国立劇場文楽公演 八陣守護城 契情倭荘子
昨日、国立劇場文楽公演「八陣守護城(はちじんしゅごのほんじょう)」と「契情倭荘子(けいせいやまとぞうし)」を観た。
前者は国立劇場では実に三十二年振りの上演、更に公演二日目ということもあってか、いろいろ気になるところはあった。前半、人形遣の動きが全体に鈍く、太夫の台詞を誰が喋っているのかが伝わり難かったり、最も大力の力(りき)みの合わせが大事な漁師灘右衛門(実は軍師児島政次=後藤又兵衛)の左手が主遣いとうまく合わなかったり、果てはエンディングの壮大な書割の城壁が傾いでしまい、あわや「落城」しかけたりというトンデモ・ハプニングがあったりもしたが、しかし、いつもながらの玉女の正清(=加藤清正)の重厚にして堅実で禁欲的な遣い、「浪花入江の段」の、『すわ! こりゃ、タイタニックか?』と思わせる大船の大回転――而して何より、前段最後の悪漢北条時政(=徳川家康)の絶対悪の生理的不快感を象徴する哄笑を受けて、毒を盛られたことを知って衝撃を受けながらも、それをぐっと含んで舟唄を所望、船首に立って正清が美事に時政に対峙する絶対善の倍音の哄笑で応ずるのが、作品の大きな情感の額縁となって圧巻であった。また本作(というより本公演のような四段目と八段目のカップリングという上演方法)は、正清の嫡男主計之介(かずえのすけ)と雛絹(ひなぎぬ)の清廉にして悲恋の物語であり、一度としてひしと抱き合うこともなく、愛し合いながら別れわかれとなり、悲嘆に暮れて雛絹は喉を突きながら、正清が掲げた「南無妙法蓮華経」の御旗の下に二人の名が記されているのを見るや、潔く成仏して死出の旅路を辿るという、その悲しくも美しい姿に収斂される。最後の天主閣の正清は、その悲愴な死を予感させながら、不思議に爽やかな大団円を感じさせるのは、実は正清が見上げる登場人物と観客とが一体となって崇めるところの――武神加藤清正=武辺物のデウス・エクス・マキナに他ならないからである――と僕には思えたのである。
美しくエロティックな「契情倭荘子」は、エントロピーが極限値まで跳ね上がる奇体な物狂おしい、そして若い人形遣にしか出来ない不思議なホラー舞踏と映った。何より助国の「源太」の頭が、ここでは妙にぽてぽてしてマジ、キモ可愛いのである。
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