耳嚢 巻之四 誠心可感事
誠心可感事
寛政七年、清水中納言殿逝去ありし。東叡山凌雲院に葬送なし奉り、俊德院殿と諡(おくりな)し奉る。名は忘れたるが、右屋形(やかた)に至て輕く勤仕なし、年も七旬に近く、好みて能の間(あひ)狂言をなしけるが、黄門公御在世に能を好給ひし故、輕き者ながら御相手にも立ちし由。逝去後御目見以下の者故拜禮は難成(なりがた)けれど、御廟の後御幕張(まくはり)の外より日々拜禮をなしけるが、百ケ日御法事後御廟に參り、外に人も不居合(ゐあはせざる)故、御廟前の片影(かたかげ)へ廻りて拜しけるを、御庿番の者も渠が深切を感じ見免(みゆ)るし置しに、漸(やうやく)半時うつ臥して居ければ、死しやらんと思ひ迷ふ程なるに漸に起出ける故、いかに久しき拜禮也と右御庿番の者尋ければ、御在世の時好せ給ふ事故、龍田の間(あひ)を一番口の内にて相勤候由涙を流し申けるが、値遇の難有を思ひ出て歌をも詠たりとかたりしが、右歌は狂歌とも何か分らぬ事ながら、誠心の哀成事と人の語りける故爰に記ぬ。
關守も暫しはゆるせ老の虫人こそしらね鳴ぬ日はなし
□やぶちゃん注
○前項連関:特に連関を感じさせない。能絡みで遠く「戲藝にも工夫ある事」と連関。死亡時から「百ケ日」法要の出来事で、日付の特定まで可能な珍しい記事と言える。
・「清水中納言」徳川重好(延享二(一七四五)年~寛政七(一七九五)年)徳川御三卿清水家の祖。第九代将軍徳川家重次男。官位は従三位左近衛権中将兼宮内卿・参議・権中納言。家名は江戸城清水門内の田安邸の東、現在の北の丸公園・日本武道館付近にあったことに由来する。満五十歳の彼の死によって家重の血筋は断絶、子がなかったため、その後の清水家は再興と断絶を繰り返した。彼の逝去は寛政七年七月八日はグレゴリオ暦で一七九五年八月二十二日、和暦サイトの表から百ヶ日を計算したところ、この出来事は寛政七年十月十一日(西暦一七九五年十一月二十二日)のことになるはずである。季節を感じつつ、映像を想像されたい。
・「東叡山凌雲院」東叡山寛永寺三十六坊の塔頭の中では最も格式が高かったが、現存しない(上野駅公園口を出て道路を渡った現在の文化会館と西洋美術館附近にあったという)。
・「間狂言」能一曲の中で狂言方が演じる部分や役を指す。
・「黄門」中納言の透唐名。
・「御目見以下」御目見得以下。将軍直参の武士でも将軍に謁見する資格のない者。御家人。対語は「御目見得以上」で旗本が相当。
・「御庿番」の「庿」は廟に同じ。
・「龍田の間」謡曲「龍田」の間狂言の部分の意。能「龍田」は行脚僧が龍田明神参詣のため河内国へ急ぐ途中で龍田川まで来ると、一人の前シテの巫女が現われ、「龍田川紅葉乱れて流るめり渡らば錦中や絶えなん」という古歌をひいて引き止め、僧が、それは秋のことにて今はもう薄氷の張る時節と答えると、更に「龍田川紅葉を閉づる薄氷渡らばそれも絶えなん」という歌もあると答えて社前に案内、そこには霜枯れの季節にもかかわらず、未だ紅葉している紅葉のあるを不審に思う僧にこれは神木なることを語り、更に龍田山の宮廻りをするうち、巫女は自らが龍田姫の神霊であると名乗って社殿の中に姿を消す。その夜、社前で通夜をしている僧の前に、後ジテ龍田姫の神霊が現れ、明神の縁起を語り、紅葉の美しさを舞って夜神楽を奏でて虚空へと上って行くという複式夢幻能。私は書による知識のみで舞台を見たことがないので、残念ながら、この能の舞台を知らぬが、謠本を見るにワキツレで従僧二人が登場する。老人はこの一人を黄門公生前には演じたものであろう。それを「一番口の内にて相勤候」とは、ただワキツレとしての自分のパートだけではなく、前シテとワキの始まりから後シテとワキの夜神楽までを心に描き、己れの登場の部分の台詞を口の中にて演じたことを意味しよう。因みに、私の謠をする教え子からは、江戸時代の謡曲の上演時間は現在よりももっと短かった、演技は今のようなスローさとは大分、異なっていたらしいと聞いている。
・「値遇」底本には右に『(知遇)』と傍注。
・「關守も暫しはゆるせ老の虫人こそしらね鳴ぬ日はなし」幽冥界を隔てる廟を関所に喩え、番人を関守とし、御家人でも身分の低い老いた七十に近い己れを老いの虫に喩え、数え五十一の若さで亡くなった主君との老少不定を含ませた狂歌と言えよう。私の自在勝手訳を示す。
……あの世とこの世を隔てる関の番人と雖も……暫しの間は、かくするを許せかし……人は誰(たれ)一人知らずに御座れど……この、老いさらばえた秋の虫の如き、既に死すべき者なるに……主はあの世、己れは塚の外……その哀れを、泣かぬ日とて、ない……
■やぶちゃん現代語訳
誠心感ずべき事
寛政七年のこと、清水中納言徳川重好殿の御逝去が御座った。
東叡山凌雲院に御葬送し奉り、俊徳院殿と諡り名され給うた。
名は忘れて御座るが、清水殿の御屋形にて、至って身分の低い者として召し使われておった、年はもう七十に近い者にて、己の好みに能の間(あい)狂言を致す者があったが、俊徳院殿黄門公御在世の折りは、殊の外、能をお好みになられたがため、低き身分の者ながら、その御相手をも勤めて御座ったとの由。
御逝去後、御目見得以下の身分の者故、御廟所にては直接の拝礼を致すこと、これ、許されなんだが、かの老人は、目立たぬよう、御廟の後ろの幕張の外から、一日として欠かさずに御霊(みたま)を拝礼致いて御座ったという。
百ヶ日の御法要の日のその終わった後のこと、彼はかの御廟に参ったが、偶々、外には人の居合わせたなんだが故、御廟前の目立たぬ物蔭に回り込んで、ひっそりと蹲っては拝み申し上げて御座ったそうな。
御廟所の番方も、これに気づいては御座ったれど、以前からの、かの老爺の深く御主君を悼む心に打たれておった故、見て見ぬ振りを致いて、許して御座った。
ところが、老僕は突っ伏したまま――半時もの間――そのまま――微動だにせぬ。――
流石に番方も、
『まさか……死んでおるのでは……御座るまいか……』
と思い迷うほどにて御座った――
――が――
ようやっと、ゆるゆると身を起こいて、御廟所霊前より立ち出でた故、
「……如何にも永き拝礼であったのう……」
と、かの御廟番方の武士が訊ねたところ、
「……はい……御在世の砌、お好みであられたが故……「竜田」の間(あい)を一番、口の中にて……相い勤めて御座いました故に……」
と述べつつ、涙を流して御座ったが、更に、
「……知遇の有り難きを思い出だいて……かくなる拙き歌一首も……詠まさせて……頂き申した……」
と語った。
その歌――まあ、狂歌とも和歌とも称せぬようのものながら――その誠心の、これ、まっこと、哀れなること……と人の語ることにて候えば、ここに記しおく。
関守も暫しはゆるせ老の虫人こそ知らね鳴かぬ日はなし