耳嚢 巻之四 奇病の事
奇病の事
松平京兆(けいてう)の物語に、此程奇成事あり。家中の侍の妻病氣にて里へ歸り居しが、風與(ふと)口走りていへるは、夫の外の女に心を寄せて我を見捨、不快に事寄(ことよせ)里へ差越せしも右女の仕業也と、或は恨み或は怒りなどせし有樣、一通(とほり)の病氣とも見へず。右妻は至て其容貌も美麗なるよし。男は美道の沙汰はさし置(おき)、いとたくましき人物の由。彼女の疑へる女は脇坂家の茶道成(なる)者の娘にて、主人の奧に勤居(つとめをり)しが、彼男の人躰(じんてい)を平日譽てことのふ執心せしよし。然れども不埒などありし事も聞かず、只しれる中のみ也しが、これ發熱して、彼本妻我を憎み呪詛せる抔口ばしり、此程は熱も覺て快よけれど、いまだ幻は右の事をいひ罵る由。全(まつたく)狸狐のしわざに哉(や)と怪敷(あやしき)事もありぬと私に語り給ひぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:怪異譚連関だが、この話は根岸も怪異とせずに「奇病」としているように、これは一種の心因性精神病で、どちらの女も偶然に病的なヒステリーと強い関係妄想を呈した、一種の強迫神経症に相次いで罹患した(妻の病態とその恐らく名指しの自分への批難を聴いて、謂わばASD(Acute Stress Disorder 急性ストレス障害)に『感染』、病態を見るにPTSD(Posttraumatic stress disorder 心的外傷後ストレス障害)へと移行したと思われる。即ち、これは確かな事実であったと考えてよい。現代語訳では、そこを考えて、細部のリアルさを加えて翻案してある。
・「松平京兆」前の「怪刀の事」の松平輝和のこと。
・「事寄(ことよせ)」は底本のルビ。
・「美道」底本には右に『(尊本「美色」)』と傍注する。
・「脇坂家」播州龍野脇坂藩。寛政九(一七九七)年当時ならば、当主は第八代藩主寺社奉行(後年に老中)であった脇坂安董(わきさかやすただ 明和四(一七六七)年~天保十二(一八四一)年)である。当時、松平輝和は奏者番と、脇坂安董と同じ寺社奉行を兼任していたから、ここに脇坂家側の女の情報源としての接点が窺えると言える。
・「茶道」茶坊主。彼らは剃髪していたために「坊主」と呼ばれただけで、れっきとした武士。将軍や大名の下での、茶の湯に於ける給仕や接待を担当した。因みに、芥川龍之介の養家芥川家の家系は、将軍のそれである御数寄屋(おすきや)坊主で、由緒ある家柄であった。
・「彼本妻我を憎み呪詛せる」の「憎み」は底本では「僧み」。誤植と見て、訂した。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『うらみ』とあるから、「恨」の可能性もあるとは言える。
・「幻は」奇妙な謂いである。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『折りには』とあるから、これの誤写とも思われる。「かはりては」等と訓読するのは、如何にもつらい。岩波版で採る。
■やぶちゃん現代語訳
奇病の事
松平京兆輝和殿が語る。
……このほど、何とも奇妙な事が御座っての。
……家中の侍の妻が、病気で里へ帰っておったのじゃが、この女、ある日、突然、
「……夫は、他所の女に心を寄せて妾(わらわ)を見捨てた! 病気を名目にして、里へ下がらせたも、その女が仕業!……」
と、恨みごとを口走るわ、怒って呶鳴りまくるわで、その有様、尋常の病いとも思われぬほどじゃ、と。……
……その妻で御座るか?
……聴くところによれば、容貌も、これ、十人並の美麗なる者と聴いて御座る。……
……その夫の方はと?
……そうさの……これは好色の噂はともかくとして……これも、まあ、なかなかの偉丈夫で御座る。……
……実は、の
……かの妻女が疑っておる『女』、というも……これ、分かって御座っての……これが、その、拙者の同僚で御座る、脇坂安董(やすただ)殿が屋敷の、茶坊主をしておる者の娘で御座っての……脇坂殿にも直接、お話を伺ったのじゃが……御屋敷の奥方に勤めておる娘とのことなのじゃが……
……実は、この娘……何でも、かの夫の侍とは、何処ぞで知り逢(おう)てでも御座ったらしく……かの男の人体(じんてい)を、これ、普段から頻りに褒めそやしておったそうじゃ……まあ、何で御座るな、その、世間で言うところの――『ご執心』――という体(てい)では御座ったと申す。……
……なれど、申しておくと――この二人の間に不埒なることがあった――なんどという噂は、これ、全く聞かぬは、拙者の家内にても脇坂殿御家中にても、これ、同じゃった……
……拙者も、実は……かの男を呼び出だいて、直(じか)に問い質いてみたが……
……かの男は、やはり思うておった通りの実体(じってい)なる者にて御座っての……要は、ただ、互いに少しばかり見知っておったというだけの仲で御座ること、これ、相い分かり申したのじゃ。……
……ところがじゃ
……脇坂殿のお話によれば、かの茶坊主の娘も――
突如、高熱を発し、
「……あの、本妻が!……妾を恨んでおる!……呪詛致いておる!……」
なんどと口走りだしたと申すのじゃよ……
……まあ、近頃は、やっと熱も引いて、恢復致いたとは聞いて御座るが……未だに折に触れて、
「……本妻が!……妾を恨んでおる!……呪詛致いておる!……」
と、言い罵っておる由。……
……全く以って……狐狸なんどの仕業にてもあろうか、なんどと噂致いての……何ともはや、怪しきこともあるもんじゃて……
――と、私にお話になられた。
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