耳嚢 巻之四 初午奇談の事
初午奇談の事
寛政八年の初午は二月六日也けるが、其已前太鼓の張替抔渡世とせる穢多(ゑた)、本鄕邊を通りしに、前田信濃守屋敷前にて、家僕とも見へる侍、太鼓の張替を申付、則破れし太鼓を渡しける故、其價を極めて右の侍は何の又左衞門と申者の由申ける故、右穢多は太鼓を張替、初午前日とかやに前田の屋敷へ至り、又左衞門と申人より誂へ給ふ太鼓出來の由門にて斷ければ、又左衞門といへる用人はあれども、年恰好抔は右穢多の申處とは相違せし上、太鼓張の儀又左衞門より申付候事なし、さるにても稻荷の太鼓を改見べしとて、社頭に於ゐて搜しければ太鼓なし。棄て破れ古びし太鼓の新らしく成りし事の不思議なりととりどり申けるが、價貮百疋餘の極を、穢多も右不思議にて直段(ねだん)を引下げしと人のかたりし。狐などの仕業や、又穢多或は前田家の家士の仕業にや。
□やぶちゃん注
○前項連関:先の妖狐譚と軽く連関。……でも……これは一体誰で、何の目的だったのか……ホームズに真相の謎解きをして貰いたい欲求に駆られるのは、僕だけであろうか?……ただの愉快犯とは……どうしても思えない、というのが私の習性なんである……
・「寛政八年の初午」全国の稲荷社の本社伏見稲荷神社の神が降りた日が和銅四(七一一)年二月の初午であったことから、全国で稲荷社を祀る。和暦サイトで確認したが、寛政八年の初午は壬午(みずのえうま)で、確かに二月六日である(グレゴリオ暦では一七九六年三月一四日に相当)。
・「穢多」平凡社「世界大百科事典」より引用する(アラビア数字を漢数字に、句読点及び記号・ルビの一部を変更・省略した)。『江戸時代の身分制度において賤民身分として位置づけられた人々に対する身分呼称の一種であり、幕府の身分統制策の強化によって十七世紀後半から十八世紀にかけて全国にわたり統一的に普及した蔑称である。一八七一年(明治四)八月二十八日、明治新政府は太政官布告を発して、「非人」の呼称とともにこの呼称も廃止した。しかし、被差別部落への根強い偏見、きびしい差別は残存しつづけたために、現代にいたるもなお被差別部落の出身者に対する蔑称として脈々たる生命を保ち、差別の温存・助長に重要な役割をになっている。漢字では「穢多」と表記されるが,これは江戸幕府・諸藩が公式に適用したために普及したものである。ただ,「えた」の語、ならびに「穢多」の表記の例は江戸時代以前、中世をつうじて各種の文献にすでにみうけられた。「えた」の語の初見資料としては,鎌倉時代中期の文永~弘安年間(一二六四~八八)に成立したとみられる辞書「塵袋(ちりぶくろ)」の記事が名高い。それによると『一、キヨメヲエタト云フハ何ナル詞バ(ことば)ゾ穢多』とあり、おもに清掃を任務・生業とした人々である「キヨメ」が「エタ」と称されていたことがわかる。また,ここでは「エタ=穢多」とするのが当時の社会通念であったかのような表現になっていたので、特別の疑問ももたれなかったが,末尾の「穢多」の二字は後世の筆による補記かとみられるふしもあるので、この点についてはなお慎重な検討がのぞましい。「えた」が明確に「穢多」と表記された初見資料は,鎌倉時代末期の永仁年間(一二九三~九九)の成立とみられる絵巻物「天狗草紙」の伝三井寺巻第5段の詞書(ことばがき)と図中の書込み文であり、「穢多」「穢多童」の表記がみえている。これ以降、中世をつうじて「えた」「えんた」「えった」等の語が各種の文献にしきりにあらわれ、これに「穢多」の漢字が充当されるのが一般的になった。この「えた」の語そのものは、ごく初期には都とその周辺地域において流布していたと推察され、また「穢多」の表記も都の公家や僧侶の社会で考案されたのではないかと思われるが、両者がしだいに世間に広まっていった歴史的事情をふまえて江戸幕府は新たな賤民身分の確立のために両者を公式に採択・適用し、各種賤民身分の中心部分にすえた人々の呼称としたのであろう。「えた」の語源は明確ではない。前出の「塵袋」では,鷹や猟犬の品肉の採取・確保に従事した「品取(えとり)」の称が転訛し略称されたと説いているので、これがほぼ定説となってきたが、民俗学・国語学からの異見・批判もあり、なお検討の余地をのこしている。