宇野浩二 芥川龍之介 二十三~(4)
宇野の述懐が「河童」に言及される。
今回の部分では宇野浩二が改造社版円本全集「現代日本文学全集」に言及するところで、ふと、宇野の記述内容が正確かどうかを確認したくなったところから、ちょいとオリジナリティのある面白い注を附すことが出来たと感じている。お暇な方は御笑覧あれ。
* * *
さて、「中央公論」の二月号に『玄鶴山房』が出た翌月、「改造」の三月号に『河童』が出たので、私は、少〔すく〕なからず驚いた、というより、かなり驚かされた、それは、『河童』が、芥川としては、珍しく、空前と云ってもよい程、長い物で、百枚をこえる作品であった、からだ、(それから、芥川にあれほど親切に進められながら、私の『軍港行進曲』の後篇が「中央公論」の三月号に間〔ま〕にあわなかったので、ちょいと芥川に出し抜かれたような気もしたからである。)
それで、私はさっそく、その「改造」に出た『河童』を読んでみた。そうして、この時は、どんなものを書いたのであろう、という気もちが可なりあった。ところが、これは、『玄鶴山房』とまったく反対で、これ亦、芥川としては、珍しく、走り書きのような、早口〔はやくち〕で喋〔しゃべ〕っているような、書き方〔かた〕で、しかも、少〔すこ〕しダラシがないところがあるような感じさえした。が、又、これ亦、芥川としては珍しく、云いたい事を喋りまくっているような面白〔おもしろ〕さもあるように見えた。ところが、又、何〔なに〕か、雑〔ざつ〕なところもあって、大へん読みづらかった。そうして、その上〔うえ〕に、出てくる人物が、ことごとく、河童で、その名が、チャック、とか、バッグ、とか、トック、とか、似たような名の河童が、六七人(あるいは、それ以上)もいて、それらの河童たちが、一人〔ひとり〕、一人〔ひとり〕、(あるいは、一匹〔ぴき〕、一匹〔ぴき〕、)調子に乗っている時の芥川でも三舎〔しゃ〕を避ける程の弁説〔べんぜつ〕を、ふりまわすので、いくら念を入れて読んでも、どれが、医者やら、詩人やら、音楽家やら、誰〔だれ〕が誰〔だれ〕やら、読んでいるうちに、こちらの頭〔あたま〕が混乱してしまって、さっぱり分〔わ〕からなくなってしまうような物であった。
[やぶちゃん注:「三舎を避ける」相手を恐れてしりごみすること、また、相手に一目置くことの喩え。「春秋左氏伝」の僖公〔いこう〕二十三年の、三舎(軍隊が三日間で行軍する距離のことで、「一舎」は中国里程の三十里(一里は五四〇メートル)であるから、現在の四十九キロメートル弱に相当)の距離の外に避けるという記載に基づく。]
私の学生時代の友人に、浅井という、文学ずきの、法科の学生があった。(今[昭和二十八年]からざっと四十年〔よんじゅうねん〕ほど前の話である。)或る時、浅井が、『戦争と平和』や『アンナ・カレエニナ』を読む時は、登場人物の系図を表〔ひょう〕に書いて、それを見ながら、読むことにしている、という話をした。
私は、今、『河童』のことを書きながら、この話を、思い出した。
[やぶちゃん注:系図ではないが、私の「河童」の電子テクストに別頁で附した「芥川龍之介「河童」やぶちゃんマニアック注釈」の冒頭には、「登場河童一覧」を附して参考に供してある。向後の部分を読む際の参照にされたい。]
『河童』の載〔の〕っている「改造」が出てから間〔ま〕もなく、或る日、芥川が、そわそわした形〔かたち〕で、やって来て、玄関の三畳〔じょう〕に、すわったまま、例のごとく、いきなり、(しかし、目をしばたたきながら、)「……『軍港行進曲』の後篇、間〔ま〕に合〔あ〕わなかったらしいね、」と云ってから、すぐ、「『河童』、読んでくれたか、」と、聞いた。
「うン、読みかけたが、‥…」
「……あれ、……書きながしだけど、……君には、読んでほしいんだ、……僕は、もう……」
