耳嚢 巻之四 一向宗の信者可笑事
一向宗の信者可笑事
近き比(ころ)東本願寺參向(さんかう)の時、大勢右駕(かご)に隨從して、貴餞門跡(もんぜき)を見るを値遇(ちぐ)と悦びけるが、或日本願寺門跡を拜むとて大勢駕の廻りを取卷ける中に、壹人の老姥(らうば)門跡を拜むとて駕の戸の際(きは)に取付(とりつき)輿(こし)の内へ頭を入けるを、門跡手にて頭を押出し給ふを見て、右の老姥が天窓(あたま)へは門跡の御手をふれられしとて、信者共大勢集りて姥(うば)が頭の毛を引拔、或はむしり取りし故、姥は漸々(やうやう)にその所を遁れしが、大形は髮はむしりきられて思わぬ法躰(ほつたい)をなしけると、其頃一同笑談に及びしとかや。
□やぶちゃん注
○前項連関:寺絡みで軽くは連関。既巻で明らかにしたように、根岸の宗旨は実家(安生家)が曹洞宗、養家の根岸家は浄土宗である。根岸は仏教には総じて比較的冷淡な傾向を持つように私には思われる。ここでも盲信の徒に対してかなり意地の悪い根岸の視線が窺える。
・「一向宗の信者可笑事」は「一向宗の信者笑ふべき事」と読む。
・「近き比東本願寺參向」とあるから、これは(本執筆時を下限の寛政九(一七九七)年とすれば)東本願寺第二十代法主達如(たつにょ 安永九(一七八〇)年~慶応元(一八六五)年)であろうか。彼は寛政四(一七九二)年に第十九代法主であった父乗如の示寂に伴って第二十代法主を継承。弘化三(一八四六)年に次男嚴如(大谷光勝)に法主を委譲するまで実に凡そ五十四年間法主(これは門主・門跡の浄土宗での尊称である)の地位にあった。寛政九年当時で未だ十七歳であった。もし、彼の父第十九代法主乗如(延享元(一七四四)年~寛政四(一七九二)年)とすると、彼の示寂した寛政四年二月以前に遡らなくてはならず、最低でも六年ほどのスパンが空き、「近き比」というのには私は抵抗がある気がする。青年の門跡がグイと婆さんの頭を押し出す方が話柄としては面白い。
・「値遇」縁あってめぐりあうことの意で、仏縁あるものに巡り逢うこと。「ちぐう」と読んでもよい。
・「天窓(あたま)」は底本のルビ。
■やぶちゃん現代語訳
一向宗の信者お笑いの事
近年の出来事で御座る。
東本願寺門跡江戸参向の際、道中にても大勢の信徒が金魚の糞の如く追従致し、貴賤を問わず、一目、門跡がお姿を拝さんが値遇(ちぐ)の冥利と、誰もが大層な喜悦のうちにあるようで御座った。
そんなある日のこと、やはり、本願寺門跡を拝まんとて、大勢、駕籠の周りを取り巻いて御座った中に、一人の老婆が御座った。この者、門跡を拝顔せんものと、あろうことか、駕籠の戸の際(きわ)にしがみ付いて、その隙間より輿の中へ頭をさし入れたのじゃが、当然の如く、門跡、手でもって、かの老婆の頭を外へと押し出しなされた。
――と――
「――この婆(ばば)が頭へは――御門跡様が御手(おんて)をお触れになられたぞ!――」
と、誰かが叫ぶや……信徒どもが大勢……雲霞の如くに老婆の元へと群がって騒然となる……ある者は……婆の頭の毛を力任せに引き抜き……ある者は……摑んで捩じって毟り取る……老婆は這々(ほうほう)の体(てい)にてその場を逃れたものの……大方の髪の毛、これ、毟り切られて……つんつるてんのつるつるてん……思わぬ法体(ほったい)となって御座った、という……その頃、人々の集まっては、頻りに話題となった笑い話で御座ったとか……お跡、基、お後がよろしいようで……。