耳嚢 巻之四 井上氏格言の事
井上氏格言の事
明和安永の頃、井上圖書(ずしよ)といへる御書院の組頭ありしが、或日他組の番頭なりし北條阿房守途中にて出會しに、安房守は乘輿(のりこし)、圖書は歩行(かち)にて馬を牽(ひか)せ通りしゆへ、會釋なく駕の際を通りしを、安房守より圖書番頭へ、乘輿の脇を面(おもて)を合せ通行に一向會釋なきは如何との咄を圖書聞て、五十人の御番衆の内には多分歩行にて往來の者も多く、依之途中にて番頭等へ逢(あひ)候ても見ぬふりを致候儀申合に候。是は御旗本へ途中にて逢れ候節、番頭にても下輿(げよ)下乘も可有之事、左(さ)候ば御城往來にも幾たびか下乘可有之故の儀に候。右の通りの安房守存寄に候はゞ、重ての儀組一同申合、下乘の遠慮なくひかへ候樣可申合旨申ければ、是にこまりて戲(たはぶ)れ事になして事濟ぬと也。
□やぶちゃん注
○前項連関:平時の武辺物で連関。岩波版の長谷川氏の注には、『図書は礼をすれば番頭も駕籠・馬から下り返礼せねばならぬ。その煩わしさを厭わぬというのなら以後会釈をするよう申合せようといった』と解説されている。実は私の頭が鈍いのか、『番頭も駕籠・馬から下り返礼せねばならぬ』と読める部分が、何処であるかはしかと分からぬのであるが、この謂いは正に安房守がビビる核心を補強するものであることは確実だから、井上の台詞の最後に出させて貰った。
・「明和安永」西暦一七六四年から一七八一年。
・「井上圖書」井上図書頭正在(いのうえまさあり 享保十六(一七三一)年~天明七(一七八七)年)。明和四(一七六七)年御小性組頭、安永二(一七七三)年大目付、安永八(一七七九)年従五位下図書頭、天明五(一七八五)年普請奉行。ネット情報では杉本苑子の小説「冬の蝉」では硬骨漢として描かれているらしい(未読)。
・「御書院の組頭」「御書院」は書院番で将軍直属の親衛隊。六組(当初は四組)で一組の内訳は番士五十名・与力十騎・同心二十名の構成からなる。番頭は各組の指揮官で、その番頭の補佐役が組頭。
・「北條阿房守」北条安房守氏興(ほうじょううじおき 享保十五(一七三〇)年~寛政九(一七九七)年)宝暦三(一七五三)年従五位下安房守。新番頭から明和二(一七六五)年御小性組番頭、安永七(一七七八)年大番頭、天明五(一七八五)年には駿府城代となった。以上の事蹟から、本話は井上が御小性組頭となった明和四(一七六七)年から暫く経った頃で(話柄から直後とは考えられない)、井上が大目付に昇進する安永二(一七七三)年以前ということになる。一つ違いだからどちらも、三十代後半から四十歳前後である。
・「乘輿」とあるが、「輿」は駕籠のことを意味している。
■やぶちゃん現代語訳
井上氏の格言の事
明和・安永の頃、井上図書頭正在殿という御書院番組頭が御座った。
ある日、他の組の番頭であった北条安房守氏興殿と擦れ違った。この時、安房守は駕籠に乗り、図書の方は徒歩で馬を引かせての通行で御座った故、会釈せずに駕籠の脇を通った。
ところが、後日のこと、安房守より井上殿の番頭へ、
「貴殿支配の組頭井上殿じゃが……我ら番頭が乗る駕籠の脇を正面から擦れ違うに、一向、会釈も御座らぬとは、これ、如何なものか、の。」
と小言の御座ったを井上殿聞きて、
「――はて。五十人から御座る御番衆の内には、大概は徒歩立ちにて往来する者も多く、これに依って、路次(ろし)にて番頭などへ逢(お)うて御座っても、見て見ぬ振りを致すようにするが、我等が申し合わせに御座る。これは――もし、番頭御自身が、路次で御旗本に逢(お)うて御座った折りには――番頭御自身、駕籠を降り、馬を下りねばならぬ、と言うが道理――ということで御座る――さすれば、番頭御自身、御登城・江戸市中御通行の砌りには、これ、幾度も、駕籠や馬を、下りねばならぬが――道理――ということになろうと存ずる。――いや――もし、かくの通りが守るべき道理と、安房守御自身がおっしゃるので御座らば――さても、ここでしっかと組々一同申し合わせの上、遠慮のう、下乗して控えて会釈致し、当然の如、それに続くところの番頭御自身の御下乗による御挨拶を、忝(かたじけの)う、しっかとお受け申すよう――周知徹底致すが所存にて、御座る――。」
と申し上げた。
流石の安房守も、これには困り果てて、
「……い、いや、……その、あれは、の……ちょっとした冗談じゃ、て。……」
と言い紛らかいた、とかいうことで御座る。