生物學講話 丘淺次郎 三 生物の初め
三 生物の始め
かやうに生物の個體の起りと種族の起りとに就ては、ある程度まで確な答が出來るが、抑々生物なるものは最初如何にして生じたものであるかとの問に對しては、今日の所、學問上確と見做せる答はない。併し答の出來ぬ所を何とか答へたいのが人間の知的要求であると見えて、今まで種々樣々の想像説が持ち出された。そのなかには初めから相手にするに足らぬと思はれるものもあれば、また比較的に無理の少ない穩當な説と思はれるものもある。地球は始め熱した瓦斯の塊で、次には鎔けた岩の塊となり、その後段々冷却して今日の有樣になつたものであらうとは、天文學上確らしい説であるが、これから考へると、地球の表面には最初から生物があつたわけではなく、地面が冷めて生物の生活に適する狀態になつてから生物が現れたものに違ひない。然らばいつ頃如何なる生物が初めて生じたかと尋ねると、前にいうた通り想像説を以て答へるの外に仕方はない。或人は地球上の生物の先祖は、流星の破片にでも附著して天から降つて來たのであらうと説いたが、これなどは如何にも眞らしからぬのみならず、かりに眞としても流星に著いて居た生物は如何にして生じたかといふ問が更らに起こる故、單に疑問を一段先へ推しやつただけで、實は何の解決をも與へぬ。また或人は、地球の尚熱して温度の高かつた頃は、今日と違つて種々の化學的變化も盛に起つたであらうから、無機物から生物の生ずるのに必要な條件が具はつて居たのであらうと論じて居るが、これは或はそうかも知れぬ。併しながらその條件とは如何なることであつたかは全く分らず、隨つて今日はそのやうな條件が具はつて居ないと斷然いひ切ることも出來ぬ。當今多數の學者は、生物が無機物から生じたのは地球の歷史中のある時期に起つたことで、今日は最早その頃とは地球の狀態も異なつて居るから、無機物から直に生物の生ずる如きことは決してないと考へて居るやうであるが、この説は實際如何ほどの根據を有するものであろうか。
親なくして生物の生ずることは決してないといふ今日の考へは、多くの實驗の結果であつて、その應用に誤りのないところを見ると、恐らく疑いなく確なことであらうが、地球が昔は生物の生活に適せぬ火の塊であつたとすれば、その後いつか一度初めて生物の生じたといふ時があつたに違ひなく、その生物には親はなかつたに相違ない。また今日と雖もどこかで、無生物から漸々生物が出來て居るかも測り難い。なぜといふに最も簡單な生物は最も微細なもので、現に黴菌の類には千倍、二千倍に擴大せねば明に見えぬものもあり、病原の中には微生物であることが餘程確に思はれながら、最高度の顯微鏡を用ゐてもその正體を見出すことの出來ぬものもある。それ故、無機化合物から漸々複雜な分子が組立てられ、終に生物が出來たとしても、これは決して直に形には見えぬであらう。我々が見てこれは明に生物であると考へるものは、已に生物として幾分か進歩したもので、まだこの程度に達せぬ前のものは、あるいはこれを見ることが出來ぬやも知れぬ。されば種々の實驗によつて、生物は決して親なしに生ずるものでないといふことが確になつても、これは已に幾分か進歩した明な生物についての論であつて、出來始まりの生物が無機物から漸々生ずることも、決してないと斷言することは出來ぬ。
前にも述べた通り、生物の個體は必ず親から生じ、生物の種族は長い間に漸々變化して終に今日の姿に達したものとすれば、今日の生物は皆長い歴史の結果である。斯く長い歴史の結果として生じた生物各種と同じものが、今日それだけの歴史を經ずして突然生ずることは到底出來さうに思はれぬが、その歴史の最初の生物に似たものが、今も尚生じつゝある如きことはないかとの問に對しては、否と確答するだけの證據はない。著者の考によれば、無機物から生物になるまでには無數の階段があつて、その間の移り行きは、恰も夜が明けて晝となる如く、決して之より前は無生物之より後は生物と、判然境を定めて區別すべきものではない。