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2012/06/08

耳嚢 巻之四 靈獸も其才不足の事

 靈獸も其才不足の事

 

 武江眞崎(まつさき)に稻荷の靈社ありて、寶曆の頃より參詣群集(ぐんじゆ)をなし、其後明和安永の比は少しく衰へぬれど、好事の遊人は春秋に逍遙の場所とせり。天明の頃右場所にお出狐(いでぎつね)といへる狐あり。是は彼境内の一穴中に濟る。信心の輩彼邊の茶店の婦女によりて菓子或は食物を穴の邊に供してお出お出と呼べば、穴中より狐出て彼食物を食しけるを、品々興じ唱へける事ありしが、其後は右狐いづちへ行けん今は其沙汰もなし。仙臺家の家士齋藤所平と言るは、江戸生れにて仙臺の事は不案内なるが、春の此眞崎稻荷へ參詣し、傍の茶鄽(ちやみせ)によりてお出狐の事を尋しに、今は呼でも不出、定て所をかへしならんといゝければ、所平甚殘り多く、扨々遲く來りしゆへ其樣子を不見事とて委敷(くはしく)尋問ひしに茶みせの女、狐は奇怪の物也、一ト年我等娘十二になりけるが、賤(しづ)の子なれば今に一字を引(ひく)事もならざるが、右に付て唯ならぬ事など申故、不思議と切(せつ)に尋ければ、我等は爰元の狐なれど官位の事にて最早外(ほか)へまかるなり。年月世話にもなりぬれば此娘に付て暇乞をなす也、緣あらば又こそ來るべしとて、一首の歌を其邊に有し扇に書置たりとて右の扇を見せけるに、彼娘無筆なるが相違なきが、扇に書し歌も拙(つたな)からざるとはいひがたけれど、

  月は露露は草葉に宿かりてそれからこれへ宮城のゝ原

 かく認有りしを珍ら敷(しき)に任せて、彼婦人に金子貮百疋(ぴき)與へ、彼麁末(そまつ)成扇を貰ゐ請て、表具などして家中の同志の友集合の節見せけるが、さるにても上の句は面白けれど下の句分らざると咄しければ、右友の内奧州所生の者ありて、右狐は奧より下りしや、是は奧州宮城野にて古き物語有事なるを聞き覺へて、流石は畜類也、歌の月をも全く不覺なるべしといいし故、右古き物語の事を問ひければ、いつの比にやありけん、奧州ある寺に居ける兒(ちご)、和歌を好み詠て宮城のゝ月萩を賞して、ある時月は露露は草葉に宿かりてとよみて、下の句を色々案じけれど心に浮(うか)まず、明暮宮城のに立つくして終(つひ)に病の床にふし身まかりぬ。不便の事とてとり寄て一塊の塚に埋みて吊(とむら)ひしが、夫より宮城のゝ原にて月さやかなる夜あるいはうち曇れる比は、誰ともしれず、月は露露は草葉に宿かりてと詠じては、わつと言て一團の煙火たちぬるよし。師の坊聞て不便の事に思ひて、鐵如意を携て月さやかなる夜宮城の原に至りて、同宿の僧など召連今や今やと待居たりしに、夜も四更の頃かとよ、一團の煙ありて聞に違はず、月は露露は草葉に宿かりてと詠じわつといふ聲せしを、師の坊大聲に、それこそこれよ宮城野の原といゝて鐵如意を投付しに、其後は佛果を得道せしや、宮城野に右の怪も無かりし由。畜類なれば右の下の句を覺(おぼえ)迷ひけるならんといゝし。左も有べきや。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:鶴三羽雷撃死からお狐さまの動物奇談で直連関。鶴の雷撃もあればこそ、狐の人に馴れるのは、餌付けを禁ずるキタキツネを見れば、分かる。岩波版の長谷川氏の注に、津村淙庵(つむらそうあん 元文元(一七三六)年~文化三(一八〇六)年)の「譚海」の『十に同様の話をしるし、雲居禅師と宮千代の事とする』とある。参考までに、「譚海」の該当話を以下に掲げておく(底本は本底本と同じ「日本庶民生活史料集成 第八巻 見聞記」所収のものを用いたが、読みは私が適宜補った)。

