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昨日の夜から今日まで……映画の「20世紀少年」3部作総てをDVDで見た――
言いたいことはごまんとあるが――
原作を読んでからにしようと思う――
一言だけ――
「僕は確かに――あの――『20世紀少年』だ――」
1970年――
あの年、僕は中学2年だった――
――僕は父母に……田舎の鹿児島に帰るか、万博に行くか……と聞かれた――
僕はきっと万博に行きたかったのだろうが……
――「世間の常識」が嫌いになっていた……
――GFRやピンク・フロイドをヘッドフォンで大音量で聴きながら……
「いいよ、鹿児島で。」と言った……
夏休み明け、教室は万博の話題ばかりだった……
行けなかった同級生も、それに話を合わせていた……
僕は……
「お祭りは嫌いなんだ」
と斜に構えて答え……みんなから、胡散臭く思われたのを忘れない……
それから僕は――今、以ってずっと――
あらゆる「祭り」は――
「ダイキライダ!」……
***
面白くないことに――
僕は第一章で「ともだち」が誰か分かっちまったんだ……
これは「いじめられたことがあり、その反動でいじめたことがあり、世界は滅べばよいと思ったことがある総てのあの時代の少年」ならば……
すぐ分かっちまうんだよ……直感でね……(言っとくと、今の現役教師にこの映画は頗る教育的効果を持つ作品だとは、ふふ、思うね)
いや――映画だからだね――映画はスカルプティング・イン・タイムなんだ――誰が本当の「ともだち」か……既にフレーミングで示していたじゃないか!……まあ、待ちなよ……僕がホームズだなんて言ってやしない……いじめられ、いじめたことのある昭和30年代の少年なら……直観として、分かるんだって……(僕はネタバレは嫌いだ。ここまでにしておくよ)
序でに言おうか……実写が致命傷なのだ……メカやシノプシスの話じゃあ、ない……俳優だよ……「ともだち」の正体を演じる役者は……監督がとんでもない凡才か鬼才でない限り……そのモンタージュや台詞の言い回しや、もっと分かり易く言うなら、「あれ? ここって、母さん、おかしくない?」って、分かるんだよ……母さん……あの30年代を生きた僕は……映画大好きな母に育てられたんだ……観客を甘く見るな!……『貴様』が「ともだち」だって……僕はとっくに……分かってたんさ……
……しかし……確かにこれは僕に『沁みる』映画だ……僕は一度として笑えなかった(残念ながら泣きもしなかったけれど……いや、あの頃の時代劇の堅実な定番俳優であらあれた老優左右田一平氏の姿を見た瞬間は微笑んだことを告白する)……確信犯の世間的パクリ(僕は「アバター」で言った通り、総ての映画は「パクリ」だと思うから、これは「引用」が正し謂いだと思っている)が……少なくとも僕の教え子の誰より、数十倍楽しめたことを諸君に確約出来る(作中の登場人物の名も場面も音楽も役者も、だ)。
でもね……僕はやっぱり……一回も笑わなかったのだ――笑えなかったのだ――
河原の秘密基地――五円屋の万引き――貧しかったあの頃……でも……「ともだち」が欲しかった――あの頃を……
僕は……未来永劫――笑えない……
僕は確かに20世紀少年で――「ある」――
――まことしやかな愛も――まことしやかな道徳も――まことしやかな世界平和も――
事実として愚劣な現実ではないか!――
怪妊の事
松平姓にて麻布邊の寄合の家來、娘ありしが、いつの此よりか懷妊して只ならぬ樣子也しが、其性質(たち)隱し男抔有べき人物にあらず、父母の側を朝暮立(たち)はなれず、心をよすると思ふ男もなければ、家内大に怪みて右の娘に色々尋問(たづねとひ)しに、いさゝか覺なしと神にかけ佛に誓ひて申けるが、寬政八年の四月は臨月に當りしが、近き此は腹中にて何か物いふ樣成(やうなる)樣子にて、其言語などわかたずといへども、彼娘が腹中の物音は相違なしと人の語りしが、程なく出產もなしなばいかなるものや産れけんと、人々の怪しみ語りしを爰に記ぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:怪異譚連関。本話が事実(出産までが)とすれば、まず普通なら
●家内の者との密通(父親との近親相姦を含む)
を考えるであろうが(後半の叙述からは想像妊娠は考えにくい)、どうも『腹中の物音』というのが気になってくる。この箇所に限るなら、一つは所謂、
●意識的詐欺の心霊現象としての思春期の少女に多い腹話術による似非霊言
という解釈が挙げられるが、ここに彼女の妊娠が時事実であるとするならば、より厳密に言えば、
●未婚妊娠という不道徳な結果に対する呵責から生じたストレスによる神経症やノイローゼを主因とした、半意識的(若しくは非意識的)詐欺としての腹話術による詐術を伴う非社会的行動
とも言えようか。いや、一つの見方は前提に戻って実は、
★妊娠ではない
という観点に立ち戻るなら、
●難治性の便秘によって腹部が膨満、更に大腸がそのために鳴って(私はIBS(大腸症候群)であるが、時に驚くべき音を立てて腹が鳴る)それが人語の様に聴こえる
可能性が疑えるかも知れない(便秘の場合に腹が鳴るかどうかは私自身が便秘の経験がないために分からぬが、便秘で妊娠したように以上に腹部の膨満は起こる。法医学書で、重度の便秘のために腸閉塞を起こして密室の自室で亡くなった死亡直後の、若い女性の検死資料を実際に見たことがあるが、腹部が妊娠したように膨れていた)。
そもそもが叙述の最後は、出産した子供が、死産だったのか、普通に生まれて成長したのかが明記されていない。いや、出産自体がなかった可能性もある。故に、
×全くの流言飛語
でしかなかった、とも勿論、言えるわけであるが、地域と主家の姓名まで明らかにしている噂話というのは、全くのモデルなしとは思われない。そこでまた考えられるのは、出産(若しくはと目された現象)によって、娘からひりだされたものが、今言ったような実は子供ではなく、
・多量のカチカチになった固形便
であったという(前述のように死に至る場合もあるから)不謹慎ではあるが、一種の筒井康隆的オチであったという顛末、いや、全くネガティヴに採るなら、
・悲惨な奇形児であったために処置された
可能性などが考えられる。
ただ私はやはり気になるのである。『腹中の物音』である。私はそこに最後の、もう一つの可能性、
●一卵性双胎の両児が癒合した非対称性二重体(寄生性二重体)――畸形嚢腫
であった可能性をも挙げておきたいのである。彼女の体の中に、彼女の姉か妹がいたのである。これは医学的にも実際にあることはご存じだろう。そう解釈すると、貞節な箱入り娘で性交や性的虐待(実際の性行為を行なっていなくても、擬似的性行為が続けられた結果、妹に妊娠させてしまったという海外での近親相姦ケースを披見したことがある)の事実が認められない本話の細部の不可解さが、払拭されるように思われる。
――そうして、私が本話からそれを連想した動機が何かを、もう、分かっている方もおられるであろう。そう、その通り、
☆ピノコ
である。手塚治虫先生の名作「ブラック・ジャック」の、あのピノコである(私はアトムで育った人間である。アトムに育てられた人間である。生涯に「先生」と心から呼べる人が私にいるとすれば、それは間違いなくこの方を嚆矢とするのである)。第十二話「畸形嚢腫」で、その姉の体内からテレパシーでブラック・ジャックに語り掛け、生存を要求するピノコである。……『腹中の物音』……これこそ実は
●異形のものとして闇に葬られた『江戸の薄幸のピノコ』
だったのでは、あったのではあるまいか?……
・「寄合」原則的には三千石以上一万石以下の上級旗本で無役者の家格。但し、それ以下であっても六位以上役職にあって何事もなく勤め上げた者も含まれた。旗本寄合席とも言うが「寄合」が正式名称である。
■やぶちゃん現代語訳
奇怪な懐妊の事
松平姓を名乗って麻布辺りに住んで御座った寄合の方の、その家来に娘が一人あった。
この娘が、こともあろうに、誰も知らぬうちに忽ち懐妊、その腹の膨れゆくを見れば、これ、誰もが紛うことなき、と端(はた)にても噂致いておったのじゃが……
……この娘、これまた、その人柄から言うても、秘かに関係するような男がおるといった人品の者にては、これなく……
……また、父母の傍(そば)から一時たりとも離れたことも、これ御座なく……
……いや、そもそもがじゃ、妊娠の最も疑われるような――心時めかしておると言うた――身をも許さんとするような真犯人の男がある――とも、これ、とんとまあ、思われぬ体(てい)の娘なれば……
……家内(いえうち)にも大いに怪しみ、嘆き、憤り、父親(てておや)は娘を面前に引き据え、殊の外、厳しく強うに、問い質いて御座ったのじゃが、
「――神かけて! 仏に誓(ちこ)うても! 聊かも、これ、覚え――御座りませぬ!――」
と、娘もまた、気丈にきっぱりと、身の潔白を訴えて御座った。……
……寛政八年の四月には臨月を迎えるとの噂で御座ったが……その、臨月も近(ちこ)うなったこの頃の噂では、
「……いや、何と、腹の中から……何かが、奇体に……ものを言うような様子で御座って、の……尤も、それが何を言うておるかは、これ、判然とは致さぬ。とは言え……これ、確かに、その娘の……その腹中から……響ききたる物音に、これ、相違御座らぬのじゃて!……」
とは、私の知れる人の直談で御座る。
この娘、指折り数えてみても、もう、程のう、出産を迎えんものと存ずるが……さて、一体、如何なる『もの』が生まれ来るものか……とは、頻りに人々の怪しみ噂致すことにて御座る故、とり敢えず、ここに記しおくことと致いた。
燈ともせり燈ともしざまの雛揃ふ
教え子T.S.君の上海追跡録の新情報を芥川龍之介「上海游記」の「三 第一瞥(中)」のトーマス・ジョーンズ注、及び「十九 日本人」の「同文書院」、及び終章「二十一 最後の一瞥」に追加した。旧日清埠頭や旧日本領事館の同定など、夜の上海を去ってゆく芥川龍之介の面影が多くのT.S.君の写真で髣髴としてくる。そして炎天下、私の愛する芥川龍之介の盟友トーマス・ジョーンズの墓を求めて奉公するT.S.君――私はまっこと、君のような教え子を持って果報者である――
*
本未明より、上記の作業に入り、今朝、アップしたところ、HPの契約容量である300MBを超えてしまった。大画像ファイルを縮小するなどして、ここは乗り切るが、そろそろ1GBへの変更を思案せねばならぬようだ。
戲場者爲怪死の事
寬政八辰年春より夏へ移る事なりしが、傳馬(てんま)町に住居せる、旅芝居の座元などして國々をあるきける者、行德(ぎやうとく)にて芝居興行なし、殊の外當り繁昌して餘程金設(けねまうけ)せしとて同志の者も歡びて、芝居も濟て四人連にて海上を船にて行德河岸を心懸渡海なしけるが、彼座元の者此度は仕合(しあはせ)もよしとて酒肴(しゆかう)などを調ひ、四人にて醉を催しけるに、如何なしけん右座元海中へ落し也(や)、わづかの船中にて行衞なく成し故、殘る三人の者船頭共に大に驚き、又々行德へ乘戾し海士(あま)を懸け網を入て隈なく搜しけれども死骸も見へず、詮方なければ同船の内跡(うちあと)に殘して尙尋搜し、三人の者は彼座元が家内へも知らせんと江戶表へ便船にて立歸り、其日の晝過に先彼(まづかの)座元の住居せる傳馬町の裏店(うらだな)へいらんとせしが、三人共しきりに物凄く恐ろしきに互に讓り合て、先づ誰入り候へとて爭ひしが、所詮よき事を告るにもあらざれば迷惑もありうち也、さらば酒吞て行んとて程近き酒店へ立寄、一盃を傾け又々立向ひしが同じく三人共尻込みなしけるを、中に年嵩成(としかさなる)おのこ先に立て入りし故、跡に付て殘る者も立入しが、彼の座元の女房は門口に洗濯をなし居たりしが、三人を見て何故遲く歸り給ふや、内にては今朝戾られたりと言ふに驚きて、無滯(とどこほりなく)歸り給ふや懸御目度間(おめにかかりたきあひだ)案内なし給へといひしに、先刻歸りて酒食をなし二階に臥(ふせ)り給ふ間、直に二階へ上り給へといひし故、彌々不審にて先(まづ)行て起し給へといへど、兼て芝居者の仲間突合(つきあひ)、案内にも不及事(およばざること)故女房一圓(いちゑん)承知せず、火杯焚附居(ひなどたきつけをり)けるを無理に勸めて二階へ女房を遣しけるに、わつといふて倒れ臥しける樣子故、近所の者も驚て缺附(かけつけ)、右三人もあきれてしかじかの事を語(かたり)、家主をも呼びて一同二階へ上りしに、いづれ歸りて臥り居(をり)しとみへて調度など取散らし、其脇に女房は絕死(ぜつし)して有りける故、水抔顏へかけて漸く正氣附しゆへいか成事と尋ければ、今朝歸りて後何も常に替る事なかりしが、今更不思議と存(ぞんず)るは、人間は老少不定といへば先立者も有るならひ、我もし死しなば相應に跡吊(とむら)ひに何方へも再緣すべしといひしが、戲れ事と思ひしが其外にも不思議の咄しせしが、是は外へはもらしがたき由言けるゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、夫婦間の事には咄し難き事もあるべけれど、苦しからぬ事ならば語り給へと切に問しに、夫婦合(あひ)の事にてもなし、かたるに面(おも)テぶせなる事ならねど、此事は堅く外へ洩すまじき由口留せし故とて咄ざりしを、取込(とりこみ)て無理に尋ければ、然らばとて二言三言かたり出しける頃、二階の上にて大石を落せし如き音のしければ、女房はわつといふて倒れ、何れもそら恐ろしくて聞果ず己(おの)が家々へ歸りし由。彼三人の者の内宇田川何某の方へ出入せし故かの咄を成しけるが、彼座元の妻が二言三言申出せしはいか成事とせちに責問(せめと)ひければ、無據(よんどころなく)咄さんとせしに、次の間にて磐石(ばんじやく)を落しけるごとき音なしける故、驚き止(やめ)しと人の語りけると也。
□やぶちゃん注
○前項連関:能と旅役者では雲泥の差ではあるものの、同じく芸人譚としての連関はある。但し、寧ろ六つ前の「女の幽靈主家へ來りし事」の真正幽霊譚と、死者がその志しを述べるところで強い連関がある。
なお、底本の鈴木氏注は三村竹清氏の注『此の話、こはだ小平次の話と附会するか』を引いて「こはだ小平次」の梗概と周辺事象を記し、最後に『この事件と、耳嚢の話との間には関連がありそうであるが、具体的には分からない』と記されておられる。
「こはだ小平次」は私も特に好きな怪談伝承で、詳しくはウィキの「小幡小平次」などを参照されたいが、少し不審なのは三村氏の『附会』という謂いである。
本話は寛政八(一七九六)年の採録であるが、ウィキの記載にもある通り、役者小幡小平次の不倫謀殺怨霊出現という幽霊譚は享和三(一八〇三)年に江戸で出版された山東京伝作・北尾重政画の伝奇小説「復讐奇談安積沼(ふくしゅうきだんあさかのぬま)」』をその嚆矢とし、次いでそれを舞台化した文化五(一八〇八)年の江戸市村座での四代目鶴屋南北作「彩入御伽艸(いろえいりおとぎぞうし)』の初演によって爆発的に流布するようになる幽霊譚である。本話はそれらから六年から十年以上前の都市伝説採録なのである。ウィキによれば、本伝承は、後に山崎美成が随筆「海録」(文政三(一八二〇)年から天保八(一八三七)年に彼が見聞したさまざまな事象の考証物)で『この小幡小平次にはモデルとなった実在の旅芝居役者がおり、その名もこはだ小平次だったという。彼は芝居が不振だったことを苦に自殺するが、妻を悲しませたくないあまり友人に頼んでその死を隠してもらっていた。やがて不審に思った妻に懇願されて友人が真実を明かそうとしたところ、怪異が起きたという』とあり、『またこれとは別に、実在した小平次の妻も実は市川家三郎という男と密通しており、やはりこの男の手によって下総国(現・千葉県)で印旛沼に沈められて殺されたという説もある。山東京伝はこの説に基いて小平次が沼に突き落とされて水死するという筋書きを考えたのかもしれないと考えられている』とある。
以上から、旅役者・水死・亡霊、更に『真実を明かそうとしたところ、怪異が起き』る点など、確かに共通してはいる。また、「耳嚢」の本話が事実であったと仮定した場合、これらは総てが周到に計画された完全犯罪であり、その犯行は座長の妻及び三人の俳優仲間が仕組んだ壮大な狂言ということになる。船上の失踪など、俄かには信じ難い。小便に舳辺りへ立った座長のふらふらするを、後ろからすうっと寄って、トンと突き落す、宴席の残りの二人がその、「ざんぶ」という音に合わせて大声で歌を歌う(芝居の見得でもよい)、船尾の船頭は気づかぬ――などというのはどうか? 例えば、この仲間の年嵩の男などが座長の妻との不倫関係にあり、二人は共犯で本殺人計画のあらましを企画し、仲間内の二人を引き込んだというのは如何であろう? そもそもが、本話は如何にも安っぽい怪談芝居染みた構成を持っているから、その年嵩の俳優が主導して全体の筋書きを書いたと考えるのは、すこぶるつきで自然である。即ち、座長の妻と年嵩の男優は共同正犯、二人の仲間は従犯という私の一つの見立てである。……閑話休題。そうすると不倫という「小幡小平次」の大事な要素が見えてこないこともない。
しかし、かくなる本話が、後に本格形成される「小幡小平次」怪異譚の一つのモデル、もしくは複数あった「小幡小平次」怪異譚構成因子としての原話であった可能性は強いと言えても、『附会』というのは如何なものか? 本話はまた「小幡小平次」譚の持つ淫靡で陰惨な雰囲気を(少なくとも表面上は)持っていない。その超常現象の眼目は、死者の帰還と愛妻への別離の告解、そうして最後の二連発の大音(これは知られた「天狗の石礫て」、ポルターガイストの一種である)の奇怪ではあるものの、寧ろ、話柄の(というよりも読者の)興味は『語られない・語ることが出来ない夫婦だけの最後の秘密』への強い好奇心に収斂する。怪談ではあるが、ある意味で陽気で健康的な色気に満ちた落語向きの話柄である、というのが私の感想なのである。
こうした私の感懐から、本話の現代語訳は事件の調書風に趣向を凝らしてみた。
・「爲怪死」は「怪死を爲す」。
・「春より夏へ移る事なり」旧暦三月下旬から四月上旬の頃。暦算ページで調べると寛政八年の三月三〇日は西暦一七九六年五月七日である。現在の五月上旬の陽気をイメージしよう。
・「傳馬町」ここは四谷伝馬町。現在の新宿区・四谷一丁目付近。四谷御門(現在の中央線四谷駅付近)の西方の地域。
・「行德」下総国行徳。現在の千葉県市川市南部、江戸川放水路以南の地域で、広大な塩田が広がる製塩地帯であった。
・「行德河岸」これは行徳にある河岸ではなく、江戸の小網町三丁目南端の箱崎川に沿った河岸の名である。江戸から大正にかけてここと下総国行徳を行徳船が往復した。行徳船は寛永九(一六三二)年頃から行徳の塩を江戸へ運ぶために運行が始まり、やがて人や物資の回送にも使われるようになった。本話の船はチャーターらしいが、ウィキの「行徳船」によれば、定期の行徳船は毎日午前六時から午後六時まで江戸と行徳の間を往復、通常は船頭一人が漕ぎ手で、二十四人乗りの客船で、旅客や野菜や魚介類のほか日用品などの輸送を行った、とある。本話では海に落ちた座長を漕手の船頭も現認していない。それが不自然でないとすれば、この船はまさに『二十四人乗り』の大船であることが分かる。せめて本話の水上の景にこれらの船を点じてみるのも、また一興ではないか。
・「金設」底本には右に『(金儲)』と注する。
・「詮方なければ同船の内跡に殘して尚尋搜し」ここは「詮方なければ同船の内、跡に殘して尚尋搜し」で、『失踪した船の漕ぎ手である船頭に後を頼んで、なお、海上の捜索を行って貰い』の意。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『詮方なければ同船の内を跡に殘して尋捜(たずねさが)し』となっている。
・「ありうち」有り内。「ありがち」に同じ。世間によくあること。
・「仲間突合」底本では「突合」の右に『(附合)』と傍注する。
・「面テぶせなる」不面目なこと。死者の名誉が傷つくような破廉恥なこと。
・「取込て」うまく取り入って。相手を丸め込んで。
・「宇田川何某」底本の鈴木氏注に『幕臣に宇田川姓は二家ある』とある。文脈上は特に同定候補を挙げるまでもあるまい。
■やぶちゃん現代語訳
旅芸人一座座元変死事件の事
寛政八年辰年の、晩春から初夏へと移る頃合いの事件であった。
伝馬町に居住する、旅芝居等の座元なんどを生業(なりわい)とし、全国を巡回興行しておる者が、下総国行徳にて興行、これが殊の外当たって連日の満員御礼、予想外の木戸銭大儲けと一座の者皆大喜びし、舞台が撥(は)ねた後(のち)、仲間内の役者三名と四人連れで行徳から乗船、行徳河岸を指して江戸湾海上を渡っていた。――
*
――同船せる役者甲の証言――
……座長は、
「この度の興行は至って大成功じゃ! 一つ、景気良う、やってくんない!」
と、乗船する前に買い調えた酒肴を船中に並べ、我らもご相伴に与(あず)かり、四人とも、すっかり酔うておりました。
……ところが、三人とも……ふと気づいてみると……座長の姿が見えんようになっとったんです。
「……何があったんや!……我らが座長どのが、おらぬ!」
「……まさか海へ……落ちたのではなかろうのぅ?」
などと口々に申したのを覚えております。
……客は……いえ、我らたった四人にて……その船中にて、行方知れずとなればこそ……我ら三人は勿論のこと、船頭も痛(いと)う驚いて、舳を返してまた行徳へと戻り、地元の海士(あま)を雇って、心当たりの海へ潜らせるやら、漁師には網を入れて引いてもらうやらして、隈無く捜してみたつもりではありますが……はい……死体は上がりませなんだ。……
――同船せる役者乙の証言――
……そのぅ、どうにも仕様が御座いませんでしたので……我らが乗船しておりました船の船頭を残し、その後の海の捜索方を頼みおきまして……そのぅ、とりあえず、我ら三名の者、
「……ともかくも……座長の奥方へ……このこと、知らせずんばなるまい……」
ということになって、江戸表へ向かう早船に乗って、戻りました。
……はい、もう、その日の昼過ぎには、あの、座長の住んでおられた伝馬町(てんまちょう)の裏店(うらだな)に着きましたが……着きはしましたものの……そのぅ、何ですな……我らが親しき人の死を、また、その愛する奥方に告げんとするは……これ、三人とも、しきりに物凄う、恐ろしさを感じておりました次第でして……そのぅ、戸の前にて……互いに譲り合(お)うてばかりで、
「……先ずそなたが……」
「……いや、ここはそちが……」
「……とてものこと、どうか貴殿が……」
……と争うばかりで、そのぅ、なかなか戸が、いや、埒(らち)が開きません。
……その内、
「……所詮、良い知らせを告げるのではないからなぁ……」
「……決して聞きとうない……哀しい嫌な話じゃ……」
「……心傷つく迷惑事じゃわい……」
「……迷惑事は……我らも言うとうない……」
「……言うとうないが、言わずばなるまい……世間にありがちな不幸せというもんじゃて……」
「……さればじゃ!……ここは一つ、迷惑序でに……」
「……おう! 気付けに、一つ引っ掛けて!……」
「……されば! 酒を呑んで勢いつけて! 参らんとしょう!……」
……へえ……そのぅ、お恥ずかしい……かくなる仕儀と相い成り申した。……
――同船せる役者丙の証言――
……近所の一杯飲み屋にて一献傾けまして、再び座長の家の前に立ったのですが、同じ体たらくで、三人とも尻込み致すばかりで御座った。
……こうして御座っても埒も開きませぬ故、拙者が――あ、拙者は三人の中では年嵩(としかさ)で御座って、座長やその奥方との付き合いも、これ、長(なご)う御座る――先に立って、門を潜りました。
……座長の奥方は、丁度、庭で洗濯をしておりましたが、我ら三人を視止めると、
「ああら、遅いお帰りでござんすねぇ。宅(たく)はもう今朝方にはお戻りでござんしたよ。」
……我ら三人……はい、そりゃもう顔を見合わせて吃驚仰天致しまして、
「……ご無事で……お帰りに……なったと?……」
と問いかけると、奥方はきょとんとした顔をして、
「はい。」
と平然としておりました故――我らは、何やらん、訳の分からぬ、不吉な思いが致し、
「……そ、そうでござんしたか……あの、その……ちょいとお目にかかりたき儀が御座いまして……ここは一つ、その……御家内(おんいえうち)へ案内(あない)して貰えませぬか、の?……」
奥方は奇妙な顔をして、
「……今朝方戻って、酒を呑んで、食事を終え、今は二階で横になっておりますが……『御家内(おんいえうち)へ案内(あない)して貰えませぬか』とはお笑いじゃ……いつものように勝手に上がっておくんない。」
と申します故――我ら、いよいよ不審と恐懼が綯(な)い交ぜと相い成りまして、
「……まことに……済みませぬが、のっぴきならぬことにて……奥さまにまず、お声掛けして戴き、お起こし申し上げて……出来れば、こちらへお出で下さいますように、と……どうか、お願い、申します……」
と申しましたが、確かにかねてからの芝居小屋での、ざっくばらんな付き合いなれば、
「何が『案内(あない)』よ! さっさとお入りな!」
と奥方は見得を切って一向に我らをものともせず……洗濯を終えると、今度は厨(くりや)へ入って、炊事の支度に火なんど焚きつけようと致しますので、我ら三人して、無理強いを致しまして、やっとのことで二階へ奥方に行って貰(もろ)うたので御座います。
……と……突然、
「ワアーーッ!!」
という激しい悲鳴とともに、
――ドスン!!
と、何やらん、人の倒れ伏すような物音が致しました。
……これには、流石に近所の者どもも、何事かと駈けつけて参りましたによって……我ら三人、一連の出来事につき、しかじかの事情を話しまして、ともかくもと、御店(おたな)の家主を呼んで貰い、また縷々説明の上、皆して二階へと上がったので御座います。……
――伝馬町裏店家主の証言――
……二階の部屋には……見た感じでは……かの座長は帰宅した後(あと)、ついさっきまでは横になっておったと見えて……敷かれた布団や枕などが、幾分、寝乱れた感じになっておりました。
……へえ、女房は、その布団のすぐ脇に、気絶して倒れておりましたんで……まずは店子(たなこ)に命じて一階の真下の居間へと運び、横たわらせて、すぐに水を運ばせると、顔にざっとかけました。
……それで漸っと。正気付きましたんで、少し落ち着いたところで、
「一体、何があったのじゃ?」
と訊ねましたところ、
「……あの人は今朝、帰ってから後、これといって何も常に変わったところは御座いませんでした。……でも今、思い返すと……不思議に思えることが、これ、御座いました。あの人は、
『……儂が……もし死んだら……我らに分相応の葬いさえあげてもろうたら……それでよい……お前は……何方(いづかた)へなりと再縁致すがよいぞ……』
なんと申しておりました。……あの時は、冗談と思うて気にも止めずにおりましたが。……そう言えば、そのほかにも……あの人、不思議な話を、致しました。……でも、これはちょっと……人へは……申せませぬ……」
と申しました。そこで私は――本件の謎を解く鍵はここにあらんとも思いまして、
「夫婦(めおと)の間のことじゃて、他人には、なかなかに話し辛きことも御座ろうが――これ、怪しきことの一件なればこそ――そなたが耐え切れぬような話にては御座らぬのであれば、一つ、話して下されよ。」
と頻りに諭しました。すると、
「……別段――夫婦だけの隠し事――というわけでも御座いませぬし――語るに恥ずかしい秘め事――というわけでも、これ、御座いませぬが……このことは……その折りに……あの人から、
『――このこと、決して他人に漏らしては、ならぬ――』
と、堅く口止めされましたことにて座いますれば……」
と、なおも話し渋っておりました。……ええ、はいそりゃもう、あれやこれやと、宥めすかし、ねじ込む如くにきつく糺いて……へえ、したら、
「……そうまで仰いますのなら……」
と、二言三言、語り始めました。
……と……その瞬間!
――ズッドーン!!――
と、真上の、誰もおらぬはずの、先程の二階の部屋にて、何やらん、大石を落といたような音が致しましたので御座います!
……いや、もう
……女房は、
「ワアーッ!!」
と叫ぶが早いか、またしても昏倒致し……その場におりました他の者どもも皆、誰(たれ)もが、そら恐ろしき心地ちのままに――私めも、奥方の下女に介抱を命じて――情けなきことに、私も含めました誰(たれ)もが……かの『禁忌の秘事』を……これ聴かず仕舞いに……それぞれの家へと退散致しました次第にて御座いまする。はい……
〇附記:後日聞き込みによって分かった同船せる役者の間接証言
(注:甲乙丙の何れか不詳であるが、丙であった可能性が高い。)
……この事件に関わった三人の役者の内の一人が、たまたま宇田川某殿の屋敷方へ出入りしていたため、ある時、その宇田川家家内の知人居室にて、本事件について、その知人に仔細を語ったことがあった。
その知人も、この話を聴くにつけ、かの妻の言う『禁忌の秘事』が大いに気になったのであったが、
「……有体(ありてい)に言って……その女房は確かに『二言三言』は喋った、わけだ。……では、その『二言三言』とは、どんな言葉だったのか?」
と、これまた執拗(しつこ)く問い質したため、拠無(よんどころ)く、その役者はその時、自分の耳に入(い)った、その『二言三言』の『禁忌の秘事』の『触りの言葉』を、口にしかけた……
「それは、の……」
……と……その瞬間!
