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2012/06/15

鎌倉攬勝考卷之二 始動(続)

《八幡宮鎭座由來》其往昔鎭座なし奉れることを繹るに、後冷泉院の御宇天喜年中に、奧の夷賊安倍賴時が王命に叛きしに仍て、源賴義に勅して凶徒賴時幷其子貞任等を征伐せしめ給ふ時下向せられ、八幡宮え丹祈の旨趣有て、年を經て夷賊悉く討滅し給ふことは、偏に宿願の冥助なりとて、凱旋の砌康平六年秋八月、潜に石淸水の大神を勸請し、瑞籬を當國由比の濵に建給ひ、地の名を鶴岳と稱せり。〔由比濱の舊跡あり、其神殿は今のしたの若宮これなり。〕
[やぶちゃん注:「繹るに」は「たづぬるに」と訓ずる。
「後冷泉院の御宇天喜年中に、……」前九年の役の始まりは複雑怪奇で、ここで簡単に述べることは出来難いが、前半の状況としては、十一世紀の中頃に安倍賴良よりよし=「安倍賴時」(?~天喜五(一〇五七)年)が朝廷への貢租を怠ったことから、永承六(一〇五一)年に陸奥守藤原登任なりとうが懲罰を試み、両者の間に戦闘が勃発(鬼切部おにきりべの戦い)、安倍氏が圧勝、敗れた登任は更迭される。そこで朝廷は同年、河内国(現在の大阪府羽曳野市)を本拠地とする河内源氏二代目源頼義を陸奥守に任じて赴任させ再攻略を計るが、その翌永承七(一〇五二)年に後冷泉天皇(在位は寛徳二(一〇四五)年から治暦四(一〇六八)年で、彼は在位のまま崩御しているから、彼は生存中は「冷泉院」ではなかった。これは彼への死後の追号である)の祖母上東門院(藤原道長娘中宮彰子)の病気快癒祈願の大赦が行われ、安倍氏は恩赦の対象となって、天喜元(一〇五三)年には安倍頼時は鎮守府将軍となっている(この前、頼良は陸奥に赴任した頼義を饗応、頼義と名が同音であることを遠慮して自ら名を頼時と改めて、一種の休戦状態が形成された)。ところが、頼義の陸奥守としての任期が終わる天喜四(一〇五六)年二月に阿久利川事件と呼ばれる謎の事件が発生(詳しくは私が参考にしたウィキの「前九年の役」の、当該項を参照されたい)、これが実質的な後半の戦闘の始まりとなった。頼義の人格的な弱さや戦略戦術上の拙さ、頼時戦死の後を引き継いだ嫡子安倍貞任(寛仁三(一〇一九)年?~康平五(一〇六二)年)の善戦によって戦闘は長引いたが、康平五(一〇六二)年、九月十七日に安倍氏の拠点である厨川柵(現在の岩手県盛岡市天昌寺町)・嫗戸柵(盛岡市安倍館町)が陥落。貞任は深手を負って捕虜となって亡くなり、ここに前九年の役は終息した。
「下向せられ、八幡宮え丹祈の旨趣有て」「丹祈」は、誠心を込めた祈り。これは、「下向」の際に、京都の石清水八幡宮の八幡神に戦勝と加護を祈ったことを言う。但し、一説には河内源氏氏神の壺井八幡宮とも言う。
「康平六年秋八月、潜に石淸水の大神を勸請し」西暦一〇六三年。前九年の役の終結の翌年(頼義による騒乱鎮定上奏は康平五年十二月十七日になされている)で、鎮定後の帰洛の途中ということになる。「潜に」は前の「丹祈の旨」を受けると考えてよいから、頼義はこの時、東国での地盤確保を企図して、「潜に」(朝廷の許可を得ずに)勧請したことが分かる。
「瑞籬を當國由比の濵に建給ひ、地の名を鶴岳と稱せり。〔由比濱の舊跡あり、其神殿は今のしたの若宮これなり。〕」「瑞籬」は「みづがき(みずがき)」と読み、神霊の宿る山・森・木などや神社の周囲に巡らした垣根。割注部分について初心者のために述べておくと、「由比濱の舊跡」がその最初の祭祀場所で、現在の材木座にある「元八幡」=「由比の若宮」を指す。これを頼朝が現在の鶴岡八幡宮の下宮の位置に遷座、「鶴岡若宮」と称した。その後、建久二(一一九一)年の鎌倉大火による全焼後、新たに石清水八幡宮を勧請して鶴岡八幡宮を創建した際、今の本宮(上宮)が主祭殿として配され、この時、「鶴岡若宮」がその「下宮」として再建されたたが、最初に遷座された後も、元の「由比の若宮」での社壇祭祀が続いたために、それが「下の若宮」とも呼ばれたことから、現在の下宮の「下の宮」「若宮」と類似した呼称が生じたと考えられる。即ち、
由比ヶ浜の八幡宮原型「元八幡」=「由比の若宮」「下の若宮」
その遷座した現在の鶴岡八幡宮下宮=「鶴岡若宮」「若宮」「下の宮」
という呼称の区別があると私は考えている。]

