生物學講話 丘淺次郎 第一章 生物の生涯 (巻頭言)
生物學講話
理学博士 丘 淺次郎 著
第一章 生物の生涯
[やぶちゃん注:本冒頭にはハンセン病患者に対する、現在では到底、容認出来ない『頽れ果てた手足と眼鼻も分らぬ顏とを看板にして、道行く人の情に縋りながら尚生きんと欲する癩病の躄もある』という表現が現われる。我々は当時の最高学府を出た、博士号を持った学術的権威、真摯なる教育改革者さえも、こうした異常なる偏見と差別を持っていたことを熟知すべきであり、向後も現れるであろう時代的限界に基づく差別表現に対しては、常に批判的視点を忘れずに読み進めて戴くことを切望する。こうした差別表現に対しては、逐次、注記することが望ましい。でなければ、差別であることが認識されずに過ぎ、文字通り差別表現として、読者に悪影響を及ぼすからである。それが面倒なら、そもそも出版やテクスト化をせぬがよいというのが私の考えである。但し、言っておくなら、差別感覚派時秒刻みで変化する。大袈裟に言えば、昨日の普通は今日の差別表記として伏字化せねばならぬこととなる。いや、我々の「表現行為」とは区別化と差別化の行程を経て文字化されるものであってみれば、差別表現を絶滅させることは我々から識字能力を喪失させない限り、無理であるというのも私の持論である。更に私は、過去の差別表現をなかったものとするような「隠す」ための「改善」は、寧ろ、臭いものに蓋式の「改悪」であると考える人間である。また、漠然とした差別注記を巻末に記してお茶を濁す、免罪符とする輩も唾棄すべき存在として敵視する者でもある。従って、世間の出版物で行なわれているような、一括差別注記や文章の勝手な改変は一切しないことをここに表明しておく。その代わり、この部分のような「私が許し難い差別表現」に対しては、敢然と注記を施すことを敢えて言明しておく。謂わばこれは、私の感性の他者の文章への「差別表現」ででもあると言えよう。なお、当該部の「頽れ」は「くずおれ」と読む。「躄」は「ゐざり」と読み、現在は差別用語として用いるべきではない。]
長い浮世に短い命、いつそ太く暮さうと考へる男もあれば、如何に細くともたゞ長く長く生きながらへたいと思ふ老爺もある。戀人と添はれぬ位ならば寧ろ死んだ方がましと、若い身體を汽車に轢かせる娘もあれば、頽れ果てた手足と眼鼻も分らぬ顏とを看板にして、道行く人の情に縋りながら尚生きんと欲する癩病の躄もある。十人十色に相異なる所行はいづれも當人等の相異なつた人生觀に基づくことで、甲の爲すことは乙不思議に思はれ、一方の決心覺悟は他方からは全く馬鹿馬鹿しく見える。著者は嘗てある有名な漢學の老先生が、眼も鈍り、耳も聞こえず、教場へ出て前列の生徒にさへ講義が分らぬほどに耄碌しながら、他人に長壽の祕法を尋ねられて、自分は毎晩床についてから手と足と腹と腿とを百遍づゝ靜かに撫でると、得意げに答へて居るのを側から聞いて、問ふ者をも、答へる者をも愍然に思はざるをえなかつたが、これもやはり人生觀の相異なつた故であらう。かやうに人々によつて人生觀の著しく異なるのは、素より先祖からの遺傳により、當人の性質にもより、過去の經歷にもより、現在の境遇にもよることであらうが、その人の有する知識の如何も大に與つて力あることは疑がない。而して、その知識といふ中にも、生物學上の知識の有る無しは人生觀の上に頗る著しい影響を及ぼすものであることは、著者の固く信ずる所である。
[やぶちゃん注:「愍然に」は「びんぜん」と読み、憐れむべきさまを言う。
「與つて」「あづかつて(あずかって)」。]
抑々生物學とは動物學と植物學との總稱であるから、生物學講話といふ表題を見て、讀者は或は學校で用ゐる教科書を敷衍した如きものかと思はれるかも知れぬが、本書は決して、さやうな性質のものではない。本書は寧ろ生物學の範圍内から専ら人生觀に相觸れると考へられる事項を選み出し、之を通俗的に述べて生物學を修めぬ一般の讀者の參考に供するのが目的である。それ故これと關係の稍々少ない方面は全く省略しておいた。例えばこの種類の蟲の翅には斑點が一つよりないが、かの種類の蟲の翅には斑點が二つあると述べる如き記載的の分類學、こゝの山にはこのやうな獸が居る、あそこの海にはあのやうな魚が居るといふ如き生物の地理分布學、甲の動物の筋肉繊維には横紋があるが、乙の動物の筋肉繊維には横紋がないと論ずる如き比較組織學等は、一切略して述べない。されば本書は決して生物學の總べての方面を平等に殘りなく講述するものではないことを、先づ最初に斷つて置かねばならぬ。
さて、人間も一種の生物であるから、生物學を修めた者から見ると人間の生活中に現れる各種の作業は、皆それぞれ生物界に之に類似すること、または之と匹敵することが必ずある。人間が産まれ死ぬ如くに他の生物も産まれて死ぬ。人間が戀する如くに他の生物も戀する。人間に苦と樂とがある如くに他の生物にも苦と樂とがある。人間社會に戰爭や同盟がある通りに生物界に戰爭や同盟がある。而して人生を觀るに當つてこれ等と比較して考へるのと、人間だけを別に離して他と比較せずに考へるのとでは、結論の大に異なるべきは言を待たぬ。芝居で同じ役者が同じ役を務めても、背景が違へば見物人の感じも大に異なるのと同じ理窟で、人生を觀るに當つても、何を背景とするかによつて、結論も著しく異なるを免れぬ。本書に於て今より説かうとする所は、即ち斯かる背景として役に立つべき事項を生物學の中から選み出して列べたものである。願はくば讀者は本書の内容を背景と見立てて、人間なるものを舞臺の上に連れ來つて日々の狂言を演ぜしめ、自分は棧敷から眺めて居る心持になつて虛心平氣に人生を評價することを試みられたい。遊興の場、愁歎の場、仇討の幕、情死の幕などが、それぞれ適當な生物學的の背景の前で演ぜられるときは、見物人に如何に異なった感じを與へるであろうか。若し斯くすることによつて幾分かなりとも、人生の眞意義をよく解したる如き感じが讀者に起つたならば、著者は本書を著した目的が達せられたこととして誠に滿足に思ふ次第である。