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« 宇野浩二 芥川龍之介 二十三~(7) | トップページ | 宇野浩二 芥川龍之介 二十三~(9) »

2012/05/08

宇野浩二 芥川龍之介 二十三~(8)

 芥川が、一世一代の作品、『或阿呆の一生』を書き上〔あ〕げたのは、六月二十日〔はつか〕らしいが、『或阿呆の一生』を、何〔なん〕月何日頃から、書きはじめたかは、よく分〔わ〕からない、が、五月の終り頃か六月の初め頃ではないか、と思う。

 

『或阿呆の一生』は、五十一章になっているが、章が変〔かわ〕るごとに、原稿用紙が改めてあるそうであるから、思いつくままに、工夫〔くふう〕に工夫〔くふう〕を凝らし、文章を練〔ね〕りに練〔ね〕って、丹念に、書いたものにちがいない。(そのために、迫力の欠けているところも随分ある。)

[やぶちゃん注:「或阿呆の一生」は松屋製ブルー二百字詰原稿用紙に書かれている。タイトルの「或阿呆の一生」は、写真版原稿によって最初、「彼の夢――自伝的エスキス――」とされ、次に「神話〔しんわ〕」というルビ付き標題となり(この時点で副題の「自伝的エスキス」がどうなったかは不明)、最後に「或阿呆の一生」となったことが分かっている。葛巻義敏は「芥川龍之介未定稿集」で本作は二度以上書き直しているのではないかという推定を示しており(宇野と同意見)、「芥川龍之介新辞典」の関口安義氏の本文脚注では、本作は久米正雄が本作の『改造』誌上への発表に際して『「脱字乃至誤字と目されるべきもの」がかなりあると言及してい』ることから、『十分に練られた作品ではな』く、『不眠症にとらわれていた芥川には、もはや作品を十分に推敲するゆとりはなかったのである』と断じている。私は――私は本作は、寧ろ十分に練られたものだと思う。――しかし、その練り方は整序する方向へではなく、芥川龍之介という謎に満ちた『神話』を創造するための、時空間を自在に行き来するような驚天動地の『練り方』であったと考えている。「或阿呆の一生」は恐らく、永遠に解けぬように創られた推理小説である。]

 ところで、『或阿呆の一生』は、「自伝的エスキス」と云われているが、そういうところもあるけれど、全体から見て、『或阿呆(あるいは、或人間)の一生』という感じが殆んどない、が、芥川の晩年の「心象風景」として見れば、随所に、いたく心を打たれるものがある。

 しかし、極言すれば、「いたく心を打たれる」のは、『或阿呆の一生』の最後の数章だけぐらいなもので、他の大部分は、芥川好〔ごの〕みの、逆説的な話を、機智のある話を、あるいは、アフォリズムを、気どった文章で、書いたものである。(そうして、その中には、さすがに気のきいた物もあるが、つまらないのもある。)

 あの遺稿[註―『或阿呆の一生』]に書いてある言葉は多く短い。しかし私はちひさなふし穴のやうなあの短い言葉の一〔ひと〕つ一〔ひと〕つを通しても、君[註―芥川のこと]が感Jた精神の寂寥を覗き見る心地がした。

これは、島崎藤村の『芥川龍之介君のこと』[註―昭和二年の十一月号の「文藝春秋」に出た]という文章の中の一節である。

 これもなかなか気どった文章である。しかし、気どり方はちがうが、おなじ気どっていても、藤村の方が意地がわるく、龍之介の方は、見え張〔は〕ってはいても、さっぱりしていて、潔いところがある。(この『芥川龍之介君のこと』は、芥川が死んでから出たのであるが、『或阿呆の一生』一章一章を「ちひさなふし穴のやうなあの短い言葉」などと書いてある、この文章を、仮りに芥川が生前に読んだとすれば、芥川は、あの青白い顔を真赤〔まっか〕にして、怒〔おこ〕ったにちがいない、私でさえ、あそこのところ読んだ時は、「この書き方〔かた〕はあんまりひど過ぎる、」と思った程であるから。)

[やぶちゃん注:以上の宇野の義憤は私と完全にシンクロする。島崎藤村「芥川龍之介君のこと」は私のブログに電子テクスト化し、注も附してあるが、これは永久にHPからのブログ・リンクである。それはこの忌まわしい文章を、芥川龍之介を愛する私として、HPの芥川龍之介と対等な頁とすることを、私が許さないからである。]

