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2012/05/11

耳囊 卷之四 原文・語注・現代語訳 始動 / 耳へ虫の入りし事

 

2年前の2010年11月の「卷之三」完了後、未着手であった「耳嚢」の「卷之四」のテクスト化を始動させる。久々なので冒頭注を附す。

 

 

耳囊 卷之四  根岸鎭衞

 

注記及び現代語訳 copyright 2012 藪野直史

 

[やぶちゃん注:底本は三一書房一九七〇年刊の『日本庶民生活史料集成 第十六巻 奇談・紀聞』の正字正仮名版を用いた。これは東北大学図書館蔵狩野文庫本で巻一~五の、日本芸林叢書本で巻六及び巻八~十の、尊経閣本で巻七の底本としたものである。

 

 以下、底本書誌・作者根岸鎭衞の事蹟及び「耳嚢」の成立過程、更にテクスト化・注記・現代語訳の私の方針と凡例及びポリシー等については「卷之一」冒頭注を参照されたい。

 

 底本の鈴木氏の解題によれば、「耳嚢」の執筆の着手は佐渡奉行在任中の天明五(一七八五)年頃に始まり、没する前年、文化十一(一八一四)年迄の実に三十年以上の長きに亙るが、鈴木氏はそれぞれの巻の日付の明白な記事から(以下、リンクは私の翻刻訳注。但し、現在、「卷之一」から「卷之三」のみ完成)、

 

「卷之一」の下限は天明二(一七八二)年春まで

 

「卷之二」の下限は天明六(一七八六)年まで

 

「卷之三」は前二巻の補完(日付を附した記事がない)

 

(この間に、佐渡奉行から勘定奉行と、公務多忙による長い執筆中断を推定されている)

 

「卷之四」の下限は寛政八(一七九六)年夏まで(寛政七年の記事の方が多い)

 

「卷之五」の下限は寛政九(一七九七)年夏まで(寛政九年の記事が多いことから、前巻に続いて書かれたものと推定されている)

 

「卷之六」の下限は文化元(一八〇四)年七月まで(但し、「卷之三」のように前2巻の補完的性格が強い)

 

「卷之七」の下限は文化三(一八〇六)年夏まで(但し、享保頃まで遡った記事も有り、「卷之六」と同じ補完的性格を持つものと推定されている)

 

「卷之八」の下限は文化五(一八〇八)年夏まで

 

「卷之九」の下限は文化六(一八〇九)年夏まで

 

(ここで九〇〇話になったため鎭衞は擱筆としようと考えたが、「十卷千條」の宿願止みがたく、四~五年の空白期を置いて最終巻「巻之十」が書かれたものと推定されている)

 

「卷之十」の下限は死の前年文化十一(一八一四)年六月まで

 

といった凡その区分を推定されておられる。] 

 

  卷之四 

 

 耳へ虫の入りし事 

 

寬政七年卯六月下旬、池田筑州營中にて語りけるは、夜前甚難儀せし事ありし由。其事をせちに尋ければ、燈のもとに頭を傾け居しに、耳の内へ餘程の虫と覺へ飛入りて、無躰に穴中をかき分つと思ひしが、甚いたみ絕がたく偏身中に成てくるしみける故、親族家童打寄て是を出さんとするに百計なし。兼て長屋へ來れる外科(ぐわいれう)、耳のうちへ虫の入りしを近頃取出せし事を咄しけるを彼家に覺へて、右外科の許へ申遣しける故、五更の此(ころ)彼醫師來りて樣子を見、紙よりの先へ何か膏藥をつけて耳の内へ入、痛む所迄屆きし後暫く有りて引出せしに、膏藥とけて右虫に付て出しを見れば、米つき虫と俗に呼る虫也。彼醫師に即效を賞し尋けるに、別段の藥にもあらず、萬能膏(まんのうかう)の由。一度にて不取出(とりいでざる)事もあれど、耳中の熱にて膏藥潤ひ、右虫を付て引出す由。尤油藥をさし候へ共虫を殺し候故、痛(いたみ)はさるといへども取出すにかたき由語りけると也。 

 