――グワッシャ!! ズッドーン!!!――
と、隣の誰もいない部屋で、巨大な岩石でも落したかの如き轟音が鳴り響いた。
……それを聴いた役者は――恐懼して――口を噤んだ。……
*
以上は、私がさる御仁から聴取致いた、ごく最近の出来事にて御座る。
内裹雛まさりて古りたまふ
「鎌倉攬勝考卷之三」は神宝をもって荏柄天神社全条を終了した。
「鎌倉攬勝考」は「新編鎌倉志」の無批判な引き写しが各所に見られることと(誤りを引き継いでしまった悪弊が露呈する箇所もあり、恐らくはそれが近代の鎌倉郷土史研究の有意な弊害にもなったものであろうと推測する)、「吾妻鏡」を始めとする引用の年月日の誤記が甚だしく多い点で、やや問題がある鎌倉地誌であるけれど、何と言っても、豊富な挿絵が素晴らしい。今回の「荏柄天神社」の「神宝」でも、「足利尊氏自画自賛地蔵図」と名刀鍛冶正宗作と伝える刀の図が僕のお気に入りである。絵だけでも御覧下されい。
今日はほぼ丸一日を“OF A PROMISE BROKEN BY LAFCADIO HEARN” の「Ⅱ」の翻訳に費やした。
実は6月以降、ブログの一日のアクセス数が200や300を越えるようになって、既に現在の時点で386,512となっている。早くも390000アクセス記念を気にする数字になっている。僕としてはそのための翻訳ではなく、あくまでも自己投企の一つではあるが、いい加減なものにしないためにも、まだ切りまでは余裕があるその記念に、本作を公開したいと考えている。
翻訳の出口の光明も、そろそろ見えては来て、一番のクライマックスの手前まで草稿は出来上がっている。
今少し、お待ちあれかし。
掌に置きて豆雛の眼の見る眼なる
戶を開くわづかに花の在りかまで 中谷治宇次郞
*
これは夭折した考古学者中谷治宇次郎が、友人で稀代の数学者岡潔を詠んだ句で、多変数関数論の未踏の地平を目指す岡の理想を詠んだものとされる。本句を紹介して下さった僕の恩師(多変数関数論を専門とされる数学者)は、この句を岡の本の中で読んだ時、フィリッパ・ピアスの「トムは真夜中の庭で」を思い出されたとのこと。秘密の共通項の由――まっこと、言い得て妙!
*
中谷治宇二郎(なかや じうじろう 明治35(1902)年~昭和11(1936)年)考古学者。石川県生。物理学者で随筆家としても知られる中谷宇吉郎の弟。母校の東京帝国大学で縄文時代の研究に従事する。昭和4(1929)年、パリに赴くが結核のために7(1932)年に帰国。大分県由布院で療養しながら「日本先史学序史」等を書いた。享年35歳。
奈良女子大学岡潔文庫には中谷治宇二郎と岡潔の三葉の写真が載る(左コンテンツの「中谷治宇二郎氏」をクリック)。
また、「東京大学総合研究博物館ニュース」の西秋良宏氏の記事
「考古学者中谷治宇二郎の記録」
も参照されたい。
僕は今こんなことをやりかけているのです――その2
この暴虎馮河をお笑い下さい――
*
[やぶちゃん注:翻訳のための原文は、“K.Inadomi”氏の英文 LAFCADIO HEARN サイト“K.Inadomi's Private Library”の“Of a Promise Broken by Lafcadio Hearn”の本文部分を用いた。私は都合、五種の異なった訳者の邦訳を所持するが、自分のオリジナル訳をまず行い、ワン・フレーズごとにそれらの先陣の訳と比較、正しい訳の参考になる部分は参考にさせて戴きながらも、あくまで私の訳であろうとすることを心懸けた。文脈やシークエンスの自然さを生み出すために、意訳した部分もあることを最初に断っておきたい。
なお、先行邦訳に対し、全く異なった訳をしたものに、女主人公の戒名がある。原文は、
"Great Elder Sister, Luminous-Shadow-of-the-Plum-Flower-Chamber, dwelling in the Mansion of the Great Sea of Compassion."
であるが、過去の殆どの訳は、
慈海院梅花明影大姉
とし、昭和三一(一九五六)年角川文庫刊の田代三千稔氏では、
慈海院梅花照影大姉
とする。しかし、私はこれを、
慈海院梅花庵照光大姉
と訳した。過去の邦訳には二箇所の問題点がある。一つは“Plum-Flower-Chamber”の“Chamber”が訳されていない点、更に戒名である“Luminous-Shadow”を果たして『明影』と漢訳することが正当かどうかという点である。私はいずれの問題も従来の訳では納得出来ない。院殿居士の「殿」は江戸時代の武士階級の妻の戒名ではあり得ない。とすれば「庵」ではないかという判断である。更に、従来の『影』という文字が戒名としては私には如何にもぴんとこないのである。更に“Luminous-Shadow”を凝っと見つめいると、ハーンは「影」という字を一辺倒に「物の影」「陰影」と解釈してしまい、古語としての「影」=「光」の意をここでは失念していたのではないか、と思ったのである。そこから私は「影を照らす」ではなく、「遍く仏光が照らし尽くす」というイメージを連想し(田中氏の訳はその後に見た)、「照光」の訳を導き出しものである。「明光」でも悪くないが、全くの私の趣味からは「照光」のほうがピンとくるのである。私の漢訳が致命的に誤りであるとされる方は、その証左をお示し戴いた上で、御教授願えると幸いである。]
僕は今こんなことをやりかけているのです――その1
*
OF A PROMISE BROKEN BY LAFCADIO HEARN
[やぶちゃん注:以下の原文は“K.Inadomi”氏の英文 LAFCADIO HEARN サイト“K.Inadomi's Private Library”の“Of a Promise Broken by Lafcadio Hearn”の本文部分を使用させて頂いた。]
I
"I am not afraid to die," said the
dying wife; — "there is only one thing that troubles me now. I wish that I
could know who will take my place in this house."
"My dear one," answered the
sorrowing husband, "nobody shall ever take your place in my home. I will
never, never marry again."
At
the time that he said this he was speaking out of his heart; for he loved the
woman whom he was about to lose.
"On the faith of a samurai?" she
questioned, with a feeble smile.
"On the faith of a samurai," he
responded, — stroking the pale thin face.
"Then, my dear one," she said,
"you will let me be buried in the garden, — will you not? — near those
plum-trees that we planted at the further end? I wanted long ago to ask this;
but I thought, that if you were to marry again, you would not like to have my
grave so near you. Now you have promised that no other woman shall take my
place; — so I need not hesitate to speak of my wish. . . . I want so much to be
buried in the garden! I think that in the garden I should sometimes hear your
voice, and that I should still be able to see the flowers in the spring."
"It shall be as you wish," he
answered. "But do not now speak of burial: you are not so ill that we have
lost all hope."
"I have," she returned; — "I
shall die this morning. . . . But you will bury me in the garden?"
"Yes," he said, — "under the
shade of the plum-trees that we planted; — and you shall have a beautiful tomb
there."
"And will you give me a little
bell?"
"Bell — ?"
"Yes: I want you to put a little bell in
the coffin, — such a little bell as the Buddhist pilgrims carry. Shall I have
it?"
"You shall have the little bell, — and
anything else that you wish."
"I do not wish for anything else,"
she said. . . . "My dear one, you have been very good to me always. Now I
can die happy."
Then
she closed her eyes and died — as easily as a tired child falls asleep. She
looked beautiful when she was dead; and there was a smile upon her face.
She
was buried in the garden, under the shade of the trees that she loved; and a
small bell was buried with her. Above the grave was erected a handsome
monument, decorated with the family crest, and bearing the kaimyô: —
"Great Elder Sister, Luminous-Shadow-of-the-Plum-Flower-Chamber, dwelling
in the Mansion of the Great Sea of Compassion."
. .
. . . .
But, within a twelve-month after the death
of his wife, the relatives and friends of the samurai began to insist that he
should marry again. "You are still a young man," they said, "and
an only son; and you have no children. It is the duty of a samurai to marry. If
you die childless, who will there be to make the offerings and to remember the
ancestors?"
By
many such representations he was at last persuaded to marry again. The bride
was only seventeen years old; and he found that he could love her dearly,
notwithstanding the dumb reproach of the tomb in the garden.
春燈のあざむく影を投じたる
大名其識量ある事
伊達遠江守村候(むらとき)は至て面白(おもしろき)人にて、坊主に成度といへど叶はず、鏡に向ひ坊主と見へれば心持よしとて鬢口(びんくち)を深く剃(そり)、大奴(おほやつこ)にてありしが、小鼓を打(うち)て能など催されけるが、或時同席の諸侯の許に能ありて見物に參られしが、三番目の脇は寶生(ほうしやう)新之丞にて、老人にてありしが、中入に間(あひ)など出て暫くのかたり抔ありし。脇はいかにも退屈らしきものなれば、右の處を思ひやりしや、饗應に出し銚子と大盃(おほさかづき)を遠江守持てすつと立、舞臺に至り新之丞が前に居(すは)り、さぞ退屈なるべし一盃呑(ぱいのみ)候へとて、大盃に一杯を新之丞に呑ませしと也。武家の慰(なぐさみ)に見る能なれば、さも有べき事と人のかたりぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:能楽面白エピソードで直連関。私は何とも言えず、本話が好きである。
・「識量」見識と度量。伊達遠江守村候は執筆時には既に鬼籍に入っていた可能性が高い。根岸のこの標題は、もしかすると村候という稀代の「見識と度量」を持った名大名は今やなく、「見識と度量」を持たぬ凡愚の大名がそここに跋扈していることを、どこかで皮肉っているのやも知れぬ。本話者は最後に『武家の慰に見る能なれば、さも有べき事』と如何にも侮蔑的な評を附しており、そこまで根岸はしっかりと採話している。しかし、もしこれに話者(根岸ではない)の本意から見出しをつけるなら、『大名其識量ある事』とは間違ってもなるまいと思われるのである。根岸は、この話をして呉れた点に於いては、この話者に敬意を表しながらも、実はその侮蔑的な評を最後に附した話者の心底に対しては、断固「否!」と断じている、と私は思うのである。いや、寧ろ、本話は最初から評言まで総てが話者の言のように見えても、実は同時代人であった根岸の好意的な直接観察の視点が、冒頭の大奴の映像としてあるように私には思われてならないのである。さればこそ、根岸はこのかぶいた伊達村候を、まっこと『至て面白人』と実感したのであり、能舞台でのそのぶっとんだ仕儀をもってして、標題の『大名其識量ある事』としたのである、と読むのである。この私の見解については、大方の読者のご意見を俟つものである。
・「伊達遠江守村候」伊達村候(だてむらとき 享保八(一七二三)年又は享保一〇年~寛政六(一七九四)年)は伊予国宇和島藩第五代藩主。以下、ウィキの「伊達村候」より引用する(アラビア数字を漢数字に代えた)。『享保二〇年(一七三五年)、父の死去により跡を継ぐ。寛延二年(一七四九年)、仙台藩主伊達宗村が、本家をないがしろにする行為が不快であるとして、村候を老中堀田正亮に訴える。村候は、宇和島藩伊達家が仙台藩伊達家の「末家」ではなく「別家」であるとして従属関係を否定し、自立性を強めようとしていた。具体的には、仙台藩主から偏諱を受けた「村候」の名を改めて「政徳」と名乗ったり、「殿様」ではなく仙台藩主と同様の「屋形様」を称したり、仙台藩主への正月の使者を省略したり、本家伊達家と絶交状態にあった岡山藩池田家と和解したりしたのである。堀田正亮・堀川広益は両伊達家の調停にあたった。堀田は仙台藩伊達家を「家元」と宇和島藩伊達家を「家別レ」とするといった調停案を示した。表面的には、同年中に両伊達家は和解に達した。しかし、その後も両伊達家のしこりは残ったようである』。『藩政においては、享保の大飢饉において大被害を受けた藩政を立て直すため、窮民の救済や倹約令の制定、家臣団二十五か条の制定や軍制改革、風俗の撤廃や文武と忠孝の奨励を行なうなど、多彩な藩政改革に乗り出した。宝暦四年(一七五四年)からは民政三か条を出して民政に尽力し、延享二年(一七四五年)からは専売制を実施する。宝暦七年(一七五七年)一二月には紙の専売制を実施し、寛延元年(一七四八年)には藩校を創設するなどして、藩政改革に多大な成功を収めて財政も再建した』。『しかし、天明の大飢饉を契機として再び財政が悪化し、藩政改革も停滞する。その煽りを食らって、晩年には百姓一揆と村方騒動が相次いだ。そのような中で失意のうちに、寛政六年(一七九四年)九月一四日(異説として一〇月二〇日)に七〇歳で死去し、跡を四男・村寿が継いだ。法号は大隆寺殿羽林中山紹興大居士』。『教養人としても優れた人物で、「楽山文集」、「白痴篇」、「伊達村候公歌集」などの著書を残した。また、晩年には失敗したとはいえ、初期から中期まで藩政改革を成功させた手腕は「耳袋」と「甲子夜話」で賞賛されている』。最後の部分、これ以降に藩政改革の手腕を讃えた記事があるのかどうか(私の記憶では全話の中では今のところ思い出せぬ)、それとも本話を指すのか、調べるのに今少しお時間を頂きたい。
・「鬢口」月代(さかやき)の左右側面の鬢の辺り。
・「大奴」中間の奴などが結った髪形。月代を広く深く剃り込み、極端に狭く残した両方の鬢と後ろの頂に残した髪とで、髷を極短く結んだもの。奴頭。
・「寶生新之丞」宝生英蕃(ほうしょうひでしげ 宝永七(一七一〇)年~寛政四(一七九二)年)宝生流能役者ワキ方。四世新之丞。享年八十三歳であるから、アップ・トゥ・デイトな話柄とするなら寛政期、伊達村候は寛政六年の逝去であるから、寛政初年頃なら、英蕃八十前後、村候は六十五前後となる。
・「間」間狂言(あいきょうげん)。
■やぶちゃん現代語訳
それなりの大名にはまっこと見識と度量のある事
伊達遠江守村候(むいらとき)殿は、まっこと、面白き御仁にて御座る。
坊主になりたいと思うたが叶うべくもなく、
「――鏡に向こうてみたならば、坊主に見えれば、これ、心地よし!」
とて、鬢口(びんくち)を深く剃り込み、美事なる大奴(おおやっこ)であられた。
その異形の村侯殿はまた、小鼓を打ち、能など催さるるがお好みでも御座った。
ある日のこと、同席諸侯の屋敷にて、能が催され、遠江守殿も見物に参られた。
その三番目のワキは宝生新之丞が演じて御座ったが、この時、新之丞は相当な老人で御座った。
中入りに長い間狂言なんどが御座って、更に、暫く語りなどが続く。
客として御座った遠江守殿、舞台を見るに……その出番をひたすら待つ御座る老ワキ方新之丞……何やらん、如何にも手持ち無沙汰ならんと……見えた。
……されば、その面には出ださぬ新之丞の心持ちを思いやられてでも御座ったものか……
饗応に出されて御座った銚子と大盃(おおさかずき)、これ、異形の遠江守殿、両の手に
ぐっ!
と持つ。――
――と――
すっくと立ち――
そのまま
すすっ!
と舞台へと登る。――
――して――
新之丞が前に
ずん!
と座るや、
「――さぞ、退屈で御座ろう。一杯、呑まれるがよろしい――」
――と――
大盃になみなみと注(つ)いだ酒を、新之丞に呑ませた。――
「……とのことで御座る。まあ所詮、武家の慰みに見る能なれば、そんなこともあってもおかしくは御座るまいて……」
とは、それを語った御仁の附言にては御座る。
福岡県若松出身の「河童工房の憤懣本舗」様より(リンク先は「河童工房の憤懣本舗」様のブログ)、火野葦平の「石と釘」の「香木川」について、有力な情報を頂いた。
本文後半に現れる高塔山から西北西に約二キロの地点の福岡県北九州市若松区小石に菖蒲谷貯水池(菖蒲谷ダム)があるのであるが、「河童工房の憤懣本舗」様は、
『今はもうふさがれたのですが、菖蒲谷貯水池から流れ出していた「赤崎川」という用水路のような小川があります。
香木=(あ)か(さ)き川ではないでしょうか?』
と考証されておられる。
他の地名を普通に表記しているのに、葦平がこのようなアナグラムで川名を示したとすると、その意図がやや不審ではあるものの、話柄の川の位置としては頗る自然である。
――いや、何よりも――「石と釘」の河童の子孫の方からのお話なのである。――これほど素敵で確かなものはあるまい。
「河童工房の憤懣本舗」様に、心より感謝致します。向後ともよろしくお願い致します。
十年程前から――やらねばならぬ――やりたいと思っていたことに――暴虎馮河で挑戦する。
ラフカディオ・ハーン小泉八雲の“OF A PROMISE BROKEN”のオリジナル訳である――
少しばかり、他の仕儀のエネルギを割くことになろう。お許しあれ――
「鎌倉攬勝考卷之三」は荏柄天神社本編を終了した。
僕は生れた時、この社前に住んでいた。
乾いた材木を食ふ蟲なども、隨分多量に食物を取らねばならぬ。簞笥の桐の木を食ふ蟲、柳行李の柳や竹を食ふ蟲なども、屢々人を困らせるものであるが、その食物は滋養を含むことが至つて少ないから、小さい蟲ながら常に食ひ續けるために、その害は存外に甚しい。かやうな蟲に食はれた簞笥や柳行李を擲くと、際限なく木材の粉が出て來るが、これは皆一度蟲の腹の中を通過した糞の乾いたものである。木造の建築に大害を及ぼす白蟻も、食物に滋養分が乏しいために多量にこれを食ふので害も頗る甚しい。港の棧橋の棒杭などは「わらじむし」に似た小さな蟲に盛んに食はれるが、これなども絶えず食ひ續けるから忽ち棒杭を孔だらけにして弱らせる。この蟲は往々海底電信の被ひ物を囓つて害を及ぼすことがあるが、常に堅い材木を食ふために強い顎を具へて居るまら、かやうなことも出來るのであろう。
[やぶちゃん注:「乾いた材木を食ふ蟲……」鞘翅(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目ヒラタムシ下目ゾウムシ上科キクイムシ科(ゾウムシ科キクイムシ亜科とも)Scolytidae に属する昆虫の総称。成虫・幼虫ともに一ミリメートル前後から大きくても数ミリメートルで、木材への穿孔生活に適応して短い円筒形である。日本産は少なくとも三〇〇種以上で、『その名の通り、基本的に成虫・幼虫とも樹木の材を食べる。材の中や樹皮の下に細い巣穴を掘って生活しているが、ほとんどの種が多かれ少なかれ菌類と共生して材の栄養摂取を行っており、甚だしいものはアンブロシアビートル(養菌性昆虫)と呼ばれ、材中に掘った坑道の中に植えつけた共生菌類(アンブロシア菌)のみを食べて生活する』(参照したウィキの「キクイムシ」より引用)。アンブロシア菌は菌類子嚢菌門
Sordariomycetes 綱 Hypocreomycetidae 亜綱
Microascales 目 Ceratocystidaceae 科に属する
Ambrosiella spp.。
『港の棧橋の棒杭などは「わらじむし」に似た小さな蟲』以下の図のキャプションで「船食蟲」と示されるものは残念ながらフナクイムシではない。材木への穿孔という条件からは、丘先生は節足動物門甲殻亜門軟甲綱等脚(ワラジムシ)目有扇(コツブムシ)亜目スナホリムシ科 Cirolanidae のスナホリムシ類を掲げたつもりと考えられるが、代表的なニセスナホリムシ Cirolana harfordi japonica としてもやや形状が異なるように見受けられる。いずれにせよ、この「船食蟲」の挿図は生物学的には不適切である。何故なら、真正のフナクイムシという標準和名は、二枚貝綱異歯亜綱ニオガイ上科フナクイムシ科 Teredinidae に属する海産の貝類を指すものだからである。本邦産フナクイムシは十一属を数えるが、中でも Teredo 属がよく見られる。殻は球状で殻頭は小さな三角形を呈し、そこと殻体前部との間には細い肋があり、その上部は鋸歯状となっている。殻体と殼翼とは喰い違っており、殻頂からは棒状の突起も出ている。石灰質の棲管を作り、主として木材に穿孔、木造船や海辺に設置された木造建築物などに甚大な被害を与える。軟体部は非常に細長く、穿孔口の水管の出る部分に栓の役割を持つ尾栓があって、これが種によって矢羽・麦穂状などの多様な形態を示すため、それが分類の目安とされる。ウィキの「フナクイムシ」には『水管が細長く発達しているため、蠕虫(ぜんちゅう)状の姿をしているが、二枚の貝殻が体の前面にある。貝殻は木に穴を空けるために使われ、独特の形状になって』おり、『その生態は独特で、海中の木材を食べて穴を空けてしまう。木材の穴を空けた部分には薄い石灰質の膜を張りつけ巣穴にする。巣穴は外に口が空いており、ここから水管を出して水の出し入れをする。
危険を感じたときは、水管を引っ込めて尾栓で蓋をすれば何日も生きのびることができる』。『木のセルロースを特殊な器官「デエー腺」(gland of Deshayes)中のバクテリアによって消化することができる』とある。スナホリムシ類が木材を食害しないわけではないが、フナクイムシとは比較にならない。尚且つ、二枚目の「船食蟲の害」とする写真は、徹底的に食害された木材の一部に明らかな穿孔状の太い穴の跡が見られ、これはスナホリムシによるものではなく、明らかに真正のフナクイムシによるものとしか見えないのである。なお、この一連の疑義は私のオリジナルなもので、講談社学術文庫版(昭和五六(一九八一)年)にも一切問題にされていない。これは私には不審である。もしも私の疑義が不当であると主張される方は、是非、議論したい。お待ちしている。]
[船食蟲(廓大圖)][やぶちゃん注:キャプション誤り。前注を必ず参照のこと。]
[船食蟲の害][やぶちゃん注:前注を必ず参照のこと。]
以上述べた通り、動物の餌の種類とこれを食ふ方法とには、種々異なつたものがあるが、如何なる方法でどのやうな食物を食ふとしても、絶對に安樂といふものは決してない。滋養分に富んだ餌を食はうとすれば競爭が劇烈であり、滋養分に乏しい食物で滿足すれば日夜休まず食ふことのみ努力せねばならぬ。食物が不足なれば餓に苦しまねばならず、食物が十分にあれば盛に繁殖する結果として忽ち食物の不足が生ずる。草食すれば餌が豐な代りに他動物に襲はれる心配があり、肉食すれば餌の供給に際限があるため、繩張りの區域を定めて隣のものと對抗せねばならぬ。進んで餌を求めれば體を動かすから腹が減り、止つて餌を待てば、いつ滿腹するを得るか見定めがつかぬ。されば如何なる生物も生まれてから死ぬまで、それぞれ特殊の方法によつて餌を求め、他と劇しく競爭しながら辛うじて生命を繼續して居るのであつて、安樂に暮らせるといふ保險附の生物は一種たりともあるべき筈はない。このことは生物の生活狀態を觀察するに當つては、一刻も忘れることの出來ぬ重大な事項である。
浴槽まぶし春眠のにがき唾を吐く
藝には自然の奇效ある事
文昭院樣御代(みよ)、桐の間を勤し祐山(いうざん)は亂舞の名人にて、今も諷本(うたひぼん)抔にも祐山の章とて彼道に志す者は重寶(ちようほう)となしぬ。祐山の能を見し人の語りけるは、いづれ上手とも名人とも見へしが、或時夜討曾我を舞ひけるに、右能は端能(はのう)にて初心童蒙(どうもう)の舞ふ事なるに、祐山のシテにて、右切の太刀かい込んで立たりけりといへる所のあるよし、さしたる仕打(しうち)もなき所ながら、見物の輩思はずもこれを感賞して一同聲を上し由。老人の語りけると也。
□やぶちゃん注
○前項連関:喜多流第九代古能(ひさよし)から第七代宗能(むねよし)祐山へ、乱舞名人芸譚、そのドゥエンデで直連関。
・「文昭院」第六代将軍徳川家宣(寛文二(一六六二)年~正徳二(一七一二)年)。
・「桐の間を勤し」江戸城桐之間に詰めた新番と呼ばれた警護衆。実際には、楽人や舞方を中心に、大名・旗本・公家の美童どころを集めたものであった。
