宇野浩二 芥川龍之介 二十三~(9)
七月の初めに、私は、芥川に、斎藤茂吉を紹介してもらい、斎藤茂吉の世話で、滝野川のナニガシ病院に、入院した。
[やぶちゃん注:「七月初め」前掲の通り、現在の知見では宇野の入院は六月上旬である。
「滝野川のナニガシ病院」は王子の小峰病院のこと。現在の東京都北区滝野川北端は明治通りと本郷通りを境界に王子と接する。]
私のはいった病室は六畳ぐらいで、両側が壁で、南側の一間半は、全体が窓で、四枚のガラス戸〔ど〕がはまっていて、中〔なか〕の二枚が観音開〔かんのんびら〕きになっていた。そうして、三尺ぐらいの幅の寝台が、窓にむかって右側の壁の際に、据えてあった。
私が入院した七月の初め頃はまだそれ程ではなかったが、十日頃からしだいに温度が高くなり、中頃には華氏の九十度をしばしば越えるようになり、二十日頃〔はつかごろ〕には九十二三度ぐらいになった。
[やぶちゃん注:「華氏の九十度」は摂氏三二・二度、華氏「九十二三度」は摂氏三三・三から三三・九度。]
二十日の夕方であったか、妻が、たずねて来て、その日の昼すぎに、「芥川さんが、お見えになりまして、僕は、旅の支度で忙しいので、病院までお見まいに行けないから、と、おっしゃいまして、これを持って来てくださいました、」と云って、その頃めずらしかったタオル地の寝間著〔ねまき〕と菓子箱を、風呂敷づつみの中から、取り出した。それから、芥川が、私の入院料の事から、内〔うち〕の暮らしの費用の心配までしてくれた事、「それから、宇野が、退院してから、困るような事があったら、文藝春秋社に行ったら、都合するように、菊池にたのんでありますから、と、芥川さんは、御深切に、云ってくださいました、」というような事を話してから、妻は、急に妙な顔をして、わざとらしく声をひそめて、「芥川さん、今日〔きょう〕は、めずらしく、妙に、そわそわしていらっしゃいました、」と云った。
[やぶちゃん注:「僕は、旅の支度で忙しいので」芥川龍之介の、この宇野の妻(八重)への伝言が真実だとすれば……これはドリュ・ラ・ロシェル&ルイマルの「鬼火」のアランの、正にあの台詞――「だけどもうすぐ出立〔たびだち〕だ……旅に出る……出発が送れてるんだ……気がつかなかったかい?』――ではないか! 宇野にして正に「恐ろしい」「不気味な」言葉であったはずであるが……宇野はそれを語っていない……
以下、二つの後記は底本では全体が一字下げ。]
(後記――これも、後に述べてある、芥川が世を捨てる前にいろいろな『伝説』が流布したが、その中の一つに、芥川は、死ぬ覚悟をしてからは、大へん深切にした人たちと、その反対に、わざとらしい嫌〔いや〕がらせを云って閉口させた人たちと、――二〔ふ〕た通〔とお〕りある、という『伝説』である。そうして、その後者の例として、佐多いね子(その頃は窪川いね子)が、死ぬ数日前にたずねた時、芥川が「君は心中しそくなった時にどういう気持がしたか、」と云った、というのである。この話は、いくらか『伝説』ずきの私でも、信用しない。が、おなじ窪川いね子の処女作といわれる『レストラン洛陽』を「文藝春秋」に紹介したのは芥川である、という話もある。又、窪川鶴次郎に、おなじ頃、芥川が、ほんの少しの(志だけの)経済的な援助を一度したことがある、という話もある。但し、窪川や、その友人の中野重治や堀 辰雄などが、芥川を知ったのは、室生犀星を中心として出した、主として詩の雑誌「緒馬」の同人であったからであろう。)
[やぶちゃん注:窪川いね子(佐田稲子)が、この頃に偶然、近所に住んでいることを知り、堀辰雄を通して面会を申し入れていたのが、七月二十一日、夫の窪川と共に芥川龍之介を来訪、七年振りの再会を果たしたが、その際、芥川は自殺未遂の経験のある稲子に詳細を訊ねたのは事実であり、伝説ではない。また、稲子は非常に困惑し、薄気味悪く感じたことは事実であるが、それは『わざとらしい嫌がらせ』ではない。芥川は稲子には終始、好感を持っていた(彼女とは男女の関係にはなかった。が、しかし、窪川と彼女の関係を知って漠然とした嫉妬心を芥川が持った可能性はあり、それを強いて『わざとらしい嫌がらせ』の可能性があると言おうなら、言えぬとは言えないが)。それは、まさに自死の三日前のことであった。]