□やぶちゃん注

 

○前項連関:「卷之三」掉尾とは特に連関を感じさせないが、後注で見るように、この直後に主人公の池田筑州は大目付に就任している。さすれば、この飛んで耳に入る夏の虫の珍事は、実は「卷之三」掉尾の「吉兆前証の事」の変形とも取れなくはない。

 

・「寬政七年卯」西暦一七九五年。

 

・「池田筑州」は旗本池田長恵(いけだながしげ/ながよし 延享二(一七四五)年~寛政十二(一八〇〇)年)。通称、修理。官位は従五位下筑後守で、中奥番士・小十人頭・目付を歴任して天明七(一七八七)年に京都町奉行に抜擢(ここで官位を叙任)。寛政元(一七八九)年、江戸南町奉行、寛政七(一七九五)年六月二十八日に大目付に就任している。本件は正に大目付になる直前の出来事である(当時、根岸は勘定奉行)。参照したウィキの「池田長恵」には、『豪胆な性格であり、苛烈、強引な仕置も多く、失態を犯して将軍への拝謁を禁止されたことも幾度かあったが、陰湿さのない単純明快な人物であり、煩瑣な案件にも果敢に踏み込んで大胆な措置を下すため一定以上の人望があったという。老中首座松平定信の側近である水野為長が著した『よしの冊子』によれば長恵は感情豊かでコミカルな人物であったらしく、ミスを犯して落胆しているところを定信に激励されて立ち直ったり、その定信が老中を罷免させられた際は、大声を上げて泣き叫び、鬼の目にも涙とはまさしくこのことだと評判になるなど、一喜一憂する長恵の姿が伝わっている』と長恵の人柄を伝える。その感じを訳で出したいと思う。

 

・「絕がたく」底本には「絕」の右に『(耐え)』とある。

 

・「外科」は「がいれう」(がいりょう)で、外科治療及び外科医の意。

 

・「彼家に覺へて」一九九一年刊の岩波文庫版「耳嚢」では、『耳の中へ虫の入りしを出せし事を近頃咄しけるを彼家士覺へて』とあり、こちらの方が素直に読める。訳ではこれを採った。

 

・「五更」午前三時から午前五時頃(一説に午前四時から午前六時頃)。暁から曙で、この医師も、とんでもない時間に往診を頼まれたものである(但し、旧知の先輩の細君で、昔、蛾が耳に入って半狂乱となり、深夜一時を過ぎていたけれども救急車を呼ばざるを得なかったという実話を私は聞いたことがあり、それはそれは堪え難いものであるらしい)。

 

・「紙より」紙縒(こよ)り。

 

・「米つき虫」鞘翅(コウチュウ)目カブトムシ亜目コメツキムシ上科コメツキムシ科 Elateridae に属する昆虫の総称であるが、和名を「コメツキムシ」とする種は存在しない。「米搗虫」「叩頭虫」と書き、転倒して腹面が上になると頭と胸を仰け反るように下へ曲げて「へ」の字型となった後、急速に頭と胸を逆に起こし、その反動で飛び跳ねて正立する。この際、前胸部の腹面側にある棘状の突起が、中胸部にある窪んだ部分で受け止められるが、その瞬間にかなり有意に認識出来る「パチン」という音がする。和名はその動作と音が米搗きに類似することに由来する。擬死が知られるが、しっかり飛翔もする。本邦には約六百種が棲息する。

 

・「萬能膏」所謂、あらゆる腫物・外傷などに効くとする膏薬。それぞれの地方の医師や売薬業者が同様のものを製造していたものと思われるが、館山市教育委員会生涯学習課のHPには「八束の万能膏」

 

http://enjoy-history.boso.net/book.php?strID_Book=0017&strID_Page=013&strID_Section=02

 

として、『万能膏は何にでも効く万能薬で、とくに農家の人々にはアカギレによく効く膏薬として評判だった。八束村福沢(南房総市富浦町)の川崎林兵衛の先祖は医師であったといい、祖父の時代から膏薬を製造していた。明治になって売薬免許を得るとハマグリの貝殻に入れて販売し、農業が機械化してアカギレがなくなる戦後まで製造販売が続いていた』とある(リンクの通知を要求しているのでアドレス表示とした)。