「……そう、……うン、読むよ、……読んで、……読んだら、……」
「……読んでくれよ、……君も、……書けよ、……じゃあ、……大事にしたまえ。……」
「君も、……」
ざっと、こういう問答をして、そうして、芥川は、何〔なに〕か急用でもあるように、そわそわと、あわただしく、帰って行った。
ところが、その時、私は、いろいろな事情で、とうとう、『河童』を、読まなかった、読めなかったのである。
[やぶちゃん注:この芥川龍之介の台詞「……あれ、……書きながしだけど、……君には、読んでほしいんだ、……僕は、もう……」の末尾は、大いに気になる。ただ、所用があって「僕は、もう(すぐにお暇しないといけないんだが)」という謂いなら、いいが……気になる台詞である。]
そこで、これから、又、少し念を入れて読むために、浅井の真似〔まね〕をして、「チャック――医者、バッグ――漁師〔りょうし〕、ゲエル――硝子会社〔ガラスがいしゃ〕の社長、ラップ――学生、……」、と表〔ひょう〕は取らなくてもそれらの名前と職業などを頭〔あたま〕に入れて、読むことにする。
『玄鶴山房』は、先きに述べたように、芥川が、最晩年の作品の中で、一ばん力をそそぎ骨を折った小説であるが、最後㈥のところで、息がつづかなくなった。その事は、芥川も、滝井に宛てた手紙[昭和二年二月二十七日]の中に、「『玄鶴山房』は力作なれども自ら脚力尽くる所廬山を見るの感あり」と書いている。
この事は、真に、芥川には、泣いても泣き切れない程、遺憾であったに違いない、無念であったに違いない、口惜〔くや〕しかったに違いない。
既に生涯の終りに近いことを覚悟していた芥川は、『玄鶴山房』を書き上げると間もなく、すぐ『蜃気楼』を書いた。が、『蜃気楼』は、鵠沼に住んでいた時分の思い出を、そ町思い出に幾らか色をつけた、小品である、出来〔でき〕ばえは悪〔わる〕くはないが、はかない小品である。
されば、その頃の傷心〔しょうしん〕し焦心〔しょうしん〕していた芥川には、『蜃気楼』ぐらいのものを書いただけでは、自分にも、物足〔ものた〕りなかった、満足ができなかった、それ以上に、「世間体〔せけんてい〕」というものが、非常に気になった。それで、大袈裟にいえば、もう一〔ひと〕つ、たとい失敗しても、乾坤一擲の仕事をしてやろう、と、芥川は、思ったにちがいない。
そこで、芥川は、『蜃気楼』を書きながら、それと殆んど一しょに、『河童』に取りかかった。
芥川は、昭和二年二月二日に、斎藤茂吉に宛てた手紙の中に、「唯今『海の秋』[註―改題して『蜃気楼』となったか]と云ふ小品を製造中、同時に又『河童』と云ふグァリヴアの旅行記式のものをも製造中、」と書き、二月七日に、蒲原春夫あての便〔たよ〕りの中に、「僕は多忙中ムヤミに書いてゐる。婦人公論十二枚、改造六十枚、文藝春秋三枚、演劇新潮五枚、我ながら窮すれば通ずと思つてゐる、」と書き、二月十一日に、佐佐木に宛てた手紙の中に、「六十枚位のものをやつと三十枚はかり書いた所だ。『河童』は僕のライネツケフツクス[註―芥川の愛読した、ゲエテの『ライネツケ狐』のこと、ゲエテのは六脚韻の荘重なものである]だ。しかし婦人公論へ書いた十枚ばかりの小品[註―『蜃気楼』]、或は御一読に堪ふるならん、」と書き、二月十一日に、小穴に宛てた手紙の中にも、「『河童』はだんだん長くなる。しかし明日中には脱稿のつもり。その校正を見次第、東京を脱出する、」と書き、更に、三月十六日に、佐佐木に宛てた便りの中に、「河童百六枚脱稿。聊か鬱憤を消した、」と書き、その翌日(つまり、二月二十七日、[やぶちゃん注:底本では「翌日」の右に編集部によるものと思われる『(ママ)』が打たれている。滝井の書簡は宇野の注記通り、「二月二十七日」で「翌日」ではない。雑誌連載時の誤りのまま残されたもののようである。])滝井に宛てた葉書の中にも、「河童は近年にない速力で書いた。蜃気楼は一番自信を持つてゐる、」と書いている。