(後記-それから、これは、誠に通俗的な『伝説』であるが、私のうろおぼえの記憶であるが、芥川が死んでからは、いろいろな『伝説』が新聞や週刊雑誌に出たが、その一つに、芥川家の女中のナニガシの話として、芥川は、伯母のところに紙につつんだ短冊をわたして、自分の部屋に帰る途中で、廊下、から名品の花瓶を庭にむかって投げつけた、というのが「ソレガシ」(週刊雑誌)に出た。それを読んだ菊池 寛が、「そんなら、芥川は、もっと三つも四つも花瓶を投げつけたら、死なずにすんだかもしれない、」と云った、誠しやかな、話も流布された。その他、これに似た『伝説』は私が聞いたり読んだりしたものでも十以上あるから、かかる伝説は数しれずあるにちがいない。)
[やぶちゃん注:これは、自死の四日前の七月二十日、伯母フキと諍いを起こして、フキが泣き出したために一度は宥めたものの、芥川自身の気持が収まらず、床の間にあった花瓶を庭石に投げつけた(宮坂年譜に昭和二年八月十四日「週刊朝日」の森梅子「芥川氏の死の前後」に基づく)という記事が誤って伝えられたもの(若しくは誤って宇野が伝え聞いたもの)であろう。]
その翌日であったか、二人の看護人が、廊下を掃除しながら、「昨日は九十三度だつたそうだが、新聞を見ると、この暑さはつづくそうだが、やりきれないね。」「いや、もっと暑くなるそうだよ、それに、もう一と月以上も、雨が降らないからね、」というような話をしていた。
ところが、その雨が、一と月と何日かぶりで、七月二十三日の夜中から、(正しく云えば、七月二十四日の午前二時頃から、)降り出した。
七月二十三日は、九十五六度の暑さが夕方までつづき、八時を過ぎて、窓の外が暗くなってからも、まだ蒸し暑かった。それで、窓を細目〔ほそめ〕にあけて、十時頃に寝た私は、夜中に、窓の外〔そと〕に、雨の降る音を、うつつに、聞いたが、窓をしめて、すぐ又、眠ってしまった。
[やぶちゃん注:金子大輔氏の「気象から考える河童忌」などによれば、気象庁天気相談所の公式なデータとして同年七月二十三日の最高気温は摂氏三五・六度、不快指数八九の猛暑日であったが、七月二十四日は最低気温二〇・七度、最高気温二六・八度という涼しさになっていたことと、暗い雲に覆われて雨が降りしきり、一四・二ミリの降水を観測していた、とある。そして金子氏は『寒冷前線が近づくと喘息の発作が起きやすい、うつ病が悪化する方が多いと話す人もいる。寒冷前線は、急激な気温低下・天候悪化などをもたらし、体にとって大きなストレスになる』として、当日の天候が芥川龍之介の自殺決行を促す一因子であった可能性を示唆されて興味深い。宇野が降雨の時間を記憶しているのも印象深いが、当時の宇野の病態を考えると、これは残念ながら、後の吉田精一の評論等に所載するデータを、自分のオリジナルな疑似記憶として取り込んでいる可能性が、残念ながら高い気がする。]
芥川は、その雨の降り出した頃、死ぬクスリを飲んで、永久の眠りにつく床についた。それは七月二十四日の午前二時頃であった。そうして、その三十分ほど前に、(つまり、午前一時半頃に、)芥川は、伯母[註―養父道章の妹であり、実母ふくの姉である、芥川ふき]の寝ている枕元に来て、紙に包んだ短冊をわたしながら、「これを、明日〔あした〕の朝、下島さんに渡〔わた〕してください、先生が来た時、僕はまだ寝ているかもしれませんが、寝ていたら僕を起こさずにおいて、まだ寝ているからと云って、わたして下さい、」と云った。そうして、その短冊には、『自嘲 水涕や鼻の先〔さき〕だけ暮れ残る』と書いてあった。
