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2012/06/14

鎌倉攬勝考卷之二 始動

「鎌倉攬勝考卷之二」の電子テクスト化・注釈作業に入った。先程、始めたばかりで、今日は名古屋から足を引きづって帰ってくる妻を迎えに行かねばならないので、冒頭の少ししか出来なかった。「鶴岡總説」の最初の、「東関紀行」のそれをお示しして作業開始の報告としておく。

現在の同時進行テクストは、
「耳嚢巻之四」
「生物学講話」
「鎌倉攬勝考卷之二」
の三種である。

【東關紀行】〔前河内守親行〕 抑かまくらの始を申さば、故右大將家と聞え給ふは、水の尾の御門(淸和)の九世のまつえふたけき人にうけたり。さりにし淸泉(高倉)のすゑにあたりて、義兵をあげて朝敵をなびかすより、恩賞くはゝりて身をたて家をおこされ、つゐに瀧山の跡をつぎて將軍のめしをえたり。營館をこの所にしめ、佛神をそのみぎりにあがめ奉るよりこのかた、今繁昌の地となれり。中にも鶴岡の若宮は松栢のみどりいよいよしげく、蘋蘩のそなへかくる主なし。陪從をさだめて四季の御かぐらをこたらず。職掌に仰て八月の放生會をゝこなはる。崇神のいつくしみ、本社にかはらずと聞ゆ云云。
[やぶちゃん注:「東関紀行」の鎌倉の段の前半部からの引用(なお、作者源親行説は現在では否定され、作者未詳とする)。先にこの本文の疑義を示す。
「淸泉(高倉)」高倉天皇の陵墓は後清閑寺陵と呼ぶが、清泉と別称したという記載はない。高倉天皇の治世の末は頼朝挙兵を含む「治承」ではある(高倉帝は治承四(一一八〇)年四月二十二日に安徳帝に譲位した)。
「瀧山の跡をつぎて」は「隴山の跡をつぎて」の誤り。隴山は前漢の李広(その出身地からかく呼んでいる。彼は李陵の祖父で匈奴から飛将軍として恐れられた武将であった)が将軍職に就いたことを言う。
「をこたらず」正しくは「おこたらず」。
但し、以上ように誤字・誤植が疑われるので、以下に同箇所を含む日本古典全書版の鎌倉到着から鶴ヶ岡遊覧の部分を、ここに示しておく。

 くれかかるほどに下りつきぬれば、何がしのいりとかやいふ所に、あやしの賤しづが庵をかりてとどまりぬ。前は道にむかひて門なし。行人征馬かうじんせいば、すだれのもとに行きちがひ、うしろは山ちかくして窓に望む。鹿の音、蟲の聲、かきの上にいそがはし。旅店りよてんの都にことなる、さま變りて心すごし。
 かくしつつ、明かしくらすほどに、つれづれも慰むやとて、和賀江わかえの築島つきじま、三浦のみさきなどいふ浦々を行きて見れば、海上の眺望哀れを催して、こしかたに名高く面白き所々にも劣らずおぼゆ。
  さびしさは過ぎこしかたの浦々も
        ひとつながめの沖のつり舟
  玉よする三浦がさきの波間より
        出でたる月の影のさやけさ
 そもそも鎌倉の初めを申せば、故右大將家ときこえ給ふ、水の尾のみかどの九つの世のはつえを猛き人にうけたり。さりにし治承の末に當りて、義兵を擧げて朝敵をなびかすより、恩賞しきりに隴山ろうざんの跡をつぎて、將軍の召しを得たり。營館をこの所に占め、佛神をそのみぎりにあがめ奉るよりこのかた、いま繁昌の地となれり。中にも鶴が岡の若宮は、松柏の緑いよいよしげく、蘋蘩ひんぱんのそなへ缺くることなし。陪從べいじゆうを定めて四季の御神樂怠らず、職掌に仰せて、八月の放生會はうじやうゑを行はる。崇神のいつくしみ、本社に變らずときこゆ。

以下、以上の「東関紀行」に注する。
・「水の尾のみかど」第五十六代清和天皇。御陵が山城国葛野郡水尾村(京都市右京区嵯峨水尾清和の水尾山腹)にあることからの称。
「はつえ」末枝。末葉・子孫に同じ。
・「治承の末に當りて」頼朝の挙兵は治承四(一一八〇)年、翌治承五年七月、養和に改元。なお、頼朝の実際の挙兵は八月十七日であるが、以仁王の平氏追討の令旨を彼が受け取ったのは四月二十七日、正に高倉帝退位の五日後である。
・「蘋蘩のそなへ」「蘋蘩」は浮草の一種で中国で祭祀に用いたことから、神前に供える供物の意。
・「陪從」賀茂・石清水・春日神社の祭りなどで、神前で行われる東遊あずまあそびの舞で、舞人に従って管弦や歌を演奏する地下の楽人。
・「放生會」捕らえた生き物を池や野に放しやる法会。仏教の殺生戒に基づくもので、奈良時代より行われた。八幡宮の祭りに八月十五日に行われ、ここに書かれている通り、石清水八幡宮のそれが最も有名である。]

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