[やぶちゃん注:蒲原春夫宛の「婦人公論十二枚、改造六十枚、文藝春秋三枚、演劇新潮五枚」は、すぐ後に示されるように『婦人公論十二枚』が三月号掲載の「蜃気楼」、『改造六十枚』が三月号掲載の「河童」の初期段階の枚数(決定稿脱稿は二月十三日頃)、『文藝春秋三枚』が三月号掲載の「軽井沢で」、『演劇新潮五枚』が三月号掲載の「芝居漫談」(リンク先は私の電子テクスト)。
「ライネツケフツクス」“Reineke Fuchs”とはゲーテの小説の題名で、「ライネケ狐」などと訳される。一七九三年に刊行された叙事詩で、奸謀術数の悪玉狐ライネケに封建社会の風刺をこめた寓意文学である。個人のHP「サロン・ド・ソークラテース」の主幹氏による「世界文学渉猟」の中の「ゲーテ」のページに、以下のようにある。『これはゲーテの創作ではなく、古くは十三世紀迄遡ることが出来る寓話である。ゲーテは韻律を改作するに止まり、物語に殆ど手を加へてゐない。数々の危機を弁舌と狡智で切り抜ける狐のライネケ。その手口は常に相手の欲望を引き出し、旨い話にまんまと目を眩ませるもの。欲望の前に理性を失ふ輩を嘲笑する如くライネケはかく語りき。「つねに不満を訴へる心は、多くの物を失ふのが当然。強欲の精神は、ただ不安のうちに生きるのみ、誰にも満足は与へられぬ。」』(アラビア数字を漢数字に変換した)。]
つまり、これらの手紙から想像すると、二月二日から十六日までの間に、芥川は、『河童』と『蜃気楼』のほかに、(ここに引用しなかったが、)四五枚あるいは五六枚の短文を四五篇も、書いている。
[やぶちゃん注:三月一日の公開作品は、先の注で挙げた「蜃気楼」・「河童」・「軽井沢で」・「芝居漫談」の他にも、「註文無きに近し」(『新潮』)と「少時からの愛読者」(『随筆』)があり、計六篇あるが、実はそれ以外に四月以降の雑誌掲載分の脱稿があり、「春の夜は」(二月五日脱稿)、また十六日以降でも「その頃の赤門生活」(二月十七日脱稿)、「女仙」(二月二十五日脱稿)の二作品があるから、芥川龍之介は実に二月一杯で中編「河童」を含む九作をものした勘定になる。]
ところで、先きに引いた『河童』を製造中と書いた手紙を出した、二月二日から、『河童』を脱稿したという報告めいた便〔たよ〕りを書いた、二月十六日までの間〔あいだ〕に、芥川が親〔した〕しい友だちに宛てた書翰の中には、誰に出した便り〔たよ〕の中にも、「年三割と云ふ借金(姉の家の)のことも考へなければならず、」とか、「僕は姉の亭主の債務などの事を小説を書く間に相談してゐる。年三割の金と云ふものは中々莫迦に出来ないものだよ、」とか、「その後姉の家の生活のことや原稿の為〔ため〕にごたごたしてゐる。年三割の金を借りてゐる上〔うへ〕、家は焼けてゐるし、主人はない為〔ため〕、どうにも始末がつかないのだ、」とか、「これから親族会議をすまさなければならん、」とか、「火災保険、生命保険、親族会議、――何〔なに〕や彼〔か〕やゴチヤゴチヤで弱つてゐる。が、それだけに何か書いてゐるのは愉快だ、」とか、つまり、同じような事を、いろいろな云い方で、芥川は、書いている。(この二日から十六日までの間に、芥川は三十通余の手紙や葉書を出している。その中に、一日十通も出しているのもある。)
[やぶちゃん注:義兄西川豊の死後の後始末のための「親族会議」は、当該書簡(小穴隆一宛旧全集書簡番号一五七五)によって二月十五日にあったことが分かる。]
私は、これらの文句は、相手によって少しずつ違っているけれど、普通に云えば、つまり、『愚痴』である、と思った。(『愚痴』とは、いうまでもなく、「つまらぬ不平」とか、「口に出しても、甲斐なき事を歎く」とか、いう程の意味である。)