文献上はじめてその存在が確認される鎌倉時代中・末期に、「えた」がすでに屠殺を主たる生業としたために仏教的な不浄の観念でみられていたのはきわめて重要である。しかし、ずっと以前から一貫して同様にみられていたと断ずるのは早計であり、日本における生業(職業)観の歴史的変遷をたどりなおすなかで客観的に確認さるべき問題である。ただし、「えた」の語に「穢多」の漢字が充当されたこと、その表記がしだいに流布していったことは、「えた」が従事した仕事の内容・性質を賤視する見方をきわだたせたのみならず、「えた」自身を穢れ多きものとする深刻な偏見を助長し、差別の固定化に少なからず働いたと考えられる』(著作権表示:横井清(c) 1998 Hitachi Digital Heibonsha, Allrights reserved.)。
・「前田信濃守」前田長禧(まえだながとみ 明和二(一七六五)年~文化二(一八〇五)年)は、江戸時代の高家旗本(高家は幕府の儀式や典礼を司る役職で朝廷への使者として天皇に拝謁する機会があることから武家としては高い官位を授けられた)。安永九(一七八〇)年に高家職に就き、従五位下侍従伊豆守、後に信濃守。
・「貮百疋」既出であるが、一般には一貫=一〇〇疋=一〇〇〇文であるから、二〇〇〇文。平均的金貨換算なら三万三千円ほどになる。因みに、現在、和太鼓の皮は牛皮を用いるが、ネット上の一頭分販売価格(張替価格ではなく太鼓の皮用の単品)で六万円を超え、張替となると、ある業者では二尺のサイズ両面張替二十八万三千五百円とある。稲荷の太鼓で、その場で渡せる大きさだから小さいものとしても、それでも一尺四寸もので十二万六千円である。
■やぶちゃん現代語訳
初午奇談の事
寛政八年の初午は二月六日で御座った。
それより少し前のこと、太鼓の張替なんどを生業(なりわい)と致いて御座った、とある穢多の身分の者、本郷近辺を通りかかったところが、高家前田信濃守長禧(ながとみ)殿御屋敷前にて、かの家僕と見え候う侍出でて呼び止められ、太鼓の張替を申し付けられ、その場で破れた太鼓を渡されたが故、品物見定めた上、張替修理費用概算を見積もって御座ったところ、相手はそれで頼むとの由。侍の姓名を問うたところ、又左衛門某なる由。
さても請け負うたかの者、頼まれた日限までに――聞くところによると、それは初午の前日で御座ったらしい――太鼓の皮、しっかと張り替えた上、かの前田殿が御屋敷へと参上致いた。
「――又左衛門と申されるお方より、誂えるよう承りました太鼓の皮張り替え、出来申して御座りまする――」
と門番に言上致いた。
……が……
……どうも……おかしい……
……仔細を訊ねた門番……御家中に又左衛門某なる用人は確かに御座る……御座るが……どうもかの者に皮張替を依頼した人物の、その年格好なんどを聴くに……その者の申すのとはえろう違(ちご)うて御座った……まずはともかくと、又左衛門某に門前へ出向いて貰(もろ)うたが……かの者も、このお方とは違う、と言う……いや、そもそもが……又左衛門某も太鼓の張替なんどは、申し付けた覚え、これ、御座ない、とのこと。
そうこうするうちに、御家中の者どもが集まって来、皆して、
「……それにしても、よう分らんことじゃ……」
「……ともかくも、屋敷内の稲荷の太鼓じゃて……」
「……そうじゃ、まずはそれ、改め見ようと存ずる……」
ということに相い成り、屋敷内の稲荷の社を探いてみたところが……ちゃんと納めて御座ったはずの太鼓、これ……
……ない……
皆々、
「……いや、確かに長く破れ古びた太鼓にては御座った……」
「……それが、その……新しくなって戻ったとは……」
「……こりゃ、いっかな……不思議なることじゃ……」
と口々に申して御座った。
かの者の申し受けた値段は二百疋ちょっきりで御座ったが、かの者も、
「……へえ……かくなれば……不思議なることなればこそ……」
とて、言い値を引いて、えらい安うに手を打った、とのことで御座る。
――さても狐なんどの仕業か――はたまた実は、その穢多の謀ったことか――いや、或いは。前田家御家中の中の悪戯好きの家士の仕儀ででも御座ったか――一向に分らず仕舞いで御座ったそうな。