 彼は「或阿呆の一生」を書き上げた後、偶然或〔ある〕古道屋の店に剥製の白鳥のあるのを見つそれは頸を挙げて立つてゐたものの、黄ばんだ羽根さへ虫に食はれてゐた。彼は彼の一生を思ひ、涙や冷笑のこみ上げるのを感じた。彼の前にあるものは唯発狂か自殺かだけだつた。彼は日の暮〔くれ〕の往来をたつた一人歩〔ある〕きながら、徐〔おもむ〕ろに彼を滅しに来る運命を待つことに決心した。

 これは、『或阿呆の一生』の最後の章にちかい、『剥製の白鳥』の一節である。

 芥川は、いよいよ自分でこの世(裟婆)を捨てる、という時まで、かがやいた芸術家であった、極度の神経衰弱にかかりながら、『死ぬ薬』を飲む時吾も、決して正気〔しょうき〕を失わなかった。

 されば、ここ書いた一節も、創作であるかもしれない、いや、創作であろう。しかし、創作、である、としても、この時すでに自殺を覚悟していた、とすれば、「彼は彼の、一生を思ひ、涙や冷笑のこみ上げるのを感じた」「日の暮の往来をたつた一人歩きながら、……」などというところは、文字どおり、悲痛である。

 ところで、この『剥製の白鳥』は、六月二十日〔はつか〕前後に、書いたものであろう。

 六月二十日、といえば、私は、日は忘れたが、六月の上旬に、芥川をたずねた。

[やぶちゃん注:以下の注で述べるが、この記憶は錯誤である可能性が高い。]

 

 六月上旬の或る日の夜の九時頃、上野桜木町の私の家をたずねて来た、高野敬録と一しょに、芥川を、訪問することになった、「中央公論」の編輯を、滝田樗陰の下で、長い間、していたのを、半分以上自分から進んで止〔や〕めた高野を、「文藝春秋」の編輯部に、世話してくれることを、芥川に、頼むためである。(その時分の「文藝春秋」は、『看板に偽〔いつわり〕なし』という諺〔ことわざ〕どおり、文芸雑誌であり、その頃、『文壇の檜舞台』と称せられた「中央公論」に、菊池に、はじめて、小説[註―『無名作家の日記』]を、たのみに行ったのは、高野であり、それ以来、芥川や菊池その他に、「中央公論」の原稿をたのみに行ったのは、殆んど皆、高野であったから、文藝春秋社に高野ははいれるであろう、と、こう、単純に、考えたからであった。それで、その時、高野は、文藝春秋社に、はいれなかったが。)

 さて、時間もおそく、その方〔ほう〕が便利であったから、桜木町の私の家から、田端の芥川の家まで、私たちは、人力車に、乗った。六月の晩としては珍しく初秋のような涼しい晩で、いや、肌寒い晩で、私は、車の上で、幾度か、単物〔ひとえもの〕の襟をかき合わせた。やがて、見なれた芥川の家の門の前に、車がついたので、玄関で声をかけると、めずらしく、夫人が出て来て、「すぐ近くにおりますから、呼んでまいりましょう、」と云った。が、私たちは、それは辞退して、「さしつかえのない所でしたら、おしえてくださいましたら……」と云って、芥川が原稿を書いているという、隠れ家の方へ、行くことにした。

 その家は、自笑軒[註―芥川の家(高台)の下の狭い町の中にあった。「天然自然軒」というのが本当の名で、茶料理専門も芥川のヒイキの家であったが、芥川の歿後、何十年、毎年、祥月命日(七月二十四日)の夜、友人たちが、芥川を思い出す『河童忌』をひらいたのも、この家である]の裏あたりの、静かな一軒家であった、(と思う。なにぶん、二十四五年前に、それも、夜、一度しか行った事がない所であるから、記憶はおぼろである、が、芥川の家の方から行って、自笑軒の前を通〔とお〕り、五六間〔けん〕ほど行ったところを右にまがり、曲〔まが〕ってからまた五六間ぐらい行った右側にあった、ように、覚えている。)

