楽の鑑賞経験では、蓑助唯一人である――
(注:人形遣ばかりではない。私の演劇経験から言っても、普通の歌舞伎や新劇でも、多かれ少なかれ、たとえ名役者であろうとも、どこかで一瞬、舞台上で「素に」戻っている瞬間が存在するのだ。それは「演技をしていない」のではなく、「演技が行われていない」、続くところ次の演技へ「演技」を繫ぐという、その「演技」の連続を考えるところの、無限にゼロに近いがゼロでない「空白」の一瞬――ニュートラルな状態が、確かに、あるのだ。僕はそれを如何なる名優の芝居にあっても感ずる(寧ろ、それを何故か激しく感じてしまう俳優もいる)。それは「役者」として「演技」する者の「宿命」であると私は勝手に思っている。しかし、その一瞬とは、まさに網膜に感じられるようなものではない。だからその一瞬は、必ずしも演技の瑕疵にはならないのだ――ならないのだが――ないに越したことはないのだ――しかし、それを感じない舞台を、役者を――僕は観たことがまず、ない、のである。いや、寧ろ、それを多く感じさせる名優と呼ばれる役者は、僕にとって「上手いのになあ……だのに何故、この人の演技、僕は好きじゃ、ないんだろう?」という一種の「サブリミナル効果」としての生理的不快感となって現れるのである。)
文楽では、人形の動きが止まることは、ままある。それを言っているのでは毛頭、ない。蓑助が操る時、人形は既に人形ではなく、有機的な生命体としての「お園」となり、「娘」という名の頭(かしら)ではなく、「お園」の情念そのものとなる、ということである。存在しない「お園」の肉体が、そこに確かに血の通ったものとして立ち現れ、その脈搏が、その微妙な感情の揺らぎが、言うなら、お園の暖かな肌が、その幽かにふるえる「f分の一ゆらぎ」の肌が――まさに「女の生命の神秘の波動」が――見る者に伝わり、その思いが如何なる介在物もなしに、観客の魂にも直結するのである。
未だ文楽を見たことのない教え子諸君、蓑助の人形遣を観ないのは、一生の後悔となる――必ず、見られよ――
「壇浦兜軍記」阿古屋琴責の段は今回の三つの演目の中でも、歴史的事実を基本的に変形していない点で筋の予習なしに容易く観られる言える(言わずもがな乍ら、浄瑠璃の時代物は、通常は予習なしでは歯が立たないほど荒唐無稽驚天動地のパラレル・ワールドである。始まる前の床本の読み込みは、文楽を真に楽しむための、最低の「修業」と心得られよ)。阿古屋が琴・三味線・胡弓を弾く見せ場は無論、美味しい――が、フランス料理のフルコース・ディナーという感もあるので、午後演目の掉尾というのは少し重い――しかし、若い観客には最高のセットであろうと思う――附言すれば、岩永の火箸を用いた胡弓の「チャリ」場面(前列から三番目中央寄り左という今回の席はこれを観るにはとんでもない鬼門で、妻には全くの死角となってしまった)がその重量を払拭してくれる。
ああっ!……「娘」の……頭(かしら)が欲しい!!!