・「祐山」喜多七大夫宗能(むねよし 慶安四(一六五一)年~享保一六(一七三一)年)の号。従五位下丹波守。江戸生。喜多流第二代宗家喜多十大夫当能(まさよし)の養子で寛文(一六六五)五年に三代目を継いだ。当初、第四代徳川家綱(寛永一八(一六四一)年~延宝八(一六八〇)年)に仕えたが勘気を蒙り、鎌倉に蟄居、次いで第五代将軍徳川綱吉(正保三(一六四六)年~宝永六(一七〇九)年)の指南役となるも、再び貞享三(一六八六)年に改易される。翌年に許され、中条嘉兵衛直景と改名して出仕、御廊下番・桐之間番から宝永六(一七〇九)年桐之間番頭となった(綱吉の没年である)。加増相次ぎ、正徳元(一七一一)年には九百石となり、同五(一七一六)年致仕とあるから(家継の没年である)、次代の家宣、夭折した少年将軍第七代家継まで出仕は続いた。享年八十二歳、実に四代の将軍に仕えた舞人であった。なお、養子十大夫長寛が七大夫となって喜多流第四代を継いでいる(以上は底本鈴木氏注及び講談社「デジタル版日本人名大辞典」等を参考にした)。
・「諷本(うたひぼん)」は底本のルビ。
・「章」謡本に書き入れた音譜のこと。
・「夜討曾我」宮増作か。曾我十郎裕成(ツレ)・五郎時致(ときむね:シテ)兄弟は頼朝の催した富士の巻狩に紛れて、父の仇工藤祐経を討とうと富士の裾野に赴く。兄弟は従者の鬼王(ツレ)と団三郎(ツレ)兄弟を呼び寄せて真意を打ち明け、自分達の母への形見を彼らに託すが、彼らは主君と最後をともにしたい、それが許されないとならばとて、二人は刺し違えて死のうとする。十郎が驚いてこれを押し止めて、説き伏せた上、兄弟して母に文を認め、形見を託して、団三郎・鬼王兄弟を故郷へと送り出す(ここまでが前段)。後、二人は祐経の寝所に忍び込んで本懐を遂げる。中入り後は、その後の場面で、既に十郎は討たれており、五郎(シテ)は剛勇古屋五郎(ツレ)を真二つに斬って奮戦するも、女装した五郎丸(ツレ)に捕らえられて、頼朝の御前に引き立てられていくまでを描く。
・「端能」軽い能。謡曲としての「夜討曾我」は曽我物語を題材とした中でも最も劇的で大掛かりな曲で(観世流小書「十番斬」では間狂言と後場の間に時致と新開忠氏及び祐成と仁田忠綱の斬り合いの場面が挿入される)、アクロバティックであるが故にかく言ったものか。――関係ないが、現代では「端能」と書くと、物質が放射線を出す能力を言う。何と、無粋で哀しいことか。――
・「初心童蒙」能の初心の、それも青少年の演じるものという意。家宣が将軍となった時点でも、祐山喜多七大夫宗能は既に六十歳であった。
・「切」能の終曲部分。以下に「夜討曾我」の中入り後の後段総てを示す(キューブアキ氏の「夜討曽我」から引用させて頂いたが、一部の漢字を正字化、それに伴って注を省略した部分がある)。
《引用開始》
一セイ
後ツレ「寄せかけて、打つ白波の音高く、閧を作って、騷ぎけり
後シテ「あら夥しの軍兵(ぐんびょう)やな
「我等兄弟討たんとて、多くの勢は騷ぎあひて、此處を先途と見えたるぞや。十郎殿、十郎殿。何とてお返事はなきぞ、十郎殿。宵に仁田(にった)の四郎と戰ひ給ひしが、さてははや討たれ給ひたるよな。口惜しや、死なば屍(かばね)を一所とこそ、思ひしに
「物思ふ春の花盛り、散り々々になって此處彼処に、屍を曝さん無念やな
地 「味方の勢はこれを見て、味方の勢はこれを見て、打物の、鍔元(つばもと)くつろげ時致を目がけて懸りけり
シテ 「あらものものしやおのれ等よ
地 「あらものものしやおのれ等よ。前(さき)に手練(てなみ)は、知るらんものをと太刀取り直し、立ったる氣色譽めぬ人こそなかりけれ。かヽりける處に、御内方(みうちがた)の古屋五郎、樊噲が、怒りをなし張良が祕術を(と)盡しつヽ、五郎が面に斬って懸る。時致も、古屋五郎が抜いたる太刀の、鎬(しのぎ)を削り、暫しが程は戰ひしが、何とか斬りけん古屋五郎は二つになってぞ見えたりける
「かヽりける處に、かヽりける處に、御所の五郎丸御前に入れたて叶はじものをと、肌には鎧乃袖を解き、草摺輕(かろ)げに、ざっくと投げ掛け上には薄衣(うすぎぬ)引き被(かづ)き、唐戸(からと)の脇にぞ待ちかけたる
シテ 「今は時致も、運槻弓の
地 「今は時致も、運槻弓の、力も落ちて、眞(まこと)の女(じょ)ぞと油斷して通るを、やり過し押し竝(なら)べむんずと組めば
シテ 「おのれは何者ぞ
五郎丸「御所の五郎丸
地 「あら物々しと綿嚙(わだがみ)摑(つか)んで、えいやえいやと組み轉(ころ)んで、時致上になりける處を、下よりえいやと又押し返し、その時大勢おり重なって、千筋(ちすじ)の繩を、かけまくも、忝(かたじけな)くも、君の御(おん)前に、追っ立て行くこそ、めでたけれ
《引用開始》
「運槻弓」は「運、つきゆみの」と「運尽きる」に掛ける。「綿噛」は鎧の胴を肩から吊す革。本文の引用は前の方の地歌の『あらものものしやおのれ等よ。前に手練は、知るらんものをと太刀取り直し、立ったる氣色譽めぬ人こそなかりけれ』の部分に相当する。確かにここは見せ場であるが、えらく前の部分ではある。「切」という言葉は、狭義の最後のシーンを指すものではなく、謡曲の後半シークエンス全体を漠然と指すものなのであろうか。私は寧ろ、この話者の老人が、続く台詞の『譽めぬ人こそなかりけれ』に引っ掛けて、『見物の輩思はずもこれを感賞して一同聲を上し』と語るための、確信犯の引用ではなかろうかという気がしている。訳ではそのように訳した。
・「仕打」俳優が舞台でする演技。仕草・こなしの意。
■やぶちゃん現代語訳
芸には自然神妙の技ある事
文昭院様の御世、桐之間番を勤めた祐山喜多七大夫宗能殿は、これ、乱舞(らっぷ)名人で御座った。
今に通行(つうぎょう)する謡本(うたいぼん)などにもても、『祐山の章』と呼ばれる祐山殿直筆の書き入れが残っており、これらを、かの道を志す者は重宝(じゅうほう)と致いておる。
祐山の能を見たことがある、さる御仁の話によれば――確かに世間で言うところの『上手』とも『名人』とも言われん舞人であったとのことで御座るが――これ、ただの『上手』『名人』では御座らなんだ、という……
……ある時のことじゃ、祐山殿が「夜討曾我」を舞って御座ったが……まあ、この能、端能(はのう)で御座って、の……謂わば、そのシテ五郎時致(ときむね)は、まず、初心者、少年の舞うものと相場が決まって御座る……それを既に齢(よわい)六十を越えた御大祐山が舞(も)うたのじゃ……かの切りにはの、
「――太刀取り直し、立ったる気色――」
というシテ五郎の、とびきりの見得を切る見せ場が御座るのじゃが……祐山殿のそれは、さしたるこなしとも見えなんだにも拘わらず……見物の輩、皆……思わず知らず心打たれての、
――『これを譽めぬ人こそなかりけれ』と――
一同、感嘆の声を、挙げてござったじゃ……
……と、その老人の語って御座った由。
川風
川風に、高橋大明神と肉太にかかれた高張提灯(たかばりちやうちん)がいまにも飛びさうにゆれる。まつ晝間なので、燈はつけてなく消える心配はない。ゆれてゐるのは提燈ばかりではない。御幣(ごへい)、幔幕(まんまく)、鈴綱、幟(のぼり)、手洗の手拭、神主の烏帽子のたれ、袖、裾、自慢の顎鬚(あごひげ)ゆれる資格のあるものはことごとくゆれる。川緣にちかく、土俵がつくられ、それをとりまいて何百といふ群衆が密集し、土俵ではさつきから、腕自慢の力士連によつてつぎつぎに番組がすすめられてゐるが、これらの多くの男女達の着物から、髮から、やはり川風にしたがつてゆれないものはない。しかし眞夏のことであるし、寒くはないのである。涼しくて氣持がよいくらゐだ。川の流れも波だつてゐるが、この筑後川(ちくごがは)の水氣をふくむはげしい川風で、もつとも多く動搖してゐるのは、ことに集つて喧騷をきはめてゐる人心かも知れない。勝負に熱中してゐる筈の群衆の眼が、とき折不安げに川面にそそがれるのでそれはわかる。或る者はその川風もどうやら生ぐさいと思つてゐるかも知れないのだ。岩にぶつつかつて走る流れの間にちらとなにかが浮かぶと、緊張の眸(まなざし)が瞳孔をひらく。河童の皿かと思ふのであらう。しかし、まだ、たれも河童の姿をつきとめた者はない。たしかに見たといふ者はあつても、指さされた者の眼にとまらないのでは仕方がない。しかし、群衆のすべてが、いまここで催されてゐる角力(すまふ)を、川のなかからかならず河童が見物してゐる筈だといふ切ない期待はいだいてゐるのである。
[やぶちゃん注:「高橋大明神」現在の福岡県うきは市吉井にある高橋神社。]
岸から一間ほど幹れた水中に葭張(よしずば)りの祭壇がしつらはれて、五つの三寶にそれぞれ、胡瓜(きうり)、茄子(なす)、西瓜(すゐくわ)、馬鈴薯(ばれいしよ)、唐黍(たうきび)、が山にして供へられてゐる。いづれも河童の好物ばかりだ。河童が魚類の好きなことはわかつてゐるが、鯉、鮒(ふな)、鯰(なまづ)、かまつき、などの豐富な筑後川の河童に、なにもあらためて魚を獻上する要はないのである。先刻、神主の祝詞(のりと)も終つて、肝心(かんじん)の行事たる角力大會がはじまつたのだつた。大會といつても人間の祭禮ではない。近郊數箇村から選りぬきの取り手が集り、勝負を爭ふのに變りはなかつたけれども、それはまつたく筑後川に棲息する河童たちへの敬意、供養、阿諛(あゆ)、歎願、またいはば、たぶらかしの目的をもつておこなはれてゐるのだつた。筋骨隆々たる屈強の若者たちが、祕術をつくして土俵上でたたかひ、その勝敗にしたがつて、群衆のどよめきは川風にさからつて川面の方へ殺到していく。河童たちが見てゐるとすれば、かれの眼と耳とに、この颯爽たる光景がはたしていかなる效果をもたらしてゐるだらうか。人々の關心はそこにあつて、ときどき不安と期待のながし眼がそつと川面にそそがれた。千斷れ雲の走る靑空に、ぎざぎざのいただきを長々とつらねて耳納山(みなふざん)がそびえてゐる。天狗の耳をおさめたといふこの山は、九十九峰とも白峰ともいはれ、豐富な峰を屏風のやうに南北にくりひろげて、筑後川の背景として壯大の山氣をあらはしてゐる。しきりに白雲がその絶頂をかすめて過ぎる。
[やぶちゃん注:「かまつき」これはコイ目コイ科カマツカ亜科カマツカ Pseudogobio esocinus を指しているのではないかと思われる。食用淡水魚。
「耳納山」福岡県南に連なる筑後川を含む筑後平野を見下ろす耳納山地の主部を形成する山。標高三七〇メートル。こちらのyamate氏のHP「耳納山の四季」に、ここに書かれた伝承と思われるものがあったので、そのまま引用させて戴く(『吉武栄蔵「耳納連山の伝承を訪ねる」「田主丸郷土史研究第2号」より』とある)。
「むかし、足代山(耳納山)に怪物が出没し、人々に被害を及ぼすようになりました。
村人たちは、必死に退治しようとしましたが、とてもかないません。
そこで村人たちは相談して、今光坊然廓上人の法力にすがることにしました。
上人は、宝剣を持ち山中にこもりました。夜もふけた頃、降りしきる雷雨の中から頭は牛、身体は鬼の怪物が現れ、上人に立ち向かってきたのです。上人は少しも騒がず、宝剣でこの怪物をたおしました。
この時、怪物の耳をとって山頂に埋めたので、それからこの山を耳納山と呼ぶようになったとも言われています。」]
青くよどんだところや、わりあひに淺くて、河底の赤褐色(あかがつしよく)の砂が水の色のやうに見えるところや、勢あまつた流れが曲り角に來て、くるくるといくつも小さな渦をつくりながら、瀨波をたててゐるところや、筑後平野を幾筋にもなって潤してゐる分流が、出あつて飛沫をあげてゐるところや、さういふさまざまの水をあつめて、筑後川はひろびろとたゆたひながら有明海へそそいでゐる。かういふ豐かな水流が全國一の河童の群棲地となつたことは、偶然ではない。九千坊といふ名だたる頭目によつて統御せられ、全國各地に分散した河童群の孤立、放埒(はうらつ)、出鱈目さにくらべて、いくらか秩序はとれてゐたが、もともと奔放(ほんぱう)な河童の習性は、その傳説の掟にしたがつて、人間融合との關係においては、しばしば圓滑を缺くことのあつたのはやむを得なかつた。集團的には筑後川と巨瀨(こせ)川との河童たちが勢力爭ひの結果、鬪爭を展開するときに、白己の繩張りの内の水量を兩方からふやしあつて壓倒せんと企て、堤防から氾濫(はんらん)させて洪水をひきおこすことによつて、沿岸の人々を困却させた。しかし、このことは稀であつた。五年に一度もあれば頻繁(ひんぱん)の方である。殊に堤防と放水路が完備してからは、どんなに河童が氣張つてみたところで、堤防を氾濫させることも決潰(けつかい)させることもできなくなつた。困るのは、河童たちがのこのこと堤防にあらはれては、通行人に角力を挑(いど)むことである。
[やぶちゃん注:「巨瀨川」現在の福岡県うきは市及び久留米市を流れる筑後川水系の一次支流の一級河川。]
月の夜を河童はもつとも好んで誰彼の差別なく試合を申し込む。三尺ほどしかない小柄の河童を馬鹿にして、はじめは面白がつて相手になつた人間たちは、しまひにはさんざんの目にあはせられて、もはや月の夜の通行をやめるにいたつた。ところが河童の出沒は夜とはかぎらない。黄昏(たそがれ)どき、夜あけがた、まつ晝間、雨の日、風の日、雪の日を問はず、土堤(どて)を通行する人間のまへに、飄然(へうぜん)と姿をあらはす。また、土堤とはかぎらず、橋の上、村々の辻、道路にまで出張して來るやうになつた。はては寢てゐるのを戸をたたいて起してまで人間に挑戰するのだつた。別に人間に危害を加へようといふ惡意は全然ないのだ。ただ角力が好きでたまらないのである。相手になつてやるとよろこんでゐるが、相手にしないと怒つて崇りをする。ところが、その相手になるといふことが、人間の方ではさう樂なことではないのである。小柄な癖に馬でも川にひきいれるほど強力な河童だから、力自慢といはれた連中でも多くは河童にかなはない。投げたふされたうへに發熱したり、囈言(うはごと)をいふやうになつたり、河童のさはつたところから、身體に吹きでものができたり、そこから腐つたりする。さう河童に負けてばかりもゐない。河童を投げたふす強力の者もある。引つくりかへされた河童は皿の水が流れて、死ぬ者もあるのだが、勝つた方もただではおさまらない。負けた者と同じ症状をおこす。勝つても負けても同じこと、結局河童に一度角力を挑まれたが最後、病人か狂人かになつてしまふわけなのだ。筑後川近郊の人々が迷惑、いや恐怖したのも無理はない。もつとも、川に群棲してゐた河童の數にくらべると、事件は意外に少かつたといへる。川中の河童が大擧して同じ行動に出たならば、沿郊の村民たちは日ならずしてことごとく痴呆か不具かになり終つたであらう。その被害の僅少であつたのは、頭目九千坊の訓戒と嚴格の賜ものであつた。聰明にして臆病な九千坊は、必要以上の人間との接觸によつて、一族のうへにくだされる報復と刑罰とを恐れたのである。他族のなかには、自分たちの意志がまつたく人間攻撃になかつたにもかかはらず、内輪同士の爭ひによつて間接に人間に被害をあたへたため、山伏の呪詛(じゆそ)にかかつて、永遠に地中に封じこめられるにいたつた悲慘事や、加藤淸正の逆鱗(げきりん)にふれたため、川に毒を流され、大砲を射ちこまれ、燒石を投げ落されて住所を失ふにいたつた故事や、これに類する教訓は數多くあつて、つねづね、九千坊は部下たちに、人間がいかに愚かとはいへ、輕蔑することはよろしくないと、おどろおどろしい聲に峻嚴(しゆんげん)の威壓をこめて、放埓の行動をいましめたのであつた。また實際禁をを犯すものはただちにその甲羅を一枚づつ剝ぎとることによつて、部下たちに範を示した。甲羅を一枚失ふことは五年の命を縮められたと同じ刑罰である。にもかかはらず、堤防にあらはれる河童たらの跳梁(てうりやう)はなかなか止まないのである。
[やぶちゃん注:「崇りをする」の「崇」はママ。]
戰慄した村々の代表者が鳩首(きゆうしゆ)して協議決定したことは、角力供養をすることによつて、この難から脱れようといふことであつた。河童は角力が好きなのだ。然らばその大好きな角力を心ゆくまで見物させることによつて、その好角心を滿足せしめたならば、わざわざ自分で力を費すことの勞を止めるであらう。またさう賴まなくてはならない。河童の大好物の菰菜類も十分に進呈して懇願すれば、河童とて生あるもの、こちらの意のあるところも汲んでくれるであらう。――大評定の結果、さまざまの意見はその一點へ集中し、ただちに、高橋大明神の神官の采配のもとに、祭典の準備がすすめられたのであつた。
川緣の廣場に、角力の番組の進行にしたがつて、喊聲(かんせい)とどよめきは湧きたつた。行司をつとめてゐるちんちくりんの神官は狸のやうな眼つきで、一勝負ごとに、川面に細い眼を投げた。河童の姿をまだ一度も見ないので、やや張りあひ拔けしてゐるのである。河童の承諾を得たわけでもない一方的行爲なので、效果のほどが察しられる。先刻、水中の祭壇にむかつて祝詞をあげたとき、懇々と事情を詳述して、害を止めてくれるようにと請願したのだが、それが通じたかどうかも怪しい。河童の言葉を知らないので、勝手に當方の慣習によつてしやべつたが、ただ賴みとするは、河童が角力を挑むときにやはり人語を使ふといふこと、だけである。もつとも、神官を長年してゐるが、神を信じたことは一度もないので、神の加護を期待する心は起らなかつた。ただ、角力好きの河童が、大好物の角力を滿喫することによつて、今後人間への挑戰を思ひとどまる可能性はないともいへぬとわづかに期待した。さすれば毎年、春秋二季くらゐの年中行事にするのである。しかし今日の大角力を河童が見てゐないとなると問題にならないのだ。なんのための大騷ぎかわからなくなる。神官はやや焦躁の色を表にあらはして、川面へ頻繁に瞳を投げた。見て居つてくれるよう、と怒鳴りたい氣持だつた。無論、今日の效果如何によつて禮金に差のあることが念頭を去らなかつたことはいふまでもない。
[やぶちゃん注:末尾「いふまでもない」は底本「いふまでもい」。訂した。]
炎天の下で、熱狂する角力取りも見物も汗だくになつた。川風ははげしいが、涼氣で膚を乾かすほどでもない。むしろ妙になまぐさくてべとつく。選手たちは獻身的な情熱にあふれてゐた。自分たちの角力によつて禍(わざわひ)をなす河童たちを慰め得れば、人々の難を救ふことになる。犧牲的精神の涙ぐましい快感が、日ごろの技(わざ)をさらに絢爛たるものにして、土俵上には、隆々たる筋肉の跳躍、展開、火花、龍虎の術がくりひろげられた。彼等の眼もときに川面に走り、ただ水の流れの白々しさがあるばかりに、失望と焦躁の色をあらはした。
見物たちの眼も川面へ走り勝ちだつたことはいふまでもない。そしていまだに誰も河童の姿を確認しないことによつて、今日の失敗からひきつづく災厄への不安で、熱狂の喊聲を口から發し、勝負ごとに拍手をしてゐるにもかかはらず、顏色は晴れ晴れとしてゐなかつた。
しかし、案ずることはなかつた。角力狂の河童がどうしてこの千載一遇(せんざいいちぐう)の盛大な興行を見のがさうか。水面にはまるで將棋の駒をならべたやうに、ずらりと河童がならんで見物してゐたのであつた。人間の肉眼に見えないだけである。河童が時に應じて姿を消すことのできることは人々の知るとほりである。人々は氣づかないのであらうか。この川風のはげしさこそは、河童の出現によつて起つたものであることを。鼻の敏感なるものだけがわづかに風の生ぐささに氣づいたが、たしかに河童との判定はできなかつた。ここに河童と角力をとつた者がゐたならば、或ひは氣づいたかも知れない。一匹の河童が出て來ても、それには川風がかならず伴ふのである。しかし河童に禍をうけた連中はここには出て来てゐなかつた。一つは病氣のため、一つは恐怖のため。
ゐならんだ河童たちは、一勝負ごとに熱狂して、聲を發し、手を打つた。その聲も音も風とかはつて、ひとしきり、高張提灯、幔幕、幟、神主の顎髭をゆるがした。河童たらの眼はこの空前の見世物に異樣なかがやきを帶び、興奮して嘴をひらき、息荒く甲羅もきしむほど肩をうごかし、ゐたたまれぬやうに、手足を躍動させた。人間が土俵のうへで格鬪し、轉倒するたびにその身振りを眞似た。恐らくかれらは土俵へ飛び入りしたい誘惑にうづうづしてゐたかも知れない。九千坊の嚴戒を獨りでひそかに破ることにかけては果敢であつたが、知られることは好ましくはなかつた。かう大勢の仲間がゐては、密告する奴がゐないともかぎらない。甲羅の足りない河童もゐるところを見れば、經驗者もゐるのである。河童たちははやる心を押し沈めた。人間同士の角力の面白さはすこぶる河童たちを滿足せしめた。日暮れになつて、幕が閉ぢられるまで、一匹として水面を去る者はなかつた東西横綱の一番で打ち止めとなり、優勝した巨大漢が萬雷の拍手のなかに土俵入りした。神官が閉會を宣すると同時に、いままではげしく吹いてゐた川風がぴたりと止んだ。
築後川の堤防にあらはれて、人間に角力を挑む河童の數はそれからはさらに數を増した。増したばかりではない。河童の好尚(かうしやう)はいつそう熱烈となり、その手口はこみいつて來た。角力供養の效果を信じた連中がうかうかと堤防を通りかかつて、たちまち河童に遭遇した。被害は減るどころか以前に倍加したのである。
かくて、義憤をおさへかねた強力の男が(その男は角力供養の花形横綱であつた)最初から膺懲(ようちよう)の目的をもつて、土堤に出張るにいたつた。角力大會で優勝した彼は責任をも感じてゐて、その犧牲的英雄的心事は悲壯なものがあつた。彼は母親と妻子に水盃で別れをし、筑後川近郊住民の運命を一身に負ふ心意氣で、月明の夜をえらんで、堤防に立つた。彼は大聲して河童を呼びたてた。呼びたてるまでもなかつた。生ぐさい川風が芒(すすき)を騷がせる音がしたかと思ふと、眼前に膝までしかないくらゐの一匹の河童が立つてゐた。頭の皿が靑く硝子のやうに光り、嘴が烏のやうで、たえず木の實を嚙んでゐるやうな音がかすかに口のなかできこえてゐた。背後から月光をうけて河童の影は地上に、まるでつぶされた蟇蛙(がまがへる)のやうに貧弱にへたばつて見えた。ちやうどその頭のところが角力取りの足のさきのところにあつて、這ひつくばつて許しを乞うてゐるやうに見えた。膂力(りよりよく)に自信があるとはいへ、多少は不安でもあつた村の横綱は、それを眺めてにはかに勇氣百倍した。さらさらと芒の鳴る音が連續して、しきりに川風が堤防を流れる。河童たちが見物に來た模様である。萬物の靈長たる人間に災厄をもたらすこの矮軀醜惡(わいくしゆうあく)の動物にたいして、關取は憎惡と憤激の情に驅られた。ひと摑みとばかり躍かかつた。勝敗はいふまでもない。横綱は足を挫き、手折られ、身體中傷だらけ血だらけになつて、翌朝、高橋權現の手洗鉢のなかで發見された。神主はじめ村人、肉親が駈けつけても全然意識がない樣子で、たれの警顏も判別できず妙な節まはしの歌をうたひ、げらげらと笑つてばかりゐた。彼がどうして手洗鉢をベッドにしてゐたか、誰も知る者はない。ただ彼が何者のためにかかる慘憺たる目にあはされたかは誰もが暗默に知つてゐて、並ゐる者ことごとくあらためて恐怖に鳥肌だつたのであつた。
しかし、河童の方とて何匹かの犧牲者を出した。さすがに近郊一の力持、さうたやすくはいかなかつた。もしこれが昔だつたら、或ひは河童たらはもつと多くの被害者を出してゐたかも知れない。否、或る古老のごときは、角力供養をしない前であつたら、横綱は河童をことごとく投げたふして、その災厄を消滅させたかも知れないとさへいつてゐる。角力供養以後、案に相違して、河童の行動はとみに活況を呈し、その手口がこみいつて來たといふのもまことにかの角力供養のもたらした成果であつた。河童は見物によつてたしかに滿足はしたが、やめるどころか、角力の面白さに一段と興味を感じ、おまけに、これまで知らなかつた角力の手までおぼえた。あれ以後、出沒する河童たちは、さまざまの角力の手を、(あのとき、土俵で選手たちが祕術を展開するたびに熱心に眞似てゐたのだが)投げ、掛け、反(そ)り、捻(ひね)り、そのおのおのの十二手、さらにその裏表、上手投げ、背負ひ投げ、上矢倉、卷落し、はたきこみ、内掛け、一本掛け、手組み倒し、撞木(しゆもく)反り、はては、鴨の入れ首、合掌捻り、右手草摺りがへし、五輪くづし、――もともと力のあるところへ、手をおぼえたのだから、鬼に金棒である。それでなくてさへ、人間の負ける率が多かつたのに、この河童の勉強によつて生じた結果は述べるまでもあるまい。悲壯な決意のもとに起(た)つた、膂力拔群、六尺六寸の巨漢、角力祕法四十八手裏表の自由自在の使い手、筑後川流域に名をとどろかした横綱も、つひに河童に名を成さしめたのである。つまり自分の技術によつてたふれた結果になつたのであつた。關取は死にはしかつたが、痴呆状態となつて生ける屍と化した。角力の手を全部忘れてしまつたのは無論である。ところが、あらゆる記憶と意識を喪失してゐたにもかかはらず、角力とい言葉聞くや否や、どろんと濁つた眼をかつと見ひらいて、異樣な恐怖の聲を發し、慟哭(どうこく)するごとく大笑するのを常としたといふ。
[やぶちゃん注:「捻(ひね)り」のルビは底本では「ひねり」。訂した。なお、本段落に登場する相撲の四十八手については「日本相撲協会」監修の「決まり手一覧」及び旧来の手を解説したウィキの「四十八手」などを参照されたいが、それでも聞きなれない手が含まれている。それを想像するのも、また、一興である。]
河童の跳梁はいまもなほ絶えない。筑後川流域を旅する人には注意を喚起(くわんき)しておきたい。地元の人々は被害に耐へかねて、種々研究するところがあり、このごろでは災厄を蒙(かうむ)ることがきはめて減少したといふことである。それは久留米(くるめ)水天宮の權威による傳説の掟の解明によつて、河童への封じ手が發見されたからである。河童は佛飯(ぶつぱん)(佛に供へた御飯)がすこぶるきらひである。河童に角力を挑まれた男がちよつと待てといつて用意の佛飯を口中にのみこみ、さあといつて手をひろげたところ、お前の眼は光るから止めたいといつて退散したといふ。また、左遷されて筑紫へくだつて來た菅原道眞が河童と交渉のあつたことが、舊記に發見されて以來、簡便の河童撃退策となつた。「いにしへの約束せしを忘るなよ川だち男氏(うぢ)は菅原」さう唱へれば河童は近づくことができないのである。かういふことは地元で流布(るふ)し、最近では河童の方が脾肉(ひにく)の歎をかこつてゐるらしいが、旅人は知らないで遭難するかも知れないので注意を申しておくのである。
[やぶちゃん注:「久留米水天宮」は現在の福岡県久留米市にある神社。全国の水天宮総本社である。天御中主神・安徳天皇・高倉平中宮(建礼門院平徳子)・二位の尼(平時子)を祀る。ここに記された本社と河童伝承は例えば、こちらの「水天宮と河童」のページ(但し、総てリンクは落ち)や坂田健一氏の「神様になったカッパ」などで披見出来る。]
聰明にて臆病な頭見千坊は、度(たび)かさなる戒告にもかかはらず、人間にしきりに接觸して恨みを買ふ部下たちを時を見てはさらに嚴訓することがあつた。ところが暗愚な部下たちはなんのため自分たちが叱られるのか、どうしてもわからないのである。害をなすなとか、惡事を働くなとか、人間から恨まれるとか、いくらいはれてもわからない。かれらはただ鬱勃(うつぼつ)と身内にわきあがつて來る情熱のままに、虛心に行動してゐるだけなのだつた。角力が好きでたまらないから人間と角力をとるだけの話なのだ。そのことがどんな結果になるか、そんなことは知らないし、どうでもよいのである。河童はだからこのごろはさびしい。おたがひ同士でやつてみたところですこしも面白くない。八百長(やほちやう)になつてしまふからだ。筑後川の土堤にはしきりに川風が吹く。季節季節で、その川風に吹かれるものが、蒲公英(たんぽぽ)であつたり、虎杖(いたどり)であつたり、野菊であつたり、芒であつたりする。草や花では角力の相手にならない。川風はやけのやうにびゆうびゆう吹くときがある。氣が立つてゐるのである。何度もいふが、旅人はとくと氣をつけた方がよろしい。
「鎌倉攬勝考卷之三」は只今、「鶴岡八幡宮」の最後の「小別當」「神主」「十二箇院」及び「若宮舊跡」まで、即ち、鶴岡八幡宮の大パートを総て終了した。
亂舞傳授事の事