其後永保元年二月、源義家朝臣陸奧守に任じ、彼國下向の時修理を加え給ふ。
[やぶちゃん注:「永保元年」は西暦一〇八二年。当時、源の頼義嫡男八幡太郎「源義家」(長暦三(一〇三九)年~嘉承元(一一〇六)年)は当時白河帝の近侍(義家の陸奥守兼鎮守府将軍就任は永保三(一〇八三)年で、これは「新編鎌倉志卷之一」の記載と同様の、というより、あちらは呼称であるから許せるとしても、こちらは致命的な誤りを犯していると言える)であったが、この年、清原氏の内紛に介入して後三年の役が始まっている。但しこの合戦には朝廷の追討官符が出されておらず、少なくとも当時の朝廷にあっては私戦と認識されていた。従って寛治元(一〇八七)年十一月の戦勝報告後も恩賞はなく、翌寛治二年正月には陸奥守を罷免されてさえいる。その結果として義家は戦闘に参加した東国武士団の恩賞に私財を分け与え、それが東国に於ける絶大なる八幡太郎神話を形成するに至るのである。]

然るに治承四年十月十二日、右大將家祖宗を崇んが爲に、小林の郷の北山に宮廟を構え、鶴か岳の宮を遷し奉らる。伊豆權現の別當專光坊をして暫く別當坊とせられ、大庭平太影能奉行す。されどもいまだ華構の飾に及ず、松の柱、萱の軒を營給ふ。是より先に右大將家潔齋し給ひ、當社の御在所を遷座し奉らんと祈願せられしかど、神慮はかりがたく、仍て否を神鑒に任せんとて、寶前にて鬮をとらしめ給ふの後、此所に遷座治定せられ禮奠を行はるゝと云云。
[やぶちゃん注:ここは「吾妻鏡」の治承四(一一八〇)年十月十二日に条に拠る。以下にその全文を示す。筆者植田孟縉は、実はこれ以前の部分もこの記載に基づいて記していることが判明するからである。
〇原文
十二日辛卯。快晴。寅尅。爲崇祖宗。點小林郷之北山。搆宮廟。被奉遷鶴岡宮於此所。以專光房暫爲別當職。令景義執行宮寺事。武衛此間潔齋給。當宮御在所。本新兩所用捨。賢慮猶危給之間。任神鑒。於寳前自令取探鬮給。治定當砌訖。然而未及花搆之餝。先作茅茨之營。本社者。後冷泉院御宇。伊豫守源朝臣賴義奉 勅定。征伐安倍貞任之時。有丹祈之旨。康平六年秋八月。潛勸請石淸水。建瑞籬於當國由比郷。〔今號之下若宮。〕永保元年二月。陸奥守同朝臣義家加修復。今又奉遷小林郷。致蘋蘩禮奠云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
十二日辛卯。快晴。寅の尅、祖宗を祟めんが爲に、小林郷の北山を點じ、宮廟を搆へ、鶴岡宮を此の所に遷し奉らる。專光坊を以て暫く別當職と爲し、景義、宮寺の事を執行せしむ。武衛、此の間、潔齋し給ふ。當宮の御在所、本新兩所の用捨、賢慮猶危ぶみ給ふの間、神鑒しんかんに任せ、寳前に於て自づからくじを取り探らしめ給ひて、當砌りに治定ちぢやうし訖んぬ。然而しかれども、未だ花搆のかざりに及ばず、先づ茅茨ばうしの營をす。本社は、後冷泉院の御宇、伊豫守源朝臣賴義、 勅定を奉りて、安倍貞任を征伐するの時、丹祈の旨有りて、康平六年秋八月、潛かに石淸水を勸請し、瑞籬を當國由比郷〔今之を下若宮と號す。〕に建つる。永保元年二月陸奥守、同朝臣義家修復を加ふ。今、又、小林郷に遷し奉り、蘋蘩ひんぴん禮奠れいてん致すと云々。
・「治承四年」西暦一一八〇年。
・「專光坊」専光房良暹(りょうせん 生没年不詳)伊豆国走湯山伊豆山権現住僧。頼朝の伊豆配流時代からの師である。
・「景義」は大庭景義(?~承元四(一二一〇)年?)。本文のように「景能」とも表記した。桓武平氏で相模国高座郡南部(現在の茅ヶ崎市・藤沢市)にあった大庭御厨(鎌倉時代末期には十三郷が有する相模国最大の伊勢神宮領)を領した。鎌倉権五郎景正を祖とし、保元の乱では弟大庭景親(石橋山合戦では平氏方として頼朝軍を大破、後に処刑)とともに義朝に従い、鎮西八郎為朝と戦い、治承四年の頼朝挙兵の当初から参加して功があった年来の御家人で、曽我の仇討ちの後、頼朝弟範頼に謀反の嫌疑がかけられ、古くからの範頼配下でもあった大庭景義は出家・謹慎を命ぜられたが、後に許されて、建久六(一一九五)年の東大寺再建供養の際には頼朝の隨兵を許されるなど、幕府草創期の長老として厚く遇された。
・「神鑒」神託。
・「華構」華やかで立派な建物の造り。
・「茅茨の營み」屋根をチガヤとイバラで葺いた質素な家屋の建造を言う。元は、聖帝堯は宮殿の屋根を葺いた茅や茨の端を切り揃えず、丸太のままの垂木を削らなかったとする「韓非子」の「五蠹ごと」の「茅茨不翦、采椽不」)茅茨剪きらず、采椽さいてん削らず)という質素な住居や倹約の譬の故事に基づく。]

