耳嚢 卷之四 靑砥左衞門加增を斷りし事
靑砥左衞門加增を斷りし事
靑砥左衞門へ其此の鎌倉執權より、夢に左衞門精忠を以て加增あるべしと神示ある故加增給るべきとありしを、左衞門强て斷(ことわり)に及びければ、いかなれば加增褒賞有べき事を、斷るとは愚昧且非禮ならんとありしに、左衞門答ていへるは、武邊其外手柄ありての加增ならば難有(ありがた)かるべし、夢の告を以加增を給はる事にあらば、靑砥左衞門を首刎(はぬ)べしとの夢の告あらば首刎給ふべきやと、終に請(うけ)ず有しと。面白き議論也。
□やぶちゃん注
○前項連関:特に感じさせない。定番の武辺物で、いい話ではある。
・「靑砥左衞門」多くのエピソードで知られる青砥藤綱(生没年不詳)。鎌倉後期の武士とされるが、実在は疑わしい(モデルとなった人物の存在可能性はある)。参照したウィキの「青砥藤綱」には、本記載と同ソースと思われる以下のような記載がある。
《引用開始》
北条時頼が鶴岡八幡宮に参拝した日の夜、夢に神告があり、藤綱を召して左衛門尉を授け、引付衆とした。『弘長記』では評定衆に任じた、ともある。藤綱はその抜擢を怪しんで理由を問い、「夢によって人を用いるというのならば、夢によって人を斬ることもあり得る。功なくして賞を受けるのは国賊と同じである」と任命を辞し、時頼はその賢明な返答に感じるところがあったという。
《引用終了》
因みに、この時、藤綱は二十八歳であったとする。最も人口に膾炙するのは、以下の逸話で(アラビア数字を漢数字に変えた)、
《引用開始》
かつて夜に滑川を通って銭十文を落とし、従者に命じて銭五十文で松明を買って探させたことがあった。「十文を探すのに五十文を使うのでは、収支償わないのではないか」と、ある人に嘲られたところ、藤綱は応えて「十文は少ないがこれを失えば天下の貨幣を永久に失うことになる。五十文は自分にとっては損になるが、他人を益するであろう。合わせて六十文の利は大であるとは言えまいか」と。
次代執権の北条時宗にも仕え、数十の所領があり家財に富んでいたが、きわめて質素に暮らし倹約を旨とした。他人に施すことを好み、入る俸給はすべて生活に困窮している人々に与えた。藤綱がその職にあるときには役人は行いを慎み、風俗は大いに改まったという。なお、『太平記』では藤綱を北条時宗及び次代執権の北条貞時の時の人としている。
《引用終了》
更に言っておくなら、『江戸時代には公正な裁判を行い権力者の不正から民衆を守る「さばき役」として文学や歌舞伎などの芸術作品にしばしば登場した。同様の性格を持つものとしては大岡政談が挙げられるが、江戸幕府の奉行・大名であった大岡忠相を登場させることには政治的な問題が生じやすかったため、歴史上の人物であった藤綱を代わりに主人公とした』ケースが多く見られ、藤綱は江戸時代の武辺物の定番的ヒーローであったことを忘れてはならない。なお、彼については、私の「新編鎌倉志 卷之六」の「固瀨村」の項に詳細なオリジナル注を施してある。参照されたい。
・「鎌倉執權」「弘長記」によるならば北条時頼、「太平記」にも同様の記載があり、そこでは北条時宗とする。こうした類話がごろごろある事自体、鎌倉の青砥橋で著名な青砥藤綱であるが、実は一種の理想的武士の思念的産物であり、複数の部分的モデルは存在したとしても実在はしなかったと私は考えている。
■やぶちゃん現代語訳
青砥左衛門藤綱が御加増を断わった事
青砥左衛門藤綱へ、その当時の鎌倉執権より、
「夢に『左衛門はよく勤めておる故に加増あるべし』との神託が御座ったによって加増して遣わさんと思う。」
と御下知が御座ったが――
――左衛門は、あくまでこれを断って御座った。
「加増・褒美を賜るとあられるを、断るとは愚昧じゃ――いや、何より非礼であろう。」
との執権のお言葉に、左衛門、答えて曰く、
「――武道その外の手柄あっての御加増ならば、これ、有り難くお受け致すが、これ、定法ならん。――なれど――夢の告げなんどを以て御加増賜わるということになれば――『青砥左衛門を斬首と処せ』――という告げが御座ったれば――御主(おんあるじ)殿――同様に――拙者が首を――お切りなさる、おつもりか?」
と、答え、遂に請けあわなかったということである。
誠に面白い議論である。