ところが、よく見ると、「考へなければならず、」とか、「中々莫迦に出来ないものだよ、」とか、「どうにも始末がつかないのだ、」とか、「何〔なに〕や彼〔か〕やゴチヤゴチヤで弱つてゐる、」とか、云っているだけで、決して『弱音〔よわね〕』は吐いていない。
ところで「或る人に聞くと、昭和二年頃の年三割と云えば、非常な高率の利息だそうである。すると、鉄道自殺をした、芥川の姉の夫[註―ずっと前に書いた西川 豊]は、その年三割という高利の借金を残して、あの世に行ってしまった訳〔わけ〕である。そこで、それを、(あるいは、その利息だけでも、)払わなければならぬという事は、当時の芥川にとっては、大変な負担であったに違いない、いや、殆んど不可能に近い事であったに違いない。
これは、今の人には、(いや、大〔たい〕ていの人にも、)想像がつかないほど、(想像ができないほど、)大変な事に違いない。ずっと前に引いたように、この年(つまり、昭和二年)の一月九日から十五日までに、芥川が数人の友だちに出している葉書の中に、みな、「東奔西走」という言葉を使っているが、この事件(つまり、姉の夫の鉄道自殺)のために、芥川は、文字どおり、東奔西走したに違いない、諸方をかけまわったに違いない、必死になって駈〔か〕けずりまわったに違いない。そうして、この『東奔西走』はおそらく、「金策」のためであろう。
ところが、芥川は、この『東奔西走』を、二月になっても、つづけなければならなかったのである。
つまり、病める芥川は、二月には、「東奔西走」しながら、『玄鶴山房』を書き、二月になっても、二月の初めから、『河童』にかかり、『河童』を非常な速力で書きながら、その間〔あいだ〕に、『蜃気楼』を書き、その外〔ほか〕に、三四篇の短文も、書いたのである。しかも、これらの原稿を書いている間にも、芥川は、やほり、「東奔西走」しなければならなかった。
されば、その頃の芥川は、体〔からだ〕で「束奔西走」した上に、その頭〔あたま〕の中も「東奔西走」していたであろう。
つまり、『河童』は、そういう状態の中で、書かれたのだ。『河童』の中に、焼けになっているような所もあり、血迷っているような所もあり、悲歎にくれているようなところもあり、あるいは、「鬱懐を消した」[芥川が、二月十六日に、佐佐木に宛てた手紙の中の文句]ようなところもあり、また、鬱憤を晴らしたようなところもある。(『鬱懐』とは「心のむすばれてあること」とか、「晴れやかならぬ心」とか、いう程の意味であり、『鬱憤』とは、「積もるいきどおり」とか、「晴れぬ忍み」とか、いう程の意味である。)
しかし、結局、芥川は、『河童』によって、鬱懐も、鬱憤も、晴らすとともに、これまで心の中に蟠〔わだかま〕っていた、さまざまの思いを「心で思っていても云えなくて、うずうずしていたのも、「なアに、もうかまうもんか、」という気もちで、一〔ひ〕と思いに、洗い浚〔ざら〕いに、打ち明けたのではないか、ぶちまけたのではないか。
しかし、仮りに、これが、私の臆測したとおりであったとしても、芥川は、やはり、持って生まれた性質で、それらの事を、あからさまに、書けない人であった。(そこに、芥川の、人に、知られぬ、寂しさと悲しさがあったのではないか。)
そこで、芥川は、かねがね特に興味を持っていた、河童を使うことにし、河童の国を舞台にしたのであろう。そうして、猶、云いたい事を、(書きたい事を、)思う存分にしたいために、この話(あるいは、この小説)全体を、河童の国に住んだ、と云う一人の狂人が、話をした、という仕組〔しくみ〕(あるいは、趣向〔しゅこう〕)にしている。そうして、こういうところも、相変らず、用意周到である。しかし、又、「持ったが病〔やまい〕」で、芥川は、『河童』の中でも、やはり、到る処で、見得を切っている。
