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2012/05/15

耳嚢 巻之四 陰德陽報疑ひなき事

 陰德陽報疑ひなき事

 

 寛政七年夏の事なるが、靑山御先手組とか又御持組(おもちぐみ)とかの同心、御切米番(おきりまいばん)と唱へ、年番にて一組の御切米玉落(たまおち)に札差へ至りて、同心仲ケ間の御切米金を不殘受取歸りしに、遙々の道なれば歸り道に辻駕(つじかご)を借りて戻りけるが、組屋敷近く成て、駕にて歸らんも同心仲間の思はくを計りて、途中より下りて駕舁(かごかき)に別れしに、藏前にて請取りし金子、財布の儘駕の向ふへ置しが、駕に置忘れてければ驚きて早速立戻り右駕の者を尋けるが、いづちへ行けん行方もしれず。こわいかにせんと十方(とはう)に暮、身躰爰に極り死なんとせしが、まづ我宿に歸り、此譯人にかたらで死んも口惜き事と、仲ケ間の年古き者を招き、斯々の事に付死を決せし由語りければ、實(げに)もさる事ながら、まづ暫く命を全ふして右金子の行衞尋かたもあるべしと、當惑ながら死を止めて立歸りしに、翌日見知らざる侍案内を乞て對面を申入れしが、妻出て取込事ありて御目に懸り候事もいたし兼候段斷りければ彼侍のいへる、爰元の御亭主何ぞ取落されたる品は無之哉、氣遣ひ候筋には無之間對面いたし度旨申けるを、彼同心聞て早速立出で尋ければ、昨日途中より辻駕に乘りしに右駕の内に金子入とみへし財布あり。駕昇の所持とも思われざる故、密に右の内を改しに札差の仕切書付御名前も有之ゆへ持參せし由を語り、金子の高其外を尋問ひて、無相違由にて右金子を渡しければ、同心夫婦の悦び大かたならず。先(まづ)休み給へと色々引留しに、右金子返濟いたす上は我等もいか計(ばかり)悦ばしとて立歸る故、名前抔聞しかど答なくて歸りぬ。さるにても命の親ともいふべき人を唯に歸さん樣なし。然れども不言(いはざれ)ば詮方なしと、惣門の番をする男を賴み右侍の跡を附させけるに、和田倉内松平下總守屋敷へ入りぬ。依之(これによりて)右惣門の番人下總守門番に、只今御屋敷へ入りし人は御家中にて家名何と申人にやと尋ければ、下總守門番にては何か怪敷(あやしき)儀とも心得けるや、下郎の來りて名前を聞くは答へんも六ケ敷(むつかしき)とや思ひけん、不知(しらざる)由にて一向取合不申(まうさざる)故、詮方なくて右の下郎は歸りて右の同心にかたりしが、さるにても此儘捨置んも便なしとて、翌日彼同心自身(おのづ)と彼屋敷の門番所へ至り是非々々承度(うけたまはりたき)心にて、金子を落せし事幷拾ひ返して名を語らざる譯を荒增かたりて尋けれど、かゝる人心當りなき由門番人挨拶なれば、是又詮方なくて歸りしが、はるか兩三ケ月過て彼侍右の同心の元へ來りてければ、夫婦も殊の外に歡びて厚く禮を述ければ、彼侍の申しけるは我等も今日は禮に參りたる也、過し頃主人門へ兩度迄參りて我等事を尋給ふ事、幷に荒增(あらまし)咄(はなし)給ひし事を門番人より申立たる故、主人より段々尋(たづね)の上、外々の見及びの爲(ため)とて褒美有て加增を給り、前々四拾石の宛行(あてがひ)へ廿石とかの高增有之しゆへ、吹聽旁(かたがた)禮に參りたりといゝし儘、家名を切に尋問ひしがかたらずして歸りける由。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特に連関を感じさせないが、冒頭二つが『寛政七年卯六月下旬』の聞き書きで、それと話者が柳生で前項にも連関し、これが同じ「寛政七年夏の事」と時系列の連続性が認められる。

