耳嚢 巻之四 雷鶴をうちし事
耳嚢 巻之四 雷鶴をうちし事
寛政八辰年春、雷の鳴りし事ありしが、林大學頭營中におゐて語りけるは、同人知行に奇事有りし由。武州忍(おし)領近所にて雷落て鶴を三羽打殺しける由。尤空中を舞ひけるにや、又は求食(あさ)る鶴を打しやと尋けるが、其程は難分(わかりがたし)、晝の事にて雷甚しかりしに其村の百姓、側の家に雨を凌ぎて、少しやみけるゆへ立出みしに、鶴三羽雷に打れて翼を損ざしくすぼりて有し由、あるべき事ながら珍ら敷事也と語りぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:自然界の瘧りの毒気が人型を現じる怪談から、長寿のシンボルたる鶴が雷に打たれて焼け燻っているという奇談連関。なお、これはあり得るか、と言われればないとは言えないが、文中で問題となっているように、飛んでいた場合は極めて可能性は低いものと考えられる。飛んでいる鳥は周囲とほぼ同電位であるから、雷を誘わず、生体であるから静電気が溜まる可能性はあっても、雷が鳴る際は周囲の湿度も高く、鳥の大きさも小さいので(鶴は相対的にはかなり大きいが)、静電気もなかなか溜まらない可能性があるので飛翔中の鳥の落雷の可能性は小さいという記載がネット上にある。そもそも大型の鶴が三羽飛翔中に雷電に打たれるという可能性は更に小さい。寧ろ、地上に降りて近接していた三羽の鶴(鶴が首を伸ばしていれば広大な湿地や平地ではやや高いし、当然、地面と同電位になる)の何れか一匹、若しくはその近くにある、例えば樹木や竿、百姓の鍬などに大きな落雷があった場合、こうした集団雷撃死はあってもおかしくはない、という気がする。
・「寛政八年」は丙辰で西暦一七九六年。
・「林大學頭」儒学者林述斎(明和五(一七六八)年~天保十二(一八四一)年)。林家第八代。寛政五(一七九三)年、林錦峯の養子となって林家を継ぐ。昌平坂学問所(昌平黌)の幕府直轄化や儒学教学の刷新、「寛政重修諸家譜」「徳川実紀」「新編武蔵風土記稿」といった公刊史書の編纂事業など、寛政の改革に於ける文部行政を推進した。当時、二十八歳で根岸より三十一も若い。
・「武州忍(おし)」「おし」は底本のルビ。現在の埼玉県行田市にあった忍藩。
・「難分(わかりがたし)」は底本のルビ。
・「くすぼりて」「燻ぼる」で煙によって黒くなる、すすけるの意。
■やぶちゃん現代語訳
雷が鶴を打った事
寛政八年辰年の春、頻りに雷が鳴った日が御座ったが、その折り、林大学頭述斎殿が城中にて雑談のうちに語って御座ったことで、同人の知行所にて、奇異なること、これ、御座った由。
「……武州忍(おし)の近隣の村のことなるが、雷が落ちて鶴を三羽打ち殺した、というのじゃ。――尤も、その三羽、空中を舞っていたところを雷撃されたのか、又は地に降り立ちて餌を探しているところを打たれたのか、とその者に尋ねてみたので御座るが、その辺りは、よく分からぬということにて――ともかくも、昼間のことにて、雷雨、殊の外、厳しき折から、その村の百姓、近場の農家にて雨を凌ぎて、少し小振りになって参ったによって立ち出でてみたところが、目の前の原に、鶴が三羽、雷に打たれて翼を焼かれ、ぷすぷすと烟りを吹きながら、全身、これ、黒ずんで御座った――とのこと。……まあ、あり得ぬ話では御座らねども、やはり珍しきことでは御座る。」
と語って御座った。