宇野浩二 芥川龍之介 二十三~(3)
さて、私が、『玄鶴山房』を、はじめて、まとめて、読んだのは、昭和二年の二月号の「中央公論」である。『まとめて』とは、先きに述べたように、『玄鶴山房』は㈠だけ、(それも、原稿用紙[註―四百字づめ]で二枚ぐらい、)その前の月の、(つまり、一月号の、)「中央公論」に、出〔で〕て、二月号の「中央公論」で完結したからである。
ところで、私は、その一月号の「中央公論」に出た、『玄鶴山房』の㈠を読んだ時は、卒読したので、その㈠の終りの、
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「何〔なん〕だかな、まさか厳格と云ふ酒落〔しやれ〕でもあるまい。」
彼等は二人〔ふたり〕とも笑ひながら、気軽〔きがる〕にこの家の前を通〔とほ〕つて行つた。そのあとには唯凍〔い〕て切つた道に彼等のどちらかが捨てて行つた「ゴルデン・バツト」の吸〔す〕ひ殻〔がら〕が一本〔いつぽん〕、かすかに青い一〔ひと〕すぢの煙を細〔ほそ〕ぼそと立ててゐるばかりだつた。
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という妙に酒落〔しゃれ〕ているところだけが気になって、「ふン、『青い一〔ひと〕すぢの煙を細〔ほそ〕ぼそ』か、あいかわらず遣〔や〕つてるな、」と、思ったきりで、肝心なところを、読み過ぐしてしまった。そうして、『玄鶴』と云えば、「黒色の鶴」のことだが、黒色の鶴などというものがあるのかな、などと、思ったりした。
[やぶちゃん注:「黒色の鶴などというものがあるのかな」クロヅルという和名のツルは実際に存在する。ツル目ツル亜目ツル科ツル属クロヅル
Grus grus で、参照したウィキの「クロヅル」によれば、『成鳥の頭頂は赤く裸出し、まばらに黒く細い毛状の羽毛が生え』、『後頭から眼先、喉から頸部前面の羽衣は黒く、頭部の眼の後方から頸部側面にかけては白い』。『胴体の羽衣は淡灰褐色または灰黒色』で、『和名は全体的に黒っぽいことに由来する』。但し、分布域は『ヨーロッパ北部のスカンジナビア半島からシベリア東部のコリマ川周辺にいたるユーラシア大陸で繁殖し、ヨーロッパ南部、アフリカ大陸北東部、インド北部、中国などで越冬』し、『日本には、毎冬少数が鹿児島県の出水ツル渡来地に渡来するが、その他の地区ではまれである』とある。]
ところが、完結した『玄鶴山房』を読んでみて、私は、「これは、」と、思った、「これは、うまい、」と感心したのである。しかし、この時も、あまり念を入れて、読まなかったらしかった、それは、すぐれた作品とは思ったのであるが、唯、暗澹とした、救われないような、感じが、たまらなかったので、それだけに辟易して、やはり、肝心のものに、気がつかずにしまったからである。
それで、その感想を、私は、廣津にも高野[註―前にも書いたが、その頃の「中央公論」の責任編輯者]にも、述べた、あまりに暗〔くら〕すぎて、読みながら、何〔なに〕かやりきれないような気がする、と。
それから、これも前に書いたが、その後〔ご〕、芥川が、私の病気(やはり、かなりひどい神経衰弱)を見舞いに来てくれた時、この『玄鶴山房』について、「……あれは、随分うまい、と思ったが、実に気もちの悪〔わる〕い小説だね、」と、私が、云うと、「……そうかなア、」と、云って、芥川は、何ともいえぬ妙な顔をした。そうして、その顔は少〔すこ〕し歪〔ゆが〕んでいるように見えた。そうして、それには、幾らか『心外〔しんがい〕』というような表情もあるのが、窺〔うかが〕われた。
「……しかし、『玄鶴山房』は、旨いもんだな、旨いのには、感心したよ。」