しかし、又、『河童』の中で、芥川は、出産、産児制限、遺伝、恋愛、結婚、家庭、法律、人口問題、食糧問題、機械工業、芸術、哲学、宗教、人生問題、社会問題、戦争、自殺、その他、さまざまの問題にふれて、批判をしている。もっとも、それらは、大抵、自己流であり、芥川ごのみの逆説であり、衒学的なところもあり、得意の機智を弄しているところもあり、あるいは、久保田万太郎の云うように、「聞くものをして、ときに屢々〔しばしば〕茫然たらしめ」るような、「座談の延長」のようなところもある。
ところで、私は、久保田の『ある年〔とし〕の七月二十四日に』という文章の中に、「田端の家の、毎日曜日に於けるかれ[註―つまり、芥川]の書斎は、終日客の絶え間がないとまでいはれ」る、と書かれてある、日曜日に、芥川をたずねたことは一度もないから、その日曜日の、芥川の、「機智縦横」と云われ、「巧みにも透きのない座談」というのも、やはり、一度も、聞いた事はない。そのかわり、私は、道をあるきながら、あるいは、物をたべながら、その「機智縦横」と称せられる芥川の座談は、しばしば、聞いた、というより、聞かされた。(ところで、『座談』と云っても、二種類あって、その一は「席上のはなし」であり、その二は「その座かぎりの話」である。そうして、私のは、その二の方である。)
芥川は、ずっと前に書いたように、実に行儀のよい人であったが、唯一〔ひと〕つ、食事をしながら話をする時、たべた物を口一ぱい頰〔ほお〕ばりながら、物を云う癖があった。それで、食事をしながら芥川と話をすると、芥川が調子にのって話し出すと、あの少〔すこ〕し大きな口の中に頰ばっている物がすっかり見えた。
ある時、芥川が、その流儀で、頰ばりながら、こんな話をした、「……君、今は、一流の印刷所では、職工君が一〔いち〕いち活字を拾わなくてもすむんだよ、つまり、大抵の活字は、必要な字の書いてある所を指で押すと、……つまり、タイプライタアを打つように、コツコツと、指で打てば、その下〔した〕の方に、自分のこれと思った活字が、コロコロと、出てくるんだよ……だから、君、今〔いま〕に、ある機械の口から、紙と活字を入れれば、その機械の裏の蓋をあけると、ちゃアんと、刷〔す〕りあがったのが、出てくる、という風〔ふう〕になるよ。」
芥川がこんな話を私にしたのは、たしか、大正十二年の春の初めの頃であった。そうして、私が、このような事を書いたのは、『河童』の中で、つぎに引くようなところを、読んだからである。
*
…何でもそこでは一年間に七百万部の本を製造するさうです。が、僕を驚かしたのは本の部数ではありません。それだけの本を製造するのに少しも手数のかからないことです。何しろこの国[つまり、河童の国]では本を造るのに唯機械の漏斗型〔じやうごがた〕の口へ紙とインクと灰色をした粉末とを入れるだけなのですから。それ等の原料は機械の中へはひると、殆ど五分とたたないうちに菊版、四六版、菊半裁版などの無数の本になつて出て来るのです。僕は瀑のやうに流れ落ちるいろいろの本を眺めながら、反〔そ〕り身になつた河童の技師にその灰色の粉末は何と云ふものかと尋ねて見ました。すると技師は黒光りに光つた機械の前に佇〔たたず〕んだまま、つまらなさうにかう返事をしました。
「これですか? これは驢馬の脳髄〔のうずゐ〕ですよ。ええ、一度乾燥させてから、ざつと粉末にしただけのものです。時価は一噸〔とん〕、二三銭ですがね。」
*
これは、上辺〔うわべ〕から見て、簡単芸えば、『円本』を当〔あ〕て擦〔こす〕ったものである。
『円本』とは、大正の終りから昭和の初めにかけて、さまざまの出版社が、ナニナニ全集と称して、一冊一円で売り出したものを略して呼んだ名である。はじめ、大正十五年の末に、改造社が、『現代日本文学全集』というものを一冊一円で売り出したのが元〔もと〕で、その真似をして、『世界文学全集』[新潮社発行]、『明治大正文学全集』[春陽堂発行]、『現代大衆文学全集』[平凡社発行]、『近代劇全集』[第一書房発行]その他、十種以上も、出た。