亂舞(らつぷ)傳授事いかにもうやうやしくせし事、幷に謝禮等も弟子迄も夫々附屆(つけとどけ)いたす事、埒(らち)なき事と咄の序(ついで)に、平賀式部少輔(せう)は七太夫が弟子にて彼道をも深く學びしに、式部少輔申けるは、されば其事也、或時七太夫に向ひ、傳授事の謝禮等あまり事重きは不當(あたらざる)事也、其藝に執心の者も貧乏の者は其志を不遂(とげず)無念の事と申ければ、七太夫答けるは、其職分の者其外格別執心の人には、其謝禮の厚薄を不論(ろんぜず)傳授する事も侍れど、其外金帛(きんぱく)を以て傳授に入用の懸るも譯のある事と存候(ぞんじさふらふ)、其子細は、元來亂舞は遊戲の藝なれば輕しめやすく、金銀不足なれば傳授する事もならずといふ處にて、其藝を重んずる所ありしと答し由。謂なき事ならずと爰に書とゞめぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:技芸譚で、先行する「戲藝にも工夫ある事」に遠く連関。この理屈、何やらん、ピンとくる。芸事に限らず、我らが如何なる行為にも、「執心」のないところ、神懸った超絶の舞い――ドゥエンデは宿らぬのである。
・「亂舞」本来は中世の猿楽法師の演じた舞のことだが、近世では能の演技の間に行われる仕舞などをいった。「らんぶ」とも読む。
・「平賀式部少輔」平賀貞愛(さだえ 宝暦八(一七五八)年~?)。底本鈴木氏注に、安永五(一七七六)年従五位下式部少輔、同九年(二十三歳)に家を継ぎ、御徒頭・御目付を経て、寛政四(一七九二)年長崎奉行、同九年御普請奉行、とある(生年はこの記載から逆算した)。根岸より十九年下で、当時は三十代後半である。「少輔」は律令制の諸省の次官(すけ)の職名で、大輔(たいふ)の下に位する。読みは「しょうゆう」「すないすけ」等多様で、歴史的仮名遣は「せうふ」の音変化した「せふ」とする説もある。
・「七太夫」シテ方喜多流の宗家が名乗る名の一つ。寛政期であるから九世喜多七大夫古能(ひさよし 寛保二(一七四二)年~文政一二(一八二九)年)。江戸生。明和七(一七七〇)年に喜多流を継ぎ、喜多流中興の祖と呼ばれるが、この頃、第十一代将軍徳川家斉に宝生流が重用されたため、喜多流は実際には不遇をかこった。能芸史や能面の研究に精進し、「悪魔払」「仮面譜」などの多くの能楽書を残している。
・「金帛」金(きん)と絹。附届けの謝金や絹織物の巻物(現在の舞踊で客に弁当代やお土産代として「巻物」と称するものを配るのかこれに由来するか)。
・「輕しめやすく」「かろんじめやすく」と読んでいるか。持って回った言い方で、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版の『軽(かろん)じやすし』の方が自然。
■やぶちゃん現代語訳
乱舞の伝授事に纏わる事
乱舞(らっぷ)の伝授は、これ、如何にも仰々しく致すこと、また、並びにその謝礼なんども、伝授する師のみならず、その弟子にまでもいちいち附届けを致すことを、
「なんともはや、とんでもない仕儀じゃ……」
などと話しして御座ったところ、その場に御座った平賀式部少輔殿――高名な喜多流宗家七太夫古能(ひさよし)殿のお弟子にて、お若いながら、かの能楽の道にも造詣が深(ふこ)う御座った――その平賀式部少輔が申されることに、
「されば、そのことで御座る。
拙者、ある時、七太夫殿に向かい、
『……伝授の儀の謝礼など、これ、あまりに高過ぎるは……お畏れながら、聊か不都合にして不当では御座いますまいか? その芸に如何に熱心に精進致いて御座っても――貧乏なる者は――これ、その誠意なる志しを遂ぐる能わざること……これ、拙者、無念のことならんと存ずるので御座います……』
と申し上げた。すると、かの七太夫殿の答えは、
『――能楽を生業(なりわい)の職分と致す者、その他、格別に舞いに熱心にして精進致いておる御仁には――これ、その謝礼の多寡に拘らず、伝授することも御座る。――なれど、見方によっては、それなりの金品の遣り取りが乱舞伝授に入り用とすることも、これまた、訳のあることと、申そうぞ。――その訳は、と謂うに――元来、乱舞なんどは所詮、遊戯の芸なればこそ「たがが乱舞」と軽んじられ易う御座る。――たかが乱舞、されど乱舞で御座る。――「金銀不足となれば伝授することも成り難し」――ということにして御座ったならば、これ――「その芸を重んずる気持ちも自然、生ずるところ」――という道理にて御座る――』
とのことで御座った。……」
この説、謂われなきこととも言い難きことなれば、ここに書き留めておくことと致す。
春夢昏昏斷崕なして壁懸る
六 泥土を嚥むもの
血液は全部蛋滋養分よりなるから、これを吸ふ動物は一囘腹を滿たせば長く餓を忍ぶことが出來るが、これと正反對に極めて少量の滋養分より含まぬ粗末な食物を、晝夜休まず食ひ續けることによつて生命を繫いで居る動物もある。「みみず」の如きはその一例で常に土を食ふて居るが、土の中には腐敗した草の根など僅少の滋養分を含んで居るだけで、その大部分は、不消化物として、單に「みみず」の腸胃を通過するに過ぎぬ。血を吸ふ動物を、假に戰爭の際などに一度に大金を儲けるものに譬へれば、「みみず」は眞の薄利多賣主義の商人の如くで、口から入れて尻へ出す食物の量は實に莫大であるが、その中から濾しとつて、自身の血液の方へ吸收する滋養分は甚だ少い。されば「みみず」は生命を保つに足りるだけの滋養分得るためには、絶えず土を食ひ續けて居らねばならぬ。「みみず」は地中に隱れて居るので人の目に觸れぬが、處によつては隨分多數に棲息して居て、それが一疋毎に絶えず土を食ふては糞を地面に出すから、「みみず」の腸胃を通り拔けて地中から地面に移される土の量は、年に積れば實に夥しいことである。熱帶地方の大形の「みみず」では、一疋が一度に地面に排出する糞塊でもここの圖に示した如くに中々大きい。
[「みみず」の糞]
淺い海底の砂の中には「ぎぼしむし」と稱する細長い紐のやうな形の動物が居るが、これなども全く「みみず」と同樣な生活をして居る。全身黄色で頗る柔く、手に摘んでぶら下げようとすると、腸胃の中の砂の重みで身體が幾つかに切れてしまふ。著しくヨードフォルムの香のすることは誰も氣のつく點である。普通のもので長さが〇・六―〇・九米、大きなものになると二・五米以上もあるが、前端には伸縮自在な「ぎぼし」狀の頭があり、これを用ゐて砂を掘り、絶えず砂を食ひながら砂の中を徐に匍匐して居るから、この蟲の身體を通過する砂の量は頗る多い。ときどき體の後端を砂の表面に出して腸の内にある砂を排出するが、砂は粘液のために稍棒狀に固まつて出て來る。そしてかやうな砂の棒は甚だ長くて後から追々出て來るから、次第にうねうねと曲がつて恰も太い饂飩の如くに砂の表面に溜まるが、波の動くために直に壞れて分らなくなる。しかし春の大潮などに淺瀨の乾いた處へ行つて見ると、「ぎぼしむし」の糞は砂の饂飩の如くにかしこにもこゝにも堆く溜つて居る。こゝに掲げた圖は房州館山灣内の洲の現れた處で取つた寫眞であるが、これによつてもおよそ一疋の「ぎぼしむし」が一囘に何程の砂を排出するか大概の見當が附くであらう。
[「ぎぼしむし」]
[「ぎぼしむし」の糞]
[やぶちゃん注:「ぎぼしむし」半索動物門腸鰓(ギボシムシ)綱 Enteropneusta に属する純海産の動物群の総称。ギボシムシを知っている方は殆どおられぬであろうから(ウィキにさえ「ギボシムシ」の項はない)、ここに主に保育社平成七(一九九五)年刊「原色検索日本海岸動物図鑑[Ⅱ]」の西川輝昭先生の記載から生物学的な現在の知見を詳述する。
半索動物門の現生種にはもう一つ、翼鰓(フサカツギ)綱Pterobranceiaがあるが、そこに共通する現生半索動物門と二綱の特徴は以下の通り(西川氏の記載に基づき、一部を省略・簡約し、他資料を追加した)。
①体制は基本的に左右相称。前体(protosome)・中体(mesosome)・後体(metasome)という前後に連続する三部分から成り、それぞれに前体腔(一個)・中体腔(一対)・後体腔(一対)を含む。これらは異体腔であるが、個体発生が進むと体腔上皮細胞が筋肉や結合組織に分化して腔所を満たすことが多い。前体腔及び中体腔は小孔によってそれぞれ外界と連絡する。
②後体の前端部(咽頭)側壁に、外界に開き繊毛を備えた鰓裂(gill slit)を持つ。鰓裂を持つのは動物界にあって半索動物と脊索動物だけであり、両者の類縁関係が推定される[やぶちゃん注:下線やぶちゃん。ウィキの「半索動物」によれば現在、18SrDNAを用いた解析結果などによると、ギボシムシ様の自由生活性動物が脊索動物との共通祖先であることを支持する結果が得られている。この蚯蚓の化け物のようにしか見えない奇体な生物は、正しく我々ヒトの祖先と繋がっているということなのである。]。
③口盲管(buccal diverticulum)を持つ。これは消化管の前端背正中部の壁が体内深く、円柱状に陥入したもので,ギボシムシ類では前体内にある。口盲管はかつて脊索動物の脊索と相同とされ、そのため半「索」動物の名を得た。現在ではこの相同性は一般に否定されているが(ウィキの「半索動物」によれば、例えば脊索形成時に発現するBra遺伝子が口盲管の形成時には認められないなどが挙げられるという)、異論もある。
④神経細胞や神経繊維は表皮層及び消化管上皮層の基部にあり、繊維層は部分的に索状に肥厚する。中体の背正中部に襟神経索(collar nerve cord)と呼ばれる部分があるが、神経中枢として機能するかどうかは未解明である。
⑤開放血管系を持ち、血液は無色、口盲管に付随した心胞(heart vesicle)という閉じた袋の働きで循環する。
⑥排出は前体の体腔上皮が変形した脈球(glomerulus)と呼ばれる器官で行なわれ、老廃物は前体腔を経て外界に排出される。
⑦消化管は完全で、口と肛門を持つ。
⑧一般に雌雄異体。生殖腺は後体にあり、体表皮の基底膜と後体腔上皮とによって表面を覆われている。外界とは体表に開いた小孔でのみ連絡する。但し、無性生殖や再生も稀ではない。
⑨体表は繊毛に覆われ、粘液で常に潤っている。石灰質の骨格を全く欠き、体は千切れ易い。
腸鰓(ギボシムシ)綱 Enteropneusta は、触手腕を持たず、消化管が直走する点で、中体部に一対以上の触手腕を持ち、U字型消化管を持つ翼鰓(フサカツギ)綱Pterobranceiaと区別される。
以下、西川先生の「ギボシムシ綱
ENTEROPNEUSTA」の記載に基づく(アラビア数字や句読点、表現の一部を本テクストに合わせて変更させて戴き、各部の解説を読み易くするために適宜改行、他資料を追加した)。
細長いながむし状で動きは鈍く、砂泥底に潜んで自由生活し、群体をつくることはない。全長数センチメートル程度の小型種から二メートルを超すものまである。[やぶちゃん注:実は本文で丘先生は『普通のもので長さが〇・六―〇・九米、大きなものになると二・五米以上もある』と記しておられるのであるが、ここは講談社学術文庫版では『普通のもので長さが二、三尺(約六〇―九〇センチ)、大きなものになると五尺(約一五〇センチ)以上もある』(丸括弧は講談社編集部による注)とあって、底本の『二・五米以上』というのは「一・五米以上」の誤植である可能性が高いのであるが、言わば瓢箪から駒で、この西川氏の記載から誤りとは言い難いことが判明する)。]
前体に相当する吻(proboscis)は、外形がドングリや擬宝珠に似ており、これが本動物群の英俗称“acorn
worm”[やぶちゃん注:“acorn”は「ドングリ」。]や「ギボシムシ」の名の由来である。吻は活発に形を変え、砂中での移動や穴堀りそして摂餌に用いられる。
中体である襟(collar)は短い円筒形で、その内壁背部に吻の基部(吻柄)が吻骨格(proboscis
skeleton:但し、これは基底膜の肥厚に過ぎず、石灰化した「骨格」とは異なる)に補強されて結合する。吻の腹面と襟との隙間に口が開く。
後体は体幹あるいは軀幹(trunk)と呼ばれ、体長の大部分を占めるが、その中央を広いトンネル状に貫いて消化管が通る。途中で肝盲嚢突起(hepatic saccules)を背方に突出させる種もある。
生殖腺は体幹の前半部に集中し、ここを生殖域と呼ぶが、この部分が側方に多少とも張り出す場合にはこれを生殖隆起、それが薄く広がる場合にはこれを生殖翼と、それぞれ呼称する。
彼等は砂泥を食べ、その中に含まれる有機物を摂取するほか、海水中に浮遊する有機物細片を吻の表面に密生する繊毛と粘液のはたらきにより集め、消化管に導く。この時、鰓裂にある繊毛が引き起こす水流も役立つ。消化し残した大量の砂泥を紐状に排出し、糞塊に積みあげる種も少なくない。
鰓裂は水の排出経路としてはたらくだけでなく、その周囲に分布する血管を通じてガス交換にも役立つ。鰓裂は背部の開いたU字形で、基底膜が肥厚した支持構造を持つ点、ナメクジウオ類の持つ鰓列と似る[やぶちゃん注:「ナメクジウオ類」は、やはり我々脊椎動物のルーツに近いとされる生きた化石、脊索動物門頭索動物亜門ナメクジウオ綱ナメクジウオ目ナメクジウオ科ナメタジウオ
Branchiostoma belcheri とその仲間を指す。]。鰓列は種によって異なるが(十二から七百対)、鰓裂のそれぞれは鰓室という小室を経て触孔(gill pore)と呼ぶ小孔で外界と連絡する。各鰓裂に、微小な鰓裂架橋(synapticula)がいくつか備わることもある。
丘先生も挙げている本種の際立った特徴である、虫体が発する“ヨードホルム臭”と形容される独特の強いにおいは、ハロゲン化フェノール類やハロゲン化インドール類によるものである。
また、過酸化型のルシフェリン―ルシフェラーゼ反応による発光がみられる種もある。
雌雄異体で体外受精する。トルナリア(tornaria)と呼ばれる浮遊幼生の時期(最長九ヶ月を超す)を経た後、適当な砂泥底に降りて変態する種のほか、こうした時期を経ず直接発生する種も知られている。後者では、一時的に肛門の後ろに尾のような付属部(肛後尾 postanal tail)が現れ、その系統学的意味づけが議論を呼んでいる。有性生殖のほか、一部の種では再生や,体幹の特定の部分から小芽体が切り離される方式による無性生殖も知られている。
体腔形成の様式はまだよくわかっていない。[やぶちゃん注:中略。]
潮間帯から深海にいたる全世界の海域よりこれまでに七十種以上が知られ,四科十三属に分類される(目レベルの分類は提唱されていない)。わが国からは三科四属にわたる七種が記録されているが、調査はまだきわめて不十分であり、将来かなりの数の日本新記録の属・種が報告されることは確実である。[やぶちゃん注:二〇〇八年の“An overview of taxonomical study of enteropneusts in Japan. Taxa 25:
29-36.”によると全十六種を数える。]
以下、本邦四科を示す。
ハネナシギボシムシ科
Spengeliidae
ギボシムシ科
Ptychoderidae
ハリマニア科
Harrimaniidae
オウカンギボシムシ科
Saxipendiidae
以上、「原色検索日本海岸動物図鑑[Ⅱ]」の西川輝昭先生の記載に基づく引用を終わる。十七年前、刊行されてすぐに購入したこの二冊で五万円した図鑑を、今日、初めて有益に使用出来た気がした。本書をテクスト化しなければ、私はこの、素人では持て余してしまうとんでもない図鑑を使う機会もなかったに違いない。再度、丘先生と西川先生に謝意を表するものである。]
「鎌倉攬勝考卷之三」の「鶴岡大別当歴世の名籍」パートを完遂した。廃仏毀釈によってこの別当職の記載は、一般的な我々の眼には触れにくい存在で、資料も限られているため、注に非常に苦労した。しかし、これでやっと近々、「巻之一」から延々続いてきた八幡様の境内から、遁れられそうだ。……少し、うきうきしている……夜陰に紛れて実朝の首をぶら下げてひた走る、公暁のように、ね……
春一夢かのもの言はぬ人と會ふ
慈悲心鳥の事
日光山に慈悲心鳥といへるあり。じひしんと鳴候由兼て聞しが、予御用に付三ケ年彼御山に登山せしが其聲聞ざりし故、大樂院龍光院外一山の輩に尋しに、中禪寺の奧などにては常に鳴く由。邂逅(たまさか)には日光の御宮近邊へ來りし事あり。鳩程の鳥にて羽翼美しき物なれど、餘り里近く出ざれば見る者稀の由語りしが、寛政の頃日光奉行を勤し太田志州、登山の折から中禪寺にても聞しが、大樂院の森にて新宮祭禮湯立(ゆだて)ありし時其聲を聞しが、じひしんと心字を引(ひき)候て、餘程高く鳴候鳥也。葉隱れに鳴く故其形は志州見留ざりし由語りぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:乾隆帝の高邁なる志から畏れ多き権現様家康公の霊威瑞兆で連関。
・「慈悲心鳥」カッコウ目カッコウ科カッコウ属ジュウイチ Cuculus fugax。成鳥は全長凡そ三二センチメートル。頭部から背面にかけては濃灰色の羽毛で覆われ、胸部から腹面にかけての羽毛は赤みを帯びる。胸部には鱗模様を持つ。幼鳥は胸部から腹面にかけて縦縞が入っている。脚は黄色で脚指は前二本後二本の対し足。托卵する。日光では初夏(五月中旬)に渡って来て囀るが、和名も異名ジヒシンチョウもその鳴き声のオノマトペイアである。サイト「日光野鳥研究会」の「ジュウイチ」のページには、江戸時代に書かれた日光ガイドブック「日光山志」に日光はジュウイチの産地とあり、また『この鳥は「神山に住む霊鳥で、自らの名を呼ぶ」』などとされ、『「仏法僧」と鳴くと思われていたブッポウソウ、「法、法華経」と鳴くウグイスを加えて、日本三霊鳥として』崇められたとする。同族類では『ウグイス以外は、身近な鳥ではないだけに色々想像され、神格化された部分があったと思』われ、特に江戸時代有数の霊場であった日光に棲むことから格別な霊鳥と意識されたと考えられるとあり、また、「日光山志」『には、ジュウイチのいるところとして「荒沢、寂光、栗山辺にも多く(中略)人家のあるところでは声を聞くことは希なり」と書かれてい』るとも記す。リンク先では慈悲心鳥の鳴き声も聴ける。神霊の声を耳を澄ませてお聴きあれ。但し、他の音源を聴くに、私には「ヒュイチィ! ヒュイチィイ!」と聴こえ、また、連続して囀ると、本文でも触れているようにテンポと音程が徐々に早く高くなるように思われる。
・「予御用に付三ケ年彼御山に登山せし」既出であるが、根岸は勘定吟味役として、安永六(一七七七)年から安永八(一七七九)年までの三年間、日光東照宮・大猷院(家光)霊屋・本坊日光山輪王寺及びその附属建物並びに日光山諸寺諸堂諸社諸祠の御普請御用のために日光山に在勤している(「卷之一」の「神道不思議の事」参照)。
・「大樂院」当時の東照宮祭祀を司っていた日光山輪王寺の東照宮別当。廃仏毀釈で消失したが、現在の社務所の位置にあった。
・「龍光院」日光山輪王寺塔頭。大猷院霊屋の別当。非公開ながら建物としては残っている模様である。
・「中禪寺」中禅寺湖畔歌ヶ浜にある天台宗寺院。日光山輪王寺別院。
・「邂逅(たまさか)」は底本のルビ。
・「日光の御宮」東照宮。
・「太田志州」太田資同(おおたすけあつ 生没年不詳)。底本の鈴木氏注に寛政六(一七九四)年日光奉行、従五位下志摩守。寛政八年御小性組頭とあり、本話は恐らく寛政八、九年に根岸が彼から聴き取った話柄と思われる。根岸とは当時の官位は同等である。
・「新宮祭禮湯立」「新宮」日光山を構成する一つ、日光二荒山(ふたらさん)神社のこと。日光の三山である男体山(二荒山)・女峯山・太郎山の神である大己貴命(おほなむちのみこと:大国主)・田心姫命(たごりひめのみこと:宗像三女神の一人。)・味耜高彦根命(あぢすきたかひこねのみこと)三神を二荒山大神と総称して主祭神とする。詳しくは「卷之一」の「神道不思議の事」参照されたい。「湯立」は神前に釜を据えて湯を沸騰させ、トランス状態に入った巫女が持っている笹や御幣をこれに浸した後、即座に自身や周囲の者に振りかける儀式やそれから派生した湯立神楽などの神事を言う。これらのルーツは熱湯でも火傷をしないことを神意の現われとする卜占術の一種であった。この神事の様を描いたのが、他でもない、「卷之一」の「神道不思議の事」の後半部分である。
■やぶちゃん現代語訳
慈悲心鳥の事
日光山に慈悲心鳥というものが棲んで御座る。
「ジヒシン」と鳴く、とかねてより聞き及んで御座ったが、私はかつて普請御用に附き、かの畏き霊山に三年の間登り詰めて御座ったれど、惜しいかな、一度としてその声を聞き及ぶことは、御座らなんだ。
在勤中、大楽院・竜光院の他、一山の別当坊供僧や、その関係者なんどにも訊ねてみたところが、湖畔に御座る中禅寺の奥なんどにては常に鳴いておるとのこと。ある者は、
「……ごく稀には日光の御宮近辺へも来たることが御座る。鳩ほどの大きさの鳥にて羽根翼の美しいものにて御座れど、あまり里近くには現れざるものなれば、見ることの出来る者は稀にて御座る。」
との由、語って御座ったのを覚えておる。
つい先年の寛政の頃に日光奉行を勤めておられた太田志摩守資同(よしあつ)殿は、日光山在任の折り、湖畔の中禅寺にてもその鳴くを聞かれたとのことで御座ったが、また、大楽院の森にて二荒山(ふたらさん)の新宮祭礼の湯立(ゆだて)神事が御座った折りにも聞かれたとのことで、
「……『ジヒシーンー』と、『心』の字の部分の音(ね)を、長ごう引いて御座っての、……また、その音(ね)の程は、よほど高うに、鳴く鳥にて御座る。……姿で御座るか?――いや、流石の霊鳥ならんか――葉隠れに鳴く故、その姿は、これ、拙者も見届けることは叶わなんだの。……」
との由、直に承った話にて御座る。
動物の中には植物の液汁を吸つて生活するものがあるが、植物の液汁はやはり滋養分を體内に循環させるもので、恰も動物の血液に相當する。それ故、これを吸ふ動物の口の構造は血を吸ふ動物の口と同じやうで、細長い管狀になつて居るものが多い。「ばら」や菊の若芽に集まる「ありまき」、稻田に大害を與へる「うんか」の類はその例であるが、かやうな昆蟲の種類は頗る多くて、陸上の植物には蟲に液汁を吸はれぬものが殆ど一種もない位である。植物は季節に應じて盛んに繁茂し、且固定して動かぬもの故、その液汁を吸ふ蟲は實に十分な滋養分を控へ、恰も無盡藏の食料を貯へた如くで生活は極めて安樂らしく見えるが、これまた決してさやうなわけでない。なぜといふに、滋養分が十分にあれば繁殖も盛になるのが動物の常で、「ありまき」でも「うんか」でも、忽ちの中に非常に殖えるが、數が多くなると生活が直に困難になる。一匹づつでは植物に著しい害を與へぬ小蟲でも、多數になれば液汁を吸はれる植物は枯れてしまふが、植物が枯れれば液汁の供給が絶えるから昆蟲も生存が出來なくなる。またかやうな昆蟲が殖えれば、これを餌として居る動物も同じく殖えて、ややもすればこれを食ひ盡くさうとする傾が生ずる。なほその他にも種々のことが生ずるために、植物の液汁は無盡藏の如くに見えながら、これを吸ふ蟲は決して無限に繁殖し跋扈することを許されぬ。
[やぶちゃん注:「ありまき」アリマキ(蟻牧)で昆虫綱有翅亜綱半翅(カメムシ)目腹吻亜目アブラムシ上科のアブラムシ科 Aphididae・カサアブラムシ科 Adelgidae・ネアブラムシ科 Phylloxeridae に属するアブラムシ類の別称。アリとの共生関係の観察から、古くよりかく呼称された。子供らと話していると、彼らを何かの昆虫の幼虫と勘違いしている者が多いので注することとする。また、ウィキの「アリマキ」によれば、体内(細胞内)に真正細菌プロテオバクテリア門γプロテオバクテリア綱エンテロバクター目腸内細菌科ブフネラ
Buchnera 属の大腸菌近縁の細菌を共生させていることが知られ、ブフネラはアブラムシにとって必要な栄養分を合成する代わりに、『アブラムシはブフネラの生育のために特化した細胞を提供しており、ブフネラは親から子へと受け継がれる。ブフネラはアブラムシの体外では生存できず、アブラムシもブフネラ無しでは生存不可能である』とあり、更に二〇〇九年には『理化学研究所の研究によりブフネラとは別の細菌から遺伝子を獲得し、その遺伝子を利用しブフネラを制御している』という恐るべきメカニズムが判明している。是非、以下の理化学研究所の「アブラムシは別の細菌から獲得した遺伝子で共生細菌を制御」という「理研ニュース 二〇〇九年五月号」の記事をお読みになられることをお奨めする。
「うんか」「雲霞」「浮塵子」などと漢字表記する。昆虫綱半翅(カメムシ)目ヨコバイ亜目 Homoptera に属する、セミ類以外でその成虫の体長が凡そ五ミリメートル内外のウンカ・アブラムシ・キジラミ・カイガラムシなどの跳躍性若しくは飛翔性を備えた昆虫群を指す特殊な総称である。中でもイネの害虫として知られるのはウンカ科セジロウンカ
Sogatella furcifera・トビイロウンカ
Nilaparvata lugens・ヒメトビウンカ
Laodelphax striatella などであるが、「ウンカ」という標準和名を持つ種は存在しない。昔、山岳部の子らと話した折り、ウンカが人を刺すことを知らない者が多かったので注することとする。勿論、吸血するのではないが、彼らは樹液吸収の反射的行動をしばしば人の皮膚上でも行う。口針挿入時には彼らの唾液も注入され、それが人によってはアレルギーを起こし、激しい痒みだけではなく、刺傷は人によって黒い痣状となり、一年以上残る場合がある。昔、丹沢に一緒に登って無数に刺された女子生徒の、半年たっても消えぬその傷ましき腕を、私は忘れられないのである。緑色を帯びた昆虫はあまり刺すというイメージがないが、それが落とし穴で、侮ると酷い目に遇うこと請け合いである。
「植物は季節に應じて盛んに繁茂し、且固定して動かぬもの故、その液汁を吸ふ蟲は實に十分な滋養分を控へ、恰も無盡藏の食料を貯へた如くで生活は極めて安樂らしく見えるが、これまた決してさやうなわけでない」以下は、私がしばしば現代文の授業で述べた、日高敏隆先生の『繁栄めいた危機』、繁栄めいた滅亡のシナリオである。――それは――ヒトに於いても全く原理は変わらないということにヒトは愚かにも気づいていない――いや、気づいていながら自分たちだけは例外だ――と愚かにも思い込んでいる哀れな「種」である――]
淸乾隆帝大志の事
乾隆帝(けんりゆうてい)治世の時反逆の者ありて召捕(めしとり)其罪を尋問せしに、彼主人申けるは、我は中華歴代の人物也、今の天子は夷狄(いてき)の種類なれば、是を亡(ほろぼ)して中華正流に復さんと思ふ事、あながち非とせんやと答ける時、帝の曰、人間より見れば或は華人或は夷狄人と云ふべし。天より見給はゞ華夷の差別なんぞあるべきや、縱(たとひ)堯舜(げうしゆん)の遠裔(えんえい)にて中華正流の天子たりとも、民をしいたげ惡逆桀紂(けつちう)の如くならば天なんぞ是を助けん、夷狄又しか也とありしかば、彼反人も屈伏しける由、近頃の書にて見しと黒澤儒生のかたりける。流石に五十餘年治世にて、此國と同じく四海太平に靜謐(せいひつ)ありし事、大量の英才と異國の事ながら爰に記しぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:連関なし。先行する「聖孫其のしるしある事」の珍しい中国物で連関。同じく儒学者からの話柄でもある。なお、不学にして本話が何を典拠とするものかは不明。識者の御教授を乞うものである。
・「乾隆帝」(一七一一年~一七九九年)は清第六代皇帝。在位は一七三五年~一七九六年。諱は弘暦、廟号は高宗。康熙帝・雍正帝に続く清朝絶頂期の賢帝。外征によって西域を押さえ、チベットにまで版図を広げた。学術を奨励、「明史」「四庫全書」といった多くの欽定書の編纂を命じており、中国の文物をこよなく愛し、自ら多くの漢詩ものしている(参照したウィキの「乾隆帝」によれば、現在の故宮博物院に残る多くのコレクションは彼の収集になるものと言う。本話の執筆時下限は寛政九(一七九七)年であるから、実にアップ・トウ・デイトな国外の未だホットな噂話と言える(但し、乾隆帝は祖父康煕帝の在位期間を超えることを遠慮して嘉慶帝に譲位したので、実際には院政をひいているから、実はこの話は現在進行形であるとも言えるのである)。
・「彼主人」底本に『尊本「反人」』と右に注する。訳は誤字と見て「反人」で採る。
・「縱(たとひ)」は底本のルビ。
■やぶちゃん現代語訳
清乾隆帝の大志の事
つい先日終わった清国は乾隆帝治世の出来事である。
反逆者があって、この者を召し捕って、その罪科を糺した。
するとその反逆者は以下の如くに主張した。
「私は中華歴代の正統なる漢人の子孫である。今の天子は満州人にして夷狄の類いであるから、これを亡ぼして中華の連綿たる正しき流れに復さんと思うこと――どうしてこの天道に適う志を――非道にも非とせんとするか!」
