耳嚢 巻之四 松平康福寛大の事
松平康福寛大の事
老職勤給ひし康福は可笑しき人也しが、一年類燒にて下屋敷燒失ありしに、飼置し鶴を其懸りの家來持除(もちのき)けるが、いかゞせしや雌鶴を一つ退落(のきおと)して燒死せしゆへ、右掛りの役人大に恐れ入て、不調法の由にて重役へ申立差扣(さしひかへ)を伺ければ、康福打笑ひて、右鶴は千年目なるべしとて更に咎めなかりし由。愛鶴を不惜役人を不咎(とがめざる)の寛大、いさゝか學才の德と人の語りけるなり。
□やぶちゃん注
○前項連関:一種の落とし話として連関。
・「松平康福」(享保四(一七一九)年~寛政元(一七八九)年)は石見浜田藩藩主から下総古河藩藩主・三河岡崎藩藩主を経、再度、石見浜田藩藩主となっている。幕府老中及び老中首座。官位は周防守、侍従。幕府では奏者番・寺社奉行・大坂城代を歴任、老中に抜擢された。記載通り、天明元年の老中首座松平輝高が在任のまま死去、その後を受けて老中首座となった。天明六(一七八六)年の田沼意次失脚は松平定信と対立、寛政の改革に最後まで抵抗したが、天明八(一七八八)年に免職された(ウィキの「松平康福」に拠る)。「卷之一」の「松平康福公狂歌の事」に既出。あちらでも如何にも滑稽ないい味を出している。
・「退落して」底本には右側に『(尊本「取落」)』と傍注する。
■やぶちゃん現代語訳
松平康福殿寛大の事
老中首座をお勤めになられた松平康福殿はまことに面白いお方で御座った。
ある年、類焼を被られて御自身の下屋敷が焼失致いたことが御座ったが、その折り、邸内に飼っておられた複数の鶴を、その飼育係の家来が退避させて御座ったが、如何致したものか、康福殿御寵愛の雌の鶴を、一羽だけ捕り損のうて、焼死させてしまった。かの係りの役の武士は大いに恐れ入って、己(おの)が不調法によるものなればとて、重役へ申告致いた上、自ら謹慎の処分を、と伺いを立てた。
すると康福殿はうち笑って、
「――何の、あの鶴はの――丁度、寿命の千年目であったに、違いないわ。」
と、更にお咎めも、これ、御座らんなんだ由。
御寵愛の鶴を惜しまず、係の役をも咎めぬ、その寛大さは、まっこと、真の学才の仁徳じゃと、人々の讃えたことにて御座る。