「うむ、……すこし骨を折ったよ。……『軍港行進曲』、……久しぶりで、調子〔ちょうし〕が出たね、……しかし、僕らの小説、新年号に、出したかったね。」
芥川は、急に、しみじみした調子で、云った。
二人〔ふたり〕とも、病気の事も、何〔なに〕も彼〔か〕も、忘れてしまった。
「……僕も、こんどは、すこし変った小説、書くつもりだから、君も、『軍港行進曲』の後篇を、すぐ、書けよ。」
「うむ、僕も、書くから、君も、書けよ。」
「……君には、ちょっと云ったが、僕の家〔うち〕は、……複雑なんでネ、それに、……」
「………」
「……じゃ、失敬するよ、大事〔だいじ〕にしたまい、ね。」
「君も、大事にしたまえ。」
[やぶちゃん注:この宇野の回想する芥川龍之介の宇野浩二への見舞いは何頃のことになるか、少し考証してみたい。まず、これは『改造』に「玄鶴山房」後半が掲載された後であるから、二月二日以降と考えると、文中の(宇野の記憶に誤りがないとすれば)『僕も、こんどは、すこし変った小説、書くつもりだから』が、大きなヒントになる。実は宮坂年譜によれば、同二月四日には「蜃気楼」が脱稿されており、更に七日までには「河童」六十枚が執筆されていることが判明する。河童の脱稿は二月十三日頃とされるが、「蜃気楼」は何より芥川龍之介の起死回生の「筋のない小説」としての自信作で、また、近年にない速筆で書いたと自慢する「河童」は怪作寓話小説で、ともに正しく『すこし変わった小説』と言ってよい。『書くつもり』という語に拘るなら、二月二日以降で、せいぜい「河童」を執筆したという七日前後ぐらいまでがリミットとなるが、もしかすると、芥川は宇野を元気づけるために、既に書き終わっていた「蜃気楼」「河童」を『こんどは……書くつもりだから』と言った可能性を考えれば、同二月上旬から中下旬頃までを同定候補として引っ張ることは出来よう。]
さて『玄鶴山房』を、こんど、少し念を入れて読んでみると、前に述べた二十五六年前の感想と全くちがう考えが浮かんだ。
『玄鶴山房』は、いうまでもなく、沈鬱な話ではあるけれど、それは作者が殊更に陰惨にしたところが多分にあるからで、案外に常識的な人情話めいたところも随分ある。
例えば、婿の重吉が養父母に対する態度や気もちも、お鈴の、父母に対する気もちも、父の妾であったお芳に対する態度なども、隙〔ひま〕を出された妾のお芳が手伝いに来るところも、お鈴の子とお芳の子が喧嘩をするところも、その子等の喧嘩のために母親たちが気を揉むところなども、みな、常識的であり、普通の人情話であるからだ。
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玄鶴はお芳[註―元女中]を囲ひ出した後、省線電車の乗り換へも苦にせず、二週間に二度づつは必ず妾宅へ通〔かよ〕つて行つた。お鈴はかう云ふ父の気もちに始めのうちは嫌悪を感じてゐた。「ちつとはお母〔かあ〕さんの手前も考へれば善〔い〕いのに、」――そんなことも度〔たび〕たび考へたりした。尤もお鳥は何〔なに〕ごとも詮〔あきら〕め切つてゐるらしかつた。しかしお鈴はそれだけ一層〔そう〕母を気の毒に思ひ、父が妾宅へ出かけた後〔あと〕でも母には「けふは詩の会ですつて」などと白々〔しらじら〕しい譃をついたりしてゐた。その譃が役に立たないことは彼女自身も知らないのではなかつた。
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というところなど、やはり、普通の人情ではあるが、晩年の芥川は、これだけの事を書いても、例の説明する癖〔くせ〕はあるけれど、手法が簡潔になり手堅〔てがた〕くなった。
それから、『玄鶴山房』の特徴は、そのために読後の感銘がうすくなる程、用意周到に作〔つく〕ってある事だ。
