耳嚢 巻之四 狂歌滑稽の事
狂歌滑稽の事
安永寛政の頃、狂名もとの木阿彌と名乘て狂歌を詠る賤民ありしが、麻布の稻荷へ人の形を畫て眼へ釘をさしあるをみて、
目を畫(かき)て祈らば鼻の穴二ツ耳でなければきく事はなし
と書て札を下げければ、あけの日右の人形の耳へ釘を指しける故、
眼を耳にかへすがへすもうつ釘は聾(つんぼう)程も猶きかぬなり
と亦々札を下げければ、此度は繪を止めて藁人形へ一面に釘をさしけるゆへ、
稻荷山きかぬ所に打釘はぬかにゆかりの藁の人形
と札を下げければ、其後は右の形も見ヘずなりぬと。
□やぶちゃん注
○前項連関:天誅と呪詛は一種のホワイトとブラックのマジックで連関するか。
・「安永寛政」間に天明を挟んで西暦一七七二年から一八〇一年までの二十九年間。
・「もとの木阿彌」元木網(享保九(一七二四)年~文化八(一八一一)年)。本姓は渡辺(金子とも)、通称、大野屋喜三郎。京橋北紺屋町で湯屋を営みながら狂歌師として売り出し、狂歌仲間の娘すめ(狂名智恵内子(ちえのないし)。「卷之三」の「狂歌流行の事」に既出)と夫婦となる。天明元(一七八一)年に隠居剃髪、芝西久保土器町に落栗(おちぐり)庵を構え、無報酬で狂歌指導に専念、唐衣橘洲(からごろもきっしゅう)や四方赤良(よものあから:大田南畝)らとともに天明狂歌の一翼を担う。和歌や国学の深い素養に基づきつつ、平明な言葉で詠んだ彼の狂歌は爆発的人気を誇った。狂歌作法書「浜のきさご」、「新古今狂歌集」(古人から当代の門人までの狂歌撰集。寛政六(一七九四)年刊)等。
・「麻布稲荷」現在、東京都港区麻布十番一丁目四番六に麻布十番稲荷神社があるが、これは、戦災後の合祀で、元は末広神社と竹長稲荷神社であった。末広神社は慶長年間(一五九六年~一六一五年)の創建で、元禄四(一六九二)年までは麻布坂下町の東方の雑式に鎮座していたが、同六(一六九四)年に永井伊賀守によって現在の坂下町四一の社域に遷座された。「青柳稲荷」「末広稲荷」と呼ばれ、明治二十(一八八七)年に末広神社と改称されている。一方、竹長稲荷神社の方は、嵯峨天皇の弘仁十三(八二三)年に慈覚大師が八咫鏡を以て武蔵国豊島郡竹千代丘(現在の鳥居坂上)に稲荷大明神を勧請したものが起源とされ、寛永元(一六二四)年に現在の麻布永坂町四十三番地に遷座された。近接するのでどちらとも言い難いが、呪詛の効力から言えば、圧倒的に古い後者、「竹長稲荷神社」に同定しておきたい。
・「目を畫(かき)て祈らば鼻の穴二ツ耳でなければきく事はなし」の歌は「人を呪わば穴二つ」の諺に引っ掛けて、
○やぶちゃん通釈
――おぞましき呪いは、あんたも呪われる――相手と自分の墓穴二つ――きっと必ず待ってるぞ――ところが目鼻も二つ穴――同じ二つの穴ならば――この絵の耳は健やかに――ぼこっと、二つ残って御座る――耳がなければ呪詛「聞かぬ」――聴こえぬなれば、さればとよ――この釘とても「効かぬ」とよ――呪詛はさっぱり「効かぬ」とよ――
といった掛詞の洒落になっている。文字通り、鼻で陰湿な恨みを笑い飛ばしているところが、強靭な批判性を持った狂歌として上手い。
・「眼を耳にかへすがへすもうつ釘は聾(つんぼう)程も猶きかぬなり」今度は耳だから、それを聾(つんぼ)に洒落て、
○やぶちゃん通釈
――何遍何度も呪詛しても――当然必然、聾(つんぼう)は――如何なるものも存じませぬ――「聞かぬ」存ぜぬ――呪詛「効かぬ」――
と前歌を受けて更に畳掛ける。「かへすがへすも」からは、呪った当人が丑の刻に再度参って目の釘を引き抜き、耳に打ち直したことを指す、と考えた方が面白いように思われる。ここでは釘が増えない方が、次のシチュエーションで読者が受ける映像的強烈さからみて、効果的であると考えるからである。
・「稻荷山きかぬ所に打釘はぬかにゆかりの藁の人形」藁人形の藁は、その原材料が稲で、糠と縁がある。更に糠と呪詛の釘が誰にも美事に「糠に釘」を連想させ、その成語を用いた、ダメ押しの狂歌となる。
○やぶちゃん通釈
――ここは竹長稲荷山――稲から取れる糠と藁――も一つ挙げれば「糠に釘」――打っても打っても「糠に釘」――やっぱりさっぱり呪詛「効かぬ」――されば、あんたのこのおぞましい――人心惑わす、とんでもない――時代遅れの呪いの呪法――結局、全然、全く以て――如何なるものにも、効きませぬ――阿呆ドアホウ馬鹿臭い――トンデモ愚劣な成しようじゃ――
と、忌まわしい呪詛者を、掛詞と縁語を重ね合わせた洒落のマシンガンで、テッテ的に笑気ガス弾で機銃掃射にしているのである。
■やぶちゃん現代語訳
狂歌滑稽の事
安永から寛政年間にかけて、狂歌の雅号を「もとの木阿弥」と称した身分賤しい狂歌師が御座った。
ある日、彼が麻布稲荷の境内に参ったところが、一本の木陰に人形(ひとがた)を描いた絵の、その眼へ釘を刺してあるのを見つけて御座った。そこで木阿弥、にんまりとして、
目を画きて祈らば鼻の穴二ツ耳でなければきく事はなし
とさらさらっと書いて、それをわざわざ御札にし、絵の傍らに下げておいた……
さても翌日のこと、木阿弥が再び参詣してみると、今度は、目からやおら引き抜かれた釘が、今度は、このその耳の辺りに打たれて御座る。そこで木阿弥、またにんまり、
眼を耳にかへすがへすもうつ釘は聾(つんぼう)程も猶きかぬなり
とさらさらっと書いて、それをまたまた御札にし、絵の傍らに下げておいた……
さても翌日になる。木阿弥が再三参詣してみると、今度は、絵をやめて――何と、藁人形が――それもその全身に夥しい釘が打たれた藁人形が、木にぶっ刺されて御座った。それを見た木阿弥、呵々と笑ろうて、
稲荷山きかぬ所に打つ釘はぬかにゆかりの藁の人形
とさらさらっと書いて、それをまたまた御札にし、絵の傍らに下げて帰った……
さてもその日翌日、藁人形は何処かへ消え去り、その稲荷での呪詛の仕儀も絶えてなくなった、ということで御座る。