[やぶちゃん注:「永久の眠りにつく床についた。それは七月二十四日の午前二時頃であった」とあるが、現在の年譜的知見では、この時刻に二階の書斎から階下に降り、文と三人の子の眠る部屋で床に就いたが、既にこの時、薬物を飲用していたとされる。「その三十分ほど前に、(つまり、午前一時半頃に、)芥川は……」は、現在では午前一時頃とされており、宇野の謂いはより細かいが、これは寧ろ宇野独自の情報ではなく、彼の推測(午前二時の雨の振り出し、同時刻の自殺決行という時系列から宇野が割り出した推測に過ぎないものと思われる。
以下、後記は底本では全体が一字下げ。]
(後記――この『水涕や鼻の先だけ暮れ残る』という句は、この時分に作られたものではなく、大正十二年の一月頃に作られたものである。おなじ「自嘲」という題で、おなじ頃、『元日や手を洗ひをる夕ごころ』という句がある。)
これは芥川の死ぬ前の晩から夜中へかけての『伝説』である。(『伝説』とは、英語でいう“Tradition”とすれば、「口碑または文書によって伝えられた過去の事実、あるいは、事実と信じられた事件の伝承」という程の意味である。)
[やぶちゃん注:私は「伝説」というと、“legacy”を思い浮かべるが、因みにその違いを調べてみると、“legacy”は個人から個人へ受け渡されるもの、“tradition”は民族・結社・宗派といった集団から集団に受け渡されるものであるらしい。――なるほど――これは芥川龍之介の「遺産」とは何かを考える時、面白い違いである気がした――。]
さて、こういう芥川の伝説は、寡聞な私の知っている限りでは、芥川の無二の親友であった小穴隆一の『二つの絵』の中に、もっとも多く出てくる。
そこで、芥川のいろいろな伝説を作った人を、仮りに小穴その他とすれば、小穴その他は唯『伝説』を書いただけであって、その伝説を仕組〔しく〕んだのは芥川である。芥川が、東西古今のさまざまの伝説を『種』にして、いろいろな小説を作〔つく〕った事は、私が前にくどいほど述べ、多くの人が知っているとおりである。芥川は、創造したり空想したりする才能は、乏しかったようであるが、物事を仕組むことは実に巧みであった。
ところで、芥川は、前にも述べたように、晩年になってからは、健康が弱るとともに、創作力もしだいに衰え、しまいには書くものが断片的になり、題材は幾らかちがっても、同じようなものばかり書いているような観があった。しかし、どの作品にも、何ともいえぬ哀調があり、底に切〔せつ〕ない悲しみが潜〔ひそ〕んでいる。そうして、芥川は、書く事を、死ぬ薬を飲む数時間前まで、つづけたのである。(後記――校正ずりを読みながら、ここのところを読んだ時、私は、芥川は実に『異常な人』であった、と、しみじみと思うのである。それは、この文章のなかで既に述べたように、芥川は、死ぬ前の年〔とし〕あたりから、強度の神経衰弱が高〔こう〕じて神経病者になっていた。そのほんの一つの例をあげれば、『歯車』のしまいの方の「何ものかの僕を狙つてゐることは一足毎に僕を不安にし出した。そこへ半透明な歯車も一つづつ僕の視野を遮り出した。……」という文句だけでも察せられるような状態であった。それにもかかわらず、芥川が、自殺をくわだてる一二時間ほど前まで、『続西方の人』の(22)『貧しい人たちに』を、少しも乱れない文章で書きつづけた、ということに、私は、文字どおり、驚歎し、実に『異常な人』であった、と感歎するのである。)
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「わが父よ、若〔も〕し出来るものならば、この杯〔さかづき〕をわたしからお離し下〔くだ〕さい。けれども仕〔し〕かたはないと仰有〔おつしや〕るならば、どうか御心〔みこころ〕のままになすつて下〔くだ〕さい。」
あらゆるクリストは人気〔ひとげ〕のない夜中〔よなか〕に必ずかう祈つてゐる。同時に又あらゆるクリストの弟子たちは「いたく憂〔うれ〕へて死ぬばかり」な彼の心もちを理解せずに橄欖の下に眠つてゐる。