中心の人物である玄鶴が身内〔みうち〕の者さえ嫌〔いや〕がり厭〔いと〕う病気にかかっている事が、この小説が通俗的になり人情小説になり兼ねないのを、救っている。それどころか、それだけで、一般の読者に、いや、大抵の評論家にさえ、それ程でもないのに、この小説を、大へん深刻な作品のように、思わせている。
それから、この小説の㈡の初〔はじ〕めの方〔ほう〕に、「彼[註―玄鶴の婿、つまり、玄鶴の娘お鈴の夫の重吉]はこの数日来、門の内〔うち〕へはひるが早いか、忽ち妙な臭気を感じた。それは老人には珍しい肺結核の床に就いてゐる玄鶴の息〔いき〕の匂〔にほひ〕だつた、」というところがあるが、これは玄鶴の容体が急に悪〔わる〕くなった、という、作者の、用意周到な『伏線』である。(『伏線』とは、「後段に書く事を、唐突にならせないために、前もって仄〔ほの〕めかしておく事」という程の意味である。)
つまり、『玄鶴山房』は、㈠は前書〔まえがき〕であるが、㈡は、玄鶴の病気が重くなったので、甲野という附き添いの看護婦が来、㈢は、やはり、そのために、玄鶴が「東京の或近在に公然と囲つておいた女中上〔ぢよちゆうあが〕り」のお芳が、手伝いを兼ねて、子をつれて、現れ、㈣は、そのために、女たちが、腹の探り合いをしたり、暗〔あん〕に啀み合ったりする、㈤は、病苦のために、玄鶴が自殺しかけ、㈥は、玄鶴が死ぬ、という筋であるから、この『伏線』はまったく抜き差しならぬ『伏線』である。(私の知る限り、芥川の全作品の中でも、このような用意周到な『伏線』を使っているのは、おそらく、『玄鶴山房』だけである。)
[やぶちゃん注:「㈣は、」の読点は底本にはなく、ただの字空きとなっているが、前後から読点の脱字と判断した。「啀み合ったりする」は「いがみあったりする」と読む。]
ついでに書くと、この『伏線』である、重吉が、勤めさきの銀行から、帰って来て、門の内にはいった途端に、妙な臭気を感じる、「それは老人には珍しい肺結核の床に就いてゐる玄鶴の息の匂だつた、」というような現象であるが、いかに悪質の肺結核の患者であったとしても、「離れ」に寝ている病人の「息の匂」が、門をはいった途端に、感じられるかどうか、というような疑問を、たいていの読者に、いだかせないようなところに、『玄鶴山房』の魅力が、あるのであろうか。それとも、こういう事を、芥川が、わざと、書いたのであろうか、あるいは、その時分の芥川は、(その時分の芥川の気もちは、)おのずから、こういう事を書いたのであろうか。
ところで、『玄鶴山房』に出てくる人たちは、もとより、それぞれ、性質がちがうけれど、大てい、善人であり、凡人である。ところが、看護婦の甲野だけは違う。
それは、作者が、甲野という底意地のわるい看護婦を出して、その甲野に冷たい意地のわるい観察をさせるためであろうか。もしそうだ、とすれば、甲野などに出来ない事は、作者、みずから、陰にまわって、話を、なるべく、暗澹に、と、意地わるに、導〔みちび〕いたので、はないか。(そうして、この頃〔ころ〕の芥川は、ともすれば、こういう気もちに、なったのではないか。)それは、例えば、次ぎのような所である。
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……七八年前から腰抜けになり、便所へも通〔かよ〕へない体〔からだ〕になつてゐた。玄鶴が彼女を貰つたのは彼女が或大藩〔あるたいはん〕の家老の娘と云ふ外〔ほか〕にも器量〔きりやう〕望みからだと云ふことだつた。彼女はそれだけに年〔とし〕をとつても、どこか目などは美しかつた。しかしこれも床〔とこ〕の上に坐り、丹念に白足袋などを繕〔つくろ〕つてゐるのは余りミイラと変らなかつた。