或はいふ、賴義朝臣夷賊征伐の勅を奉じて下向の時、丹祈をこらしめ給ふ事は、往昔桓武天皇の延暦年中、奧の東夷叛きしかば、坂上田村麿に征夷將軍を賜ひ下向し、東夷悉く討平げ給ふ。是則八幡大神の加護に因てなりとて、奧州膽澤に八幡宮を勸請し、彼卿の弓箭幷鞭等を寶前に納給ふといふ。其先蹤に擬し給ひ、心中に此事を丹所せられ、果して賊平らぎしゆへ、此所に石淸水を勸請せられし事なり。されば文治五年九月、右大將家泰衡征伐の時、奧州膽澤郡鎭守府に至り、奉幣八幡宮瑞籬〔號第二の神殿〕田村丸將軍東夷を征せられし時、此所に勸請し給ひし神廟也。
[やぶちゃん注:この部分は「吾妻鏡」の文治五(一一八九)年九月二十一日の条に基づく。
〇原文
廿一日戊寅。於伊澤郡鎭守府。令奉幣八幡宮〔號第二殿。〕瑞籬給云々。是田村麿將軍爲征東夷下向時。所奉勸請崇敬之靈廟也。彼卿所帶弓箭幷鞭等納置之。于今在寳藏云々。仍殊欽仰給。於向後者。神事悉以爲御願。可令執行給之由被仰云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
廿一日戊寅。伊澤郡鎭守府に於て、八幡宮〔第二の殿と號す。〕瑞籬を奉幣せしめ給ふと云々。是れ、田村麿將軍東夷を征せんが爲に下向の時、勸請崇敬し奉る所の靈廟なり。彼の卿、帶る所の弓箭幷びに鞭等、之を納め置き、今に寳藏に在りと云々。仍て殊に欽仰し給ふ。向後に於ては、神事悉く以つて御願と爲し、執行せしめ給ふべきの由、仰せらると云々。
・「伊澤郡」岩手県南西部に位置する胆沢郡。
・「鎮守府」坂上田村麻呂(天平宝字二(七五八)年~弘仁二(八一一)年)は、延暦二十一(八〇二)年、阿弖流為あてるいの激しい抵抗を抑えて盛岡市以南を朝廷直轄支配地に組み入れ、胆沢城を築いた。それとともに多賀城にあった鎮守府はこの胆沢城に移された。この胆沢鎮守府は胆沢郡以北・岩手郡以南の奥六郡といわれた地域を管轄した。
・「八幡宮」現在の岩手県奥州市水沢区黒石町字小島にある石手堰いわてい神社。現在、通称は黒石神社。
・「第二の殿と號す」は「二宮と呼ぶ」の意。社伝によると「陸奥二宮」として「二宮明神」とも呼ばれた由、「玄松子の記録」の「石手堰神社」の頁にある。
・「彼の卿」。正三位大納言兼右近衛大将兵部卿であった坂上田村麻呂を指す。]

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