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2012/05/31

耳嚢 巻之四 不時の異變心得あるべき事

 不時の異變心得あるべき事

 

 寛政七卯年予が懸りにて、野田文藏御代官所武州□郡□村萬太郎といへるもの、村長に疵付ける事に付吟味せしに、萬太郎事亂心といへるにもあらざれ共、癪氣強起りし時は差詰り亂心同樣成事もありける由。親市之丞名主役いたし引負(ひきおひ)有之ゆへ、追々御代官文藏より催促の糺(ただし)ありしに、市之丞儀も差詰りたる人物にや、引負金の儀いか樣にもいたし上納いたし、悴萬太郎を賴候趣、當名主へ壹通の書置を殘し出奔して行衞不知、尤市之丞は右引負己前借金相嵩(あひかさみ)困窮せし故、退役して□□□へ名主役も讓りぬ。右□□儀も市之丞一類の事なれば、償ひの世話も五人組一同世話いたしけるが、萬太郎儀例の差詰り候心底や、市之丞來りて萬太郎家内へ返納方の相談に參りしに、理不盡に寢所より立出小刀を以疵付候事成故、右始末を尋ければ、田畑を差出し質入等の儀をも賴置候上は、名主方にていかやうにも世話をなして可相濟を、等閑(なほざり)にいたし候段心外に存(ぞんじ)、名主を殺其身自害すべきと覺悟せし由申に付、名主へ疵付候事ながら畢竟差詰り候心底よりの儀、名主の疵も數ケ所ながら淺疵にて命にかゝわり候程の事にもあらざれば、助(たすく)る筋もあるべしと留役澤左吉へ申渡委敷(くはしく)吟味いたし、十一月廿四日萬太郎は不及申、長き口書を讀聞(よみきかせ)て、口合(くちあひ)として予も出席いたし家來足輕も相詰、留役も四五人並び居て白洲の躰(てい)も威儀嚴重ならざるとも言難きに、口書半過(なかばすぎ)の比、貫太郎儀落椽(おちえん)にこれある燭臺を逆手に持、踊上りて口書を讀居候左吉へ及越に打懸り、上(うは)ハ椽へうつぶしに成り候故、予も取押へ候心得にはあらざれども、前へ進みて即時萬太郎が背へ登り、押へ居し燭臺を首筋へ懸け押へしに、有合(ありあひ)候留役家來も立懸り候間、足輕に引下ろさせ事淸けるが、左吉額月代(ひたいさかやき)へ懸け餘程の打疵出來て血走りけるゆへ、右の者療治の手當等申付畢ぬ。其節は心附ざりしが跡にて考ぬれば、右騷にて夫切(それぎ)りに成しなば奉行も痕附候抔と跡の評判も如何ゆへ、直(ぢき)に一件の者共の殘り候口書を右白洲におゐて讀聞せ口合せをせしが、是は最初は心附ざりし、扨又奉布は其任も有之事なれば、下役へ差圖すべきは、自身萬太郎へ登りしは輕々敷、怪我にてもいたし候はゞ不相濟事と批判する人もあらんとも思ひしが、又立歸りて考候へば、右一件翌日より巷の評判品々ありしに、右躰(てい)背中へ登り不差押(さしおさへざれ)ば、奉行も迯しなど風説せんは武におゐて無念成べし。能々こそ麁忽(そこつ)にもあれ萬太郎を押けるよと、今更思ひつゞけ侍る。右萬太郎は松平伊豆守殿へ申立、追て死罪に申付、事濟ける。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:連関を感じさせない。本格は武辺実録物。今回は、そうした実録を意識して少し現代裁判物風の訳を心掛けた。更に言うなら、本件は公的なお白洲で発生した不祥事の、事故報告書の体(てい)を成していることにも着目して訳してある。なお、一部に錯誤としか思えない不自然な部分があるが、力技で訳してあるので、ご注意願いたい。

・「寛政七卯年予が懸りにて」当時の根岸は勘定奉行であったが、恐らくは訴訟関連を扱う公事方勘定奉行として、評定所で関八州内江戸府外の訴訟を担当していたものと思われる。

