生物學講話 丘淺次郎 第二章 生命の起り
第二章 生命の起り
さて生物は如何に食ひ如何に産み如何に死ぬかを述べる前に、一通り生命の起こりについて説いておく必要がある。已に出來上がつて居る生物の生活狀態を論ずるに當つては、それが初め如何にして生じたものであつても構はぬやうに思はれるが、事柄によつてはその生じた起りを考へぬと誤に陷り易いこともあり、特に死について論ずる場合の如きは、決して生の起源を度外視するわけには行かぬ。而して生命の起こりといふ中には種々の問題が含まれてある。例へば今、目の前にある生物の各個體は如何にして起つたかといふ問題もあれば、その生物個體の屬する種族は如何にして起つたかといふ問題もあり、更に遡れば、一體地球上の生物は最初如何にして生じたかといふ問題も解かねばならぬ。又生物の身體をなせる生きた物質は日々取り入れる食物が變じて生ずる外に途はないが、死んだ食物が如何に變化して生きた組織となるか、熱や運動は原因なしには決して生ぜぬものであるが、生物の日々現す運動や熱は抑々何處にその原因があるかといふやうな問題も自然に生ずる。これらはいづれも中々大問題であるが、その中には今日の知識を以て稍々確かな解決の出來るものと、殆ど何の返答も出來ぬ程の困難なものとがある。例へば生物の各個體は如何にして起つたかといふのは發生學上の問題で、これは已に研究も進んで居るから大體に於ては誤のない答をすることが出來やう。又生物の各種族は如何にして起つたかといふことは生物進化論の説く所で、今日に於ても詳細の點に關しては尚學者間に議論はあるが、大要だけは已に確定したものと見做して差支へはなからう。之に反して、地球上には初め如何にして生物が生じたかといふ問題は實驗で證明することも出來ず、遺物から推察するわけにも行ゆかず、たゞ想像によるの外はないから、これまで隨分出放題と思はれるやうな假説さへも眞面目に唱へられたことがあり、今日と雖も未だ確かな返答をすることは出來ぬ。次に生物の體内に於ける物質の變遷や力の轉換は所謂生物化學および生物物理學の研究する所で、近來はそのための專門雜誌も出來、報告の數から見ると頗る目醒しい進歩をした。十餘年前、英國理學奨勵會の席上でフィッシャーといふ生理學者が生命の起こりについて演説したのも、生物化學の進歩に基いたことであつたが、この演説はロイテルから世界各國へ電報で知らせたゆえ、「生命人造論」などといふ勝手な見出しで新聞紙に掲げられ、我が國でも一時評判になつた。未だ解らぬ方を見ると、實に尚前途遼遠の感があるが、今日までの研究の結果、一歩づつこの間題の解決の方向に進み來つたることは疑ない。本章に於ては、以上の諸問題に就て極めて簡單に述べて、各種生物の生活狀態を論ずる前置として置く。
[やぶちゃん注:「フィッシャー」それらしき人物としては、現代推計統計学の確立者として、また、集団遺伝学の創始者として知られるイギリスのネオダーウィニズムの生物学者であったサー・ロナルド・エイルマー・フィッシャー(Sir Ronald Aylmer Fisher 一八九〇年~一九六二年)がいるが、初版の記載から考えると二十四歳ということになり、年齢が若過ぎる。実はこの部分、大正五(一九一六)年初版では、
『一昨々年の秋、英國理學奨勵會の席上でシェーフェルといふ生理學者が』
となっている。全集を底本として校訂を行ったと記す講談社学術文庫版では、
「シェーフェル」
となっているから、「シェーフェル」が正しいものと思われる(そもそも第四版で何故誤った記載に変更したのかが不思議である)。そしてこれはイギリスの生理学者・医学者エドワード=シャーピー=シェーファー(Edward Albert Sharpey-Schafer 一八五〇年~一九三五年)のことを指していると思われる。彼は糖尿病の原因が膵臓からのインスリンの分泌量にあることを確認、インスリンやエンドコリン等の命名者として知られる。ただ、この「生命の起こりについて演説した」内容はよく分からない。識者の御教授を乞うものである。]