そうして、その元祖の『現代日本文学全集』は、菊判[今のA5版より少し大形]で六号活字三段組み、というのであるから、一ペイジが四枚[四百字づめ]ちかくであったから、一冊五百ペイジの本は二千枚ちかくはいっている訳である。そうして、その一冊に、その人によって、一人〔ひとり〕だけの作品がおさめられ、二人〔ふたり〕の作品がおさめられ、三人の作品がおさめられる、というような仕組〔しくみ〕になっていた。(例えば、「島崎藤村集」、「山本有三集・倉田百三集」、「伊藤左千夫集・長塚 節集・高浜虚子集」、という風〔ふう〕にである。)
ところが、誰がきめたのか、例えば、武者小路、志賀、谷崎、里見、菊池、その他が一人で一冊であるのに、芥川は、室生と二人で一冊(つまり、「芥川龍之介集・室生犀星集」)となっていた。(これは、新聞の広告にも、「内容見本」にも、出たのである。)
これは、芥川は、(芥川としてみれば、)武者小路や志賀は別としても、里見や菊池が一人〔ひとり〕で一冊であるのに、自分が、室生と、二人で一冊にされたのは、如何〔いか〕にも心外であったにちがいない、殊に、これが発表された大正十五年の末から昭和二年の初めにかけての頃は、芥川が、何とかして立ち直ろう、と、もっとも焦心していた頃であった。しぜん、神経も苛立〔いらだ〕っていた。それで、芥川は、こういう些細な事までが、気になったのであろう。
[やぶちゃん注:当該「新聞の広告」については「東京大学総合研究博物館画像アーカイヴス 日本の新聞広告」で大正十五(一九二六)年十月十八日発行の『東京朝日新聞』分を実見出来た。それによると(この最初期の新聞広告分について言うなら)宇野の謂いとは異なる部分が多々ある。実はこれから述べるように、この内容一覧は実際に刊行されたものとは全刊冊数(ここでは全三十六巻しかないが、実際は倍近い別巻一冊含む全六十三巻が刊行されている)も、その作家の組み合わせも全く異なっている(以下、宇野の記述が結果的に正しい場合を「〇」とし、誤った部分を「×」とし、実際の刊行物を「◎」で示した)。
「例えば、武者小路、志賀、谷崎、里見、菊池、その他が一人で一冊であるのに、芥川は、室生と二人で一冊(つまり、「芥川龍之介集・室生犀星集」)となっていた」とある箇所は、
〇 「第二四篇 志賀直哉集」(実際の刊行では◎第二五篇)
〇 「第二五篇 武者小路實篤集」(◎第二六篇)
〇 「第二三篇 谷崎潤一郎集」(◎第二四篇)
〇 「第三〇篇 菊池寛集」(◎第三一篇)
は正しいが、里見弴は
×→「第二八篇 里見弴集・佐藤春夫集」
でカップリングされており、単独ではない。実際の刊行でも、
◎ 「第二九篇 里見弴集・佐藤春夫集」
で同カップリングである。また、この広告では芥川龍之介は、
×→「第二九篇 芥川龍之介集・久米正雄集」
でカップリング相手が室生ではなく、久米である。因みにこの初期広告には、
×→(室生の名前ナシ)
である。但し、実際の刊行では室生は、
◎「第四四篇 久保田万太郎集・長與善郎集・室生犀星集」
としてカップリング刊行されている。なお実際に刊行されたもので宇野が最初に例として提示しているものでは、
〇 「第一五篇 島崎藤村集」(◎第一六篇)
が新聞広告にあり、後の二例も、実際の刊行本では、
〇 「第三二篇 山本有三集・倉田百三集」
〇 「第四〇篇 伊藤左千夫集・長塚節集・高浜虚子集」
と、同じカップリングで刊行されて存在することから見て、宇野は恐らく改造社の、もっと早い刊行予告か、刊行予告後に暫く経ってからの新聞広告、更には出版後若しくは直前の内容見本等の複数資料(後掲する自分の巻に付帯した広告等を含む)に拠ってこの部分を書いているのではないかと思われる。だから実際の刊行物と奇妙な具合に齟齬(或いは一致)しているのではなかろうか?
