鎌倉攬勝考 卷之一 鎌倉中被定置町屋の名
○鎌倉中被定置町屋の名
[やぶちゃん注:標題は「鎌倉中、定め置かるる町屋の名」と訓読する。町屋は商店街のこと。]
【東鑑】云建長三年十二月三日、鎌倉在々所々町屋及賣買設之事、制禁を加ふべき由有御沙汰、今日彼所々を被定置、此外一向停止せらるべき旨、嚴密に被仰之處也、佐藤太夫判官基政、小野澤左近大夫入道光蓮等奉行す。
大倉辻・小町・大町・米町・和賀江・気和飛板山上
牛を小路に繫ぐべからず、小路を掃除致べき事云云。
其後又文永二年正月五日、小野澤左近大夫入道奉行して、鎌倉中町屋散在せしを止られ、七ケ所に町免所可定旨被仰出。
小町・大町・穀町・魚町・武藏大路下・須地賀江橋・大倉辻
以上七ケ所は治承四年十二月十二日、開巷の路を直くし、村里に號を授け給ひし頃よりの町名にして、左右に軒を双べ市肆繁榮せしも、今は村居となれり。
[やぶちゃん注:鎌倉幕府は、商業活動への社会的認識の未成熟と要塞都市としての軍事的保安理由から、建長三(一二五一)年、第五代執権北条時頼は御府内に於いては指定認可した小町屋だけが営業が出来るという商業地域限定制を採り、大町・小町・米町・亀ヶ谷の辻・和賀江(現在の材木座辺りか)・大倉の辻、気和飛坂(現・仮粧坂)山上以外での商業活動が禁止した。その後、文永二(一二六五)年にも再指定が行われて、認可地は大町・小町・魚町(いおまち)・穀町(米町)・武蔵大路下(仮粧坂若しくは亀ヶ谷坂の下周辺か)・須地賀江橋(現在の筋違橋)・大倉の辻とされている(なお、冒頭部分の「東鑑」には、底本では書名引用を示す括弧がないので補った)。以下、植田が引用している「吾妻鏡」の該当箇所を掲げて、訓読しておく。
まず、建長三(一二五一)年十二月大の、
三日戊午。鎌倉中在々處々。小町屋及賣買設之事。可加制禁之由。日來有其沙汰。今日被置彼所々。此外一向可被停止之旨。嚴密觸之被仰之處也。佐渡大夫判官基政。小野澤左近大夫入道光蓮等奉行之云云。
鎌倉中小町屋之事被定置處々
大町 小町 米町 龜谷辻 和賀江
大倉辻 氣和飛坂山上
不可繫牛於小路事
小路可致掃除事
建長三年十二月三日
○やぶちゃんの書き下し文
三日戊午。鎌倉中の在々處々の小町屋(こまちや)及び賣買の設(まう)けの事、制禁を加うふべきの由、日來其の沙汰有り。今日、彼の所々に置かる。此の外は一向に停止(ちやうじ)せるべきの旨、嚴密に之を觸れ仰せらるるの處なり。
佐渡大夫判官基政・小野澤左近大夫入道光蓮等之を奉行すと云云。
鎌倉中小町屋之事定め置かるる處々。
大町 小町 米町 龜谷(かめがやつ)の辻 和賀江
大倉の辻 氣和飛坂(けわひさか)山上
牛を小路に繋ぐべからざる事。
小路を掃除致すべき事。
建長三年十二月三日
次に文永二(一二六五)年三月大の再指定の記事。
五日甲戌。鎌倉中被止散在町屋等被免九ケ所。又堀上家前大路造屋同被停止之。且可相觸保々之旨。今日。所被仰付于地奉行人等小野澤左近大夫入道也。
町御免所之事
一所 大町 一所 小町 一所 魚町 一所 穀町 一所 武藏大路下
一所 須地賀江橋 一所 大倉辻
○やぶちゃんの書き下し文
五日甲戌。鎌倉中に散在を止めらる町屋等、九ケ所を免(ゆる)さる。又、家前の大路を堀り上げて屋を造ること、同じく之を停止せらる。且つは保々に相ひ觸るべきの旨、今日、所被仰付于地奉行人小野澤左近大夫入道也。