・「靑山御先手組」「御先手組」先手組(さきてぐみ)のこと。江戸幕府軍制の一つ。若年寄配下で、将軍家外出時や諸門の警備その他、江戸城下の治安維持全般を業務とした。ウィキの「先手組」によれば、『先手とは先陣・先鋒という意味であり、戦闘時には徳川家の先鋒足軽隊を勤めた。徳川家創成期には弓・鉄砲足軽を編制した部隊として合戦に参加した』者を由来とし、『時代により組数に変動があり、一例として弓組約十組と筒組(鉄砲組)約二十組の計三十組で、各組には組頭一騎、与力が十騎、同心が三十から五十人程配置され』、『同じく江戸城下の治安を預かる町奉行が役方(文官)であり、その部下である町与力や町同心とは対照的に、御先手組は番方であり、その部下である組与力・組同心の取り締まり方は極めて荒っぽく、江戸の民衆から恐れられた』とある(アラビア数字を漢数字に変換した)。当時、青山権太原(ごんたわら:現在の港区赤坂青山。)先手組組屋敷が多かった。

・「御持組」御持組は持筒組と持弓組に分かれ、戦時における将軍護衛の鉄砲隊と弓隊で、持筒組三組と持弓組二組で、各組には組頭一騎、与力が七騎、同心が五十五人配置された。平時は城内の西丸中仕切門(桜田門の内側の門)を警護した。

・「御切米番」「卷之一」等で既出であるが、再注しておくと、幕府の大多数の旗本・御家人は『蔵前取り』『切米取り』といって幕府の天領から収穫した米を浅草蔵前から春夏冬の年三回(二月・五月・十月)に分けて支給された。多くの場合、『蔵前取り』した米は札差という商人に手数料を支払って現金化していた。「御切米玉落に札差へ至り」とあるのは、この切米の支給を受ける旗本・御家人には支給期日が来ると『御切米請取手形』という札(ふだ)が支給され、その札を受け取り代行業者であった札差に届け出、札差は預かった札を書替役所に持参の上、そこで改めて交換札を受け取り、書替奉行の裏印を貰う。その後、札差が札旦那(切米取り)の札を八百俵単位に纏め、半紙四つ切に高・渡高(わたしだか)・石代金・札旦那名・札差屋号を記して丸めて玉にし、御蔵役所の通称『玉場』に持参した。この玉場には蓋のついた玉柄杓という曲げ物があって、役人は札差が持ち寄った玉を纏めて曲げ物の中に入れる。この曲げ物の蓋には玉が一つずつ出る穴があって、役人が柄杓を振ると、玉が落ちて出てくる仕組みになっていた。玉が落ちると、札差は玉(半紙)に書かれている名前の札旦那に代わって米や金を受け取る。そうして同時に札旦那に使いの者を走らせ、玉が落ちた旨を報知、知らせを受けた札旦那は、札差に出かけて現金化した金や現物の米を受け取るというシステムであった。そしてこの切米には組単位で支給される支給米があり、これを受け取り分配する者は組内で順番制を採っていて、それが「御切米番」であると思われる。

・「こわ」正しくは「こは」。

・「仕切書付」給与支給明細書。

・「和田倉内」外濠の最も内側にあった和田倉門。

・「松平下總守」伊勢桑名藩第四代藩主松平忠功(ただかつ 宝暦六(一七五六)年~文政十三(一八三〇)年)。

・「外々の見及び」家中の他の家士へ彼の陰徳を広く示すことをいうか。

・「宛行」禄を割り当てること。また、その禄や所領。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 人知れず善行を積まば必ずや良き報いとなって現わるという事

 

 寛政七年の夏のことである――が、青山御先手組だったか御持組だか、はっきりとは覚えておらぬが――その組の、さる同心が御切米番に当たって御座った。これは一年交代の――組内に支給される御切米の玉落ちを受けて、札差へ行って、組の同心連中全員の御切米金を残らず全部受け取って来る――役で御座った。

 さて、その同心、仲間の御切米金を受け取って帰ったのだが――少しばかり遠方で御座ったがため――帰りには辻駕籠を雇って戻った――近くまで戻った――戻ったものの、さて、組屋敷に駕籠で乗り付けるというのは、何やらん妙に仰々しく、同心仲間に見られると何かと冷やかされるのではなかろうかと慮って――途中で降りて、駕籠搔きに別れた――が!――蔵前にて受け取って御座った金子を、財布の儘に駕籠の真向こう置いておいたのを――何としたことか、駕籠にそのまま置き忘れてしまったことに気づく――驚いて慌てて後戻り、駕籠搔きを探してみたものの、最早、何処(いずち)へ行ったものやら、行方知れずじゃ。

「……こ、これは……一体、どうしたら……」

と、この同心は途方に暮れて御座った――

『……進退……いや……この一つばかりの身体窮まれり……最早、死のう……』

と覚悟したものの、

『……取り敢えず……我が家へ帰り……そうじゃ、せめて、かくなった訳を人に懺悔せずに死ぬるも口惜しきことなれば……』

とて、組屋敷に戻って、仲間内でも年嵩の者を秘かに招くと、

「……という不甲斐なき次第につき……最早、死を決して……御座る……」

と語ったところが、

 