さて、肝心の「芥川龍之介集」であるが、実際の刊行では、芥川龍之介は、
◎ 「第二六篇 芥川龍之介集」
と単独となっており、新聞広告でカップリングされていた久米正雄は、
◎ 「第三二篇 近松秋江集・久米正雄集」
のカップリングで所収されている。「芥川龍之介集」は芥川の自死の翌年の昭和三(一九二八)年一月九日の発行であるから、センセーショナルな自殺を受けて急遽、単独配巻となった可能性も否定出来ない。
因みに宇野は何も述べていないが、彼自身はというと、その更に翌年である昭和四(一九二九)年十一月十日発行の、
◎ 「第四八篇 廣津和郎集・葛西善蔵集・宇野浩二集」
で、芥川より遙かに後、遙かに後巻で、尚且つ盟友らととはいえ、三人の合巻の、それも掉尾の配置である。
鑿って考えると、本格小説の本物の小説家である、と自認する『小説の鬼』宇野が、このような配置を受けることは、『如何にも心外であったにちがいな』く、又、彼の巻が刊行された昭和四(一九二九)年、三十八歳だった宇野は精神病の予後に加え、脳貧血を起して重態となり、再度十ヶ月に亙っての入院となった年でもあった。正に『何とかして立ち直ろう、と、もっとも焦心していた頃であった。しぜん、神経も苛立っていた』と言ってよい。そう考えると――この改造社版現代文学全集の、『こういう些細な事までが、気になったの』は――実は芥川龍之介ではなく、宇野浩二自身だったのでは、なかろうか? といったことを考えていると、こんな一見、詰まらなく見える注も、面白くなってくる。]
しかし、『河童』では、このような事は、些細な話で、芥川は、書籍製造会社を取り上げると、つづいて、絵画製造会社、音楽製造会社、というようなものまで持ち出して、大量生産から起こる、職工の解雇や失業や罷業の事などまで書いているが、これこそ、久保田の云う「座談の延長以上に出ない」ような、お『話』であるに過ぎない。
結局、『河童』には、無理なところもあり、調子にのり過ぎたところもあり、得意の諧謔を弄し過ぎたようなところもあるけれど、ここに出てくる幾匹かの河童の中に、私など、読んでいるうちに、ひょいと、その河童が芥川に見えたり、ふと、河童がまくしたてるように喋っている、のが芥川が喋っているように思われたり、その河童の姿が芥川の姿のような気がしたり、して、ほほえましくなったり、もの悲しくなったり、する事があるのである。
つまり、河童の国にただよう、哀傷、憂鬱、苦悩、その他は、芥川の心象であり、さまざまの河童は、一〔ひと〕つ一〔ひと〕つ、芥川の姿である。
*
僕等[註―主人公の人間と河童の学生]はぼんやり佇〔たたず〕んだまま、トツク[註―ひどい神経衰弱にかかり、不眠症になっている詩人]の後〔うし〕ろ姿を見送つてゐました。僕等は――いや、「僕等」ではありません。学生のラップはいつの間にか往来のまん中〔なか〕に脚〔あし〕をひろげ、しつきりない自動車や人通〔ひとどほ〕りを股目金〔まためがね〕に覗〔のぞ〕いてゐるのです。僕はこの河童も発狂したかと思ひ、驚いてラツプを引き起〔おこ〕しました。
「常談〔じやうだん〕ぢやない。何〔なに〕をしてゐる?」
しかしラツプは目をこすりながら、意外にも落ち着〔つ〕いて返事をしました。 「いえ、余り憂鬱ですから、逆〔さかさ〕まに世の中を眺めて見たのです。けれどもやはり同じことですね。」
*
このラップの股目金も、芥川が、僕などと一しょに歩〔ある〕いていたら、やりそうなことである、と、私は、思った。が、ここで、ラップが、「逆まに世の中を眺めて見」る光景は、それを心の目に浮かべて想像すれば、かぎりなく物がなしい光景に見えるではないか。
ところで、おなじ「遺伝」を取りあげても、『河童』では、母親がお産をする時、父親が、まるで、電話でもかけるように母親の生殖器に口をつけ、「お前はこの世界へ生〔うま〕れて来るかどうか、よく考へた上で返事をしろ、」と大きな声で尋〔たず〕ね、「僕は生〔うま〕れたくはありません。第一僕のお父〔とう〕さんの遺伝は精神病だけでも大へんです。その上……」と、返事を、聞くことになっている。