・「野田文藏」野田元清。寛政元(一七八九)年十一月御代官(底本注に拠る)。

・「癪氣強起りし時は差詰り亂心同樣成事もありける」萬太郎なる人物は、単なる癇癪持ち、短気で粗暴な性格であったととるには難しい気がする。この場合の「癪気」とは恐らく、痙攣を伴うヒステリー症状を意味し、直後に記される父親市之丞名にも同様な傾向が見られたとあり(但し、名主役を執務出来る程度には社会性が保持されていたと思われるので彼の方は単なる性格上の個人差の範囲内であったのかも知れないが、多額の借金と義務放棄による失踪という反社会性をみると、やはり異常性格の疑いは拭えない)、後半の意味不明の乱暴狼藉(何らかの関係妄想を動機としたものと私は推測する)を見ても遺伝的な性格異常若しくは萬太郎の脳の病的な器質的変性などが疑われ、少なくとも他虐傾向の強い境界性人格障害の疑いは濃厚である。

・「引負」百姓の納めた年貢を名主が着服して上納しないこと。また、その金銭のこと。(小学館「日本国語大辞典」に拠る)。

・「五人組」幕府が町村に作らせた隣組組織。近隣の五戸を一組として、連帯責任で火災・盗賊・キリシタン宗門といった取り締まりや年貢の確保及び相互扶助義務を負わせた。

・「萬太郎儀例の差詰り候心底や、市之丞來りて萬太郎家内へ返納方の相談に參りしに」失踪したはずの市之丞が再登場していて、意味が通らない。一度は時制を微妙に戻して再登場させて訳してみたが、如何にも不自然で細部の齟齬が多過ぎる。そこで、取り敢えず錯文と見て、疑われるが、「市之丞來りて」の部分を、前の「引負金の儀いか樣にもいたし上納いたし、悴萬太郎を賴候趣、當名主へ壹通の書置を殘し出奔して行衞不知」の頭に移して「市之丞來りて、引負金の儀いか樣にもいたし上納いたし、悴萬太郎を賴候趣、當名主へ壹通の書置を殘し出奔して行衞不知訳した。大方の御批判をお願いしたい。

・「留役」評定所留役。勘定やその下の支配勘定から昇進してきた実務官僚。現在の最高裁判所書記官であるが、本件を見ても分かる通り、評定所での実質的な審理は彼ら留役が中心となって行っていたと思われ、現在の予審判事にも相当しよう。

・「澤左吉」沢実福(さわさねとみ)。「新訂寛政重修諸家譜」に寛政二(一七九〇)年十二月四日支配勘定より評定所留役となるとあり、『時に五十一歳』と割注があるので、本件当時は数え五十六歳(因みに根岸は五十九歳)。今の私と同年である。その後の記載がないから、彼はこの身分で致仕したようだ(この事件が理由かも知れない)――頭部をがっつりやられた日にゃ――私なら、やってらんねえゼ――

・「長き口書」「口書」は被疑者などの供述を記録したもの。供述調書。足軽以下と百姓・町人に限っていい、武士・僧侶・神官などの場合は口上(こうじょう)書きという。私はこの「長き」が上手いと思うのである。「口書」は、そもそもが供述内容の漏れがないようにするため、元来が冗長でくだくだしく長いものである。それを根岸が「長い」とわざわざ言ったのは、本件の、特に被告人萬太郎の供述調書が、度を越して『異例に長かった』ことを意味しているのではないか、と考えるのである。萬太郎はそれでなくても情緒不安定であるから、供述時間も長く、その内容も論理的に纏めにくく、長大になったであろうことは容易に想像出来る。そして問題は萬太郎の、それを凝っとお白洲に座って聞いていなければならない、彼の精神状態にある。供述調書は長かったが、しかし、所謂、論理的な辻褄を合わせるために、実際の供述とは違ってかなり意味内容が改変されていたに違いない(それはもしかすると萬太郎の処罰を軽減するために、よかれと思って澤左吉やその配下の取り調べの役人が行ったものかも知れない)。――自分が言ったことじゃない……そうじゃない……それは誰が言ったことだ!……嘘だ! 違う! お前らは俺を狂人だと思ってるだろ!……こうした萬太郎の心理と、その果てにある行動――私はこの「長き口書」が事件発生の転回点であったと思うのである。