 

〇明和の頃、江戸隅田川の北岸、眞崎明神の境内、稲荷の祠のかたはらなる茶店の老媼に、馴たる狐ありて、媼(おうな)よぶときは狐ひとつ明神のかたより出來る。茶店にあつまる客、是に物などあたふれば、狐それを食しをはりて、又ふらふらともとのかたへかへりうせける。人々是を興ある事にいひ傳へて、専ら世の中にもめづらしきことにいひたるに、其後いつとなく此事絶たり。寛政四年の春、萱場丁(かやばちやう)の町人冬木三右衞門と云もの、此茶店にあそびて狐の事を尋ければ、其狐は元來奧州仙臺のものにはべりしかば、此さきのとし故郷へ歸りぬといふ。夫はいかにして慥成(たしかなる)証據にても在事にやと尋ければ、老媼彼狐本國へかへり侍るとき、和歌を一首とゞめて歸り侍りしといふ。こはめづらしきことなり、其歌なにとぞ見たきよし乞ければ、其媼短册を一枚取出て、是にさぶらふとてみす、あやしき手蹟にて、筆のたちどもそこはかとなけれど一首の歌あり、

  月は露つゆは草葉にやどかりてそれからそれを宮城野の萩

三右衞門いとめづらかなる事におぼえ、何とぞ此たんざくもらひ度よし、しひて所望せしかば、老媼もそしなき望にをれてゆるしつ。三右衞門大によろこび、金子などあたへもてかへりて、人にも此事をかたりいで、殊にもて祕藏しおけるに、仙臺の侍醫工藏平介といふ人、或る日三右衞門かたへ來る時、主人本國の物がたりなどのついでに、此事をかたり出たるに、平助もふしぎ成事におぼえて、或時主人の間に侍せしついで、又此事を申上ければ、陸奧守殿ゆかしきことに聞かれ、何とぞそのたんざく見たきよし懇望により、平助又三右衞門をとひて、たんざくを借得て、陸奧守殿へみせまゐらせければ、珍敷(めづらしき)事にぞんぜらるゝ所、側に侍せし用人申けるは、成ほど此狐御領地のものにあるべし、その仔細は元來此うた久しく御國に申傳(まうしつたへ)たる歌にて、人のよく存(ぞんじ)たる事に候へば、さやうに推量いたされ候。但御國にて申傳候とはうたの上下少したがひ候。そのをもむきは、むかし松島の雲居(うんご)禪師の召仕(めしつかへ)る童子に、宮千代と申もの御座候。此童子生質(きしつ)和歌を好み候所、病氣付(やみつき)候内も、日夜うちすてず詠(よみ)候中(うち)に、月は露つゆは草葉にやどりけりと申上(しんじやう)の句を按得(あんじえ)候て、いろいろ考候へども、下の句をなしえず、やがて其まゝに病氣おもり相はて候。その後おのづから宮城野の原へ、化物出(いづ)るよし申いだし、のちのちは此化もの歌を吟じてあるき候よし、雲居禪師がめしつかへる宮千代が幽靈なりと、もつぱら申つたへ候を、禪師聞得て、何にもあれあやしき事とて、一夜禪師宮城野へ行て、幽靈の實否をたゞされけるに、按(あん)のごとく夜ふけて、宮千代形を現じきたり、月下に歌をぎんじさまよひあるき候。禪師よく聞けば、月はつゆ露は草ばにやどりけり、といふ上の句をいくたびも沈吟して行かふさまなり、そのとき雲居禪師聞すまして、とりもあへず、それこそそれよ宮城野のはぎと、下の句をつけられければ、言下に此幽靈形消て見得ず。その後ふたたび宮城野へ、宮千代の靈いづる事なく候、禪師の辭に覺悟して、成佛なし候事と人申つたふる也。それがために祠をたてて、神にまつり候。今に石權現とて宮城野に御座候は、かの宮千代の靈を祭りたる祠に候よし、人みな申侍候事に候。此狐もよく此歌を聞覺え候まゝ、それをやがて書候はんにて候。畜類ゆへおぼえあやまりて、かく書たがへ候か、何にも候へ右申上侯物がたりの、うたをおぼえ居候まゝ、御領内の狐に相違無之候かと、申上けるとぞ。いとめづらしき物語になん。

