耳嚢 巻之四 蠻國人奇術の事
蠻國人奇術の事
長崎奉行を勤し人の用役を勤ける福井が、主人の供して崎陽に赴しに、母の煩(わずらは)しきと聞て頻りに江戸の事を思ひつゞけ、少し病氣にて鬱々と暮しけるが、是も又病氣故にや誠に朝夕の食事も不進(すすまず)忘然(ばうぜん)と暮けるを、主人も大に憐みて品々療養を加へしに、或人の言へるは、右樣の病氣は紅毛(おらんだ)人に見せれば療治の奇法あるべしと言ひし故、紅毛屋敷へ至り通辭を以しかじかの事を語りければ、かぴたん則(すなはち)醫師へ申付け、何か判斷の上、療治の仕方ありとて盤へ水を汲(くみ)て、此内へ頭を入(いれ)給へと言ひし故、其差圖に任せければ、襟を押へて暫(しばらく)水中へ押入置(おしいれおき)、眼を開き給へと通辭して申しける故眼を開きければ、凡そ六七間も隔て我母帷子樣(かたびらやう)の物を縫居(ぬひゐ)たるやう成に顯然たり。其時水中より顏を引上げて何か藥など與へけるゆへ用之けるに程なく右病氣癒へてその頃交代にも至り、無滯(とどこほりなく)江戸へ着しに、彼母語りけるは、偖(さて)も一年餘の在勤母子の恩愛戀しき事限りなかりしが、或日帷子を縫ひて其方(そなた)へ與へんとて針を取(とり)思ひつゞけしに、窓より隣なる小笠原氏の境の塀を風與(ふと)見しに、右塀の上に御身の姿歴然と顯れ、暫し顏を見合しは夢にもあらず、若(もし)長崎にて替る事もありしやと案じけるうちにも、我胸の迷ひよりと又かへり思ひし事ありしと語りける故、彼長崎にて紅毛人の療治を受し事を思ひ出で、其日限時刻等を尋しに符節を合けると也。全(まつたく)幻術の類ひなるべし。紅毛は耶蘇(やそ)の宗門を今以(もつて)專ら行ふ由聞しが、かゝる類にも有べしと語りぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:特に連関を感じさせない。超心理学でいう超感覚的知覚(ESP:Extrasensory Perception)の一種である精神遠隔感応(mental
telepathy)、所謂、テレパシーを問題とした都市伝説であるが、母子の情愛を介するところで、嫌みがなく、私は好きな話である。術式自体は過心居士クラスの妖しげなもので、一種の催眠術のような感じはするものの、暗示は言語上の障壁が邪魔して無理があるし、何らかの麻薬による幻覚作用にしては丸薬は事後に飲ましているのが不審(水盤の水の中に何らかの薬物が溶かし込まれていた可能性もあるし、実際には母を見たという記憶は術後に投与された麻薬による記憶の錯誤の可能性も疑うことは出来る)なお、訳中のドクトル(医師)の台詞は、通辞の訳したものであるから、普通の日本語でよいのだろうが、どうもそれでは南蛮妖術の雰囲気が出ず、面白くない。さて、誰の何を真似たかは――ご想像にお任せしよう――
・「長崎奉行」寛政九(一七九七)年以前で直近の長崎奉行なら新しい順に松平貴強(たかます 一七九七年~一七九九年)・中川忠英(一七九五年~一七九七年)・高尾信福(のぶとみ 一七九三年~一七九五年)・平賀貞愛(さだえ 一七九二年~一七九七年)・永井直廉(一七八九年~一七九二年)で、恐らくモデルはこの辺りの誰かであろう。この頃の長崎奉行は定員二名で、一年交代で江戸と長崎に詰め、毎年八月から九月頃に交替をした(以上は主にウィキの「長崎奉行」に拠った)。
・「紅毛(おらんだ)」は底本のルビ。
・「かぴたん」カピタン(甲比丹・甲必丹・加比旦などと漢字表記もした)は元はポルトガル語で「仲間の長」という意味。日本は当初、ポルトガルと南蛮貿易を行ったため、商館長をポルトガル語の“Capitão”(カピタン)と呼んだ。その後、南蛮貿易の主流はポルトガルからオランダに変わったが、この呼称維持された)は変わらなかった。先の長崎奉行の候補と合わせて考えると、このモデルとなった長崎商館長(カピタン)は第一四六代ヘイスベルト・ヘンミー(Gijsbert Hemmij 一七九二年~一七九八年)か第一四五代ペトルス・セオドルス・キャッセ(Petrus Theodorus Chassé 一七九〇年~一七九二年)となる(以上は日本語版及び英語版ウィキの「カピタン」に拠った)。
