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2012/06/12

耳嚢 巻之四 聖孫其のしるしある事

耳嚢 巻之四 聖孫其のしるしある事

 

 當時も孔子々孫は連綿として諸侯たる由。淸朝の乾隆帝巡狩(じゆんしゆ)の時孔子の庿(びやう)に詣で、名は忘れたり、孔子の裔孫何某を見給ふに、其容貌進退の樣子、年若なれども温順にして至て其位を得たりしかば、帝も流石聖孫成(なる)を甚(はなはだ)賞歎して聟(むこ)にせんとありしを、孔孫甚だ恐れ入て、勅に違(たが)ふは如何なれ共、幾重にも免(ゆる)し給はるべしと厚く乞願(こひねがひ)けるに、其譯を尋ねられけるに、淸朝は夷狄の孫也、聖孫として夷狄と緑を組(くま)んは先祖孔丘への恐れ有りと答へけるを、乾隆帝聞給ひて、尤の事也、流石に聖人の裔たる事をと感じて、中華世家の女を媒酌して婦人とし給ひし由。帝の惇直成(じゆんちよくなる)を却て稱(しやう)たんせしと、近頃渡りし書にて見しと望月氏なる儒生の語りけるを記ぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特に連関を感じさせない。中国物は「耳嚢」の中では珍しい。

・「乾隆帝」(一七一一年~一七九九年)は清の第六代皇帝(在位:一七三五年~一七九六年)。台湾やビルマ・ヴェトナムなどへ遠征に総て勝利し清国最大の版図を実現して清朝の最盛期を実現したが、同時に上皇になった後は賄賂政治がはびこり、白蓮教徒の乱などが多発して、清朝没落の開始期ともなった。本件執筆時と思われる寛政八(一七九六)年、その二月九日に乾隆帝は退位している。

・「巡狩」古代中国で天子の諸国巡視を言う語。「巡守」とも書く。

・「孔子庿」孔子の生地とされる魯の昌平郷陬邑(すうゆう:現在の山東省曲阜。)に孔子の死後一年目(紀元前四七八年)に魯の哀公によって孔子旧宅を廟にしたのがルーツとされ、現在、孔廟と呼ばれて儒教の総本山として厚く信奉されている。

・「孔子の裔孫」ウィキの「子孫」及び「系譜」の項によれば、孔子の子孫で著名な人物には子思(孔子の孫)、孔安国(十一世孫)、孔融(二十世孫)などがおり、孔子の子孫と称する者は、実は予想外に非常に多く、直系でなければ現在四〇〇万人を超すと言われている。本話でも感じられる通り、永い間、その子孫にも厚遇が与えられた経緯があり、『前漢の皇帝の中でも特に儒教に傾倒した元帝が、子孫に当たる孔覇に「褒成君」という称号を与えた。また、次の成帝の時、匡衡と梅福の建言により、宋の君主の末裔を押しのけ、孔子の子孫である孔何斉が殷王の末裔を礼遇する地位である「殷紹嘉侯」に封じられた。続いて平帝も孔均を「褒成侯」として厚遇した。その後、時代を下って宋の皇帝仁宗は一〇五五年、第四十六代孔宗願に「衍聖公」という称号を授与した。以後「衍聖公」の名は清朝まで変わることなく受け継がれた。しかも「衍聖公」の待遇は次第に良くなり、それまで三品官であったのを明代には一品官に格上げされた。これは名目的とはいえ、官僚機構の首位となったことを意味する』、とあって、更に『孔子後裔に対する厚遇とは、単に称号にとどまるものではない。たとえば「褒成君」孔覇は食邑八百戸を与えられ、「褒成侯」孔均も二千戸を下賜されている。食邑とは、簡単に言えば知行所にあたり、この財政基盤によって孔子の祭祀を絶やすことなく子孫が行うことができるようにするために与えられたのである。儒教の国教化はこのように孔子の子孫に手厚い保護を与え、繁栄を約束したといえる』とする。なお、近代の直系であった『孔徳成は中華人民共和国の成立に伴い、一九四九年に台湾へ移住している』。『孔子の子孫一族に伝承する家系図は「孔子世家譜」である。孔子以降、現在に至るまで八十三代の系譜を収めたこの家系図はギネス・ワールド・レコーズに「世界一長い家系図」として認定されて』おり、最新の「孔子世家譜」には初めて中国国外や女性の子孫も収録され、総数『二百万人以上の収録がなされた』とある(引用中の総てのアラビア数字を漢数字に代えた)。――正直言うと――何だか気持ちが悪い。

・「婦人」底本では右に『(夫人)』と傍注する。

・「夷狄」漢民族の時代の中国の周辺地域に存在した異民族の蔑称。一般に「東夷北狄南蛮西戎」呼ぶ。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 聖孫には相応の節のある事

 

 現在に至るまで、中国の孔子の子孫は、連綿として諸侯の地位にあるとの由。

 先般、譲位された清朝の乾隆帝は、その巡察の折りに、孔子廟に詣でて――名を失念致いたが――孔子の裔孫何某なる人物にお逢いになられたところ、その容貌や挙止動作、年若であるにも拘わらず、殊の外に優れて、その人柄も温順にして至って仁徳を持ったる人物で御座ったれば、帝も、

「流石、聖孫である。」

と甚だ賞賛なされた上、

「ぜひ我が娘の婿にせん。」

とのお言葉が御座った。

 ところが、かの孔孫は、甚だ恐れ入りながらも、

「勅命に違(たが)うは畏れ多きことながら――何卒、それだけはお許し下さいまし。」

と丁寧に固辞致いたれば、帝は、その訳をお問いになられた。

 すると彼は、

「――お畏れながら――清朝は、これ――漢民族ならざる夷狄の子孫にて御座います。聖孫として――お畏れながら――夷狄と縁を結んでは、これ、漢人たる先祖孔丘へ申し訳が立ち申さぬので御座いまする。」

と――まっこと、畏れ多くも――言い放ったという。

 しかし、それをお聞きになられた乾隆帝は、

「――それは尤もなること。いや、流石に聖人の末裔じゃ!」

と感ぜられて、帝自ら、中華漢民族の名家の娘を媒酌して、かの聖孫の夫人とさせなさったとの由。

 これは却って、乾隆帝の、その純粋にして正しき御心なればこそ、と人皆、賞嘆致いた、と最近中国から渡ってきた書物に書かれていたのを見た、と望月氏という儒学生が語って御座ったのを記しおく。

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