・「口合」口書(供述調書)の確認。

・「落椽」当時の法廷に相当する「お白洲」の建物内の「公事場」の下の二段になった縁側の下側の縁側を言う。以下に、ウィキの「お白洲」から引用する。当時のお白洲は最上段に『町奉行をはじめとする役人が座る「公事場」と呼ばれる座敷が設けられており、対して最下段には「砂利敷」が設置され、その上に敷かれた莚に原告・被告らが座った。もっとも、武士(浪人を除く)や神官・僧侶・御用達町人などの特定の身分の人々は「砂利敷」には座らず』公事場から砂利敷方向に設置された二段に分かれた『座敷の縁側に座った。武士・神官・僧侶は上縁』(二段ある縁側の上側の部分)『に座ることから上者、それ以外は下縁』(二段ある縁側の下側の部分)『に座ったために下者と呼ばれた。一方、役人のうち与力は奉行より少し下がった場所に着座したが、同心は座敷・縁側に上がることは許されず、砂利敷の砂利の上に控えていた』。『お白洲には突棒・刺股・拷問用の石などが置かれた。これらは実際の使用よりも、原告・被告に対する威嚇効果のために用いられたと考えられている。なお、奉行所のお白洲には屋根が架けられるか、屋内の土間に砂利を敷いてお白洲として用いていたことが明らかにされており、時代劇などに見られる屋外の砂利敷のお白洲は史実とは異なる』。『お白洲とは、「砂利敷」に敷かれた砂利の色に由来している。もっとも古い時代には土間がそのまま用いられており、白い砂利敷となったのは時代が下る。白い砂利を敷いたのは、白が裁判の公平さと神聖さを象徴する色であったからと言われている』ともある。根岸が実際に勤務した佐渡奉行所が現在、復元されており、私は今年二〇一二年三月に訪れて、この謂いが正しいことを実見した。

・「上(うは)ハ」の「うは」は底本のルビである。意味が取り難い。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『己(おの)れは』とあり、こちらを採る。

・「松平伊豆守殿」松平信明(まつだいらのぶあきら 宝暦十三(一七六三)年~文化十四(一八一七)年)。三河吉田藩第四代藩主、本件当時は老中首座。寛政の遺老の一人。

・「下役へ差圖すべきは」の「は」は、文法上は係助詞で詠嘆ぐらいにしかとれないが、文脈上は不自然である。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版を見ると、ここは『下役へ指図すべき身分』とある。こちらを採る。

・「右一件翌日より巷の評判品々ありしに」さらりと流して書いているが、恐らくその殆どは根岸の天晴れな行動を褒め讃えたものであったであろうことは想像に難くない。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 不足の事態による異変に際して相応の心得を持っているべき事

 

 寛政七年卯年、公事方勘定奉行であった私の担当で、御代官野田文蔵元清殿御支配の武州某郡某村萬太郎という者に関わる、同村村長に対する傷害事件を審理した。

 被告人萬太郎は、乱心発狂によるものという訳ではないようであったが、癇癪が昂じてくると、遂には一時的に狂人同様となることもある、という報告であった。

 彼の親で名主を勤めていた市之丞は、引負金としか思われない年貢滞納が有意にあったため、御代官野田文蔵殿より、何度か支払方督促に関わる追及や出頭の指示があったが、この市之丞も被告人萬太郎と同様、所謂、一種の常軌を逸して『キレ易い人物』ででもあったものか、本件発生以前、或る日、現名主某のところへふらっとやって来ると、

『引負金の儀 如何なることあろうとも上納致すによって 倅萬太郎儀 宜しく頼み候』

という名主某宛の書き置き一通を残したまま出奔、行方知れずとなった。

 尤も市之丞は、以上の引負金疑惑以前より、その他の多額の借財が嵩んでおり、甚だ困窮していたがために、この時点よりも前に名主を退役し、現名主某にそれを委譲している。

 さて、右現名主某も市之丞の一族であったがため、一族の命運にも掛かかることであれば、名主役を譲られた何某を含む五人組一同で、市之丞名義の借財を中心とした残務処理を行わざるを得なくなった、というのが事件前のあらましである。

 当該傷害事件はその直後に発生した。

 現名主某は、市之丞の後継ぎである萬太郎へ、この借財関連の相談のために再三の呼び出しをしたが――彼は件の癇癪が昂じての、確信犯の拒否であったか――なしの礫であったがため、現名主某が直接、萬太郎の家へ行き、とりあえず萬太郎の家族に、失踪した市之丞の引負金返納義務の説明と、五人組で相談したところの、その現実的な支払方法についての内容を提示する段へと漕ぎつけたのであったが、その直後、萬太郎は奥の寝所から荒々しく飛び出して来たかと思うと、理不尽にも所持していた小刀を持って名主某に切り付け、傷を負わせた。

 後に、その犯行に及んだ際の理由を訊問したところ、萬太郎は、

「……あの時は、五人組の方へ、失踪した父親の田畑(でんぱた)を差し出し、目ぼしい家財の質入れなども依頼しておいた故、この上は彼らが、うまく塩梅して処理してくれるものと考えていた。ところが、奥でそれとなく聴いていると、結局彼らは、いたずらに事態を放置していたばかりで、金銭の調達も代官所への新規申し入れも、何一つしていなかったことが分かった。それは私にとって甚だ心外なこととして感じられ、衝動的に怒りが昂じてきた結果、名主某を殺害し、自分も自害しようと覚悟したものである。……」