と答えた。
それを聴いた乾隆帝は、
「一介の人間より見れば――或いは華人、或いは夷狄人とも言うのであろう。――しかし、天より見給うたならば、華人と夷人とに何の差があると言うのか?――たとえ中華伝承の聖王たる尭・舜の末裔にして中華伝統の連綿たる正しき流れを受け継いだ天子であろうとも――人民を虐げ、桀・紂の如き悪逆非道の中華伝説の暴君であったならば――天はどうしてこれを助けるはずはあろうか? いや、金輪際、ない。――この理(ことわり)は華人であろうと夷狄であろうと――また、同じで、ある。」
と答えた。
かの反逆者も、流石にこれは屈服致いた、という話。……
「……近頃、唐伝来の書にて管見致いた話にて御座る。」
と、出入りの儒者黒澤殿が語ったものであるが、流石は五十有余年に亙る治世を、我が国と同じく、四海全き平らかにして波静か――搖るぎなき泰平安国を成し遂げられた皇帝なればこその、その志しを受けた出来事と言えるものにて、異国のことながら、想像を絶した度量の広さを持った英才ならんと感ずること頻りなれば、ここに記しおいて御座る。
天日のゆらりとくだりしやぼんだま
李花
花はうつくしい。それはだれでも知つてゐる。そこで花を愛する。花が咲く。たそがれの薄靄のなかに、光るやうに白く咲く。風にもろい花ほどうつくしい。李(すもも)の花は風にもろい。李の花はうつくしい。
山のなかに、なにか、おそろしいものが棲んでゐるといはれる淵があつた。その淵のそばを、みんな避けて通る。夜はたれも通らない。かんかんとなにもかもあきらかに陽(ひ)が照るときだけ、ひとびとはその淵のよこの雜草のしげつた道を通る。そのときでも、なるだけ、山の端(は)に寄つた方を通り、淵に影をうつさないやうに注意をする。道がせまいので、それはなかなかむつかしい。しかし、その淵の道はそんなに長くはないし、駈けぬければ、たいてい危險はない。その淵にゐる魔のものといふのが、頭のはたらきが敏活でなく、間が拔けてゐるものにちがひないといふことは、そのやうに駈けぬければ、たとへあやまつて淵に影を落しても、つかまつたことがないことでわかる。通りすぎたあとで、水のなかからなにか浮きあがる水音がし、奇妙な聲がするのだが、それは振りかへつてみたものがないので、その魔ものの正體はたれも知らない。
淵に主がゐるといふことは傳説であるが、そのやうな淵になにもゐなくては、その靑々とよどんだ意味ありげな水の色にも、のぼるままに生ひしげつた水邊の葦の葉むらにも、しづかな晝、そのとまつ重味で葦の葉のさきを水にひたし、そこから小さな波紋を淵いつぱいにひろげさせてゆく頭の赤いおはぐろとんぼにも、するどく鳴いて飛ぶよしきりにも、水のうへに浮いてかたまつた朽葉(くちば)にも、――つまり、そのやうに古色蒼然とした淵全體に、なんのうつくしさも、莊嚴(さうごん)さもないのである。なにかゐるといふことによつて、淵はいよいようつくしく、その價値をたかめる。
河童たらはこの淵の魔ものをおそれた。河童たちはこのやうな立派な淵がありながら、それに棲まなかつた。傳説を尊敬したのである。その淵からすこし離れたたわいもない汚い池に、河童たちはむらがり棲んだ。河童たちの棲んでゐる池は、その淵の五分の一もない。馬の足あとに水のたまつたのにさへ、三千匹は棲息(せいそく)することができるゆゑ、その池がけつして狹くて不自由といふわけではなかつたが、河童たちは、その淵の水の色をうらやんだ。その淵の棲み心地のよさは、水の色を見ればすぐわかる。しかし、河童は傳説の掟(おきて)をつねにまもる。その淵のなかに主がすでに棲んでゐて、その傳説によつて、その淵が高名あるときに、それを攪亂(かうらん)することは、仁義にもとる。また、その淵の主とて、河童たちのゐる池に對してはなんらの意志表示をしないのだ。しかし、ほんたうは、河童たちはその淵をおそれたのである。
あるとき、池にゐるいつぴきの河童が道をうしなつて、その淵のほとりに出たことがある。うつくしい月にさそはれて、空をとびまはり、うかうかとあそんでゐるうちに疲れたので、地に降りた。そして、ふと氣づくと、日ごろ敬遠してゐた淵が目のまへにあつた。しづかによどんだ黑い淵のまんなかに十六夜の月がはつきりとうつつてゐた。はつとした刹那、自分のすぐ足もとから、くろい小さなものが淵のなかにとびこんだ。ぼちやんと音がして、水面から消えた。その水音はあたりの森にこだました。ところが、その飛びこんだものは、相當のいきほひで水を破つたにもかかはらず、淵の面にうつつた月のかたちは、まつたくくづれず、それは月のかげでなく、月自身がそこにあるやうに、動かなかつた。池の河童はおどろきとおそれとに、からだがふるへ、背の甲羅がしばらくの間がちがちと鳴りやまなかつた。足も自由にうごかず、やつと池にかへりつくことができた。それ以來、池にゐる河童たちに、いつそう、ふかく淵をおそれるこころが兆(きざ)した。
池の河童たちは、こよなく花を愛した。白い花がうつくしく、また風にもろい花ほどうつくしいことは、はじめに書いたとほりである。李(すもも)の花がうすみどりのさやにつつまれたつぼみをひとつづつやぶつて、いちめんに星をちりばめたやうに吹くと、それは遠くからでもまぶしいくらゐに見える。またそのたとへやうもないふくよかな香りは、風にのせられて、はるかの野のはてにまでひろがる。
花の好きな池の河童たちは、李の花の咲きみだれるころになると、どうしても、よごれた赤どろの池の底にじつとしてゐることができなかつた。河童たちは、つぎつぎに池をすてて、花のほとりに出た。思ひ思ひに、ひとりづつ、あるひは、二三匹づつつれだちながら、李の花のところへ行つた。
しかしながら、ここに、ひとつ困つたことがあつた。それは、その李の木のあるところが、魔のゐる淵から、あまりはなれてゐなかつたのだ。そのうへ、李の花のいちばんきれいに咲いてゐるところの見えるのは、もつとも淵に近い場所であつた。そのやうな意地のわるい配置にもかかはらず、河童たちは、なほも花を見に行つた。淵をおそれるこころもさることながら、その花のうつくしさは淵への恐怖さへ征服したのである。また、飛翔(ひしやう)することのできる池の河童たちは、その潤をおそれるこころは深いとはいへ、淵に影をおとすことなしに、迂囘(うかい)して、李の花のところへ行くことができるのである。河童たらは、こころゆくまで花のうつくしさに醉ふことができた。きらめき光るやうな白い李の花のまはりに群れ、その香に醉ひ、うたをうたひ、たはむれた。あまり遠くないところに、鏡のやうに、動かず、淵はしづまりかへつてゐた。毎日のごとく、池の河童たちは、李の花のまはりをさまよひ暮した。
白い李の花が、その最大のうつくしさを發揮するときが來た。風にもろい花ほどうつくしい。ある日、西の空のなかから吹きおこつて來た風が、李の花を散らしはじめた。ふきおとされる星くづのやうに、あるひは、大束の雪のやうに、ぱつと散りたつ李の花は、はらはらと舞ひながら、吹きあがり、吹きながれて行つた。その落花のさまのうつくしさに、河童たちはどつと歡聲をあげた。花びらは風のまにまにながれ、あまり遠くない淵の方へ、散つて行つた。花びらは、淵の水面にはらはらと落ら、まつ靑な水面に、描かれた模樣のやうにあざやかに浮いた。みるみる靑い淵の面が、花びらで埋められて行つたのである。
すると、それまでは靜まりかへつてゐた水面が、にはかにざわめきはじめたと思ふと、水面から無數にあたまをもたげたものがあつた。さうして、それらの動物たちは、水面にうかんだ李の花びらをたなごころにすくひ、奇妙なよろこびの聲を發し、どよめきさわいだ。はじめ、李花のほとりにゐた池の河童たちは、花びらが淵の水面に散りおちてゆくときから、ふたたび淵へのおそれのこころが、しだいに胸にわきはじめてゐた。花にみとれて忘れてゐた心におもひいたり、にはかに地に降りたつと、土堤のかげに身をひそめて、恐怖のまなざしをもつて淵の方を凝現した。しかし、その恐怖のこころの底にも、この花に對して、日ごろ、自分たちが尊敬してゐる淵の魔ものが、いかなるふるまひをするのかといふ好奇と期待の心は持つてゐたのである。すると、かつて、一度も見たこともなかつた淵の魔ものが、水面をさわがして姿をあらはした。さうして、その淵の魔ものも、また、花を愛する心においては、すこしもかはりのなかつたことがわかつた。
このやうにして、池の河童たちと淵の河童たちとの交遊がはじまつた。故もなく、おそれてゐたことが、いまは笑ひばなしとなつた。それはおたがひがすこぶるはにかみやであつたからであらう。淵の魔ものが同じ河童であつたとわかると、それからは、池の河童たちは、われさきに、水のうつくしい淵にあそびに行つた。また淵の河童たちも、池にやつて來た。さうして、よく今までこんな汚い池にゐたものだといつて、皮肉な態度ではなく、その謙虛さと忍耐づよさとを稱揚した。まへに、月の夜、淵の河童が[やぶちゃん注:「池の河童」の誤りであろう。]、水にうつつた月かげを破らずに淵に沈んだことに非常におどろいたことをはなすと、淵の河童は、それは、月のある空からなにかが急に降りて來たので、自分の方がびつくりしたのだと答へ、自由に空をとぶことのできるのを、非常に羨んだ。さうしておのおのの技術をほこらず、兩方の河童たちは仲よくした。しかしながら、この交遊が、また奇妙な倦怠から、いくらか疎遠になることもあつた。それは倦怠ではなかつたかも知れない。他の河童たちは奇妙なもの足りなさにとらはれた。自分たちがおそれてゐた淵の正體がわかつたために、傳説の莊嚴さが失はれたからである。それは、たかが、自分たちと同じ河童であつた。その淵の魔ものがなにかわからぬときに、その傳説を胸いつぱいに持つてゐたときの、緊迫(きんぱく)したこころがどこかへ行つてしまつた索然(さくぜん)たる感覺は、どうにもやりきれぬものであつた。傳説の眞實が實驗でないことは明らかだ。もう淵のそばをおそれて通る必要がなくなつたことが、よろこぶべきことであるとは、たれも考へない。さうして、池の河童たちは、やがて、このやうな結果をもたらす役目を果した李の花びらをも、もう、うつくしいとはたれもいはなくなつたのである。
五 生血を吸ふもの
[蛭の體の前端を腹面より切り開いて三個の顎を示す]
血は動物體の大切なもので、血を失つては命は保てぬ。食物が消化せられて滋養分だけが血の方へ吸收せられるのであるから、血は殆ど動物體の精分を集めたものというて宜しい。動物を全部食へば、毛・爪・骨などの如き不消化物も共に消化器の内を通過するが、血にはかやうな滓がない。それ故、もし血だけを吸ひ取つてしまへば、遺骸は捨て去つても、あまり惜しくはない。肉食する動物の中には實際餌を捕へると、血だけを吸つて殘りは捨てて顧みず、その肉を食ふ手間で寧ろ次の餌を捕へてその血を吸はうとする贅澤なものがある。「いたち」などはその一例で、鷄を捕へて殺しても、たゞ、血を吸つて皮を捨てる。南アメリカの「かうもり」にも生血を吸ふとて評判の高いものがある。血を十分に吸つてしまへば、吸はれた動物は、無論死ぬに定つて居るが、吸ふ動物が小さくて、吸はれる動物が大きな場合には、僅に血の一部分を吸ふだけであるから、吸はれた方は死ぬに至らず、吸つた方だけが十分に滋養分を得る。「のみ」・蚊・「だに」・「しらみ」などは、かやうな例で、常に相手に少しく迷惑をかけるだけで、これを殺さずに屢々生血を吸つて生活して居る。蛭などは毎囘稍々多くの血を吸ふから、血をとる療法として昔から醫者に用ゐられた。廣く動物界を見渡すと、陸上のものにも、海産のものにも、他の生血を吸つて生きて居るものはなほ澤山にある。金魚や鯉の表面に吸いつく「てふ」、鮫の皮膚に附著して居る「さめじらみ」、その他普通には知られて居ない種類が頗る多い。そして血を吸ふには相手の動物の皮膚に傷をつけ、若しくは細かい穴を穿つことが必要であるから、血を吸ふ動物には無論それだけの仕掛けは具はつてある。例へば、醫用蛭には口の中に三個の小さな圓鋸狀の顎があり、これで人の皮膚を傷をつける。それ故、蛭に吸はれた跡を蟲眼鏡で見ると、三つ目錐で突いた如き形の切れ目がある。貝類や魚類の血を吸ふ蛭には口のなかに細長い管があり、これを口から延し出して、相手の皮膚に差入れる。蚊の口は細い針を束ねた如く、「のみ」、「なんきんむし」の口は醫者の用ゐる注射針の如くで、いづれも尖端を皮膚に差込み、咽喉の筋肉をポンプの如くに働かせて血液を吸ひ込む。[やぶちゃん注:本文途中であるが、図を挿む。]
「しらみ」・「だに」などの口の構造も略同樣である。かやうな口の構造は血を吸ふには至極妙であるが、その代り他の食物を食ふには全く適せぬ。およそ何事によらず全く專門的に發達してしまふと、それ以外には一向役に立たぬやうになる。動物の口の構造なども或る一種の食ひ方だけに都合の宜いやうに十分發達すると、すべて他の食ひ方には到底間に合はなくなる。それ故、血を吸つて生きて居る動物は、血を吸ふ相手のないときは、たとひ眼の前に他の食物が何程あつても食ふことが出來ぬのが常であり、隨つて一度血を吸ふ機會に遇うたときに腹一杯に血を吸ひ込んでおく必要がある。血を吸ふた蚊を擲き殺すと、身體の大きさに似合はぬ程の多量の血の出ることは人の知る通りであるが、蛭類の如きも、身體の構造は恰も血を容れるための嚢の如くで、頭から尻までが殆ど全部胃嚢であるといへる。身體がかくの如くであるのみならず、性質もこれに伴つて血を吸ひ始めると、腹一杯に吸ひ溜めるまでは決して口を離さぬ。ヨーロッパ産の醫用蛭は日本産のものよりは遙に大きくておよそ五倍も多く血を吸ふが、醫者がこれを用ゐるときには尻の方を切つて置く。かくすると吸ひ入れた血は尻の切れ口から體外へ流れ出るから、いつまで經つても腹一杯にならず、蛭はいつまででも血を吸つて居る。
胃の全身に充ちたのを示す]
[やぶちゃん注:『「いたち」などはその一例で、鷄を捕へて殺しても、たゞ、血を吸つて皮を捨てる。』この叙述は現在の動物学的知見からは残念ながら誤りである。食肉(ネコ)目イタチ科イタチ亜科イタチ属
Mustela のイタチ類は肉食主体の雑食性で、カニ・ザリガニ・蛙・昆虫・小鳥・鼠・魚・木の実など様々なものを採餌するが、よく言われる(そして丘先生も信じておられた)鶏の血を吸うというのは誤りで、イタチには吸血習性はない(複数の資料で確認した)。但し、イタチは獲物が多数目の前にいた際、必要捕食量を無視して多量且つ無目的に捕殺してしまう傾向があり、尚且つ、獲物が自分より大きい場合は、獲物の首筋や喉に噛み付き、鋭い牙で血管を切断して殺傷する。そのため、家畜の鷄などが襲われた場合、致命傷を負って生きながら放血し、身体から血液が失われた状態で多数が死亡するケースがある。古人がこれを見て、イタチは鷄から吸血すると誤認したものと考えられる(以上の記載は「Yahoo!知恵袋」のイタチの食性についての質問の回答を参照にした)。丘先生のような碩学の生物学者さえも、大正期にはそれを信じていた人が多いという訳である。
『南アメリカの「かうもり」にも生血を吸ふとて評判の高いもの』南北アメリカ大陸に分布する哺乳綱獣亜綱コウモリ目陽翼手亜ウオクイコウモリ下目ウオクイコウモリ上科チスイコウモリ科チスイコウモリ属ナミチスイコウモリ
Desmodus rotundus。チスイコウモリ科の模式属。主に鳥類やウシ・ウマ・ブタ等の家畜類から吸血する。コウモリ目では本種のみが哺乳類の血液も摂取する。また、コウモリ類では例外的に歩行が得意であり、眠っている獲物の近くに着地し、地面を歩いて忍び寄り、鋭い歯で獲物の体毛のない部分に噛みついた後、傷口に舌を高速で出し入れすることで吸血する。三〇分程で、自分の体重の四〇%もの血液を摂取することが可能。本種は小型であるため、血液を摂取した後は血液の重量やその消化のために飛行が不可能となり、地面を飛び跳ねるようにして移動する。但し、人を襲うことは稀であれる(以上は、ウィキの「ナミチスイコウモリ」を参照した)。
『金魚や鯉の表面に吸いつく「てふ」』節足動物門甲殻亜門顎脚綱鰓尾亜綱チョウ目 Arguloida に属する甲殻類鰓尾類に含まれる一群。主に魚類の外部寄生虫で日本ではチョウ Argulus japonicas が普通種として知られ、別名ウオジラミとも呼ぶ(但し、この呼称は次注に掲げる、全く異なる種である、甲殻亜門顎脚綱橈脚(カイアシ)亜綱新カイアシ下綱後脚上目に属するシフォノストム(ウオジラミ)目
Siphonostomatoida の同形態で同様の魚類外部寄生虫にも用いられるので要注意)。漢字表記「金魚蝨」であるが、和名の由来は不詳。以下、ウィキの「鰓尾類」より引用する。『薄い円盤状の体の甲殻類で、淡水の魚類の外部寄生虫である。鰓尾綱では最もよく知られたものである。吸盤や鈎など、魚にしがみつく構造を持つと同時に、游泳の能力も持ち、よく泳ぐことができる。養魚場など、魚を多数飼育している場所では重篤な被害を出すことがある』。すべて小型で、概ね三~六ミリメートル前後、『ほぼ透明で、黒い色素が点在する。全体に円盤形をしている。これは、頭胸部が左右に広がり、さらに腹部の両側にも広がって全体の形を作っているためである。そのため、全身で吸盤になるような構造をしている。頭部の先端付近の腹面には、触角に由来する二対の小さな鈎がある。その後方、腹側に一対の大きな吸盤を持つ。その吸盤は第一小顎の変形したものである』。『腹部は頭胸部に埋もれたようになっているが、はっきりした体節があって五節あり、最初の節には顎脚が、残りの四節には遊泳用に適応した附属肢がある。尾部は頭胸部の形作る円盤から突き出しており、扁平で後端が二つに割れる』。習性は『キンギョ、コイ、フナなどの淡水魚類の皮膚に寄生して鋭い口器で、その血液を吸う外部寄生虫である。全身のどこにでもとりつき、体表に付着した姿は鱗の一枚のように見える』、『自由に游泳することができるため、時折り宿主を離れて泳』ぎ、三~五日間ならば宿主を離れても死ぬことはない。『ただし、魚を離れて泳ぎだしたものが魚に食われる例も多いようである』。本種は私は一般に知られているとは思われないので、ウィキから長々と引用したが、養魚家の間では最も嫌われる害虫の一つとして古くから知られる。『体液を吸われて魚が衰弱するだけでなく、体表に傷を付けられることからミズカビ類の侵入を引き起こしやすいと言われる』とある。
『鮫の皮膚に附著して居る「さめじらみ」』前注に掲げた甲殻亜門顎脚綱橈脚(カイアシ)亜綱新カイアシ下綱後脚上目に属するシフォノストム(ウオジラミ)目サメキジラミ科 Pandarus 属サメジラミ Pandarus satyrus。英文サイト“The Dorsal Fin –
Shark News”の“Pandarus
satyrus”で軟骨魚綱板鰓亜綱ネズミザメ目ネズミザメ科ホホジロザメ Carcharodon carcharias に寄生する本種の動画(といってもサメジラミが動くわけではないが、抽出個体などはエイリアンぽく必見)が見られる。
「圓鋸」は「まるのこ」と読む。
「南京虫」昆虫綱半翅(カメムシ)目異翅亜目トコジラミ科トコジラミ
Cimex lectularius の別称。昨今、復活の兆しを見せており、つい一昨日のニュースでもやっていたが、私が面白く思うのは、本種がシラミ目ではなく半翅(カメムシ)目である点と、近年分かってきた共生細菌である真正細菌プロテオバクテリア門αプロテオバクテリア綱リケッチア目アナプラズマ科ボルバキア属
Wolbachia(昆虫に高頻度で共生、ミトコンドリアのように母から子に遺伝、昆虫宿主の生殖システムを自身の棲息に合わせて操作することから、利己的遺伝因子の一種のように見なされている生物である)がいないと、正常な成長や繁殖が困難であることが研究で明らかにされた事実である。不快害虫として嫌がって目を瞑る前に、この辺りを調べてみると、まことに面白いですぞ。]
女の幽靈主家へ來りし事
鵜殿(うどの)式部と言(いへ)る人の奧にて召仕ひ、數年奉公して目をかけ使ひし女、久々煩ひて暇を乞ひし故、養生の暇を通し暫く退けるに、右女來りて式部母隱居の宅へ至り、色々厚恩にて養生いたし難有(ありがたき)由をのべければ、老母も其病氣快よきを悦び賀して、未(いまだ)色もあしき間能(よく)養生いたし歸參して勤(つとめ)よと申ければ、もはや奉公相成候由、土產とて手前にて拵(こしらへ)し品とて團子を一重持參せし儘、左もあらば先(まづ)養生がてら勤よかしとて挨拶なしければ、右女は其座を立て次へ行し故、老母も程なく勝手へ出、誰こそ病氣快(こころよき)とて歸りしが、未色もあしければ傍輩も助合(たすけあひ)て遣すべしと言しに、家内の者共右下女の歸りし事誰(たれ)もしらずと答へて、所々尋しに行方なし。さるにても土產の重箱有しとて重を見しに、重箱はかたのごとくありて内には團子の白きを詰めて有し故、宿へ人を遣して聞しに、右女は二三日已前に相果しが、知らせ延引せし迚右宿の者來り屆候に、不思議の事也と鵜殿が一族のかたりける也。
□やぶちゃん注
○前項連関:女の死霊の挨拶連作。
・「鵜殿式部」岩波の長谷川氏注に鵜殿『長衛(ながもり)。寛政二年(一七九〇)御小性組頭、七年西城御目付。』とある。西城は江戸城西の丸のこと。鵜殿氏は藤原実方の末孫と伝えられるが、本家は衰亡、庶家長忠が徳川家に仕えて旗本として名を後世に伝えているとされるので、その子孫と考えて間違いないであろう。
・「一重」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『二重』とする。主人と家内の同僚の分も含むものであろうから、二重の方が自然か。
■やぶちゃん現代語訳
女の幽霊の主家へ挨拶に参った事
鵜殿式部長衛(ながもり)殿という御仁の奥向きにて召し仕え、数年奉公致いて目をかけて使って御座った女が、永らく病を患ろうて暇を乞うた故、養生のために暇(いとま)を遣わして御座った。
そんな暫く経った、ある日のこと、かの女、式部の母の隠居致いて御座った邸宅へと訪ねて参り、
「数々の厚き御恩を蒙り、永の養生をさせて戴きまして、まことに有難たく存じました。」
と挨拶致いた。
老母も、
「そなたの病気、快方へ向こうたか?」
と悦んで、慶賀致いたが、
「……なれど……未だ、顔色も良うないのう。……さても、今少し、よう養生致いて、またすっかりようなったら、また帰参して勤めよや。」
と諭したところが、
「いえ、もうしっかりとご奉公致すこと、これ出来まする。」
と述べた上、土産と称し、
「これは手前が拵えました不束なる品にて御座いますが……」
と、団子を一重、すうっと差し出だいて御座った。
「そう申すのであれば……先ずは、養生の続きと心得て……無理せず、勤めるがよいぞ。」
と挨拶なしたところ、かの女、深々と礼を致いて、その座を立って、次の間へと引き下がって御座った。
老母もほどなく勝手方へ回り、場に御座った者どもへ、次のように声を掛けた。
「××が病気快癒とて帰って参りました。なれど、未だ顔色も悪(わろ)きことなれば、傍輩の者も、よう、皆、助けおうて遣わすように。」
と言うたところが、勝手方はもとより、家内の者ども皆、
「……大奥さま……その……お言葉ながら……手前ども誰(たれ)一人として……下女の××が帰ったとのこと……一向に存じませぬので、御座いますが……」
と答える故、
「そんな馬鹿なこと!」
と、家内のあらゆるところを捜させて御座ったれど……
……女は、忽然と消え失せて、これ、御座らなんだ。……
老母は、それでも、
「……そんな!……それ! 何と言うても、ここに、土産の重箱がある!……」
と、老母の、居間を指すを見れば、確かに、かく仰せの重箱が御座った。
そこでその重を開けて見たところ、内にはこれまた確かに、団子の白きが、綺麗に詰めおかれて御座った。
さればこそ、かの女の里方へ人を遣はして訊ねさせたところ――
「――娘××儀は、二、三日ほど前……薬石効なく、相い果てまして御座いました……が……急な事とて、先様へのお知らせ、これ、延引致す結果と相いなり……まことに申し訳の程も御座いませぬ……」
と、かの里方の者、直々に言上の上、謝罪に参って御座った。
「……いや……全く以って……不可思議なることで御座った……」
とは、鵜殿殿の一族の者が、私に語って御座った直談にて御座る。
新春物臭し
蓬萊や蜜柑ひとつとねじパンと
カテゴリ「畑耕一句集 蜘蛛うごく」を創始する。
六つ目のアンガジュマン(自己投企)である。
*
畑耕一(明治一九(一八八六)年~昭和三二(一九五七)年)
(多くのデータが明治二九(一八九六)とするのは誤りである。これは平成二三(二〇一一)年、広島市立中央図書館石田浩子氏の『「畑耕一文学資料展」を開催して』によって明らかにされた新事実である。)
広島生。小説家・評論家・劇作家・俳人にして新聞人・映画人・演劇人。幻想文学作家。
俳号、蜘盞子(ちさんし)。ペンネームは汝庵・多蛾谷素一など。
東京日々新聞学芸部長(志賀直哉「暗夜行路」発表に関わるエピソードに登場)・松竹キネマ企画部長(笠智衆を始めとする多く俳優を育てる)国民新聞学芸部長・明治大学教授・日本大学講師など(講義は映画・演劇・ジャーナリズム論)。
大正二(一九一三)年、『三田文学』の「怪談」で文壇デビュー、続けて同誌に「淵」(大正三(一九一四)年)「道頓堀」(大正五(一九一六)年)などの耽美的作品を発表、その後新聞・演劇・映画の実務を熟しながら批評・随筆・戯曲・小説・作詞といった多彩な文筆活動を行う。昭和三(一九二八)年ヒット曲「浅草行進曲」は彼の多蛾谷素一名義の作詞になる。
昭和一五(一九四〇)年、全ての職を辞し、作家生活に入り、創作に専念する生活を選ぶ。この時、眼前の大東亜戦争の端緒たるものという認識のもと、日清戦争の銃後史を描いた「広島大本営」(昭和一八(一九四三)年)は、畑の作品中でも特異な代表作の一つとされる。
戦後は児童文学や評伝などを書いたが、昭和三二(一九五七)年十月六日、広島赤十字病院で胃癌のため逝去した。享年七一歳(今までは六一と考えられていたのは驚くべき錯誤である)。先に掲げた石田浩子氏の論文によれば『畑が亡くなった日の毎日新聞には、「ベッドの上でいろいろ考えたことがあるので、こんど退院したら〝ヒロシマ〟という題で小説と随筆の中間のようなものを書きたいと思う」と、病床で語ったコラムが掲載された』とある。
「別冊 幻想文学 日本幻想作家名鑑」には、『耕一は処女作「怪談」に、怪奇趣味に魅せられて内外の文献を読み漁る青年の姿を活写しているが、これは作者自身の自画像と考えてよいだろう。特に英文学方面の造詣には注目すべきものがあり』(これは石田氏の論にも詳しく、晩年に於いても、M・R・ジェームズ作品集の翻訳・出版に向けて精力を傾けていた事実が記されている)、『随筆集「ラクダのコブ」』(大正一五(一九二六)年)『所収の「新怪奇劇と映画」では、いちはやく映画における怪奇表現という問題に触れても』おり、『怪奇趣味のディレッタントとしての耕一の業績には改めて光があてられてしかるべきだろう』とある。
耕一は若き頃より詩文にも長じ、『明星』や『ホトトギス』などにも投稿、大正一五(一九二六)年、結社「十六夜会」(俳誌『藁筆』)で句作、後に俳誌『ゆく春』『海蝶』などに参加している。
本テクストはその彼の「畑耕一句集 蜘蛛うごく」(序文北原白秋)の完全テクスト化をゆっくらと目指すものである。
僕の所持する昭和一六(一九四一)年二月一五日交蘭社発行の原本を底本とした(これは今から十年程前、神田の田村の棚の隅に押し込まれてあったものを、驚くべき安さで――確か三千円代であったと記憶する――入手したものである)。
カテゴリ創始記念に扉にある畑耕一肉筆墨句の画像を示す(落款は「耕」か)。
石と釘
鍛冶屋はいそがしかつた。汗を垂らしてまつ赤に灼(や)けた鐵を打つた。火花が散つた。鞴(ふいご)が喘息(ぜんそく)のやうな聲で鳴り、小きさい空氣窓を、ぱくりぱくりと動かしてゐた。
「ごめんよ。たのみごとがあるんぢやが」
一人の乞食のやうな山伏が表に立つた。
「たのまれんよ。いま仕事がいつぱいだ」
鍛冶屋はふりむきもせず答へた。
「釘を一本つくつて貰ひたいのぢやが」
「釘なら釘屋に行きなさい」
「そんな釘ぢやない。一尺くらゐの犬釘ぢやが」
鍛冶屋はふりむいた。
「なんするんぢや」
「河童を封じるんぢやが」