 

「陸奧守殿」明和の頃の仙台藩は第六代藩主伊達重村(寛保二(一七四二)年~寛政八(一七九六)年)。陸奧守。「雲居禪師」雲居禅師(天正十二(一五八二)年~万治二(一六五九)年)伊予の土佐一條家重臣小浜左京の子。九歳で出家、東福寺内の永明院を経て妙心寺蟠桃院一宙禅師に師事。寛永十三(一六三六)年、仙台二代藩主伊達忠宗の懇請を受けて瑞巖寺九十九世となった。「石權現」現存しないか、名称が変わったものと思われ、不詳。……いや、それにしても――この短冊も扇も――茶店の奥には……同なじものが、これ、ゴマンとあるんだろうなぁ……

 

・「武江眞崎に稻荷の靈社あり」真先(真崎)稲荷。荒川区南千住に現存(但し、場所は異なる)。天文年間(一五三二年~一五五四年)に石浜城主千葉守胤によって祀られたと伝えられる。喜多村節信(ときのぶ)の「喜遊笑覧」によれば、伊豆国君沢郡真崎村(現在の静岡県の伊豆半島の西北部のあった郡であるが、「真崎村」というのは現認出来ない)の稲荷が、官位をとろうと東武まで出ばって来たが、何か因縁でもあったものか、不図、この地に留まってより小社を建て、本国の村名をそのままに真崎の稲荷と唱えるようになった、とあり、また、供物をしてもそれを狐が食べなかった時は願は叶わぬ、といった顎が外れそうになる愚説があるとも記している。もとは隅田川の「橋場の渡し」の北にあって、その門前は景勝地として知られており、奥宮の狐穴から出現する『お出狐』は、対岸にある三囲(みめぐり)稲荷の狐と並んで有名であった。江戸中期より繁昌し始め、宝暦七(一七五七)年頃には、名物となった吉原豆腐を使った田楽を売る甲子(きのえね)屋、川口屋などの茶屋が立ち並び、焼物の狐の像なども売られていた。吉原の遊客もよく当地を訪れ、「田楽で帰るがほんの信者なり」などと当時の川柳に真先稲荷・田楽・吉原を取り合わせた句が詠まれている。大正十五(一九二六)年、東京ガス千住工場建設に伴って石浜神社(これももとは橋場にあって朝日神明宮と言った)に併合されて摂社となり、そちらに移転した。(以上は底本の鈴木氏注及び私の御用達「東京紅團」の「岡本綺堂の東京を歩く 稲荷神社散歩」の「真崎稲荷神社」の教育委員会の紹介文を元にした記載を参照させて頂いた)。

・「寶曆の頃より參詣群集をなし、其後明和安永の比は少しく衰へぬれど」「寶曆」は明和の前、西暦一七五一年から一七六四年で、「明和安永」は西暦一七六四年から一七八一年。次が天明(西暦一七八一年から一七八九年)で、その後に寛政が続く。本執筆時と推定される寛政八(一七九六)年を起点とすると、「天明の頃」は十五年から七年程前の近過去でる。

・「お出狐」底本の鈴木氏注に、「お出で」は「御出」で『御いでなさいの御いで。伏見稲荷の神幸行事を御出というので、この字面を用いるようになったか』と考証され、以下に書誌学者三村竹清翁の注として『十九巻本我衣巻二、安永三年の下に云、真崎神明の境内に、水茶屋の婆々油揚などを持って、おいでおいでと呼ぶ時は、狐出ると、皆人見物に行く』とある、とする。