[やぶちゃん注:宇野のこの記憶には、私は錯誤があると踏んでいる。何故なら、現在の年譜的事実を並べて見た時、凡そこれから書かれるような――平常な状況下に宇野浩二自身がなかった――と考えられるからである。宮坂年譜などをもとにこの前後を見ると、

●五月中下旬か

精神に変調をきたし、母や内縁の妻八重、友人の画家永瀬義郎らに伴われて箱根に静養に行くも、途中の小田原の料理屋で突然薔薇の花を食べるような奇行があり、数日で帰京する。

●五月下旬

友人広津和郎・芥川龍之介・永瀬義郎らが、宇野発狂の報を受け、奔走する。

●六月二日

芥川龍之介の紹介で斎藤茂吉が宇野を診断する(同日診察後の宇野の同行は不明)。同夜十時頃、芥川は主治医で友人の下島勲を訪れ、宇野の病態を下島医師に説明している。

●六月上旬(二日から十一日前後)

斎藤茂吉の紹介によって、王子の小峰病院に嫌がる宇野浩二を半ば強制的に入院させる。以後の入院日数は七十日。

●六月十二日

午後、下島勲と宇野の症状などを談話。

●七月二十四日

芥川龍之介、自死(宇野は継続入院中)。

以上の経緯から、六月二十日には宇野は既に入院しており、芥川訪問などあり得ないのである。この錯誤記載の時期が宇野の発狂とシンクロしているのには、前にも少し書いたが、私は宇野の側の病跡学的な問題と大きな関係があると考えている。それはそれとして、宇野が先に引いた昭和二年一月三十日附宇野浩二宛芥川書簡に『高野さんがやめたのは気の毒だね。』の一言から、この宇野と高野の芥川龍之介訪問が事実あったとすれば(年譜上は確認されていないが、これは事実あったと考えてよい)、その上限は昭和二(一九二七)年二月から下限は同五月下旬の宇野が精神病の発作をする直前までである。しかし、五月は十三日から二十七日まで例の改造社の『現代日本文学全集』宣伝のための旅行に出ており、上記のように宇野の発作も起こっているから考えにくい。宇野が以下で、『六月の晩としては珍しく初秋のような涼しい晩で、いや、肌寒い晩で、私は、車の上で、幾度か、単物の襟をかき合わせた』と記す六月以外を信ずるならば、二、三月ではあり得ない。これは、四月下旬、いや、五月の上旬の記憶の錯誤ではあるまいか?

 更に付け加えるならば、芥川龍之介がこのような自宅近くに作業場を持っていたことも初耳である。宮坂年譜を見ると、六月の上旬の項に、『この頃、編集者や来客を避けるため、自笑軒の近くに家を借り、仕事場として利用していた』とはあるのだが、実はこれは、この宇野浩二「芥川龍之介」のここの記載にのみ拠ったもので、他にそのような事実を証明する事実はないようである。私は宇野のこの時期の記憶は、以上述べた通り、精神病発症の直後であるだけに信ずるに躊躇するのである。しかし、宇野のここでの道筋や家屋の描写は実にリアルである。逆に言えば、この作業場がこの時期にあったことが他のソースで立証されれば、私の宇野への疑惑は偏見であったことになる。情報があれば御教授願いたい。宇野のために。]

 背〔せ〕の低い枝折垣〔しおりがき〕があって、此方〔こちら〕から行くと、その枝折垣の手前の方に、柴折戸〔しおりど〕があった。そうして、その枝折垣の中に、五六坪の庭があって、その庭の向〔むこ〕うに、小ぢんまりした平屋建〔ひらやだ〕ての家が立っていた。そうして、その家の座敷のまん中〔なか〕の上〔うえ〕の方〔ほう〕に、明〔あか〕りが一〔ひと〕つ、ぽつりと、ついていた。それが妙に寂しべに見えた。

 私たちが、暗〔くら〕い狭〔せま〕い町町〔まちまち〕をたどって、その柴折戸の前に、立った時、これらの光景が、陰絵〔かげえ〕のように、見えたのであった。それとともに、その明〔あか〕りの下〔した〕に、二三人の人影が、影人形のように、あわただしく、動くのが、見えた、深閑〔しんかん〕とした町の中を、私たちがあるいて行った足音と、その 足音が柴折戸の前あたりに止〔と〕まった気〔け〕はいを、家の中にいた人たちが、覚〔さと〕ったのであろう。