「ほうろく言ふとけ」
鍛冶屋は唾(つば)を吐いた。まつ赤な鐵を打つた。火花が散つた。
[やぶちゃん注:「ほうろく」は「日本国語大辞典」によれば、名詞で、『間抜けなこと。つまらないこと。』とあって、方言で採取地は新潟県中頸城郡とする(但し、本話の舞台は「三」で分かるように北九州である)。なお、まさにこの「石と釘」のこの部分がその使用例文として示されてある。]
二
「ごめんよ、たのみごとがあるんぢやが」
その翌日も山伏は一本齒をひきずつて釆て、鍛冶屋の表に立つた。赤鼻に水ばなを垂らして山伏は嗄れ聲で言つた。鍛冶屋は相手にしなかつた。その翌日も山伏はやつて來た。その翌目も山伏はやつて來た。鍛冶屋は灼(や)けた鐵を冷すよごれた水をぶつかけた。その翌日も山伏はやつて來た。鍛冶屋は灼けた鐵を埋める砂を浴びせた。その翌日も山伏はやつて來た。鍔冶屋は立ち上り、向かふ槌をふり上げて山伏を打つた。打たうとした。すると彼の手は痺れて向かふ槌はかへつて彼の頭を打つた。鍛冶屋は水ばなを垂らした蒼白の山伏のために、丹念に鍛へた一本の釘を作つた。
[やぶちゃん注:「向かふ槌」相槌。原義は、刀鍛冶が刀を鍛える際の師の槌を打つ合間に入れる弟子の槌打ちを言った。鉄板を伸ばすための金属製の大槌。]
三
喊聲(かんせい)をあげて、河童の群は香木川(かうぼくがは)の土堤(どて)のかげから、手に手に葦の葉を太刀のごとくひらめかして飛立つた。天に高く上るにつれてそれは無數の蜻蛉(せいれい)の群のごとく見えた。やがて星のない夜空の中に吸ひこまれ見えなくなつた。まもなく空間にあつて異樣な物音が起つた。ひようひようと風の音のごとく、藤の實の啄(ついば)まれて裂ける音のごとく、硝子のかち合つて破れる音のごとく、鳥の羽ばたきのごとく、さまざまの音が起つた。地上にあつてこの物音を聞いた人々は、そらガアツパさんの合戰だといつて、仕事をしてゐるものは仕事をやめ、話をしてゐるものは話をやめて、その音の止むのを待つた。
島郷(しまがう)の河童群と修他羅(すたら)の河童群とが時折繩張爭ひのため空中で戰鬪をまじへた。征霸(せいは)の心に燃える傳説の動物達は、その果敢なる攻撃の精神をみなぎらせて、空間を飛び、ひるがへり、たたかつた。
「またやられてゐるぞや」
朝になつて、百姓達はきまつてさう呟(つぶや)きながら、彼等の耕地にやつて來る。
田や畠の中に、例のごとく點々と靑苔のやうなかたまりが出來てゐた。折角丹精こめて作つた野菜畠の中の各所に、どろどろの靑い液體が一間四方位に流れ淀み、鼻をさす臭氣を放つてゐた。それは昨夜の空中戰鬪で戰死した河童が地上に落ち、靑い水になつて溶けてしまつたあとである。かくして河童の合戰のたびに農作物の被害はおびただしいものであつた。
[やぶちゃん注:「島郷」「修他羅」は現在の北九州市若松区にあった村名。冒頭の「香木川」は不詳。北九州市河川一覧にはない。]
四
「申しあげます。申しあげます」
一匹の河童が嘴を鳴らし息を切つて注進して來た。當時、島郷軍の部隊長は筑後川に棲んでゐた頭目九千坊の二十七騎の旗頭であつた。彼は九州永遠の平和のためには、どうしても修多羅軍を壓倒殲滅(せんめつ)しなければならないと確信してゐるのである。
「なにごとぢや」
「實はたいへんなことを聞き及びました。堂丸總學(だうまるそうがく)といふ破れ山伏が、小癪にも、我々河童を法力をもつて地中に封じてしまふ祈禱(きたう)をはじめたさうでございます」
「それは大變だ。あいつは先年日向(ひうが)の名貫川で、我々一族の目痛坊(めいたばう)をちまの葉でまきこんだ男だ。同文同種の河童同士で戰爭をしてゐる場合でない」
そこで、修多罪、島郷、兩河童軍の和平聯合が成立した。彼等は大根と胡瓜(きうり)と茄子(なす)とをさかなにその和睦の式典をすませ、彼等の新しい共同の敵への鬪志をはらんで、おのおのの頭の皿にまんまんと水を滿たした。
[やぶちゃん注:「ちま」これは私の推測であるが、「チマキグサ」の略で、これは水辺に群生するイネ目イネ科のマコモ
Zizania latifolia の北九州方言ではあるまいか? 識者の御教授を乞うものである。]
五
高塔山(たかたふやま)の頂上に風が荒れた。雨に朽(く)ちた御堂の中に石の地藏尊があつた。山伏堂丸總學はその前に端坐し、護摩(ごま)をたき、狂人のごとく身體をふるはせながら、高らかに經文を誦した。この赤鼻の修驗者(しゆげんじや)は石の地藏の冷い體軀を豆腐のごとく柔軟にするために祈禱してゐるのである。彼は汗にぬれ、眼は血走つた。彼は立ち上り、地藏尊に手をふれた。地誓は冷く堅かつた。彼は吐息をついてまた坐つた。またはげしい祈りが始まつた。しばらくしてまた立ち上り、地藏にふれた。地藏は柔くなつてゐなかつた。このやうにして山伏の祈禱はくりかへされ盡きることがなかつた。日は上り、沈み、また上り、また沈み、彼はなにも食べなかつた。
[やぶちゃん注:「高塔山」現在の修多羅の北に位置する、洞海湾を見下ろす標高一二四メートルの山。中世、北遠賀郡を領有していた麻生氏家臣大庭隠岐守種景の居城跡で、山麓にある安養寺には作者火野葦平の墓がある。なお、この山は昭和六(一九三一)年七月に久留米工兵第十八大隊が山麓から頂上までの登山道路を三日で開鑿した。翌昭和七(一九三二)年二月の上海事変の際、上海郊外で一等兵三名が破壊筒を抱いて敵陣を破壊するために自爆し、所謂『肉弾三勇士』と呼ばれる『英霊』となったが、彼等が所属していた部隊こそ、この工兵第十八大隊であった(北家登巳氏のHP「北九州のあれこれ」の「高塔山公園」の記事を参照した)。現在は公園となっており、この本話に示される仏像が「河童封じの地蔵」として現存し、夏祭りでは盛大なカッパ祭りがおこなわれているという。但し、正確には地蔵菩薩ではなく、虚空蔵菩薩である。参照させて頂いた『大雪の兄』氏の「若松うそうそ」の「カッパ封じ地蔵」にある写真(『大雪の兄』氏がパブリック・ドメインとしての使用を許可されているのに甘えることとする)を掲げさせて頂く。
①「河童地蔵尊」御堂
④高塔山公園の案内板と思われるもの
泥によごれし
背嚢にさす
一輪の
菊の香や
葦平
と碑文が示されているのが読める。]
六
河童の中から優秀なる連中が選拔され、祈禱の妨害が始まつた。經文の威力にとりまかれてゐる總學に對して、河童連は手をふれることが出來かつた。術を好くするものが窈窕(ようちよう)たる美女となり、ふくらはぎをあらはにして山伏の面前を徘徊した。金銀を積み立てその黄金の光を山伏の眼の前に浴びせた。怪異なるものの形になり、山伏の周りを飛び交うて恫愒(どうかつ)した。はては、數百の河童が山伏の周圍にくまなく糞尿垂れながし、そのたへがたき臭氣の中に山伏をつつんだ。しかしながら、堂丸總學はみぢんも動搖せず、祈禱をつづけたのである。
七
何日かが過ぎ、山伏は線香のごとく瘦せ細つたが、そのはげしい祈禱の精神は毫(がう)もひるまなかつた。また、河童たちの必死の妨害も止むことがなかつた。
何千べん目かに堂丸總學が立ち上つて石の地藏の肌にふれた時、石は山伏の指の下にへこんだ。山伏の顏が朝日のごとくかがやいた。彼は膝の前においてあつた一本の釘と金槌とを取り上げた。さうして、地藏の背後に廻り、その釘を背にあてた。この時、今まで彼の手から離れることのなかつた經文が下に置かれた。經文を持つてゐたために近づくことの出來なかつた河童たちが、その際をうかがつて山伏のからだに群がりついた。山伏は金槌をふるつて釘を打ちこんだ。その手に河童たちはすがり、他の河童は山伏の身體にするどい爪を立てた。或る者は嘴をもつてその肉を啄(ついば)んだ。山伏は血にまみれ、傷だらけになりながらも、必死に經文を唱へ、釘をちようちようと打つた。一尺の釘がやうやく半分入つた時、山伏は力つきてそこにたふれた。しかしながら、もはや彼の一念は成就してゐたのである。山伏がたふれるとともに、多くの河童たちも地藏尊のまはりにはらはらと木の葉のごとく落ちてたふれ、靑いどろどろの液體となつて溶(と)けながれた。
八
私は高塔山に登り、その頂上の石の地藏尊の背にある一本のさびた釘に手をふれる時には、奇妙なうそざむさを常におぼえるのである。さうして、その下に無數の河童が永遠に封じこめられてゐるといふ土の上に、やうやく萌えはじめた美しい靑草をつくづくながめるのである。
[やぶちゃん注:本作は彼の故郷である北九州若松に伝わる河童伝承に基づいて昭和十五(一九四〇)年に「伝説」と題して発表されたもので、単行本化された際、「石と釘」に改題している(本作品集がそれかどうかは不明)。当時、彼は三十三歳、六月から七月にかけて報道班員として宜昌作戦に従軍している。彼の戦後の履歴を知る私は――本作の隠喩に何か不思議な由縁を感じるのであるが――皆さんは、如何であろう?]
火野葦平の43篇からなる河童作品集「河童曼陀羅」のテクスト化を始動する。
現在、5本目のアンガジュマン(自己拘束)である。
[やぶちゃん注:本作品集は火野葦平(明治四〇(一九〇七)年~昭和三五(一九六〇)年)がライフ・ワークとした河童を主人公とした原稿用紙千枚を越える四十三篇からなるものである。四季社より昭和三二(一九五七)年に刊行された。底本は昭和五九(一九八四)年国書刊行会が復刻し、平成一一(一九九九)年に新装版として再刊された正字正仮名版を用いた。上に示した作品表題は後書きによれば武者小路実篤の筆になるものである。
火野葦平は福岡生まれ。戦前、家業の沖仲士の組頭「玉井組」を継いで、若松港湾労働者の労働組合を結成するなど労働運動にも取り組むが、検挙されて転向、昭和十二(一九三七)年の日中戦争出征前に書いた「糞尿譚」で翌年の第六回芥川賞を受賞、報道部へ転属となる。戦地から送った従軍記「麦と兵隊」で一躍人気作家となり、太平洋戦争中も各戦線で従軍作家として活躍した(攻略直後の南京入城ではそこに至る進撃路に於いて捕虜が全員殺害される様子を手紙に書いているという)。戦後は戦犯作家のレッテルを貼られ公職追放、戦争責任を厳しく追及されたが、自伝的長編「花と竜」、自らの戦争責任に言及した「革命前後」等で再起、再び流行作家となった。昭和三五(一九六〇)年一月二四日、自宅書斎で心臓発作により死去と報ぜられた。しかし、十二年後の昭和四七(一九七二)年の十三回忌の際、遺族によりアドルムによる睡眠薬自殺であったことが以下の遺書ととともに公表された(近親や弟子らは自殺であることを知っていた)。
死にます。
芥川龍之介とはちがうかもしれないが、或る漠然とした不安のために。
すみません。
おゆるし下さい。
さようなら。
昭和三十五年一月二十三日夜。十一時。あしへい。
沖仲士玉井組組長『男の中の男』玉井勝則、享年五十三歳の自死であった。
高血圧症による右目眼底出血などから鬱病を発症していたとされるが、彼の自殺は六〇年安保に向けて騒然としていた世情とも関係があると言われている(以上の彼の事蹟の記載についてはウィキの「火野葦平」や嵐山光三郎「追悼の達人」などを参考にした)。火野葦平の著作権は既に消滅している。ブログ版では傍点「ヽ」は下線に代えた。一部篇末に私の注を附したものがある。]
老姥の殘魂志を述し事
御普請役元締を勤ける早川富三郎が祖母死しけるが、隣家の心安くせし同位の者方へ至りて安否を尋ける故、右の妻不快の事を尋、快よくて目出度抔述ければ、病中尋給りて忝(かたじけなし)、暇乞に參りしといひし故、御普請役の家内なれば、旅などへ赴(おもむき)候やと相應の挨拶なしけるに、向ふの町家の心安き者の方へも行て、同じ樣に禮など述ける。久々煩(わづらは)れける老姥(らうぼ)快くて目出度(めでたき)由、暇乞抔の給ひし事もあれば、同輩の妻も町家の妻も、富三郎方へ罷らんと立出に、富三郎方にては葬禮の仕度などなしける故、驚きて尋ければ、右の老姥は今朝相果し由聞て、何れも驚きけるとかや。
□やぶちゃん注
○前項連関:霊異で軽く連関。実は「耳嚢」にはそれほど多くない、文字通り、本格の怪談物である。
・「老姥」は「らうぼ(ろうぼ)」と読んで、祖母の意。
・「早川富三郎が祖母死しけるが」怪談として「死しけるが」は意図的に外して訳した。
・「同位」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『同信』。後に「同輩」と出るので、主人が御普請役元締と同位の役方の意であろう。
・「御普請役元締」勘定奉行勘定所組頭の下役であった支配勘定(財政・領地調査担当)の、その下役の一職名。底本の鈴木氏注に『御役高百俵、御役金十両』とある。
■やぶちゃん現代語訳
老姥の残魂の遺志を述べた事
御普請役元締を勤めて御座った早川富三郎の祖母、隣家で親しくして御座った富三郎同輩方の屋敷へ参って、かの同輩妻へ無恙(むよう)の挨拶に訪れた故、隣家の妻、富三郎祖母儀は病中にて思わしからざるを聴き及んで御座ったればこそ、かの祖母に、病いの様子を尋ね、
「すっかり快ようなられ、これはこれは、おめでとう御座りまする。」
と言祝いだ。するとかの祖母、
「病中は、お見舞いを賜わって忝のう御座いました。今日は、暇乞いに、参りまして御座います。」
とのこと。御普請役の家内(いえうち)なれば、富三郎儀、職務によって遠国へでも出役するによって、祖母も養生でも兼ねて附き添うて、ともに旅立つのででもあろうかと、隣家の主婦も相応の挨拶をして別れた。
主婦が、その帰るさを見送って御座ると、かの祖母は向かいの、やはり心安うして御座った町家の者のところへ寄って行き、同じ様に礼を述べておる様子で御座った。
そこで、かの祖母の帰るを見計らって、かの同輩の妻、向かいの町家を訪ね、
「久しゅう煩はれておられた老姥(ろうぼ)の快気なされたは、これ、めでたいことにて御座いまする。旅立ちの暇乞いなんども賜わったことなれば。」
とて、同輩の妻も町屋の妻も、富三郎方へご快気祝いに旅立ちのお餞別のご挨拶を兼ね、二人してお訪ね申しましょう、ということ致し、すぐに一緒に立ち出でると、富三郎方へ参った。
すると何やらん、富三郎方にては葬礼の支度なんどを致いておるようなればこそ、驚いて、
「……何方か、御不幸でも?……」
と尋ねたところ……
……かの祖母は今朝……儚くなられた由……
かの両人、
「そんな! 先程、我らが宅へ元気に参られ……」
「そうで御座います、我らが宅へも! そうして何やらん、『暇乞いの挨拶』とか……」
と、驚き叫んだところで……声も出でずになった、とか申すことで御座る……
私の教え子の手になる【二〇一二年T.S.君上海追跡録 第二】を「上海游記 芥川龍之介 附やぶちゃん注釈」の「十三 鄭孝胥氏」及び「十八 李人傑氏」に追加した。是非、御覧あれ。
*
あまりの寒さに1時半に目が覚めた。4時間程かけて上記作業を終了、眠くなってきた……お休み……
四 殺して食ふもの
動物には植物を食ふものと動物を食ふものとがあるが、いづれにしても食はれただけの餌は死んで消化せられるのであるから、すべて殺されるのであるが、植物は泣きも叫びもせぬため殺して食ふといふ感じを起こさぬ。これに反して、動物の方は、攻められれば多少抵抗し、傷つけられれば痛みの聲を發し、力が盡きれば悲しく鳴くなど、愈々殺され食はれてしまふまで、一刻一刻と死に近づく樣子が如何にも憐に見える。しかして植物を食ふ動物と、動物を食ふ動物とはいづれが多いかといふと、陸上では植物が繁茂して居るために、植物を食ふ動物も多數にあるが、一度海岸を離れて大洋へ出て見ると、殆ど悉く肉食動物ばかりで、植物を食するものというては僅に表面に浮かんで居る微細な種類のみに過ぎぬ。されば殺して食ふことは動物生活の常であつて、前に述べた止まつて餌を待つものも、進んで餌を求めるものも、結局は殺して食ふのである。但し同じく殺して食ふといふ中にも、相手と戰ひ、その抵抗に打ち勝つて殺すものもあれば、無抵抗の弱い者を探して食ふものもあり、殺してから食ふものもあれば、食つてから殺すものもあり、また中には死骸を求めて食ふものなどもあつて、種屬が違へば、殺しやうや食ひやうにも種々相異なる所がある。
獅子・虎・鷲・鷹などのやうな所謂猛獸や猛禽の類は、飽くまで強い筋肉と鋭い爪牙とを以て比較的大きな餌を引き裂いて殺すが、「いか」・「たこ」の類、「えび」・「かに」の類なども、同樣の手段で生きた餌を引き裂いて食ふ。昆蟲の中でも益蟲といつて他の蟲類を食ふ種類は多くは、顎の力によって餌を嚙み殺すものである。「とんぼ」などはその一例で、盛に他の昆蟲類を生きたまゝ捕へて食ふが、それがため養蜂家に對しては甚だしく害を與へる。「げじげじ」なども夜間燈火の近くに匐つて來て蛾の來るのを待ち受け、多數の長い足で蛾の翅を押さえて動かさず、忽ち頭から嚙み始めるが、その猛烈なることは、虎が羊が食ふのと少しも違はぬ。猫が鼠を捕り、鷹が雀を捕ることは誰も知る通りで、この位に互の力が違ふと容易に食はれてしまふが、動物には餌を殺すに當つて何か特殊の手段を用ゐるものもある。その最も普通なのは毒を以て攻めることで、獸や鳥には毒のあるものは少ないが、蛇類には劇しい毒を有するものが澤山にあり、熱帶地方では年々そのために命を落す人間が何萬もある。毒蛇が餌を食ふときにはまづ口を開いて上顎の前端にある長い牙を直立させて、これで速に打つて傷口に毒液を注射するのであるが、その運動も速いが毒の利くのも實に速なもので、打たれたかと思ふと餌になる動物は忽ち麻痺を起し、腰が拔けて動けなくなつてしまふ。「くも」や「むかで」に螫されると毒のために劇しく痛むが、「さそり」の尾の先の毒は更に恐しい。なほ海産動物にも有毒のものは幾らあるか知れぬ。
[さそり]
[やぶちゃん注:「げじげじ」節足動物門多足亜門ムカデ上綱唇脚(ムカデ)綱改形(ゲジ)亜綱(背気門類)ゲジ目ゲジ科 Scutigeridae。標準和名はゲジ。難読漢字でよく出るが漢字では「蚰蜒」と書く。本邦産は二種でゲジ Thereuonema tuberculata と オオゲジ Thereuopoda clunifera。参照したウィキの「ゲジ」には語源として、『天狗星にちなむ下食時がゲジゲジと訛ったとか、動きが素早いことから「験者(げんじゃ)」が訛って「ゲジ」となったという語源説がある』とするが、あまりピンとこない。虫嫌いの私が最も恐懼する虫である。言わずもがなであるが、クモ類(蛛形綱)やムカデ・ゲジ類(多足亜門唇脚綱)は昆虫ではない。
「さそり」節足動物門鋏角亜門クモ綱サソリ目 Scorpiones に属する動物の総称。クモ類の中では進化の最初期に分化したグループと考えられている。丘先生はかなり脅した表現を用いておられるが、ヒトに対して致命的な毒を持つ種はサソリ類凡そ一〇〇〇種の内、僅か二十五種と少ない。]
大きな蛇が餌を殺すには長い身體を卷き附け、順々に締めて窒息させ、更に骨片なども折れるまで壓縮する。熱帶地方に産する蛇には、長さが七米も九米もあるものがあるが、かやうな大蛇は隨分馬や牛でも締め殺すことが出來る。また「ワニ」などは陸上の動物が水を呑みに來る所を水中で待つて居て、急に啣へて水中に引き入れ溺れさせてからこれを食ふのである。
[兎を殺す大蛇]
餌となる動物を生きたまゝ引き裂いて食ふ動物は、自然性質も殘忍で、單に引き裂くことを娯む如くに見える。「いるか」の類は常に「いか」を食とするが、「いるか」が「いか」の群れを見附けると、食へるだけこれを食ふのみならず、食はれぬものも皆嚙み殺す。かやうな跡を船で通ると、半分に嚙み切られ死んで居る「いか」が無數に浮いて居る。これは「いるか」に限らず他の猛獸類にも多少その傾があるやうに見える。
[やぶちゃん注:「娯む」は「たのしむ」と訓ずる。私がここを読みながら感じること――捕鯨を残酷で野蛮だという人々は、このイルカのイカへの「蛮行」を、『神のように許し給う』ということである。――]
餌を嚙まずに丸呑みにするものには生きたまゝ食ふものが多い。鶴や「さぎ」が「どぜう」を食ふのもその例であるが、最も著しいのは蛇である。蛇が蛙を呑む所を見るに、まづ後足を口に啣へ、次に體の後端から呑み始めて次第に呑み終るが、蛙はなほ生きて居るから強ひて蛇に吐かせると、蛙はそのまゝ躍ねて逃げて行く。蛇が自身の直徑の數倍もある大きな動物を丸呑みにするのも驚くべきことであるが、深海の魚類などには、身體の大きさに比して更に大きなものを呑むものがある。ここに圖を掲げた魚などは自身より大きな魚を呑んだので、呑まれた魚は二つに曲つて、漸く呑んだ魚の胃の中に收まつて居る。
[魚を呑んだ魚
呑まれた魚の尾鰭の上に重なつて見えるは飲んだ魚の腹鰭]
[やぶちゃん注:この挿絵の魚は新鰭亜綱棘鰭上目スズキ目クロボウズギス科オニボウズギス Chiasmodon niger 若しくは同クロボウズギス科 Chiasmodontidae に属する他のボウズギス属(クロボウズギス属 Pseudoscopelus・ワニグチボウズギス属 Kali・トゲボウズギス属 Dysalotus)と思われる。私にはオニボウズギス Chiasmodon niger の確率が高いように思われる。何故なら、以下に参照したウィキの「オニボウズギス」にパブリック・ドメインで示される同種の図譜①(Black swallower, ''Chiasmodon niger''. From plate 74 of ''Oceanic Ichthyology'' by G. Brown Goode and Tarleton H. Bean, published 1896)とこの図が極めてよく似ているからである。オニボウズギス(鬼坊主鱚)は深海六〇〇から一〇〇〇メートルほどの深さに住む深海魚で、体長は一〇~三〇センチメートル、口に鋭い歯が生え、肌は透けるように薄い。口は大きく開くが、これが本種の最大の特徴である、自分の数倍もある大きな獲物を無理矢理胃の中に納めるのに適した構造となっている。『本種は普段はごく普通の魚に見えるが、自分よりも大きな獲物を呑み込んだ結果、胃が猛烈に膨れあがり、体の容積の数倍にもなる。その胃の中の捉えた獲物の姿が、透けた体表を通して見えてしまう程である』。『この大きく膨らんだ胃によって、エサの乏しい深海で長期間栄養を保つとされている。歯が鋭いのは、そういった獲物を捕らえた場合、決して逃がさないようになっていると思われる』(引用はウィキ本文)とあるが、この解説の中で『本種の最大の特徴』としている点、以下に示した①の反転画像②と較べてみても、頭部尖端及び尾鰭・側線の形状に違いが見られるが、本書の図譜はかなりタッチが荒く、描画上の相違とも取れるからである。
①
②]
[はげわし]
肉食動物の中には、自身で餌を殺さずに死骸の落ちて居るのを探して食つて歩く種類もある。エジプトの金字塔(ピラミッド)の繪などに、よく虎と狼との中間のやうな猛獸の畫いてあることがあるが、これは「ヒエナ」〔ハイエナ〕といふ獸で、常に死體を求めて食物とする。鳥の中では「はげわし」と稱するものが屍骸の腐りかゝつたのを食ふので有名である。この類の鳥は日本の内地には一種も居ないが、朝鮮からアジア大陸・ヨーロッパ大陸邊には澤山居る。頸は稍々長く、頭と頸とは露出して、恰も坊主の如くであるが、馬や牛の屍骸でもあると忽ちそこへ集まつて來て、皮を嚙み破り、腹の中へ頭を突き込んで腐つた腸や腎などを貪り食する。昆蟲の中に「しでむし」というのがあるが、これなども屍體を食ふのが專門で、鼠や「もぐら」の死體でも見つけると、その處の土を掘つて終に土中に埋めてしまひ、後にこれを喰ふのである。海岸の岩の上などに澤山に活發に走り廻つて居る「ふなむし」も、好んで死體を食ふもので、海濱に打ち上げられた動物の屍體は忽ちの中にこれに食ひ盡され、たゞ骨格のみが綺麗に後に殘る。
[しでむし]
[やぶちゃん注:「ヒエナ」丘先生が念頭においておられるのは、エジプトを挙げておられるのでネコ目ハイエナ科ハイエナ亜科ブチハイエナ
Crocuta crocuta 及びシマハイエナ Hyaena hyaena であろう。背中に剛毛が生えている様が豚に似ていることから、シマハイエナの属名“Hyaena”及び英名“hyena”は、雌豚を意味する古典ギリシア語“huaina”に由来する。
「しでむし」鞘翅(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目ハネカクシ上科シデムシ科 Silphidae に属する昆虫の総称。「死出虫」。時に「埋葬虫」とも漢字表記する。
「ふなむし」甲殻綱等脚(ワラジムシ)目ワラジムシ亜目フナムシ科フナムシ
Ligia exotica。]
姪の若夫婦と豊橋で会食、翌日、名古屋の義母を見舞った。
初日は、蒲郡の蒲郡クラシックホテル(旧蒲郡プリンスホテル)に泊まった。
(その歴史はウィキの「蒲郡クラシックホテル」を参照されたい。以下は同ウィキのパブリック・ドメイン画像)
僕は、27年前の1985年の秋、未だ独身の折りに、この蒲郡から伊良子岬に数少ない一人旅をした。
その時、この当時廃業していた「蒲郡ホテル」の外観を眺めながら、何故か、いつかここに泊まりたい、と思ったのを覚えている。
そんな希望を僕は妻に伝えることもなかったのだが、彼女はこのホテルを選んだ。
それにはまた別の理由があった。
妻の祖父は名古屋でも屈指の指物師であった。戦前――今、アルツハイマーで入院している、見舞ったところの――まだ幼かった義母を連れて、祖父はこのホテルの調度類の仕事をしたのだった。――
特別に、昭和天皇と香淳皇后が昭和32(1957)年――これは僕の生まれた年だ――に宿泊した部屋を見せて貰った。
カーテン隠しの桟や木製のテーブルに、祖父の堅実な仕事振りが感ぜられた。
連休の終り――遅いフランス料理のフルコース・ディナーを竹島を見下ろす44席あるメインダイニングの最も絶景のテーブルで食したが――7時から2時間余り――何とラッキーなことに――貸切ったように、僕ら二人きりだった――
料理もワインも景色も何もかもが最高だった――
温泉ではないし、大浴場もないが――泊まってよかった――僕の数少ない、お奨めのホテルである――
館林領にて古き石槨を掘出せし事
寛政八年の春、館林松平久五郎領内の寺院、三四日續て夢見しに、誰ともしらず來りて境内の畑地を掘りて見ば靈佛あらんと告し故、此僧律義篤實のものにて、其村長へ斯(かく)と告ければ、かゝる事は何とやら奇怪にいたらんとて取合ざりしが、度々に及び右の僧迷ひを晴し度(たき)趣にかたりし故、然らば寺内の儀勝手次第たるべしといひしゆへ、寺にて人を集め深さ壹丈程巾貮間四方程も掘しに、一つの石槨(せつかく)を掘出せしが、内に太刀一振差添樣(さしぞへやう)の物ありて、差添の方は朽て銘のごとき文字もあれどわからず、且祠(かつやしろ)やうのものに文字を彫り付たる壹尺四方程の物ありて、文字間滅(まめつ)して讀兼(よみかね)ぬれど、藤原の田原藤太秀郷を葬りし樣成(なる)文言の由、領主役人へも申立けれど、餘り怪異にも流れ如何の事と評議しけれど、又士民の口説(くぜち)にて風聞も有んとて、月番の寺社奉行へ聞合て屆もせんと、右家士伊藤郡兵衞久世家へ來りて語りける由。公邊へ出なば委細の事も知れなんなれど、先聞し儘を爰に記しぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:特に感じさせない。四つ前の新田義興から藤原秀郷で古武士武辺物奇譚連関。
・「石槨」古墳時代の石製の、棺を入れる外棺。
・「松平久五郎」これは上野館林藩主松平(越智)家第四代松平武寛(宝暦四(一七五四)年~天明四(一七八四)年)、通称久五郎のことであるが、彼はご覧の通り、寛政八(一七九六)年前に亡くなっているからおかしい。これは武寛の長男で第五代当主であった松平斉厚(なりあつ 初名・武厚(たけあつ) 天明三(一七八三)年~天保十(一八三九)年)の誤りである。訳でも訂した。
・「差添」名詞。刀岩波のに添えて腰に差す短刀。脇差。
・「祠」カリフォルニア大学バークレー校版では『銅』であるが、銅製の埋葬碑文で磨滅というのは私にはしっくりこないので、採らない。