町の御免所の事。
一所 大町 一所 小町 一所 魚町 一所 穀町 一所 武藏大路下
一所 須地賀江橋 一所 大倉辻
「九ケ所」とあるが七ヶ所しかないが、単に「七」の誤字かも知れず、建長三年の「龜谷辻」及び「氣和飛坂山上」をはずした理由も不分明であるから、たまたまこの二箇所を書き損じたものかも知れない。
「治承四年十二月十二日、開巷の路を直くし、村里に號を授け」の部分は、治承四(一一八〇)年十二月小十二日の記事であるが、これは頼朝の新造住居への移徙(わたまし)の儀とそれに付随する鎌倉への御家人の移入居宅の造営を記す最後の、僻村であった鎌倉の大きな変容を語った部分であるから、該当箇所のみを示しておく。
閭巷直路。村里授號。加之家屋並甍。門扉輾軒云々。
○やぶちゃんの書き下し文
閭巷(りよかう)、路を直(すぐ)し、村里に號(な)を授く。之加(しかのみならず)、家屋、甍を並べ、門扉、軒を輾(きし)ると云々。]
小町 若宮小路より東大倉辻の南に續き、夷堂橋迄を小町といふ。《將軍家御所並北條氏邸址》往昔將軍家御所並北條氏の第の在し邊なり。
大町 小町より南に續き、夷堂橋より逆川橋迄をいふ。
[やぶちゃん注:「逆川橋」は「さかさがはばし」と読む。]
穀町[米町同所] 大町の四辻より、西は琵琶橋へ達する横町をいふ。此邊は建曆三年五月六日和田亂の時、足利義氏町の大路にて陣を張とあり。又米町辻、大町の大路にて所々合戦とあるは此邊なり。
[やぶちゃん注:これは「吾妻鏡」の建暦三(一二一三)年五月小二日の和田合戦の記事中に「又於米町辻大町大路等之切處合戰。足利三郎義氏。筑後六郎知尚。波多野中務次郎經朝。潮田三郎實季等乘勝攻凶徒矣。」(又、米町の辻、大町大路等の切處(せつしよ)に於て合戰す。足利三郎義氏、筑後六郎知尚、波多野中務次郎經朝、潮田(うしほだ)三郎實季等、勝つに乘じて凶徒を攻む。)の箇所を言うか。「切處」は戦闘時の要所の謂いであるらしい。]
魚町 今材木座の邊、漁者の住居なれば此邊の事なるべし。
[やぶちゃん注:幕末には既にこの魚町の位置同定は実は困難であったことが、この植田の書き方から分かる。]
武藏大路の下 山の内を行過て圓覺寺總門前より西の方、山の内堺にして、市場臺と巨福谷村の邊をいふ。《町免許の地》古へ町免除の地ゆへ、《市場》爰に賣買の市を立つる所なれば、今に土人市場と唱えしより、或は市場村とも稱すれど、本名は臺村と號す。依て又は市場臺村とも唱へ來れり。
[やぶちゃん注:現在の大船に台の地名として残る。「町免除」とは江戸時代の制度から推測すると、新たな商業地域を指定し、そこへ入植した者には土地を与えて商業住持の義務を与える代わりに、通常の町に課せられた租税・諸役を免除したことを言うか。]
須地賀江橋 大倉の筋違橋の事なり。
[やぶちゃん注:「筋違橋」と書いても「すじかへばし(すじかいばし)」と訓ずる。]
大倉辻 或は塔の辻とも唱へ、大倉と小町の堺の地なり。此邊には將軍家の御所並執權北條氏の館もあり。又武家の第もあり。町屋も入交れり。應永廿二年十月、上杉右衛門佐氏憲入道禪秀が謀坂の時、塔の辻は敵篝を燒て警固しけるとあるも此所なり。
[やぶちゃん注:「應永廿二年」は西暦一四一六年。これは「鎌倉大草紙」に基づき、禪秀挙兵の翌日、十月三日の記事中にある。]