耳嚢 巻之四 怪刀の事
怪刀の事
松平右京亮寺社奉行にて被咄(はなされ)けるは、同人家に三代も箱に入て土藏の棟木(むなぎ)に上げ置刀あり。右(みぎ)右京亮先代の足輕、每夜うなされ甚苦しみける故、仔細もありやと色々療治などせしが、不斷はさしたる事なし。不思議なる事とて枕元の刀を外へ遣し臥せしかば、いさゝかその愁なかりし故、全(まつたく)刀の所爲なるべしと、右刀を枕元に置て臥せば又前の如くうなさるゝ故、其語を申立主人へ差出しけるを、右の通(とほり)藏の棟木へ上げ置由申傳へ、いか成ものにや改見んと思へども、事を好むに似たりとて家賴も押へ留る故、其通打過ぬと語りける也。(其後代替り有て改見しに、大原ノ安綱大同二年トアリ、彼家士海老原文八と語り)
□やぶちゃん注
○前項連関:天狗の魔界から妖しき魔刀へ。
・「松平右京亮」松平輝和(まつだいらてるやす 寛延三(一七五〇)年~寛政十二(一八〇〇)年)。上野国高崎藩第四代藩主。寺社奉行・大坂城代を務めた。松平輝高次男。天明元(一七八一)年、家督を継ぎ、奏者番から天明四(一七八四)年から寺社奉行を兼任。寛政十(一七九八)年、大坂城代となっている。
・「先代」文字通りの先代なら第三代藩主松平輝高であるが、これは自然に読むなら三代前で初代藩主松平輝規(まつだいらてるのり 天和二(一六八二)年~宝暦六(一七五六)年)のことであろう。
・「家賴」底本には右に『(家來)』の傍注を附す。
・「(其後代替り有て改見しに、大原ノ安綱大同二年トアリ、彼家士海老原文八と語り)」底本には右に『(尊本)』と、尊経閣本による補綴を意味する傍注がある。因みに、唯一の全十巻完備本である岩波のカリフォルニア大学バークレー校版には、この( )部分は存在しない。更に底本では最後の『語り』の右に『(ママ)』注記がある。これは内容と記載から見て、遙か後日になっての記載であり、根岸本人による書き込みでない可能性も高いものと思われる。
・「代替り」を次代とするなら第三代藩主松平輝高三男(輝和の弟)で老中ともなった高崎藩第三代藩主松平輝延(安永四(一七七六)年~文政八(一八二五)年)ということになるが、根岸以外の者による記載ならば、その後の代かも知れない。私は根岸以外の者の記載と採って訳した。
・「大原ノ安綱」(生没年未詳)は平安中期の伯耆国大原の刀工。大原安綱とも称した。以下、参照にしたウィキの「安綱」に、『安綱は伯州刀工の始祖といわれる。山城国の三条宗近などとともに、在銘現存作のある刀工としては最初期の人物の一人である。伯耆国の刀工である大原真守(さねもり)は安綱の子とされている』。『作刀年代は、日本の刀が直刀から反りのある日本刀(湾刀)に移行する平安時代中期と推定されている』。『太刀姿は平安時代特有の細身で腰反りが強く、切先に近づくにつれて身幅と反りが小さくなるもので、備前国の古備前派の作刀に似る。地鉄はやや黒ずみ、小板目肌を主体にして流れ肌や大肌が混じり、地刃の働きが顕著なものである。安綱には数代あるものと思われ、代が下がるほどに豪壮な作風となっているとされる』とあって、以下に作品が並ぶが、津山藩(津山松平家)伝来の名物「童子切」(国宝)に始まり、徳川家康佩刀(紀州徳川家重宝)・新田義貞佩刀(号「鬼切」最上家伝来)と錚々たる名品揃いである。
・「大同二年」西暦八〇七年。事実なら、作中内時間なら寛政九(一七九七)年まで九九〇年で、検分された時には一〇〇〇年が有に経過している。松平家伝来とするならまだしも、こりゃ足軽の持った打ち物としては、如何にも嘘くさい。
・「海老原文八」不詳。
■やぶちゃん現代語訳
怪刀の事
寺社奉行であられる松平右京亮輝和(てるやす)殿のお話しになられたこと。
同人御屋敷に三代前より箱に入れて土蔵の棟木の上に載せ上げ置いて御座る刀があると……。
右京亮輝和殿の先代初代藩主輝規殿が親しく使(つこ)うて御座った足軽、毎夜毎夜、寝入ったる途端に魘(うな)され、尋常ならざる苦しみよう故、これは何ぞ重き病いの前兆ならんかと、殿よりの命によりて、いろいろ療治なんどさせ給(たも)うたが――実は、不思議なは――かの足軽、日常、目の覚めておる間は、これ、全く、そうした病いの疑いの片鱗とて御座らぬことであった。――
本人も――そもそもが就寝後のことにて、端の者どもも詐病でなきことは請け負うて御座ったれば――まっこと不思議なことと、ある時、かの足軽、常時帯刀して御座った刀――普段、就寝の折りには枕元に置いて御座ったもの――を、たまたま枕元ではのうて、外へ片づけて横になった――と――周囲の同輩の足軽どもが――気づいた。――
――かの男、全く以って――
――魘されておらぬのである……。
翌日、同輩の一人が本人に告げた。
「……これ、全く以って、かの刀の所為(せい)に違いないぞ!……」
そこで、試みに、次の晩はかの刀を枕元に置いて寝る――夜伽して御座った同輩の前で――またぞろ、かの男は前の如くに魘され始めた。……
以上の訳を、皆して、上方(うえかた)へ申し上げ、主人輝規殿へご報告申し上げた。
その後、輝規殿――代わりの刀と引き換えに、かの刀を足軽より召し上げられた上――かの妖刀を――土蔵の棟木の上へ載せ置かれ――そのままずっと据え置かるるようになった、申し伝えられて御座るそうな。
右京亮殿談――
……一体、如何なる刀かと、拙者も検分致さんとせしが、
「敢えてただならぬ変事の起こるを、殊更に好むに似たり。」
と家来どもも、
「平(ひら)にと。」
押し止めるが故、そのまま、打ち過ぎて未だに、かの打物の影も見たことは御座らぬ。……
[後日、本書を書写せる者の附記]
後日談として、その後、高崎藩主代替わりがあって、当時の藩主が土蔵の棟木より降ろさせて検分したところ、『「大原ノ安綱大同二年」の銘があった』と、私の知人である、かの高崎藩藩士海老原文八なる者が語った、ということを参考資料として、ここに記しておきたい。