・「紅毛屋敷」長崎出島にあったオランダ商館。オランダ東インド会社の日本に於ける出先機関。慶長十四(一六〇九)年に平戸に設置され、寛永十八(一六四一)年に長崎出島へ移転した。出島に滞在するオランダ人は商館長(カピタン)・次席(ヘトル)・荷倉役・筆者・外科医(ドクトル)・台所役・大工・鍛冶など九人から十三人程度で、長崎奉行の管轄下に置かれた。長崎町年寄配下の出島乙名と呼ばれる選ばれた町人がオランダ人と直接交渉した。乙名は島内に居住し、オランダ人の監視、輸出品の荷揚げ・積出し・代金決済・出島の出入り・オランダ人の日用品購買の監督を行った。乙名の下には組頭・筆者・小使など四十人の日本人下役がおり、更に通詞は一四〇人以上いた。出島商館への出入りは一般には禁止されていたが、長崎奉行所役人・長崎町年寄・オランダ通詞・出島乙名とその配下の組頭などは公用の場合に限り、出入りを許された(以上はウィキの「オランダ商館」に拠った)。
・「六七間」約十一メートルから十二メートル強。この距離感がかえって自然なパースペクティヴを生み、リアルな印象を与えると言える。
・「我母帷子樣の物を縫居たるやう成に顯然たり」底本には、後半部の「居たるやう成に顯然」の右に『(尊本「居たり、誠に顯然」)』とある。「帷子」生絹や麻布で仕立てた、夏に着る裏を附けていない単衣(ひとえ)の着物。
■やぶちゃん現代語訳
蛮国人の奇術の事
長崎奉行の用役を勤めた福井が、主人の供をして崎陽に赴任致いて御座った折り、彼の母が患いついた、という知らせを長崎で聞き、頻りに江戸のことを気に懸けるうち、福井自身も何とのう、病みついた感じで鬱々と日を暮らして御座ったが、そのうちに、とうとう朝夕の食事も喉を通らずなって、病み呆け、呆然として、見るからに尋常でない様態と相い成って御座った。
主人の長崎奉行もこれを憐れみ、種々の療治を試みてはみたものの、芳しくない。
そんな折りに、ある出島の関係者が言うに、
「……こうした病気は紅毛人に見せれば、何か、療治の奇法も御座るのでありますまいか……」
とのこと故、長崎奉行の職権にて、福井を同道の上、紅毛屋敷を訪れ、通辞を通してかくかくしかじかの事情を話したところ、カピタンが部下のドクトルを呼び出だいて、何やらん相談を致いた上で、カピタンは、
「……治療ニヨロシキ法ガアリマス。……」
と、言うたかと思うと、ドクトルはやおら、室内に大きな水盤を持ち込ませ、そこに水を汲んで、
「……ココノ内ヘ頭ヲオ入レナサイ。……」
と言う故、その通りにする。
ドクトルは福井の襟の辺りを上からそっと押さえ、暫く水中に福井の顔を押さえて御座った。
「……福井サン、福井サン、目ヲオ開ケナサイ。……」
と通訳を通して言われたので、福井は目を開けた――
――と――
『……およそ水を通して……六、七間も隔ったて御座いましたか……私の母が……帷子(かたびら)様のものを……縫っておるのが……まっこと……はっきり見えたので御座います。』《福井本人による後日談》
……見えた……と思うた……その途端……福井はドクトルによって水中より顔を引き上げられた上、何やらん丸薬なんどを与えられて、商館を後にした。
その後、その丸薬を服用したところが、ほどなく病いも癒え、丁度、奉行交代の時期をも迎え、滞りのう、江戸へ帰着致いた。
母も幸いにして病い癒え、健在であったは何よりであった。
その福井の母が語る。――
「……さても一年余の長崎御在勤、御苦労にて御座いました。母子の恩愛故、御身がこと、案じられてなりませなんだが……実はある日のこと、帷子を縫いつつ、これを、愛しい御身に送らんと、針を運びつつ、御身のことのみ、思い続けて御座いましたところ……窓より、隣の小笠原様御屋敷との境の塀を、ふと、見ましたところが……その、塀の上に……御身の姿が……これ、はつきりと現われ……しばしの間、互いに顔を見合わせたこと、これ、決して夢にては御座りませなんだ。……もしや……長崎にて変わったことでもあったのではあるまいか、とも案じましたが……いいえと、また、これも、心の迷いかと思いかえしたり……まっこと、さような不思議がありました……。」
とのこと故、福井、かの長崎にて紅毛人に療治を受けたを思い出だいて、母がその不思議を見たと申す日時を尋ねたところが――完全に一致致いて御座った――というのである。――
福井が語る。――
「……全く以って幻術の類なので御座いましょう。紅毛は耶蘇の宗門の魔術を、今以って専らに行のうておる由と聞いておりますが……そのような類いの妖術・奇術ででも、あったのでしょうか……」