地球の表面に初めて生物が出來たといふ時も恐らくかやうな具合で、簡單な化合物から漸々複雜な化合物が生じ、いつとはなしに終に生物と名づくべき程度までに進み來つたのであらう。されば今日と雖も、かやうなことの行はれ得べき條件の具はつてある場合には、無生物から生物の生ずることがあるべき筈で、若しかやうな場合を眞似ることが出來たならば、人爲的に無生物から生物を造ることも出來ぬとは限るまい。新聞か雜誌にときどき出て來る生物の人造といふのは、現今人の知つて居る如き進歩した生物を試驗管内で突然生ぜしめるとのことであるゆえ、これは恐らく無理な註文であらうが、生物の出來始めの程度のものを造るといふことならば、これは決して不可能であるといひ放つことは出來ぬであらう。要するに、生物のなかつたところに新に生物の生ずるのは如何なる場合であるかといふ問に對しては、我等の知識は極めて貧弱であつて、今日の所到底滿足な答は出來ぬ。たゞ實驗によつて、消毒した鑵の内に自然に黴菌の生ずる如きことはないといふことを、確に知り得たのみである。
[やぶちゃん注:丘先生からは評価の低いパンスペルミア説であるが、本説に肯定的な資料をウィキの「生命の起源」から抜粋しておく。まず支持者の中で注目すべきは『DNA二重螺旋で有名なフランシス・クリック』が挙げられよう。また前章注で示した通り、『パンスペルミア説はオパーリンの論じた化学進化よりも時代的に先行している生命の起源に関する仮説の一つであるが、仮説とするには余りにもブラックボックスが多いと考える学者は大勢いた。一見、判らないものは宇宙に由来させよう、という消極的な考えに見えるが、「地球上で無機物から生命は生まれた」ということを否定しているのみで、また化学進化は否定していない』点には着目しておくべきであろう。『この説は化学進化と同様現在でも支持されている学説の一つで本仮説の可能性を示唆出来るデータとして以下の項目が掲げられている。一つは、三十八億年前の地層から『真正細菌らしきものの化石が発見されている。地球誕生から数億年でこのようなあらゆる生理活性、自己複製能力、膜構造らしきものを有する生命体が発生したとは考えにくい。パンスペルミア説では有機物から生命体に至るまでの期間に猶予が持て』るとし、次に、『宇宙から飛来する隕石の中には多くの有機物が含まれており、アミノ酸など生命を構成するものも見られ』、彗星の中の塵にさえ『アミノ酸が存在すること確認されている』点、『地球の原始大気は酸化的なものであり、グリシンなどのアミノ酸が合成されにくい』が、『酸化的な原始大気でも隕石が海に衝突する際の化学反応で、アミノ酸などの有機物が合成できるという発表もある』等、『特に、地球誕生後数億年で生命体が発生したと言う点で、パンスペルミア仮説が支持されることが多い』
と書かれている(但し、この最後の部分には「要出典」が請求されている)。最後に『二〇一一年、日本の海洋研究開発機構で、大腸菌など、五種類の細菌を超遠心機にかけ、超重力下での生物への影響を調べる実験が行われた。その結果、五種とも数千から数万Gの重力の下でも正常に増殖することが確かめられ、中には四〇万三六二七Gもの重力下でも生育した種もあった。地球に落下する隕石の加速度は最大三〇万Gに達すると予測されており、この実験は、パンスペルミア仮説の証明とはならないが、このような環境を生き延びる可能性を示している』と附言されている(最後の引用はアラビア数字を漢数字に直した)。但し、この仮説は丘先生が止めを刺しておられるように、『流星に著いて居た生物は如何にして生じたかといふ問が更らに起こる故、單に疑問を一段先へおしやつただけで、實は何の解決をも與へぬ』という点で、他の生物起源説と並べて等価に評価出来ない弱点があることは事実である。しかし丘先生の言を逆手に取れば、今現在、そうした原初生物の発生に類する現象が認められず、アルケミーよろしく実験をしてみてもそうした片鱗も見いだせないという事実は、寧ろ、パンスペルミア説をどうしてもとっておくべき必要がある、とも言えるであろう。]