「……客らしいね、」「うん、でも、……」と、云いながら、私たちは、暗い中で、顔を見あわして、ちょっと、ためらった。

 と、ふいに、玄関に、芥川の、立ちはだかるような恰好〔かっこう〕をした、影法師が、あらわれた。それを見つけた私は、思わず、はッと、声が出るほど、おどろいた、その影法師が、骸骨のように痩せ細って、見えたからである。

 しかし、それは、一瞬間で、私は、芥川の姿を見かけると、すぐ、「おおい、」と、向うまでとどくような声で、叫んだ。私は、自分の声のはずんでいるのが、自分で、わかった、うれしかったのである。芥川の方でも、私の声がすぐわかったらしく、「やあ、」と、元気のよい声で、答えた。

 ここで、思い出したが、(まちがっているかもしれないけれど、)その家は、玄関が二畳か三畳で、つぎの間〔ま〕が、あの表〔おもて〕の方から見えた座敷で、八畳ぐらいであったか、(と思う。)

 さて、先客は、二人であったか、私たちと入れ違いに、帰って行った。芥川は、客を送り出して、座敷に戻ってきて、私の方を見ると、いきなり、「君、困ったよ。……まあ、坐〔すわ〕りたまえ、」と云った、「今の人たちは、君が『婦人公論』に出した小説のことで、ゴタゴタがおこった、と云って、優に相談に来たんだよ。」

「……なに、『婦人公論』の小説って、」と、私は、ちょっと考えて、「ああ、そうか、『彼等のモダアン振り』というのか、」と聞いてみた。

「そうだよ、君、……彼等は、モダアンじゃないよ、だから、モダアンでない僕が、仲裁をたのまれて、因ってるんだ。」

 この小説は、たしか、その頃、井伏鱒二と、傾向は正反対であるが、『ナンセンス』文学の創始者と云われ、新進作家の雙璧と並〔なら〕び称せられた、中村正常と、私の注学校[大阪府立天王寺中学校]の国語の教師であり、旧派の歌人兼歌学者である、田中常憲の姪、女流文士志望者、伊牟田何子〔いむたなにこ〕と、――この両人の噂話を面白可笑〔おもしろおか〕しく作り上げた物であるが、どういう事を書いたか、きれいに忘れてしまった、殆んど悉く作り話であったからである。(唯、中村の最初の戯曲に、幕があくと、一人の青年が、仰向〔あおむ〕けに寝ながら、両足を壁に突っぱって新聞を読んでいる、というような場面があったのに感心し、次ぎに、「芸術復興」とかいう同人雑誌に出た、中村の小説の中に、恋い人にシュウクリイムを贈るのに、持って行くのが極〔き〕まりがわるかったのか、そんな事は趣きがないと思ったのか、シュウクリイムを、郵便配達人になって、「はい、小包、」と云って、とどける、というような場面があるのを、面白い事を書くもんだな、と思ったような記憶がある。それから、ついでに書くと、昭和五六年頃であったか、文藝春秋社から出していた「婦人サロン」という雑誌に、毎号、『ユマ吉ペソ子何とか』という連載読み物が出ていたが、その筆者が井伏鱒二と中村正常であり、たしか、ユマ吉が中村であり、ペソ子が井伏であった。いうまでもなく、『ユマ』とは『ユウモア』であり、『ペソ』とは『ペエソス』である。)

[やぶちゃん注:「彼等のモダアン振り」不詳。宇野の代表的作品一覧の中には見当たらない。宇野には登場人物に実際のモデルが多く、「大阪人間」(昭和二十六(一九五一)年)はモデルから告訴されて未完となっている。

「中村正常」(まさつね 明治三十四(一九〇一)年~昭和五十六(一九八一)年)は劇作家・小説家。岸田国士に師事し昭和四(一九二九)年に戯曲「マカロニ」で注目される。他に「ボア吉の求婚」「隕石の寝床」などのナンセンス・ユーモア作品を発表し新興芸術派の代表的作家となったが、後に文壇を離れた。女優中村メイコの父である(以上は講談社「日本人名大辞典」に拠った)。

「田中常憲」(つねのり 明治六(一八七三)年~昭和三十五(一九六〇)年)は歌人・教育者。鹿児島生。上京して落合直文に師事。二十三歳で小学校校長となり、長野・大阪・大分・福岡県・京都府福福知山から桃山の各中学校校長を歴任した。