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この最後の、腰抜けの老女など、七十字ぐらいであるが、嘗〔かつ〕て『往生絵巻』や『六の宮の姫君』などが凄惨な話のように称せられたけれど、これと比〔くら〕べると、あれらは借り物であって、これは可なり無意味である。つまり、『玄鶴山房』を書いた頃の芥川は、こういう事を、書いたのである。
ところが、『玄鶴山房』のもう一〔ひと〕つの特徴は、平凡な事でありながら必要と思われる事は実に細〔こま〕かく書いている事だ。それは、例えば、お鈴とかお芳とか、いう、世間にざらにある女たちの仕種〔しぐさ〕や言葉の端端〔はしばし〕を克明に書いているところである。それは、例えば、次ぎのような所である。(これは、玄鶴に公然と囲〔かこ〕われていた女中あがりのお芳が、許〔ゆる〕しをうけて、手伝いをするために、台所から、はいって来た所である。)
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お鈴はお芳の顔を見た時、存外彼女が老〔ふ〕けたことを感じた。しかもそれは顔ばかりではなかつた。お芳は四五年以前には円〔まる〕まると肥〔ふと〕つた手をしてゐた。が、年〔とし〕は彼女の手さへ静脈〔じやうみやく〕の見えるほど細らせてゐた。それから彼女が身につけたものも、――お鈴は彼女の安〔やす〕ものの指環〔ゆびわ〕に何〔なに〕か世帯〔しよたい〕じみた寂しさを感じた。
「これは兄が檀那様[つまり玄鶴]に差し上げてくれと申しましたから。」
お芳は愈気後〔いよいよきおく〕れのしたやうに古〔ふる〕い新聞紙の包みを一〔ひと〕つ、茶の間〔ま〕へ膝を入れる前にそつと台所の隅へ出した。折から洗ひものをしてゐたお松はせつせと手を動かしながら、水々〔みづみづ〕しい銀杏返〔いてふがへ〕しに結〔ゆ〕つたお芳を時々〔ときどき〕尻目に窺つたりしてゐた。
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仮りにこれを『芸』とすれば、実に細〔こま〕かい芸である。そうして、誇張して云うと、死ぬ前の芥川の仕事はいよいよ冴えてきた、という事になるかもしれない。しかし、このくらいの事は芥川の『家の芸』として、この古い新聞紙の包みの中に、「悪臭〔あくしう〕を放つてゐる」大蒜〔にんにく〕を入れて、「お芳はお松を見なかつたものの、少〔すくな〕くともお鈴の顔色に妙なけはひを感じたと見え『これは、あの、大蒜でございます』と説明した、」とあるところなどは、芸はますます細〔こま〕かい、という上〔うえ〕に、以前の芥川になかったようなものを、チクリと感じさせる。
ところで、芥川は、この『玄鶴山房』を、あるだけの力を絞〔しぼ〕り、精根〔せいこん〕をつくして、書いたのである。しかし、芥川は、青野に宛てた手紙[昭和二年三月六日]の中で、「わたしは玄鶴山房の悲劇を最後で山房以外の世界へ触れさせたい気もちを持つてゐました。(最後の一回以外が悉く山房内に起〔おこ〕つてゐるのはその為〔ため〕です。)なほ又その世界の中に新時代のあることを暗示したいと思ひました、」と書いている、が、私は、(私の独断ではあるが、)この芥川の手紙の中の「その世界の中に新時代のあることを暗示したいと思ひました、」という文句は、あまり問題にならない、と思うのである。
私は、芥川の最後の小説らしい小説である、『玄鶴山房』が、仮りに、完璧に近い作品である、とすれば、その、「山房内」を書いた、㈡、㈢、㈣、㈤の四節であって、「山房以外へ触れさせた」㈥は、余計なものではないが、書き方が慌〔あわた〕だしく、㈥があるために、作品の形がくずれている、と思うのである。
そうして、私が、こんど、少し念を入れて、『玄鶴山房』を、読んで、心を打たれたのは、