・「藤原の田原藤太秀郷」平将門追討や百足退治で知られる藤原秀郷(生没年未詳)は、下野国の在庁官人として勢力を保持していたが、延喜十六(九一六)年に隣国上野国衙への反対闘争に加担連座し、一族とともに流罪とされている(但し、彼は王臣子孫であり、かつ秀郷の武勇が流罪の執行を不可能としたためか服命した様子は見受けられない)。将門天慶の乱では天慶三(九四〇)年にこれを平定、複数の歴史学者は平定直前に下野掾兼押領使に任ぜられたと推察している。この功により同年中に従四位下、下野守に任ぜられ、後には武蔵守及び鎮守府将軍も兼任した(以上の事蹟はウィキの「藤原秀郷」に拠った)。彼の墓と称せられるものは現在、かつて居城とした栃木県佐野市新吉水や群馬県伊勢崎市赤堀今井町(こちらは秀郷の死後、三男田原千国による供養塔と伝えられる)にあるが、館林藩内に相当する旧群馬県邑楽郡(おうらぐん)内には、管見する限りでは見当たらない。もしあれば、御教授を乞う。
・「月番の寺社奉行」寺社奉行定員は四名前後で自邸をそのまま役宅とし、月番制の勤務であった。勘定奉行・町奉行と並んで評定所を構成、各種訴訟処理を行った。寛政八年当時は土井利厚・板倉勝政・脇坂安董・青山忠裕。
・「間滅」底本「間」の右に『(磨)』と傍注。
・「久世家」岩波版長谷川氏注には後掲される「津和野領馬術の事」に出る「久世丹州」久世広民(享保十七(一七三二)年又は元文二(一七三七)年~寛政十一(一八〇〇)年)か、とされる。天明四(一七八四)年に勘定奉行となって寛政の改革を推進、寛政八年当時は寛政四(一七九二)年よりの関東郡代をも兼ねていたので、本記述に合致する。これで採る。
■やぶちゃん現代語訳
館林領内にて古き石槨が掘り出された事
寛政八年の春、館林藩松平斉厚殿御領内の寺院の住僧、三、四日続けて同じ夢を見た、その夢――
……誰とも分らぬ者が立ち現れ、
「――境内の、どこそこの畑地を掘りなば――霊仏、有らん――」
と告げては消える……
――という体(てい)のもので御座った。
この僧、律儀にして篤実なる者で御座った故、その村の村長に、かくかくの由、告げたところ、
「……そのようなこと……これ何やらん、奇体なる趣きの話なればのぅ……」
と、当初は取り合わずに御座ったれど、この僧、何度も村長に面会に及び、
「――何としても、この疑念を晴らしたく存ずればこそ……。」
と執拗に掛け合って参る故、遂に村長も折れ、
「……然らば……寺内(てらうち)のことなれば……勝手に致すがよかろう。」
と許諾致いた。
そこで、寺では檀家衆を集め、かの夢告の指し示した場所を、深さ一丈、幅二間四方程も掘ったところが――
――一つの石槨(せっかく)を掘り出だいた。
――石槨の中には太刀が一振と脇差様(よう)のものが封じられてあったが、その脇差様のものは、すっかり朽ち果ててしまっており、切った銘の如き文字もありはするものの、判読は、これ、不能で御座った。
――且つまた、石槨中にはそれとは別に、石碑様のものに文字を彫り付けた一尺四方程のものも入って御座って、その文字は、これやはり、摩滅して読み難くう御座ったれど、読もうなら、
『――藤原の田原の藤太秀郷を葬れり――』
といった文言で、御座ったという。
以上の事実を領主及び役人へも申告致いたが、
「……発掘の経緯も出土の品々も……いや、これ、あまりに奇怪(きっかい)に過ぐればこそ……如何(いかが)なものか……」
と、評議百出、なれどもまた、
「……このまま等閑(なおざり)に致さば……いずれ、土民の噂ともなり、尾鰭も附いて、突拍子もない風聞としてお上のお耳に入らばこそ……これ、我らが対応の不備を咎め立てられんとも、限らぬ……」
ということになって、結局、月番の寺社奉行へ正式に申告致すことと相い成って御座った――ということを、かの館林藩家士伊藤郡兵衛殿が関東郡代久世広民殿方へ参上の上、物語って御座った由。
御公儀への正式な調査報告書が提出されれば、もっと細かな事実も判明致すものと思われるが、先ずは伝え聞いたままを、ここに記しおくことにする。
本日より義母の見舞いに参る。随分、御機嫌よう――
*
金瘡燒尿の即藥の事
途中或は差懸り候て、血留(ちどめ)其外藥をもたざりし時、大造(たいさう)の疵はしらず、聊の疵か又燒(やけ)どの愁ひには、靑菜をすりて付るに即效有る事と、坂部能州かたりぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:民間療法三連発。
・「金瘡燒尿の即藥の事」底本には「燒尿」の部分に鈴木氏による『やけど』のルビがある。標題にはルビを振らないことを原則としてきたので、ここに記す。岩波版では長谷川強氏は「金瘡燒尿」には「金瘡(きんそう)・焼尿(やけど)」とルビを振っておられるが、私は後ろを「やけど」と和訓する以上、切り傷を言う「金瘡」は「きんさう(きんそう)」ではなく、「かなきず」若しくは「きりきず」と訓じているように思われる。
・「大造(たいさう)」は底本のルビ。
・「燒(やけ)ど」は底本のルビであるが、これまでのルビは( )で附された鈴木氏によるルビであったのに対し、これは( )がないので、原本のルビと判断される。
・「靑菜」は一般には緑色の葉菜類、カブ・コマツナ・ホウレンソウなどを指すが、狭義にはカブの古名ではある。但し、叙述から緊急時に常にカブがあろうとも思われぬから、広範な食用の緑色葉菜類を指しているように思われる。ネット上では、アオキ・ツワブキ・ビワ・アロエ等の生葉が民間薬として挙げられている。
・「坂部能州」坂部能登守広高。本巻の「蝦蟇の怪の事」に既出。寛政七(一七九五)年に南町奉行となり、同八年には西丸御留守居とある。
■やぶちゃん現代語訳
切り傷・火傷の妙薬の事
外出した際や、何らかの差し障りが御座って、血止め等の薬を所持しておらぬ時には、大きな外傷は例外であるが、ちょっとした傷や、また火傷(やけど)を負って心配な折りには、近くに生えておる青菜などを擦って塗布すると即効があるということを、坂部能登守広高殿が語っておられた。
ギリヤーク尼ヶ崎 / 東日本大震災追悼「祈りの踊り」
平成二十三年五月七日 気仙沼にて
……これはギリヤーク尼ヶ崎畢生の舞台である……私はこの場
……僕のギリヤークとの出逢い……
[白蟻 一種類の中に見られる種々の形態の異なつた個體を示す]
白蟻にも菌を作る種類が幾らもある。白蟻といふと素人はやはり蟻の一種かと思ふが、昆蟲學上から見ると蟻と白蟻とは全く別の類で甚だ縁の遠いものである。しかしながら兩方ともに數萬も數十萬も集まつて社會を造つて生活するから、習性には相似た所が少くない。菌の培養の如きもその一つで、白蟻の巣に於ても略々同樣のことが行はれて居る。但し菌の種類も、その作りやうも聊か蟻とは違ひ、また白蟻の種族によつも違ふ。白蟻が菌を養ふ畠は、蟻の如くに木の葉を嚙み碎いたものではなく、白蟻自身の糞であるが、白蟻は主として木材を食するもの故、その糞は木材を細かく碎いた如きものである。木材は誠に滋養に乏しいものであるが、白蟻の糞の畠に繁茂する菌は多量の窒素を含み滋養分に富んで居るから、白蟻のためには甚だ大切な食料である。蟻の方はわざわざ木の葉を嚙み碎いて畠をつくるのであるから、眞に菌を培養することが確であるが、白蟻の方は自身の糞の塊に菌が繁茂して居るのであるから、或は自然に生ずるものではなからうかとの疑も起るが、働蟻を遠ざけて置くと忽ち部屋中が黴だらけになる所を見ると、白蟻の場合に於ても、やはり働蟻の不斷の努力によつて、菌が常に適度に培養せられて居ることが確に知れる。これらはいずれも後に餌となるべきものを、前以て作るのであるから、明に一種の農業である。
[やぶちゃん注:「白蟻」ゴキブリ目シロアリ科 Termitidae の昆虫の総称。言わずもがな、丘先生もおっしゃっている通り、アリはハチ目ハチ亜目有剣下目スズメバチ上科アリ科 Formicidae で、羽を欠く社会性を強く保持したハチの仲間であるのに対し、シロアリはゴキブリが強い社会性を獲得し、たまたま生態に於いてアリと同じような平行進化を遂げたゴキブリの仲間であり、種としては縁遠い。キノコを栽培するシロアリについては、参照したウィキの「シロアリ」によれば、『高等シロアリと呼ばれるシロアリ科のシロアリにはユニークな生態のものがあり、その中にはキノコを栽培するシロアリもある。それらは喰った枯死植物を元にしてキノコを栽培する為の培養器を作る。それを入れるための巣穴を特に作る必要がある。日本では八重山諸島に分布するタイワンシロアリが地下に巣穴を掘り、そのあちこちにキノコ室を作る』とある。沖縄本島より南に生息するこのタイワンシロアリ
Odontotermes formosanus が栽培するキノコはキシメジ科オオシロアリタケ Termitomyces eurrhizus であるが、何と、これは人間の食用にもなる。タイワンシロアリとオオシロアリタケの共生を含め、最後には「オオシロアリタケのソテー」を紹介してくれる、沖縄県立博物館公式サイトの主任学芸員田中聡氏の「オオシロアリタケのソテー:シロアリと菌類のコラボレーションに舌鼓」は必読である。]
樹木の幹の中に生活する小さな甲蟲の中にも菌を利用するものがある。「ゴム」・茶・甘蔗・蜜柑など熱帶地方の有用植物は、幹を喰ふ小甲蟲のために年々大害を受けるが、これらの蟲類の造つた細い隧道の内面には、處々に微細な菌類が澤山に生じ、甲蟲は少しづつこれを食つて生きて居る。これなども不完全ながら蟻や白蟻が菌を作るのに比較することが出來よう。農業などの如き、稍々遠き未來の成功を豫期して現在の勞働に從事するといふことは、生物界には決して多くはないが、しかしその皆無でないことは以上の數例によつて確に知ることが出來る。
[やぶちゃん注:「農業などの如き、稍々遠き未來の成功を豫期して現在の勞働に從事するといふこと」なんだか、こう書かれると、農業はやっぱり崇高だという気がしてくる。]
齒の妙藥の事
是も柳生氏かたりけるは、同人の齒性(はのしやう)至てあしく、壯年の比、口醫(こうい)も四十迄は此齒の無難ならざらん事を示しけるが、或人の教にて、冬瓜(とうがん)を糠みそ漬にして干上(ひあ)げ、黑燒にして日三度宛ふくみしが、五十に成て未(いまだ)齒の愁ひなし。しかし一兩年又々震(ゆ)るぎ抔する事ありしに、又人の教けるは、右冬瓜の黑燒、胡栗(くるみ)の澁皮共黑燒になしたるを合せ、又チサの棠(たう)にたちたる軸を黑燒になし、三味合せて用ゆれば奇妙の由聞て、苣(ちさ)の棠は時節後れて才覺なかりし故、冬瓜胡桃兩種を去年已來(いらい)用ゆるに、聊か快き事覺へしとかたりぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:話者柳生氏及び民間療法で直連関。本話の話の運び、そしてエンディング――これ、やっぱり根岸の視線は、これ、かなり眇めな気がしてならないのである。
・「冬瓜」双子葉植物綱スミレ目ウリ科トウガン
Benincasa hispida。インド及び東南アジア原産。本邦では平安時代から栽培されてきた。漢方では、体を冷し、熱をさます効果があるとされるので、歯周病による歯肉の腫れを鎮める効果が期待出来なくもない。
・「五十に成て」もしこの「柳生氏」が前項で示した柳生俊則であるとするなら、彼は享保十五(一七三〇)年生まれであるから、本巻執筆当時(寛政九(一七九七)年)では、数え七十歳で、計算が合わない。やはり彼ではあるまい。寧ろ、この謂いから、この「柳生氏」は根岸(当時、数え六十四歳)よりも若い可能性が高いということが分かる。
・「震(ゆ)るぎ」は底本のルビ。
・「胡栗(くるみ)」は底本のルビ。
・「チサ」キク目キク科アキノノゲシ属チシャ
Lactuca sativa。聞きなれないかも知れないがレタス(“Lettuce”英名)の和名である。地中海沿岸原産で本邦には既に奈良時代に伝来している。但し、現在、我々が馴染んでいる結球型のレタスはアメリカから近年持ち込まれたもので、家庭の食卓に普及したのは一九五〇年代と新しい。それまでのチシャは巻かない(結球しない)タイプであった。キク科に属すことから分かるように本来の旬は秋である。従って、本話柄の後半のシークエンスは恐らく厳冬から春夏にかけてと推定出来る。なお、学名もレタスもチシャも語源は同根で、英名の語源となった属名の“Lacutuca”のLacはラテン語で「乳」を意味し、チシャは乳草(ちちくさ)が訛ったものである(因みに、イネ Oryza sativa の種小名と同じ“sativa”はラテン語で「栽培されている」の意)。これは新鮮なレタスを切った際に白い乳状の苦い液体が滲出することに由来する命名であるが、これはラクチュコピクリン(lactucopicrin)と呼ばれるポリフェノールの一種で、これには軽い鎮静作用や催眠促進効果があり、十九世紀頃までは乾燥粉末にしたレタスを鎮静剤として利用していたとされるから、この話柄でも歯周病による鎮痛効果が期待されるとすれば、これも強ち迷信とは言えないかも知れない。
・「棠」底本には右に『(薹)』と傍注。たまたま歴史的仮名遣でも一致して「たう」であるが、ここは「薹」が正しい。「薹(とう)が立つ」の「とう」で、これは野菜の茎が伸びてしまい、食べ頃を過ぎてしまうことをいうから、チシャが旬を過ぎてすっかり葉が固くなり広がったものの堅い軸(茎)を指している。
■やぶちゃん現代語訳
歯の妙薬の事
これも柳生氏の語られた話で御座る。
「……拙者、生来、歯の性質(たち)が、これ、殊の外、悪う御座っての、壮年の頃には、もう口腔外科医から、
「……残念なことにて御座るが……四十までには、これらの歯……無事にては、これ、御座らぬと推測致しまする……。」
と宣告されて御座ったものじゃ。……
……ところが、ある人の教授にて、
――冬瓜を糠味噌漬けに致いたものを更に干し上げ、これを今度は黒焼きに致いて、毎日一度宛て、口に含むと効果がある――
との由にて……その後は欠かさず、その通りに致いて参った。……
……されば、ほれ、この通り、五十になった今にても、未だ歯の愁いなし!
……と申したいところで御座るが……
……実は一、二年ほど前より、またぞろ、歯がぐらつき始めて御座って、の……
……そこで、先の療治を教えて呉れた者に、再び相談致いたところ、また、教授を受けた。それによれば、
――まず、冬瓜の黒焼きに、胡桃を渋皮のままに黒焼きに致いたものを混ぜ合わせたものを用意致し、更にまた、薹(とう)の十分に立ってしもうた苣(ちしゃ)の固く太い軸を黒焼きになして、さても、この二種、都合内容物三種を合わせて、用いれば絶妙――
との由にて御座ったのじゃ。
……ところがじゃ……苣の薹が立ったものと言われても、の……その折りは、これ、とんだ時期外れで御座って、とてものことに手に入らなんだによって……とりあえずは、冬瓜・胡桃両種の黒焼きを合わせたもの、これ、去年以来、ずうっと服用致いて御座ったところ……
「……いや、根岸殿、聊か軽快致いたかの如き気が、致いて御座るのじゃ。……」
と、柳生氏は語って御座った。
[葉切り蟻]
なほ南アフリカの熱帶地方には菌を培養する蟻がある。これは「葉切り蟻」と呼ぶ大形の蟻で、巣は地面の下につくるが、つねに多數で出歩いて樹に登り、鋭い顎で葉を嚙み切り、一疋毎に一枚の葉を啣へて、恰も日傘でもさした如き體裁で巣にに歸つて來る。この事は誰にも著しく目に觸れるから、昔は何のためかと大なる疑問であつたが、その後の周到な研究の結果によると、この菓は巣に持ち歸られてから更に他の働蟻によつて極めて細かく嚙み碎かれ、菌を栽培するための肥料に用ゐられることが明に知れた。巣には處々に直徑三〇糎以上もある大きな部屋があつて、細い隧道で互に連絡し、部屋の内では働噺蟻が葉を嚙み碎いたもので畑を作り、そこへ一種の菌を繁殖させる。この菌は松蕈・椎蕈などと同じやうな傘の出來る類であるが、蟻の巣の内では働蟻が始終世話して居るので、傘狀にはならず、たゞ細い絲の如き根ばかりが茂つて、蟻の餌となるのである。
[蟻の菌畠]
[やぶちゃん注:「菌」読んでゆけば一目瞭然であるが、これは「きのこ」と読む。
「葉切り蟻」ハチ目ハチ亜目有剣下目スズメバチ上科アリ科
Atta 属と Acromyrmex 属に含まれる四十七種の総称。主に中南米の熱帯雨林に棲息する。ウィキの「アリ」の「ハキリアリ」に拠れば、『集団で行列を組んで様々な種類の木の葉を円く切り取って巣の中へ運び、その葉で培養した菌類を主食にし、培養に使った葉の残りカス等も決まった場所に投棄する。人間以外で農業を行うという珍しい蟻だが、近年では農作物を荒らす害虫として現地では駆除の対象になっている』とする。コロ氏のHP「多様性を求めての旅」の「ハキリアリ」に拠れば、『ハキリアリが育てている菌はアリタケと呼ばれ、ハキリアリの巣の中以外ではみつからない。ではどのような関係かというと、ハキリアリはアリタケの胞子から栄養分である糖分をもらっている。またアリタケは他の菌などの外敵からハキリアリに守ってもらっているという相互共生(mutualism)が成り立っているのだ』。『ハキリアリの巣は成熟した場合だと八〇〇万匹もいると、英語のWIKIに書かれてあったが、普通に書かれているものから判断すると一〇〇万~二〇〇万匹くらいではないだろうか?』『ハキリアリはアブラムシも巣の中に飼っている。これも相互共生という形で形成されている。アブラムシは植物の汁を吸って、糖分が含まれている汁を分泌する。これがハキリアリにとって餌になる。そしてハキリアリはアブラムシを天敵から守ると同時に、アブラムシの卵を巣の中で育てることもする。このため、ハキリアリは農園だけでなく牧場も経営するなどと表現する場合がある』と記しておられる(アラビア数字を漢数字に代えた)。引用元は以下、ハキリアリ社会の階級構造とそれぞれの習性を語り、写真もある。最後にコロ氏は『なんど観察していてもあきない不思議な生き物である。ハキリアリはおなじ熱帯雨林でみれる軍隊アリと比べると狂暴性が低いし、近くで観察していても危害を加えてこないので、みていてとても愛らしい生き物である。』と述べておられる。一読をお奨めする。なお、このアリタケは菌界担子菌門菌蕈亜門真正担子菌綱ハラタケ目ハラタケ科
Agaricaceae に属する。]
芥川龍之介「上海游記」の「東和洋行」の注に以下を追加した。
*
【①の写真及び「東和洋行」についての新事実――二〇一二年七月十三日に配達されたT.S.君の手紙より】
結論から言うと、
――芥川龍之介が最初に立ち寄ったのは「東和洋行」で間違いなかったこと
――「東和洋行」は上海最初の本格的日本旅館であったこと
――写真①に写っている「河濱縁賓館」というホテルは「東和洋行」ではないということ
の三点が今回のT.S.君からもたらされた新事実である。
彼は、私に中国で出版された陳祖恩氏の「上海の日本文化地図」(中国地図出版社・邦訳版)という二〇一〇年に出版された本のコピーを送って呉れた。そこには、「東和洋行」の昔の写真が二枚掲載されている。それと先に紹介した木之内誠氏著になる「上海歴史ガイドマップ」を引き比べつつ、T.S.君が更に推理したものである。
《引用開始》
東和洋行に関して考えたこと
そもそも芥川龍之介はここに宿泊しなかったので、私にはそれほど強い思い入れがあるわけではありません。しかし写真にある東和洋行の建物は、私がカメラに収めた建物とは別物です。少々悔しいので、次のような推測をしました。
「上海の日本文化地図」には「東和洋行は後に北四川路に移転した」とあります。これが前にコピーをお送りした「上海歴史ガイドマップ」上の東和ホテルではないでしょうか。そうだとすれは、「上海歴史ガイドマップ」上の記載がやや分かりにくいのですが、一応一九二九年の移転だと推測されます。私が別に所有している上海の歴史写真集には、一九三四年と注記されたこの辺りの風景写真が掲載されています。そこにはもう東和洋行は見えません。そして私が今回撮影したのと同一と思われる建物が映っています。のっぺらぼうで捉え所がなくて即物的で、私は全く好きになれませんが、これが「上海歴史ガイドマップ」上のエンバンクメントハウス、今の河浜大楼でしょう(同書上では一九三五年という注がありますが、写真集が撮影年を間違えているのかもしれません)。
彼の来訪時、東和洋行は確かに河南北路×北蘇州路にありました。そして、「上海の日本文化地図」所収の写真の建物はまさに彼が立ち寄ったものです。旅館広告の建物写真の横に「蘇州河に臨み」と出ていますから、間違いありません。
なお、写真は交差点の角のようには見えません。建物前の通りの名は何でしょうか。写真中央の正面玄関はどちらの方角に面していたのでしょうか。推測ですが、通りは北蘇州路、正面玄関は南向きで蘇州河に面していたと思います。つまり東和洋行は河南北路×北蘇州路の角から北蘇州路を僅かに東へずれたところにあったということです。なぜなら、広告写真は、路上に射している陽光と木の蔭の具合から、やや逆光気味に見えます。もし河南北路に面しているとしたら、北方から陽が射しているというおかしなことになってしまうからです。
《引用終了》
この写真の分析の妙味には舌を巻いた。私が彼を和製T.S.ホームズと呼ぶ理由がお分かり頂けるものと思う。
「やぶちゃんの電子テクスト:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇」の「鎌倉攬勝考卷之三」を始動した。
初っ端から鶴岡八幡宮神事行列中の「合鉢」と「甲衆」が分からぬ。御存じの方はよろしく頼む。(本文をHTMLで次の記事として示す)。
眼の妙法の事
柳生が元へ來れる八十の翁、眼鏡なくして今に物を見し故、其眼生(めしやう)を賞し尋しに、彼(かの)翁四拾の頃商家に寄宿してありし時、夜々みせの者集りて錢を繫(つな)ぐに、壹人の老人來りて我も手傳(てつだは)ん迚、百文の錢をさしながら勘定するに、壯年の者同樣なれば人々是を賞しけるに、外に藥とて用ひし事もなく、田舍の事なれば眼の爲に醫藥を加へしと云事なし、或人の傳授にて、箒草(はうきぐさ)をひたし物又は切合(きりあへ)にして不絶(たえず)食する由教(おしへ)し故、我等も四十の頃より箒草を日々一度宛(づつ)用(もちゐ)るよし言ひし故、柳生も切合などにして食するに、給惡(たべにく)き物にもなしとかたりぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:医師の薬草採取から民間治療の薬草で連関。しかしこのふらりとやって来た老人というのは、彼の眼の良さの話の盛り上がりの最中、緡から数枚の銭を掠め取って御座ったものではなかろうか? 人が信じられぬ拙者は、どうも意地悪く読み取ってしまうので御座る……。更に意地悪く言うと……根岸は箒草のあえものを果たして食べてみただろうか? 私はどうも食べなかった気がするのである。そもそもこれが妙法と根岸が信じたなら、彼なら即座に実行に移したはずであり、「柳生も切合などにして食するに、給惡(たべにく)き物にもなしとかたりぬ」で話を切るはずがない。根岸はこの話を、実は胡散臭いものとして記している気さえ、してくるのである……。
・「柳生」呼び捨てにしており、不詳。諸本も注しない。先行する該当人物もいない。もし、著名な剣術指南役の家系の大和柳生藩柳生氏ならば、当時の当主は徳川家斉の剣術指南役であった第八代藩主柳生俊則(享保十五(一七三〇)年~文化十三(一八一六)年)であるが、官位従五位下、采女正・能登守・但馬守であった彼であれば、流石に根岸も呼び捨てにはするまいとも思われる。しかし剣の達人が箒草の和え物をせっせと食っている図というは、これ、面白う御座るな。
・「眼生」眼性。眼の性(しょう)。
・「箒草」ナデシコ目アカザ科ホウキギ
Kochia scoparia。中国原産。茎が箒のような細く固い。秋に茎ともに赤く紅葉する。古くは茎を乾燥して草箒に用いられた。秋田では、近年は畑のキャビアというキャッチ・コピーで知られる「とんぶり」として食用にする(因みに、「とんぶり」の語源は、ハタハタの卵の呼称である「ぶりこ」(こちらは、江戸初期に水戸藩主佐竹義宜(よしのぶ)が関ヶ原の合戦で石田三成方に加担したことから出羽国久保田藩(秋田藩とも呼ぶ)に転封された際、好きなブリが食えなくなったところ、当地で採れるハタハタを食して賞美し、彼はその後、ハタハタをブリと思って食べ、その卵をブリコと呼んだという説、嚙んだ際のブリッブリッという音に由来するという説がある)に似た、唐(から)伝来のもの、を意味する「唐鰤子」(とうぶりこ)が省略され、転訛したものとする説が有力とする。また、この実は漢方で地膚子(じふし)と呼称し、「神農本草経」の「上品」に『味は苦・寒。膀胱をつかさどり、小便が熱利するのを改善し、消化機能を補い、精気を益す。久しく服用すれば、耳目を聡明にし、身体を軽くし、老いによる衰えを防ぐ』、「名医別録」に『皮膚中の熱気を去り、悪瘡、疝を散じ、陰を強くする』とある。現在の中医学では利水滲湿薬に分類され、皮膚の風を散じ、膀胱の湿熱を清利する薬物とし、陰を強める作用があることから、古来補薬に配合されたことを陶弘景が記している。また性質が寒であることから、「新修本草」には目を洗い熱を去ったこと、「薬性論」には陰部の熱感ある潰瘍に煎じ汁で沐浴することなどが記され、ここでの健眼薬効も挙げられている(漢方部分は株式会社ウチダ和漢薬のHPの「生薬の玉手箱」の「地膚子(ジフシ)」を参照した)。
・「切合」「切り和え」「切り韲え」で、茹でて細かく切り、味噌などを混ぜてあえたもの。
・「給惡(たべにく)き」は底本のルビ。
■やぶちゃん現代語訳
眼の妙薬の事
柳生殿のもとへしばしばやって参る八十にもなろうという老人、眼鏡もかけぬのに、よう眼が利く故、その眼の性(しょう)を褒め、如何(いかが)してかくも良きかと問うたところ、かく語った由にて御座る。
「……我ら、四十の頃、商家に寄宿致いて御座いましたが、店の者は毎夜集まって、その日の売り上げの銭勘定を致します。銭の穴に紐を通し、緡(さし)に致すので御座いますが……そんなある夜のこと、一人の老人がふらっと現われ、
「……我らも手伝(てつど)うたろう。」
と、百文の銭を刺しながら勘定致いて御座るのを見るに、これ、我ら壮年の者と変らぬ手際なれば、場に御座った者ども皆して、褒めそやいて御座いましたところが、
「……特にこれと言うて、特効の薬なんどを用いておるという訳にても御座らぬ……生まれも育ちも田舎のことなれば、眼なんどのため、わざわざ薬を服(ぶく)す、なんどというたことも、これ、御座らぬ……ただ、ある時のこと、ある人に教えられて、箒草(ほうきぐさ)をおひたし又はきりあえにしての、しょっちゅう、食べて御座るのよ……それが効いて御座るのじゃろう、の……」
と老人が答えました。……
……はい、それからで御座います、我らも四十の頃より、この箒草を日々、必ず一度は食すように致いて御座いますのです。……」
これを聴いた柳生殿も、この箒草をきりあえなどに致いて食しておられる由。
柳生殿曰く、
「そう食べにくいものにても、これ、御座らぬ。」
とのことで御座る。
私の教え子が芥川龍之介の「北京日記抄」に現れる幻の「三門閣」を遂に発見! それを含む新知見と画像を「北京日記抄 芥川龍之介 附やぶちゃん注釈」の「窑臺」及び「三門閣下」の注に追加した。
*
【二〇一二年七月十三日追記】
《和製S・ホームズと相棒直史・ワトソン・藪野、遂に芥川龍之介の立った三門閣を発見せり!》
つい先日のこと、件のT.S.君から、以下のような内容の消息を貰った。
――彼がネット上で見かけ、私に送って呉れた先の「謝文節公祠」の注に掲げた地図画像を拡大して見てみると、陶然亭(地図下辺の中央寄りやや左寄りの位置にある四つの池――東のものは独立し、西側の三つは水路様のもので繋がっている――)の北に延びる道の途中に、東側に南北に細長い建物があって、そこからこの道のところを塞ぐような形の建物が見えるが、それをよく見てみるとどうも三文字で、且つその最初の二文字は「三門」とあるように見える――
というのである。私も試みて見たが、確かに「三門」に見え、三文字目はそれらより複雑な画数で「閣」であって可笑しくないと思えた。ただ残念ながら画像の解像度が低く、断定は出来ないと返信したところ、本日、中国よりT.S.君が、民国十(一九二一)年作製の「新測北京内外城全図」(中国地図出版社二〇〇八年復刻)を送って呉れた。そこには――
『先生 支那服を着た笑顔の彼に遂に会えました。』
という附箋が、地図に貼り附けてあった。
――勿論、「彼」とは芥川龍之介、そうしてその附箋の示す箇所にははっきりと「三門閣」とあったのである!