「伊牟田何子」不詳。]

 さて、私が殊更このような事を書いたのは、私が芥川を訪問したのは、前に述べたように、昭和二年の六月十日頃であり、その六月十日頃には、芥川が、あの一世一代の『或阿呆の一生』を、この隠れ家で、一章ずつ、ぽつり、ぽつり、と書いていた時分である、そうして、私が、高野と、夜〔よる〕おそく、この隠れ家を、たずねた時、私たちより先きに芥川を訪問したのは、どうも、中村正常と伊牟田何子であるような気がするからである。

 しかし、私は、その時、芥川に、「君はそんなことを云うけど、君だって、ほんとは、『彼等』をモダアンだ、と思ってるんだろう、」と、云おう、と思ったのであるが、それは止めて、その時の訪問の目的である高野の勤め口の話をした。

 さて、その話がすんで、高野が帰って行き、二人〔ふたり〕きりになると、芥川は、「御馳走しようか、」と云った。「御馳走なら、何でもいいよ、」と私が云った。

 その『御馳走』というのは抹茶であった。

 今〔いま〕、思いがけなく、芥川が、茶を点じてくれるのは、私には、涙の出る程うれしい事であった、

 しかも、二人きりで。

 二人きりになると、二人は、やっと、寛〔くつろ〕ぎをおぼえた。が、ふと、茶を点じている芥川の手が、痩せて骨ばっているのに、目が止ったので、私が、思わず、「……君、ひどく、痩せたね、大事〔だいじ〕にしたまい、ね、」と云うと、芥川は、(芥川も、)私の顔を眺めながら、「君も、痩せたよ、養生したまい、ね、」と、同じような事を、しみじみした調子で、云った。

「……ここで、ずっと、書いてるの。」

「うん、書いてる、……しかし、先月は、書きなぐったので、つまらない物ばかりだ、……君、僕は、ね、書かなければならない。必要があって、書いたんだよ、……情ないよ。」(この時、芥川が、書きなぐつた、と云ったのは、『たね子の憂鬱』、『古千屋』、『冬』、『手紙』などで、これらの作品は、佐藤春夫が、「心にもない重たげな筆を義務を痛感しながら不機嫌さうに運んでゐる、」と説いているように、出来〔でき〕のよい物ではない。)

[やぶちゃん注:この証言が事実とすると、作品群から推すと一見、六月説が正しく見えるように叙述されてはいる。私の推測するように、五月説をとると、四月発表の作品には「三つのなぜ」「春の夜は」「誘惑」「浅草公園」「今昔物語鑑賞」といった、とても書きなぐったとは言えない、野心的な(若しくは「三つのなぜ」のように芥川にとって私的に深い意味のある)作品があるからである。]

「しかし、今夜〔こんや〕は、元気そうな顔をしているね、」と、そこで、私が、云うと、

「うん、」と云って、顔を上げた芥川は、久しぶりで見る『いたずらっ児〔こ〕』らしい笑い顔をしながら、「君の『軍港行進曲』の向こうを張った訳ではないが、横須賀を題材にした小説を書いたんだ。……妙な小説だけど、これは、ちょいと自信があるんだがね、……」

「長いもの、」と、私は、ちょっと息をはずまして、聞いた。

「いや、二十五枚だが、君の『軍港』のような勢いはないけど、……僕のは、二万噸の一等戦闘艦が、舞台だ、……が、結局、しまいに、その戦闘艦を人間にしてしまうのが『味噌』なんだけど、……」と云って、云ってしまってから、なぜか、芥川は、急に侘しそうな顔をした。

 しかし、その時は、私は、「戦闘艦を人間にしてしまう」などというのは、例の芥川の洒落〔しゃれ〕(『ざれごと』)であろうぐらいに、思っていた。(それが、『三つの窓』の㈢の『戦闘艦××』であった事は、後に知ったのである、「二万噸の××は白じらと乾いたドツクの中から高だかと艦首を擡〔もた〕げてゐた。彼の前には巡洋艦や駆逐艦が何隻も出入してゐた。それから新らしい潜航艇や水上飛行機も見えないことはなかつた。しかしそれ等は××には果〔はか〕なさを感じさせるばかりだつた。××は照つたり曇つたりする横須賀軍港を見渡したまま、ぢつと彼の運命を待ちつづけてゐた。その間もやはりおのづから甲板〔かんぱん〕のじりじり反〔そ〕り返つて来〔く〕るのに幾分か不安を感じながら。……」という文句で終つている『戦闘艦××』を、そうして、その『戦闘艦××』が芥川その人であった事を。)