と供述している。

本件については、名主への傷害行為が既遂されているとは言え、感情の昂ぶりによる衝動的な行動であり――本人の供述するその動機には、幾分、理解出来るところもない訳ではなく――名主の受傷も複数箇所に及ぶとはいうものの、何れも浅いもので、命に関わる程のものではない――ここは逆に言えば、供述とは異なり、故意としての殺意の認定を躊躇させるものでもある――故に萬太郎の処分については、何らかの形で助けようもあるであろうと判断し、これらの私の見解を実務担当の留役である沢左吉へ申し渡し、詳しく審理することとなった。

 十一月二十四日、被告人万太郎を常規通り、お白洲に出廷させ、長い口書き――今回のそれは私もしびれを切らす程に長いものであった――を萬太郎に読み聞かせる、所謂、供述調書読み上げによる内容確認の儀である口合いであったため、常規通り、私も出席した。いつもと変わらず、私の家来や足軽も詰め、留役も四、五人の者が縁に並び居、公事場から砂利敷に至るお白州の様態も普段と同じで、特に警護警戒・威儀仕様に危機管理上の問題点があったと認め得る要素は全くと言っていい程なかった。にも関わらず、口書き読み上げが半ばを過ぎた頃、万太郎が、落縁に駆け寄り、常規通り設置してあった燭台に手を掛け、それを逆手に持って縁に躍り上がり、口書きを読み上げていた左吉へ打ち懸ったかと思うと、萬太郎は、その脇にどうっとうつ伏せに倒れた。

 私も、こうした場面に於いて、不心得者を直接自身で取り押さえるべき責務を持っていると思っていた訳ではなかったが、実際には咄嗟に、奥座より前へ進み出、即刻、万太郎の背部に登って押さえ、当人が未だに摑んでいた燭台をもぎ取って、それを当人の首筋へ強く押し掛け、身動き出来ないように全身を押さえつけた。――その間、数秒のことと思う。――勿論、居合わせた他の留役らや家来どもも、ほぼ同時に萬太郎におどりかかって押さえつけたので、難なく足軽によって砂利敷へと引き下ろさせて事は済んだのであるが、左吉は額から月代(さかやき)にかけて、かなり酷い打撲傷が認められ、夥しい出血もあったため、右左吉外傷の手当がまず先決と判断し、医師の救急往診を命じ、一旦、休廷として、関係者を下がらせた。

 その際、実は自分では特に意識しなかったことなのであるが――本件決着後、暫くして、落ち着いて考えてみたところでは――私は、この騒ぎの中で、本件審理をこのまま中断して他日へと延期した場合、『さぞかし、奉行も傷を負ったに違いない』などという誤った噂にならぬとも限らぬ――との考えからであったと思われるが、直ちに本件関係者を再度出廷させた上、残っていた口書きを、乱闘のあった――既に血など拭き取り、平時に復させておいたお白州に於いて平常通り、厳粛に読み聞かせ、今度は滞りなく、口合いを終了した。――再度、弁明するが、以上のことは、行動したその時点では、私自身、自覚的に認識していたものではない。

 さても、奉行はその任務に相応しい行動様式もあることであれば、一般的に考えれば、他者に命じて行い得る仕儀は須らく下役へ指図するべき身分ではある。さすれば、私自身が、狼藉を働いた萬太郎の背へと攀じ登ったなどということは、極めて軽率なことであり、万一、怪我などを負ったなどということにでもなったならば、これはただでは済まない――評定所機能の停止に関わる、ゆゆしき事態を惹起するところであった――などと批判する向きもあるであろうと思われたが、……また一方、翻って考えれば、かの一件については――翌日より世間にあっては、有象無象、いろいろな評判が立って御座ったが――あの事態にあって、背中へ攀じ登って押さえつけなかったならば、『――奉行も逃げたとよ――』なんどいう風評が立っては、これ、武士として無念なること、言うまでもない。……いや、確かに度を越した、軽率なる行動であったとは申せ、よくぞ――何ぞの講談の奉行の如く――まんまと、ぐいと萬太郎を押さえたことで御座った、と、今更以って、思い続けておること、頻りで御座る。……
 なお、萬太郎については、松平伊豆守信明(のぶあきら)殿へ本評定所内での乱暴狼藉傷害の件、その私の処置なども漏らさず申し立てて、追って死罪が申し付けられ、一件落着と相い成った。

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