 

・「油藥」は軟膏の別称であるから、先の「萬能膏」のようなものも含まれるが、ここは現在でも耳に虫が入った場合の救急法として知られる、通常の家庭用食料油若しくは粘度の低い(注入が容易で虫が溺れ易い)液状油薬を注している。因みに、耳鼻科のサイトなどを管見すると、これは外耳道に比して比較的小さな蟻などでは効果が期待出来るが、蛾やこのコメツキムシなどの大きさでは溺死するのに時間がかかり、逆に暴れて外耳や鼓膜を損傷する危険性があると注意を喚起している。

 

・「痛はさる」は「痛みは去る」である。

 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 耳へ虫が入ってしまった事

 

 


 寛政七年卯年六月の下旬のことで御座った。

 

 池田筑州長恵殿が御城内で私に語ったことに、

 

「……いやぁ、昨夜の、甚だ難儀な目に遇(お)うて御座った……」

 

との由、私も興味本位でつい、こと細かに尋ねてみて御座ったところ……

 

 

……うとうとと致いて、燭台近くに頭を傾けておったところへ、飛んで火に入る……どころでは御座らぬ! 灯から耳の中へと

 

――ズッ!――

 

と、余程、大きな虫らしきものが、これ、飛び入って、の!……それがまた、無体なことに、奥へ奥へと、耳の穴を搔き分け搔き分け、ずずいずいずいと、これまた、性懲りもなく、掻き分け入るわい! と思うた……ところが……

 

「!!!――!!!――!!!」

 

……いや! その痛いの痛くないの!……全身、これ、脂汗(あぶらあせまみ)れ、七転八倒、輾転反側、如何ともし難き仕儀と相成って御座ったじゃ!……親族の者やら従僕やらが、これがまた、碌な策も御座らぬくせに浮塵子(うんか)の如く寄って集(たか)って、ああしろ、こうせい、それはあかん! これが宜しくは御座らぬか?……なんどと申してはこれを取り出さんとせしも……あぁ! 最早、万事休す!……

 

……と……

 

……以前から拙者の屋敷の長屋の知れる者のところに、よう参っておった外科医が近頃、「耳の中へ虫の入(い)ったを取り出だいた」と話しておったを幸い、家士が思い出して、機転を利かし、この外科医の元へと急患の使いを出だいて御座った……

 

……五更の頃、かの医師が来て、診察と相成った……

 

……と……

 

……直きに、紙縒りの先に何やらん膏薬をつけ、耳の内へとすうっと差し入れた……

 

……と……

 

……痛うてかなわん、と思うて御座った辺りまで、その紙縒りが、届いた……

 

……と、感じた後(あと)……

 

……暫くあって紙縒りを引き出せば、紙縒りの先に固まってくっ付いて御座った膏薬はすっかり溶けて、かの虫がべったりと張りついたまんまに、出て参った……これを見れば……ほれ、コメツキムシと俗に呼ばはる、あの虫じゃ!……

 

……拙者はもとより、家中の者どもも皆、かの医師の秘薬仁術の即効を賞讃致いて、

 

「貴殿の施薬致いた、その御薬は?」

 

と尋ねたところが、

 

「いや、別段、これといった医薬にては御座らぬ。普通の――万能膏――で御座る。」

 

と、きた。

 

「一度の施術では取り出だせぬことも御座るが――この度はうまく参りました。耳内部の体温によって自然、膏薬がゆっくりと溶け、粘性の高い液体となって耳中全体を潤し、それに虫が附着致いたところで、引き出すので御座る。――尤も、民間療法で知られる如く、耳に粘度の低い油薬(あぶらぐすり)を直接注(さ)しますれば虫は溺れて死にまするが――さて、この方法、虫が暴れることによって生ずる痛みを除去することには有効で御座れど、事後、耳中から当の虫の死骸を首尾よく摘出致すは――これ、難、で御座る。」

 

と、語って御座ったよ……

 

……とのことで御座った。

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