・「濟る」底本には「濟」の右に『(住)』の傍注。「すめる」と訓じていよう。

・「茶鄽」茶店に同じ。底本で鈴木氏はここに注して、再び三村竹清翁の注を次のように『岡持がかきし、後はむかし物語に云、真崎稲荷はやり出て、田楽茶屋の出来たるは、我二十二三歳、宝暦六七年の頃なるべし、鳳岡先生の会日に、其はなしを初て聞けり、江戸町の名主は先生の門人にて、英男が別て甲子屋と申茶やの田楽はよしと申也など、先生に語りしを聞けり、其後大に繁栄し、青楼の婦人をいざなひて遊ぶ人も多かりき、向島の秋葉は、今信仰薄くなりて淋しけれど、茶やの賑ひは替らず、真崎は神威とともに茶屋も衰へたり、真崎は手前の角、若竹や(後袖すりや)又甲子や、川口屋、玉や、いねや、仙石や、きりや、道を隔てゝ八田屋など、いづれも繁昌なりき。また続飛鳥川に云、真崎稲荷、安永明和頃繁昌、祠の下辺に狐住て、お出お出と呼と出来る、油揚を遣す、大勢見物あつても、恐れず出で来たり、恭按、享和の頃、お出お出という狐出たり』と多量に引用され、最後にこの人気は『招き猫などと通ずる心理もあったろう』と推測されている。

・「宮城のゝ原」宮城野。現在の宮城県仙台市東方にあった広大な原野。ツツジの名所として知られた榴岡(つつじがおか)から東に延びる平野を指す。歌枕で、宮城野の萩として知られた。現在の仙石線の榴ヶ岡駅周辺や隣の宮城野原駅から陸奥国分寺跡のある木ノ下あたりまでが当該地に当たる。

・「貮百疋」一般には一貫=一〇〇疋=一〇〇〇文であるから、二〇〇〇文。平均的金貨換算なら三万三千円ほどになる。これに表装代も含めれば、結構な金額となろう(しかし、これ、このぐらいの値段はしないと、この話は話として面白くない)。齋藤所平なる男、全く以て好き者である。

・「歌の月をも全く不覺なるべし」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『歌の心をも全く覺えざるなるべし』である。両義を採った。

・「兒(ちご)」は底本のルビ。

・「四更」五更の第四。現在の午前一時(或いは二時とも)頃からの二時間程の間を指す。丑の刻や丁夜(ていや)と同時刻。深夜から未明の境界的時間で、霊の出現に相応しい。

・「覺迷ひけるならん」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『覺へ違ひけるならん』である。両義を採った。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 霊獣たらんもその才に足らんこともある事

 

 武江真崎に稲荷の霊社がある。

 宝暦の頃より、参詣の者、群集(ぐんじゅ)をなし、その後、明和・安永の頃になってからは少しく人気も衰えたようであるが、それでも今も、好事の遊び人なんどの春秋の逍遙の場として知れて御座る。

 天明の頃、此処に「お出で狐」という狐が棲んでいた。こ奴は、この真崎稲荷の境内にあった一穴に住みなしており、近くの茶店に訪れた婦女が、菓子やら食い物やらを穴の辺りに供えて、「お出で、お出で」と呼べば、穴中より狐が出で来て、かの供物を食べるということで、稲荷参詣の者どもの間では評判で御座った。――が――その後は、この狐、何処(いづこ)へ行ったものやら――今は、とんと、絶えてなく、そんな噂も聞かずになって御座る。――

 仙台家の家士斉藤所平と申す者――彼は江戸の生まれにて、仙台のことは不案内で御座った――、とある春の一日(いちじつ)、真崎稲荷へ参詣し、傍らの茶店へ寄って、そこの女に『お出で狐』のことにつき、尋ねてみたところが、

「……生憎、今は呼んでも出て来ずなってしまいました。きっと棲み家を移したのと違いますかねぇ……」

との答え故、所平、如何にも残念そうに、

「……さてもさても、今少し遅う御座った故、名にし負うた『お出で狐』を拝めなんだか……」

と呟きつつ、この茶汲み女に、『お出で狐』が姿を隠す前後のことを、詳しく尋ねてみた。するとこの女の曰く、

「……狐って、ほんに不思議なもので御座います。……ある年、うちの娘……当時は十二歳で御座いましたが……こんな賤しい茶屋の娘で御座いますから、今でも一と文字たりとも、これ、字を書くことなんぞは出来ませんのですが……この娘に……かの『お出で狐』がとり憑いて……まあ、ただごとではないこと……これ、口走ります故……不思議に感じ、いろいろと尋ねてみましたところが……