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一時間ばかりたつた後、玄鶴はいつか眠つてゐた。その晩は夢も恐しかつた。彼は樹木〔じゆもく〕の茂つた中に立ち、腰の高い障子の隙〔すき〕から茶室めいた部屋を覗いてゐた。そこには又まる裸の子供が一人〔ひとり〕、こちらへ顔を向けて横になつてゐた。それは子供とは云ふものの、老人のやうに皺〔しわ〕くちやだつた。玄鶴は声を挙げようとし、寝汗だらけになつて目を醒〔さ〕ました。……
「離れ」には誰も来てゐなかつた。のみならずまだ薄暗〔うすぐら〕かつた。まだ?――しかし玄鶴は置き時計を見、彼是〔かれこれ〕正午に近いことを知つた。彼の心は一瞬間、ほつとしただけに明〔あか〕るかつた。けれども又いつものやうに忽ち陰鬱になつて行つた。彼は仰向〔あふむ〕けになつたまま、彼自身の呼吸を数ヘてゐた。それは丁度何〔ちやうどなに〕ものかに「今〔いま〕だぞ」とせかれてゐる気もちだつた。玄鶴はそつと褌〔ふんどし〕を引き寄せ、彼の頭〔あたま〕に巻きつけると、両手でぐつと引つぱるやうにした。
そこへ丁度〔ちやうど〕顔を出したのはまるまると着膨〔きぶく〕れた武夫[註―玄鶴の孫]だつた。
「やあ、お爺〔ぢい〕さんがあんなことをしてゐらあ。」
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という所だけであった。
ここに、芥川が、いる。
極言すれば、『玄鶴山房』一篇の中で、芥川が、一ばん心を入れて、書いたのは、ここだけである。この一節は、不思議な作品『歯車』と通じるものがある。(『歯車』については、後〔のち〕に、稍〔やや〕くわしく述べるつもりである。)
この一節は、『或阿呆の一生』のなかの『死』を思わせる。いや、この一節とつぎに引用する『死』と殆んど同じような気さえする。
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彼はひとり寝てゐるのを幸〔さいは〕ひ、窓格子に帯をかけて縊死〔いし〕しようとした。が、帯に頸を入れて見ると、俄かに死を恐れ出した。それは何も死ぬ刹那の苦しみの為〔ため〕に恐れたのではなかつた。彼は二度目には懐中時計を持ち、試みに縊死〔いし〕を計〔はか〕ることにした。するとちよつと苦しかつた後、何〔なに〕も彼〔か〕もぼんやりなりはじめた。そこを一度通り越しさへすれば、死にはひつてしまふのに違ひなかつた。彼は時計の針を検〔しら〕べ、彼の苦しみを感じたのは一分二十何秒かだつたのを発見した。窓格子の外〔そと〕はまつ暗〔くら〕だつた。しかしその暗〔やみ〕の中に荒あらしい鶏〔にはとり〕の声もしてゐた。
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さすがに、この方が、真に迫〔せま〕り、切〔せつ〕ないところがある。(『或阿呆の一生』の中〔うち〕には、思わせ振りなようなものもあるが、又、真に迫った、切〔せつ〕ない、ものも、多分に、はいっている。それで、『或阿呆の一生』についても、後に述べるつもりである。)
[やぶちゃん注:ここで宇野は「玄鶴山房」を再読して、『心を打たれたのは』、引用した玄鶴の縊死未遂のシークエンス『という所だけであった』と述べている点に注意されたい。彼は本作をこの「芥川龍之介」執筆時点で、実は小説として高くは評価出来ない、と暗に言っているのである。嘗て宇野が芥川に手紙や会話で褒めた(手紙については既に「二十」で当時でも半分ぐらいお世辞であると断定しているが)「玄鶴山房」も、今、再読してみれば、その全体は体のいい人情話で、レベルの低い「小説」に過ぎない(宇野に言わせれば本物の「小説」とは言えない)、と一刀両断にしているのである。]