[やぶちゃん注:「三つの窓」の脱稿は六月十日である。正に悩ましい日附けではないか!「書いたんだ」という過去形は確かに気になる。宇野が元気なら六月二十日は正にぴったりくるのだが、先に述べたようにそれはあり得ない。……いや……それより何より……宇野が……「三つの窓」の、正にこの「三 一等戰鬪艦××」の……

 

 横須賀軍港には××の友だちの△△も碇泊してゐた。一萬二千噸の△△は××よりも年の若い軍艦だつた。彼等は廣い海越しに時々聲のない話をした。△△は××の年齡には勿論、造船技師の手落ちから舵の狂ひ易いことに同情してゐた。が、××を劬〔いたは〕るために一度もそんな問題を話し合つたことはなかつた。のみならず何度も海戰をして來た××に對する尊敬の爲にいつも敬語を用ひてゐた。

 すると或曇つた午後、△△は火藥庫に火のはいつた爲に俄かに恐しい爆聲〔ばくせい〕を擧げ、半ば海中に横になつてしまつた。××は勿論びつくりした。(尤も大勢の職工たちはこの××の震へたのを物理的に解釋したのに違ひなかつた。)海戰もしない△△の急に片輪〔かわた〕になつてしまふ、――それは實際××には殆ど信じられない位〔くらゐ〕だつた。彼は努めて驚きを隱し、はるかに△△を勵〔はげま〕したりした。が、△△は傾いたまま、炎や煙の立ち昇る中〔うち〕にただ唸り聲を立てるだけだつた。

 それから三四日たつた後〔のち)、二萬噸の××は兩舷の水壓を失つてゐた爲にだんだん甲板も乾割〔ひわ〕れはじめた。この容子を見た職工たちは愈〔いよいよ〕修繕工事を急ぎ出した。が、××はいつの間にか彼自身を見離してゐた。△△はまだ年も若いのに目の前の海に沈んでしまつた。かう云ふ△△の運命を思へば、彼の生涯は少くとも喜びや苦しみを嘗め盡してゐた。××はもう昔になつた或海戰の時を思ひ出した。それは旗もずたずたに裂ければ、マストさへ折れてしまふ海戰だつた。……

 

そう……この……

『一萬二千噸』の『戰艦△△』が……

他ならぬ宇野浩二であることに……

これを書いている時点に於いても本人宇野浩二が全く気付いていないことに……

私は呆然とするほか……

ないのである……

いや……

分かっていなかったとは思われない……

もし、恐ろしい鈍感でないとしたら……

宇野は――この比喩を――自分とは絶対に認めないのだ、としか思えない――

絶対に自身の精神異常を――精神異常、則ち――「発狂」としたくないのである――

彼は自分はあくまでも――正常範囲での――たかが境界的な神経衰弱に過ぎなかったと――

固く信じていることになる――いや――信じているのである――と私は確信しているのである……

さればこそ宇野浩二にとって、この『戰艦△△』が、彼自身であろうはずが、ないのである――]

 さて、芥川は、その晩、「門のところまで送ろう、」と云って、提燈〔ちょうちん〕を片手に、飛び石づたいに、あるきながら、問わず語りに、「僕は、今、すこし骨の折れる原稿を書いているんだが、それを書き上げたら、ここを引きあげるつもりだ、」と云った。「ここにいる間は、うちには帰らないの。」「うちへ帰ったら、寝てばかりいる。」「体もなんだけど、……君、どうしたんだ、ひどく気が弱くなったね。」「……」「ね、しつかりしろよ。」「ありがとう。」(この時、ちょうど柴折戸のところに来たので、)「じゃ、」と私が云うと、「じゃ、さよなら、大事〔だいじ〕にしたまいね、じゃ、……」、芥川が、云った。

 今、この時の事をかんがえると、この時、芥川が、「すこし骨の折れる原稿」と云ったのが、『或阿呆の一生』であったのだ。

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