ところが、おなじ「出産」でも、『或阿呆の一生』の中では、
*
彼は襖側〔ふすまぎは〕に佇〔たたず〕んだまま、白い手術着を着た産婆が一人、赤児を洗ふのを見下してゐた。赤児は石鹸〔しやぼん〕の目にしみる度〔たび〕にいぢらしい顰め顔〔がほ〕を繰り返した。のみならず高い声に啼きつづけた。彼は何か鼠の仔に近い赤児の匂〔にほひ〕を感じながら、しみじみかう思はずにはゐられなかつた。
「何の為〔ため〕にこいつも生れて来たのだらう? この裟婆苦の充ち満ちた世界へ。――何の為に又こいつも己〔おれ〕のやうなものを父にする運命を荷〔にな〕つたのだらう?」
しかもそれは彼の妻が最初に出産した男の子だった。 (『出産』)
*
と書いてある。
この二〔ふた〕つの話は、もとより、主題は同じであるが、話の趣きはまったく違う。『河童』は、芥川が、生〔い〕きている間〔あいだ〕に、発表したものであり、『或阿呆の一生』は、死後に、遺稿として、発表するつもりで、書いたものである。
ところで、これで見ると、(この『出産』のことだけ見れば、)生きている間に発表した『河童』は、ずいぶん思い切った事を書いているようであるが、それでも可〔か〕なり手加減〔てかげん〕をして書いてあり、遺稿として発表するつもりであった『或阿呆の一生』は、何の容赦もなく、びしびしと、書いているように思われる。
ところが、この二つの作品全体をよく読んでみると、用意周到に念には念を入れて一字一句を忽〔ゆるがせ〕にしないで書いたらしい『或阿呆の一生』の中には、到る処に、気取りがあり、飾りがあり、絵空事のようなところがあり、不用意に書き流したような『河童』の中に、却って、心を引かれるところがあり、真実味が感じられるところがあり、しみじみしたところがある、というのは、ここに引いた『或阿呆の一生』の中の『出生』の中の、
何の為にこいつも生れて来たのだらう?
この裟婆苦の充ち満ちた世界へ。
何の為に又こいつも己のやうなものを父に……
というところなど、散文詩(というより、まるで、詩)の一節のようにさえ、感じられるからである。
[やぶちゃん注:「『或阿呆の一生』の中の『出生』」の「出生」は「出産」の誤り。]
つまり、やはり、ずっと前に『或阿呆の一生』は(いたく心を引かれるところも随処にあるけれど、)散文詩である、と私が云い切ったのは、こんなところが到る処にあるからである。
さて、『河童』は、なかなか面白いところもあるが、かなり冗漫なところがあり、雑駁なところもある、それから、作者が調子に乗って、時どき饒舌を弄しすぎ、いろいろな風変りな事件を盛〔も〕りすぎたために、読みづらくなり、退屈になったところがある。
それで、『河童』は、発表された当時、殆んど問題にされなかった、もっとも、たまに批評したものもあったが、それらは大〔たい〕てい見当ちがいであった。
それはそれとして、前の月〔つき〕に発表した『玄鶴山房』が、(いくらか自信はあったけれど、)誇大に評価されただけに、『河童』が殆んど黙殺されたのは、その時分の意気銷沈した芥川には、殊に堪えがたく寂しい事であったに違いない、それは、又、たとい幾らか失敗したところがあったとしても、かなり意気ごんで書いた作品でもあっだからだ。
わたくし事であるが、『河童』が「改造」に出てから間〔ま〕もなく、芥川がたずねて来た時、私もその時は『河童』をそれ程すぐれた作品とは思わなかったけれど、前に『玄鶴山房』をあまり暗すぎると貶〔けな〕したことを思い出して、私が、「……『河童』は、君にしては、筆が走り過ぎているところはあるが、あの奇抜な、諷刺と、なにもかも思いきってぶちまけたところが面白〔おもしろ〕いよ、」と云うと、芥川は、私の言葉がおわると殆んど同時に、相好〔そうごう〕をくずして、「そうか、ありがとう、」と云った。(この時の芥川のいかにも嬉しそうであった顔と、「そうか、ありがとう、」と、例の鼻声で、云った言葉は、これを書いている私の頭〔あたま〕に、おのずから、ありありと、浮かんでくるのである。)