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これは『西方の人』の中の(28)「イエルサレム」の最後の一節である。(後記――口さがない人たちは、⦅あるいは、根も葉もないことを喋る連中は、⦆さきに引いた、『西方の人』の(28)のなかの、「あらゆるクリストは人気のない夜中に必ずかう祈つてゐる。同時に又あらゆるクリストの弟子たちは『いたく憂へて死ぬばかり』な彼の心もちを理解せず……」という文句のなかの『弟子たち』は芥川の『弟子たち』を差すのであろう、と云う。しかし、私は、この言葉は信じたくないのである。)
[やぶちゃん注:「弟子たち」宇野は例えば龍門の四天王と呼ばれた連中や、その他の芥川に師事した若い作家志望の『若者』をイメージしていると考えてよい。則ち、当然の宇野は勿論、芥川の盟友であり、『弟子』ではない。ではないが、芥川龍之介が「西方の人」と「続西方の人」で自らをキリストに擬えた時、彼は年若の後の小説家や小説家志望の若者らだけを『弟子』と認識していたのでは、無論、ない。寧ろ、彼に敵対し、彼を正しく理解出来ない、彼よりも先に自らを預言者(作家)であると自認していた者達をこそ、真の教え(芸術世界)へと導くべき『弟子』と認識していたはずである。宇野には承服出来ないであろうが――それは、宇野が芥川を、いや、寧ろ、他の小説家や大衆が芥川龍之介という稀有にして孤高の小説家を、正しく見なかった、芥川と自分との間の『一歩』の違いを理解し得なかった、と芥川龍之介自身は感じていたのである(『天才とは僅かに我我と一歩を隔てたもののことである。只この一歩を理解する爲には百里の半ばを九十九里とする超數學を知らなければならぬ』。「侏儒の言葉」の「天才」)。芥川龍之介は、ある意味で(少なくともその生前に於いて)芸術家としては絶対の孤高者として、絶対の孤独の中で、軍靴の音が響き始める大日本帝国の幻影の城を見上げる曠野に立ち竦まざるを得なかった。しかしにも拘らず彼は、惨めな「失敗であった」自身の一個の生と死が、無数の彼を遺伝する未来人として復活することを予言して(『わたしは勿論失敗だつた。が、わたしを造り出したものは必ず又誰かを作り出すであらう。一本の木の枯れることは極めて區々たる問題に過ぎない。無數の種子を宿してゐる、大きい地面が存在する限りは。』(「侏儒の言葉」掉尾「民衆」)、自らを架刑したのである(リンク先は私の電子テクスト「正續完全版「西方の人」)。]
『西方の人』も、『続西方の人』も、芥川の死後、「遺稿」として、雑誌[註―「改造」の八月号と九月号]に出た。
前者は七月十日に脱稿し、後者は七月二十三日に書き上げた。つまり、芥川は、『続西方の人』の最後の章(22)「貧しい人たちに」を書いた日の翌日の未明に、死んでしまったのである。
[やぶちゃん注:私のテクストから、最終章「貧しい人たちに」を引用しておく。
22 貧しい人たちに
クリストのジヤアナリズムは貧しい人たちや奴隷を慰めることになつた。それは勿論天國などに行かうと思はない貴族や金持ちに都合の善かつた爲もあるであらう。しかし彼の天才は彼等を動かさずにはゐなかつたのである。いや、彼等ばかりではない。我々も彼のジヤアナリズムの中に何か美しいものを見出してゐる。何度叩いても開かれない門のあることは我々も亦知らないわけではない。狹い門からはひることもやはり我々には必しも幸福ではないことを示してゐる。しかし彼のジヤアナリズムはいつも無花果〔いちじく〕のやうに甘みを持つてゐる。彼は實にイスラエルの民〔たみ〕の生〔う〕んだ、古今に珍らしいジヤアナリストだつた。同時に又我々人間の生んだ、古今に珍らしい天才だつた。「豫言者」は彼以後には流行してゐない。しかし彼の一生はいつも我々を動かすであらう。彼は十字架にかかる爲に、――ジヤアナリズム至上主義を推し立てる爲にあらゆるものを犧牲にした。ゲエテは婉曲にクリストに對する彼の輕蔑を示してゐる。丁度後代のクリストたちの多少はゲエテを嫉妬してゐるやうに。――我々はエマヲの旅びとたちのやうに我々の心を燃え上らせるクリストを求めずにはゐられないのであらう。]