「……うう、む……げに尤もなる謂いではある……が、しかし……その……まずはじゃ……暫く命を永らえ全うしてじゃな……まあ、その、右金子の行方を探いてみるが……先決じゃろて……」

と諭され――万事休すの無為無策乍らも――その日は、自家へ立ち返った。――

 ところがじゃ――翌日のこと、かの同心に見知らぬ侍が来訪して来て案内(あない)を乞うて対面を申し入れてきて御座った。妻が応対して、

「……その……只今、取り込みごとの御座いまして……お目にかかりかねますればこそ……どうか……」

と断ったところが――その侍が言う。

「……こちらの御亭主……何ぞとり落とされたる品は、これ、御座らぬかの……。ともかくも……お気遣いは御無用にて、まずは何としても御対面致したく存ずる――」

それを隣室に聞いた同心、恥も外聞もなく間髪入れず、飛び出して訪問の意を訊ねたところ、

「……昨日、帰宅の折りに辻駕籠に乗って御座ったが、その駕籠の中に、金子入と見えた財布、これ在り。どう見ても駕籠搔きの持ち物とも思われぬ故、こっそり中を改めたところが、札差の仕切書付に貴殿のお名前も御座ったればこそ、ここに持参致いた次第――」

とのこと。その侍は同心に、金子の額や財布の形状やら中身なんどについて、幾つか尋ね問うた上で、

「うむ、間違い御座らぬ。」

と、かの金子入りの財布を懐から出して、同心に渡した。

 同心夫婦の悦びようは、勿論、一通りのことでは、御座ない。

「……いや!……その!……ま、まずは……ごゆるりと、なされるがよい!……」

と、動転の中にも喜色満面で侍を引き留めたが、

「――いえ――右金子を無事にお返し致いた上は……拙者もいかばかりか悦ばしく存ずる――」

と言うが早いか、侍は問うに名さえ告げず、帰ってしまった。

「それにしても――命の恩人ともいうべきお人を、ただ帰すなんどということは――これ、あってはならぬこと……されど、お名乗りもなくば詮方のう……」

そこでかの同心、取り敢えず、すぐに出て組屋敷の門番をして御座った男に頼んで、かの侍の跡をつけさせたところ、侍は和田倉門内の松平下総守殿の屋敷へと入っていった。

 そこでこの門番、かの下総守屋敷の門番に、

「只今、御屋敷へお入りになったお人は、御家中の、名を何とおっしゃるお方で御座いますか?」

と尋ねた。

ところが、下総守屋敷の門番は、かくも不躾なる相手の様子を怪しんで御座ったのか、はたまた、どこの馬の骨とも分からぬ下郎が、御家中の者の名を訊ねるに安易に答えては、何やらん面倒なことにもなるとでも思うたのか、

「知らぬ。」

と、一向、取り合わず、黙って御座った。

 これにては詮方なくて、命ぜられた門番はそのままたち帰って、かの同心に、かくかくで御座った由、報告してその日は終わった。

「――それにしても――いや、このままにしておくわけにては――許されぬ――」

と翌日、かの同心は自ら、かの下総守屋敷の門番の詰所へ至り、是非に是非にと思いを込め、大枚の金子を落といたことや、それを届けて貰(もろ)うたに、どうしても名を乗っては下さらなかったことどもをあらまし説明致いて尋ねてみたものの、

「そのような人に心当たりは御座いませぬ。」

と門番は答えるばかり。これまた、致し方なく帰って御座った。

 ――ところが、それからかれこれ、三月ほど過ぎたある日のこと、かの恩人の侍が、同心の家にひょっこりやって来た。

 同心の夫婦も殊の外喜んで、手厚く礼を述べたところが、かの侍の申すことに、

「――いや、拙者もお礼に参ったので御座る。過日、主家へ二度まで参られ、拙者のことをお尋ねになられたこと、ならびにこの度の一件のあらましを門番にお話になられたこと、このことにつき、門番より主人へ申し立てが御座っての。されば主人からも、その段につき、拙者に何度かのお尋ね、これあって――家中の外の者への模範とせんがためとて、褒美として加増を賜っての――前々よりの四十石の碌へ、その――二十石もの加増が、これ、御座った。故に、お知らせ方々、礼に参ったという次第で御座る。」

 と言ったかと思うと――同心は当然、「お名前を! どうか!」と再び切望致いたので御座ったれど――またしても、名乗ることなく帰っていった、ということで御座る。

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