『――我ラハ此処モトニ住メル狐ナレド――官位ノ沙汰御座レバコソ最早――此処ヲ出ヅルコトト相イ成ッタ――永キ年月世話ニモナッタレバコソ――コノ娘ニ憑キテ暇乞イヲセントス――縁アラバコソ又来タランコトモアルベシ――』

と厳かに語ると……一首の歌を……その辺に置いて御座いました扇を取り上げて……さらさらと……書きおいて御座いましたので……」

と言いつつ、その扇を見せた。

 その扇はと見ると――娘の無筆なるは、これ、間違いなく――書かれたその字は、これ、まあ、何というか――『拙くない』とは言い難い――といった代物では御座った――が――それでも判読出来得る程度の文字では――これ、ある――さても、その一首、

 

 月は露露は草葉に宿かりてそれからこれへ宮城のゝ原

 

 と認めて御座った。

 ――所平、物好きなる者にて、珍しきに任せ、その如何にも貧しい女に金子二百疋をも与え、その如何にも粗末なる扇を貰い請け、ご丁寧にも立派な表具なんどまで致いた上――仙台藩御家中の、同志の者どもの集える会にて、お披露目致いた。

「……それにしても……上の句は相応の謂いなれど……下の句は……何じゃら、分からんのぅ……」

とある者が呟いた。すると、友の中に、奥州生まれの者が御座って、

「……この狐は、奥州から下って来たものならんか?……これは……奥州宮城野に伝わる古き昔語りを、この狐が聴き覚えており……とは言うても、流石に畜類のことじゃ……歌のまことの『月の心』の部分……悟入の眼目を……誤って覚えておったということであろうの……」

と語った故、皆してその古き昔語りにつき、彼に訊ねた。――

 

「……何時の頃のことにかありけん……奥州の、とある寺に住まう稚児……大層、和歌を好いて御座ったが……ある時……かの仙台宮城野の月と萩を賞し……

 

 月は露露は草葉に宿かりて

 

と詠んだ。……そうして、その下の句を……これ……いろいろと案じて御座った……御座ったれど……これ、いっかな浮かんで来ず……毎日……毎日……かの宮城野に出でて一日中……野原に立ち尽し……歌を詠み上げぬままに……終(つい)に病いの床に臥して……身罷って御座った。……寺にては、不憫なることとて、亡骸を宮城野に野辺送り致いて……そこに一塊の塚を設けて埋め弔(とむろ)うて御座った。……それからというもの……宮城野の原にては……月の清かなる夜(よ)……或いは……うち曇れる夜には……誰(たれ)とも知れず……

 

 月は露露は草葉に宿かりて……

 

と詠ずる声のあって、すぐ……

 

 ――わっツ!――

 

という悲痛なる叫びとともに……

……一団の鬼火が……

……立った……という……

――さて――この稚児の師の坊は、この噂をお聴きになられ、不憫なることに思われて、一日、鉄の如意を携えると、月の清かなる夜、宮城野の原にお立ちになられた。

 同宿の僧などを召し連れ、今ならんか、今ならんか、と待っておられたところ……夜も四更に至る頃で御座ったか……一団の鬼火が現れ……噂に違わず……

 

 月は露露は草葉に宿かりて……

 

と詠じ……

 

 ――わっツ!――

 

という悲嘆の声がした――が――

――その時――

――師の坊、大喝して

 

「――それこそこれよ宮城野の原!――」

 

と言い放ち、持った鉄の如意を鬼火に投げつけた……

   *

……さても、その後(のち)は――稚児の残れる執心も仏果を得道致いたので御座ろうか――宮城野にてはかの怪異、なくなって御座ったということじゃ。

 畜類なればこそ、この師の悟入一喝の下の句を、獣の哀しさ、迷いのあって、誤って覚えておったので御座ろうか……。」

 

 なるほど――霊力を持ったる獣たらんも、その才にはやはり、獸故に、哀しいかな、足らんことも、これ、あるということ――ででも、あるのであろうか。

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