生物學講話 丘淺次郎 一 食うて産んで死ぬ
当たり前のことを丘先生は書いているのであるが……また科学の人間中心主義をも批判されておられるのであるが……逆に、これ、読んでいるうちに……何やらん、人間やその社会の、さまざまな破廉恥な様態を、皮肉めいて書いておられるように見えてくるから、実に、不思議!
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一 食うて産んで死ぬ
人間と普通の生物とを比較して見ると、些細な點では素より無數の相違があるが、その生涯の要點を摘まんで見ると、全く一致して居るといふことが出來る。少なくとも生まれて食うて産んで死ぬということだけは、人間でも他の生物でも毫も相違はない。動物の方は人間と相似て居る點が多いから、この事も明であるが、人間とは大いに異なる如くに見える植物でも、理窟はやはり同樣である。先づ親木に實が生じ、種が落ちて一本の若木が生ずるのは、木が生まれたのである。それからその木が空中に枝葉を擴げて炭酸ガスを吸ひ、地中に根を延ばして水と灰分とを取るのは、即ち食うて居るのである。斯くて段々成長して、花を咲かせ、實を生じ、種子を散らせて、多くの子を産み、壽命が來れば終に死んでしまふのであるから、これまた生まれて食うて産んで死ぬに外ならぬ。
而して一疋の動物一本の植物を取つて言へば、その生涯の中に生まれる時と産む時とが別にあるが、數代を續けて考へると、生まれると産むとは同じであつて、單に同一の事件を親の方からは産むといひ、子の方からは生まれるというて居るに過ぎぬ。それ故これを一つとして數へると、生物の生涯なるものは、食うて産んで死ぬという三箇條で總括することが出來る。
[やぶちゃん注:「灰分」は「かいぶん」と読み、カルシウム・鉄・ナトリウム・カリウム・リンなど無機物を多く含んだもの。ミネラル。]
斯くの如く、たゞ食うて産んで死ぬということだけは、どの生物でも相一致するが、然らば、如何に食ふか如何に産むか、如何に死ぬかと尋ねると、これは實は種々樣々であって、そこに生物學の面白味が存するのである。例へば食うというても、進んで食物を求めるものもあれば、留まつて食物の來るのを待つものもある。武力で相手に打勝つものもあれば、騙して之を陷れるものもある。同じ餌を多數のものが求める場合には競爭の起るは勿論であるが、競爭に當つては、或は筋肉の強いものが勝ち、或は感覺の鋭いものが勝ち、或は知力の優れたものが勝つ。中には他の生物の食ひ殘しを求めて生活して居るものもある。また食ふ方にのみ熱中して居ると、自身が他に食はれる虞があるから、安全に食ふためには、一方に防禦を怠ることは出來ぬ。而して防禦するに當つても、主として筋肉を用ゐるもの、感覺によるもの、知力を賴むものなど、各々種類に隨うて相違がある。餌を攻めるにも、身を守るにも、多數力を協せることは頗る有利であるが、斯く集まつて出來た團體中には、敵を亡ぼし終わるや否や直に獲物の分配について劇しい爭の起る如き一時的の集團もあり、またいつまでも眞に協力一致を續ける永久的の社會もある。次に産むといふ方について見ても、單に卵を産み放すだけで、更に後を構はぬものもあれば、産んでからこれを大切に保護するものもある。卵を長く胎内に留めて幼兒の形の十分に具はつた後に産むものもあれば、産んだ後更に之を教育して競爭場裡に生活の出來るまでに仕立てるものもある。特に雌をして卵を産ましめる前の雌雄の間の關係に至つては實に種々樣々で、中には奇想天外より落つるとでもいふべき思ひ掛けぬ習性を有するものも少なくない。また同じく死ぬというても、その仕方は色々あって、全身一時に死ぬものもあれば、一部だけが死んで餘は生き殘るものもあり、瞬間に死ぬものもあれば、極めて緩慢に死ぬものもある。親の死骸が子の食糧となるものもあれば、兄が死なねば弟が助からぬものもある。また同じ種類の個體が次第に悉く死んでしまうて、種族が全く絶滅することもある。かやうに數へて見ると、生物の食ひやう、産みやう、死にやうには、實に千變萬化の相違があつて、人間の食ひよやう、産みやう、死にやうは、たゞその中の一種に過ぎぬ。何事でもその本性を知らうとするには、他物と比較することが必要で、之を怠ると到底正しい解釋を得られぬことが多い。例へば地球は何かといふ問題に對して、たゞ地球のみを調べたのでは、いつまで過ぎても適當な答は出來ぬ。之に反して、他の遊星を調べ、その運動を支配する理法を探り求め、之に照し合せて地球を檢査して見ると、始めてその太陽系に屬する一小遊星であることが明に知れる。人間の生死に關する問題の如きも恐らく之と同樣で、たゞ人間のみに就いて考へて居たのでは、いつまでも眞の意味を解し得べき望みが少いではなからうか。
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