以下に、地図の当該部分を示す。
――T.S.君と私と芥川龍之介の三人が――今、一緒に三門閣に立ったのだ――
神祟なきとも難申し事
是も玄瑞ものがたりけるは、同人壯年の頃、同職の者四五輩打連れて採草に出しが、新田大明神と號する義興(よしおき)の墳墓、今竹の植有(うえある)所にて、召連(めしつれ)し小僧草を取しを、同伴者差留(さしとめ)などせしを不用(もちゐず)、宿に歸りし後彼(かの)小僧の口ばしりて、我住所の草をとれる事憎さよと罵り呼(よばは)りしゆへ、大に家内驚きて右の草を元のごとく戾しければ快全なしける由。英雄の怒氣凝然たる事なれば、後世神を殘す理(ことわり)もあらんか。
□やぶちゃん注
○前項連関:医師秋山玄瑞談二連発。
・「神祟なきとも」「祟」の音は「スイ」だが、ここは「かみ、たたりなきとも」と読む。
・「新田大明神と號する義興の墳墓」「新田大明神」は現在の東京都大田区矢口にある新田義興所縁の新田神社。新田義興(元徳三・元弘元(一三三一)年~正平十三・延文三(一三五八)年十月十日)新田義貞次男。奥州の北畠顕家に呼応して上野で挙兵、北畠の奥州軍に加わわった後、吉野で後醍醐天皇に謁見、元服。父義貞の戦死後は越後に潜伏したと考えられている。観応の擾乱とともに鎌倉奪還を目論見、上野国に於いて北条時行を旗頭として挙兵、正平の一統の破綻後は正平七・観応三(一三五二)年、宗良親王を奉じて弟義宗・従兄弟脇屋義治と再挙兵し、一時、鎌倉を占拠するも尊氏の反攻にあって追われる。尊氏没後の半年の後、尊氏の子で鎌倉公方の足利基氏と、関東管領畠山国清によって送り込まれた刺客竹沢右京亮及び江戸遠江守高良によって、主従十三人とともに多摩川矢口渡で自刃して果てた。享年二十八歳。「太平記」巻之三十三に拠れば、義興の死後、謀殺の下手人であった江戸高良が矢口渡で義興の怨霊に逢い、惑乱狂死したため、現地の住民が義興の霊を慰めるために「新田大明神」として祀ったと記す(以上は主にウィキの「新田義興」を参考にした)。社殿の背後に円墳があるが、これは「御塚」と呼ばれ、新田義興の墓とされる。古くより「荒山」「迷い塚」などとも呼ばれ、ここに入ると必ず祟りがあるとされる。(現在は立入禁止。この部分は「古今宗教研究所」の「新田神社」の記載に拠った)これらは明和七(一七七〇)年江戸外記座で初演された江戸浄瑠璃の傑作平賀源内(福内鬼外名義)作の「神霊矢口渡」で頓に知られるものであるが、底本の鈴木氏注には『ただし、義興が憤死した矢口の渡はここではなく、もとの鎌倉街道筋の南多摩郡稲城町矢野口であるという説もある』とも記されている。典型的な「御霊(ごりょう)信仰」である。
・「英雄の怒氣凝然たる事なれば、後世神を殘す理もあらんか」前段の如何にも意地の悪い書き方に比してこの素直さ、そして前段の悪意に満ちた表題「痔の神と人の信仰可笑事」と、この「神祟なきとも難申し事」という共感性を比較して見ても、根岸が神道系には(+)のバイアスが、仏教でも日蓮宗系に有意な(-)のバイアスがかかるという私の説を納得戴けるものと存ずる。
■やぶちゃん現代語訳
神の祟りが無いとも言えぬ事
これも私の知人、医師秋山玄瑞殿が物語って御座った話である。――
……拙者壮年の折り、同じく医業に携わる者四、五人をうち連れて、薬草の採取に出かけたことが御座った。
……矢口の渡しの近く、新田明神と号す社の後ろに……ほれ、新田義興の墳墓と伝えるものが御座ろう……さても今となっては、すっかり深き竹藪の植わって御座るところなれど……あの周辺で、採草致いて御座ったのじゃが……たまたま、拙者が召し連れて御座った小僧が……拙者からは大分、離れておった故……他の仲間が止めるのもよう聞かずに……かの古墳の内へと入り込んで、薬草を採ってしもうたのじゃ。……
……その日、小僧を連れて屋敷に戻ったのじゃが……夜になると……かの小僧、俄かに大声にて、何やらん、口走り始めた。それを聴くに、
「……我が棲家の草を取るとはッ!……そのことの、アアアッ、憎さよッ!……ウワアアアッ!!!」
と……これまた、子供の声とは思えぬ、野太き韋丈夫の、そりゃ、恐ろしき声にて御座っての……罵り呼ばわって走り回る……
……もう、家内の者も大いに驚き……
……ともかくも、かの言に従わんに若くはなしと一同決して、かの神域より採取した草を、元通り、戻いたところが……
……これ、何事もなかったかのように、小僧は元の通りに戻って御座ったのじゃ……。
――さても按ずるに――かく、英雄豪傑の類いの怒気というもの――これ、死して後も、そこに凝っと動かず、消えず、しっかと残るものなればこそ――死して後の世に、祟りなす、恐ろしき、神ともなって残る、という道理も――これ、決して――妄説とは言えぬのでは、御座るまいか?――
「やぶちゃんの電子テクスト:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇」の「鎌倉攬勝考卷之二」全テクスト化と注釈を完了した。最後の最後、鶴岡八幡宮の「馬場迹」に至って、突如、植田君はオリジナリティを発揮して多量の「吾妻鏡」を引用していたため、ここだけで注に丸二日もかかってしまった。「鎌倉攬勝考」も残すところ、「巻之三」と「巻之四」の二巻のみ(五巻以降は降順で終了している)。
私の愛する美少女が一昨日、尾瀬へ行ったという――
美しい少女の撮った美しい写真をもらった――
僕がその少女に逢うとの同じくらい、山歩きで出逢うのを、いつだって楽しみにしていた花だ……
[やぶちゃん写真注:白い筒状の花は双子葉植物綱ビワモドキ亜綱ツツジ目シャクジョウソウ科ギンリョウソウ属ギンリョウソウ Monotropastrum humile。光合成を行なう能力を持たない腐生植物の代表種である。ベニタケ属の菌類に寄生し、そのベニタケ属菌類と共生している樹木が光合成によって作り出した有機物を菌経由で得て生活している。]
わたすげって――僕、大好き ♡……
少女の和毛(にこげ)のように――風になびく……
[やぶちゃん注:被子植物門単子葉植物綱イネ目カヤツリグサ科ワタスゲ属ワタスゲ Eriophorum vaginatum。別名をスズメノケヤリ(雀の毛槍)ともいう。]
木道に横たわった少女……
その少女の面影……
それは あなたがたには見せたくない……
それは 僕だけのものだから……
[やぶちゃん注:残念ながら、この美少女は僕の教え子ではない。妻の教え子である。しかももっと残念なことに、既婚者である。写真の掲載は本人の許可を得てある。著作権は©美少女。転載を禁ず。]
痔の神と人の信仰可笑事
今戸穢多町の後ろに、痔の神とて石碑を尊崇して香華抔備へ、祈るに隨ひて利益平癒を得て、今は聊(いささか)の堂抔建て參詣するものあり。予が許へ來脇坂家の醫師秋山玄瑞かたりけるは、玄瑞壯年の頃療治せし靈岸嶋酒屋の手代にて、多年痔疾を愁ひて玄瑞も品々療治せしが、誠に難治の症にて常に右病ひを愁ひ苦しみて、我死しなば世の中の痔病の分は誓ひて救ふべしと、我身の苦しみにたへず常々申けるが、死せし後秀山智想居士と云し由。かゝる事もありぬと、かの玄瑞かたりし儘を記しぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:特に感じさせない。神仏関連の滑稽譚(少なくとも根岸にとって)として軽くは連関するか。
・「可笑」は「わらふべき」と読む。
・「今戸穢多町」昭和七(一九三二)年に浅草今戸町に一部編入された浅草亀岡町の江戸時代の旧地名。穢多頭として知られる浅草弾左衛門は、この付近に住んだ。町名でもこのような公然の差別が行われていた現実を我々は真摯・深刻に受け止めねばならぬ。それが先日迄、たかだか一五〇年の昨日の自分達であったことを批判的な意味に於いて忘れてはならぬ。この根岸の話の主部が、私にとって「可笑」しくないのと同様、こういう事実を知ることは「可笑」しくも嬉しくもない。だが、そこで目を瞑ってなにも語らぬ、何も注せぬ、諸本や現代語訳は、いや増しに、不快、であると言っておく。
・「痔の神」底本の鈴木氏注には藝林叢書本の三村竹清氏の注を引いて、『痔の神は、浅草玉姫町日蓮宗本性寺にある秋山自雲功雄尊霊の事にて、今も祀堂もあり、新川の酒問屋岡田孫右衛門手代善兵衛とて、小浜の生なり。痔疾に苦しむ事七年、延享元年甲子九月二十一日没せるなりと云』とある。この本性寺は現在の東京都台東区清川にあり、医療法人社団康喜会の運営するポータル・サイト「痔プロ.com」の「痔の散歩道 東京編」に、まず奥沢康正氏の「京の民間医療」からの引用として、『秋山自雲尊者、秋山自雲功雄尊霊とも呼ばれる秋山自雲は、延享元年(一七四四)痔病に苦しんで亡くなったという岡田孫右衛門の法名です。岡田孫右衛門は、摂津国川辺郡小浜村(一説に安倉村)の造り酒屋に生まれ、姓は狭間といい、通称を善兵衛といいました。長じて江戸へ出て、酒問屋、岡田孫左衛門の所に奉公しましたが、見込まれて岡田家を継ぎ、岡田孫右衛門と改めました。三十八歳の時に痔病を患い、治療につとめましたが全治せず、ついに浅草山谷本性寺の題目堂に参籠して、法華経を唱え、病気の祈願につとめました。しかしその甲斐もなく、七年間痔病に苦しみ、延享元年(一七四四)九月二十一日四十五歳で亡くなりました。臨終に際して、「願わくば後世痔疾痛苦の者来って題目を信仰せば、われこれを救護し利益を垂れん」との誓願を発して瞑目したと伝えられます。その後、痔を患う友人が、墓前に願を垂れたところ、完治したといい、その噂はたちまち広がって、痔疾平癒の信仰が生れました。はじめは浅草の本性寺に祀られ、後に摂津国小浜村本妙寺と京都東漸寺に分祀され、更に後には、全国の日蓮宗寺院に分祀されていきました』とある(アラビア数字を漢数字に、二重鍵括弧を鍵括弧に代えた。リンク先では門柱の「ぢの神」や自雲の墓、祭祀する題目堂の写真を見ることが出来る)。なお、岡田孫右衛門が罹患していたのは痔ではなく、直腸癌であったものと思われる。
・「脇坂家」播磨龍野藩脇坂家。寛政九(一七九七)年当時の当主は、第七代藩主脇坂安親。
・「秋山玄瑞」脇坂家に仕えた秋山宜修(かくしゅう 生没年未詳)。「脚気辨惑論」などの医書が残る、江戸の著名な医師。
・「秀山智想居士」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『秋山自雲居士』とある。これでないと先に示した本性寺の事蹟とも一致しないし、また――「可笑事」――にもなるまい。但し、附言するなら、これは孫右衛門にとっては真剣な思いであったことを、その遺志は素直に真摯に受け取るべきものであり、「可笑」は私には極めて不快であることを言い添えておきたい。根岸の頻繁に現れる日蓮宗嫌いが悪い形で出た一篇と言えよう。
■やぶちゃん現代語訳
痔の神と痔を患う人との可笑(おか)しな信仰の事
今戸穢多町の後ろに痔の神と称して、石碑を尊崇、香花なんどを供え、これを祈るにしたがって痔の病状が好転快癒を得る、なんどという噂が忽ちのうちに広まって御座って、今ではちょいとしたお堂なんどまで建てられ、参詣する者も多いと聞く。
私の元にしばしば来られる脇坂家の医師秋山玄瑞(げんずい)殿の話によれば……この謂われは……
……拙者、壮年の折り、療治致いて御座った患者に、霊岸島の酒屋手代が御座っての。
……この男、長年、痔疾を患っておって、拙者も種々の療法を試みては見たので御座ったが……いや、これがまっこと、真正の……甚だ重い難治性の痔疾で御座っての。
……この手代、不断に、この病いがため……その激しい痔の痛みはもとより……あれこれと思い悩んで、その、心の痛みにも苦しんで御座った。……
……また、彼は、
「……我ら、(痛)!……我らが死にましたならば……世の中の……痔病の苦艱(くげん)に陥った衆生(しゅじょう)の分は……これ、(痛)! 誓(ちこ)うて、その痛みより……救わんと、存ずる、(痛)!……」
と、我と我が身の、見るも無残なる堪えがたき激痛がために……七転八倒する最中(さなか)にあっても……常々、かく申して御座ったのじゃ。……
……なれど……結局……薬石効なく……亡くなって、御座った。……
……その戒名は『秋山自雲(じうん)居士』と申す。……
……それが、これ……かの痔の神の謂われで、御座る……
……と、いった事実が御座った、と、かの玄瑞が私に語ったそのままを、ここに記しおいて御座る。
アメリカ合衆國のテキサス邊に住む蟻には一種、收穫蟻と名づけるものがある。これは昔の博物書には、自身にわざわざ種子を蒔いて、絶えずよく世評をして終に刈入れまですると書いてあつたために、非常に有名になった。蟻がわざわざ種子を蒔くといふことは眞實でないらしいが、一種の草だけを保護し、他の雜草を除いて、終に熟して落ちた種を拾ひ集めて巣の内に貯へることは事實である。この蟻も普通の蟻と同じく地中に巣を造るが、巣の入口の穴を中心としておよそ一坪〔一・八メートル×2=約三・三平方メートル〕か二坪かの圓形の地面には、たゞ一種いつも定まつた草のみが生えて居て、他の草の混つて居ない所を見ると、如何にも蟻がわざわざその草の種を蒔いた如くに見えるが、これは恐らく落ちた種から生えるのであらう。そしてこの草は米や麥と同じく禾本科の植物で、莖の先に穗が出來て細かい粒狀の實がなるから、その地方では「蟻の米」と呼んで居る。この蟻のことは我が國の小學讀本にも出て居るが、確に農業を營むものというても差支はない。
[中央にあるのは地下の蟻の巣に入るべき入口 列をなして多數に匍つてゐるのは收穫蟻の働蟻 周圍の草は「蟻の米」と名づける禾本科の植物 産地は北アメリカの中部]
[やぶちゃん注:「收穫蟻」これは先に注で挙げたクロナガアリ属Messorに近い膜翅(ハチ)目細腰(ハチ)亜目スズメバチ上科アリ科フタフシアリ亜科 Pogonomyrmex
属の蟻。北米及び南米に棲息する。英名も“harvester ant”と如何にも牧歌的であるが、騙されてはいけない。シュウカクアリを含むフタフシアリ亜科は非常に強い刺毒や咬毒(噴出毒)を有しており(成分は同族のハチと同様のタンパク質やペプチドその他の生理活性物質の混合物)、例えば同属の
Pogonomyrmex maricopa はLD₅₀=LD半致死量(mg/Kg)が〇・一五で、比較対象として示すならば、例えば、本邦でもしばしば死亡例が報告されるスズメバチ科のクロスズメバチの北米産種の一種である
Vespula pensylvanica では一〇である(Schmidt et al.,(1986)に拠る)。LD半致死量とは、マウスへの当該毒物を静脈注射した場合の半数致死量を示す致死毒性の基準数値のことである。従ってこのLD₅₀は、『値が小さければ小さいほど致死毒性が強い』ということ、少量の毒でも致死性が高いことを意味する。即ち、1キログラムのマウスの半数を殺すのに必要なクロスズメバチの一種Vespula pensylvanica の毒量は一〇ミリグラムであるのに対して、シュウカクアリの一種 Pogonomyrmex Maricopa では、『たったの〇・一五ミリグラム』ということになるのである。「収穫蟻」の中には同時に「殺人蟻」であるものもいる、ということは付け加えておこう。ただ単に私の読者を脅すためではない、それが自然の掟である、という意味に於いて、である。
「禾本科」「かほんか」と読む。被子植物門単子葉植物綱イネ目イネ科 Poaceae の和名別称。「ホモノ科」(穂物科であろう)とも(「禾本科」は中文では正式なPoaceae の科名であり、「ホモノ科は学術論文では現在も用いられている)。約六〇〇属一万種が属する。]
「江南游記 芥川龍之介 附やぶちゃん注釈」の「十三 蘇州城内(上)」に、教え子の撮って呉れた北寺塔の写真を二枚挿入した。
――高い塔上に立つてゐる事は、何だか寂しいものである。――
澤庵漬の事
公事によりて品川東海寺へ至り、老僧の案内にて澤庵禪師の墳墓を徘徊せしに、彼老僧、禪師の事物語の序(ついで)に、世に澤庵漬と申(まうす)事は、東海寺にては貯漬(たくはへづけ)と唱へ來り候よし。大猷院樣品川御成にて、東海寺にて御膳被召上(めしあが)られ候節、何ぞ珍ら敷(しき)物獻じ候樣御好みの折柄、禪師何も珍物無之(これなく)、たくわへ漬の香物(かうのもの)ありとて香物を澤庵より獻じければ、貯漬にてはなし澤庵漬也との上意にて、殊の外御賞美ありしゆへ、當時東海寺の代官役をなしける橋本安左衞門が先祖、日々御城御臺所へ香の物を、靑貝にて麁末成(そまつなる)塗の重箱に入て持參相納(もちまゐりあひおさめ)けるよし。今に安左衞門が家に右重箱は重寶として所持せしと、彼老僧のかたり侍る。
□やぶちゃん注
○前項連関:特に感じさせないが、古事由来談として、断絶的とは言えない。
・「澤庵漬」ウィキの「沢庵漬け」によれば、『東海寺では禅師の名を呼び捨てにするのは非礼であるとして、沢庵ではなく「百本」と呼ぶ』とし、『沢庵和尚の墓の形状が漬物石の形状に似ていたことに由来するという説』、『元々は「じゃくあん漬け」と呼ばれており「混じり気のないもの」、あるいは、「貯え漬け(たくわえづけ)」が転じたものであり、後に沢庵宗彭の存在が出てきたことにより、「じゃくあん」「たくわえ」→「たくあん」→「沢庵和尚の考案したもの」という語源俗解が生まれたとも』ある。何れにせよ、本話が記されたであろう寛政九(一七九七)年頃、十八世紀には『江戸だけではなく京都や九州にも広がり食べられていた』とある。『日本における伝統的な製法では、手で曲げられる程度に大根を数日間日干しして、このしなびた大根を、容器に入れて米糠と塩で』一ヶ月から『数か月漬ける。風味付けの昆布や唐辛子、柿の皮などを加えることもあ』り、『大根を日干し、塩を加えて漬けて水分を減らす事によって大根本来の味が濃縮され、塩味が加わり、米糠の中に存在する麹がデンプンを分解して生ずる糖分によって甘味が増すとともに』、『米糠の中に含まれる枯草菌の産出物によって、ダイコンは徐々に芯まで黄色から褐色に染まる』っていく(現在のものは多くが着色料・甘味料を用いている)。
・「東海寺」「澤庵禪師」などについては「耳囊 卷之一 萬年石の事」の私の注を参照。
■やぶちゃん現代語訳
沢庵漬の事
公事によりて品川東海寺に参ることが、これあり、事務方も一(ひと)段落したによって、老僧の案内(あない)にて沢庵禪師の墳墓の辺りを逍遙致いた。その折り、その老僧が禅師の逸話を物語って下された中に、御座った話である――
……世に『沢庵漬』と申すもの、これ、東海寺にては『貯漬(たくわえづけ)』と唱えて参って御座るものじゃ。……
……大猷院家光様が品川にお成りの砌り、東海寺にて御昼食の御膳をお召し上がりになられましたが、
「何ぞ、これ、珍しきものを、献ずるよう。」
とのお好みにて、沢庵禪師は、
「――禅刹なれば、何も珍しきものはこれ、御座らぬ――お口に合いますものかどうか――当寺伝来の貯え漬けの、香の物なればこれ、御座る。」
と、その香の物を沢庵より直々に献じ申し上げたところ、
……ポリ……ポリリ……ポリポリポリ……
「……これは、何と! 美味ではないか!……沢庵!……これは、『貯え漬け』では、なかろう! 『沢庵漬』、じゃ!」
と、殊の外、御賞美遊ばされた故――只今、東海寺代官役を致いておられる橋本安左衛門殿の御先祖が――翌日より毎日、御城御台所方へ――寺に御座った青貝細工の、献上には聊か粗末なる塗りの重箱にこの、『沢庵漬』、を入れて持ち参り、お納め申し上げて御座った由にて御座るとのこと。……
……今に、安左衛門殿の橋本家には、家伝の重宝と致いて、この重箱が、御座る由に御座る。……
……と、かの老僧が語って御座った。
父の発掘した考古学コレクションから幾つかを御紹介する。解説は総て私のオリジナルであり、勝手な推測に過ぎない。
*
縄文石斧(縄文後期で、戸塚と保土ヶ谷の間辺りで60年程前に採取したものと思われる)
Ⅰ
砥石様の滑らかな石質で粘板岩かと思われる。左上方の刃はⅡの反対側でも非常に洗練された研磨が施されており、所謂、局部磨製石斧と称してもよい仕上がりである。本体中央部(写真右上方から左下方)にかけて、深いもの(右上方)と、それと連動しないやや浅く小さなチップが認められる。前者はグリップを取り付けるためのものと思われ(即ち、本石斧は左下側面が石斧上面に相当する)、後者はそれを蒔きつけて固定する索条(藤蔓など)の溝のようにも見える。
Ⅱ Ⅰの裏面
反転したので今度は柄は左下に伸びる形になる。刃の角度はⅠに比して有意に小さく、鋭くなっている。また、刃の上下の後延部分が、その背後末端(右下方)の石斧後部に比して有意に削られて細く縊れているのが分かり、正しく鑿を非常に寸詰まりにしたような形状であることが見て取れる。
Ⅲ Ⅰの照度を上げた画像
こちら側の刃の左右部分にはチップがあるのが分かる。グリップ装着用のチップは前(刃の後ろ)が深く、そこから石斧後方になだらかの削られて、グリップの力が有効に刃面に及ぶように設計されていることが分かる。
Ⅳ Ⅱの照度を上げた画像
刃が反対側と異なり、美事な仕上がりとなって、持ち主がこちら側の刃を丁寧に磨き上げていることが分かる。正確に言うと、写真左の角の部分は、当初、やや外側に傾斜したチップを形成させていることが触れるとはっきり分かる。
Ⅴ 石斧後面
勿論、上が上(Ⅰの左下方の斜辺相当)である。下部が厚く、刃の上部向かって非常に美しいラインを形成し、石斧の強度が計算された美事な臼状を成している。
Ⅵ 石斧正面(刃部)
素晴らしく鋭利な、効果的な「刃」が成形されている様子が見て取れる。Ⅰが左側、Ⅱが右側に相当する。こうして拡大してみると、正に芸術の域に近いという気がする。
教え子(というより友)より来信したばかりのメール。本動画を多くの人に見て貰うためにも、この激しく共感する書信を許諾なしで公開する。――すまんな、S君。これも僕という人間と繋がった運命と諦められよ――
*
先生、今朝、件のyoutubeを拝見しました。
太陽から届くエネルギーと生来の栄養摂取機能だけでは飽き足らず、自然界からエネルギーを好きなだけ抽き出して自らの快適と安楽のみを追求し、個体数の爆発的増加を記録したこの生物種は、もうカタストロフを待つのみなのかもしれない。自分の中のヤケッパチな気持ちをできるだけ排除して冷静に考えても、こんなふて腐れた言葉が出てくるようになりました。
『国民生活を守ることの第二の意味、それは計画停電や電力料金の大幅な高騰といった日常生活への悪影響をできるだけ避けるということであります。豊かで人間らしい暮らしを送るために、安価で安定した電気の存在は欠かせません。これまで、全体の約3割の電力供給を担ってきた原子力発電を今、止めてしまっては、あるいは止めたままであっては、日本の社会は立ちゆきません。』
経済的な影響は大きいのかもしれない。それが企業の倒産や失業を増加させ、ひいては国の経済と国際間の政治経済バランスを喪失させ、却って人々の実生活に直接降りかかる深刻で厄介な問題を次々に引き起こす可能性があるのかもしれない。このことだけに事を限定すればの話ですが、それを懸念する道理はあると思いますし、そういう人々が大勢いることも十分理解できます。
しかしここで、「人間らしい」という言葉を安易に遣うのだけは、実に気に食わない。素直に「便利な」と言えばいい。私がまだ小さかった頃。通りかかった納豆屋のリアカーをやり過ごすまいと、母の遣いで硬貨を握り締め、父の下駄を突っかけて玄関を飛び出したあの日。家の前の砂利道で大きな石に躓き膝を擦りむいて泣いたあの日。軒から落ちる雨垂れが軒下の地面を少しずつ穿っていく様子を、窓から身を乗りだしていつまでも眺めていたあの日。生温かくて甘臭いバキュームカーのにおいを嗅ぎながら、時折ビクンビクンと震えるその太いホースの上に立って遊んだあの日。自家用車やエアコンや冷蔵庫はなかったし、十分に衛生的でもなかったけれど、今より「人間らし」くなかったのだろうか。母や父や妹や、祖父や祖母の生活は、今より「人間らし」くなかったのだろうか。
手塚治虫の「火の鳥」未来編に出てくるナメクジ文明を、私はいつも思い出します。
S生
*
さっき送った僕の返信:
店主がモノになると思うものは即出版致します。
但し、印税は後日、酒で払います。
書肆淵藪店主敬白
福島第一原発4号機問題:村田光平さん(元駐スイス大使)NO NUKES動画より
http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=RNngWA5c-kM
(採録・藪野直史)
今、世界を脅かしている大問題があります。
それは福島第一原発内にある4号機問題です。
原発事故で、この、建屋が、水素爆発によって大変傷んでおり、しかも地盤に不同沈下があって、倒壊する危険があるとみられている。――
その燃料プールですが、そこに、何と、1,535本の使用済み燃料が存在します。――
もし……この4号機が倒壊して、そして最悪の事態、即ち、メルトダウンが起きて、そして、大気中で火災が起きると――これはまだ人類が経験したことが無いわけですが――そうしますと、もう現場には近寄れなくなります。――
4号機のみならず、1号機、それから6号機、全部がメルトダウンを起こして、この、火災を起こすと……
……今、第一原発に燃料集合体の総数は14,225本あります。――
これはまさに日本のみならず、世界の究極の破壊に繋がるということは確実と、科学者は、多くの科学者は、見ております。――
しかし問題は――こういう状態にあるのに――その危機感が存在しないのです。――
福島事故を、なるべく極小化する、と――そういう試みがある――という風に見られております。――
東京電力は、この補強工事をやって、6強、震度6強まで大丈夫だと言っているわけです。――
しかし、この点については、重大な、あの、疑問が残る訳です。――
それは何かと言えば、菅総理の元政策秘書が明らかにしたところによれば、
「80cmの不同沈下が発生している。」
ということが、判明しているわけです。――
その地盤に欠陥があるという事でありますので、果たして――震度6強まで持つのか?――ということについて、疑問が残る訳です。――
しかも、アメリカには――福島と同じ欠陥型の、あの、原発が31基あるんだそうです。――ですから、この事故を騒がれると非常に都合、悪いんですね。――
ですから今の4号機問題をトーン・ダウンする動きの背景に、アメリカの……あれも、あるようですね。――
今、わたくしは、
「これは世界の安全保障問題である。」
という訴えを内外に発信しておりました。――
ワイデン上院議員が最近、藤崎駐米大使に、
「日本は、早く事態の収拾を急ぐために、国際協力を要請して、世界の英知を集めて、中立の評価委員会を作って、この事態の収拾に当たって欲しい。」
という要望を出しました。――
そういう中で、なかなか日本側が、このいろいろな事情がありまして――この事態の収拾に、最大限の対応をして、ない――という現実に対しまして、今、世界が動き出した、というのが、現状です。――
八尺瓊の曲珠の事
神璽(しんじ)はヤサカニノマガタマ也といふ説は恐れ多き事にて、雨下(あまさかる)る鄙(ひな)の論ずべき事にあらめ。往古は日本も璧(たま)を以て證據契約珍器ともなしけるや。□□□□□□□といへる人の許にて、先祖より大切になしけるものありとて、靑色の光りある石玉に紐を付印形(つけいんぎやう)程の大さにせしもの、幾重の服紗(ふくさ)の内より取出し、古來より八坂にのまがたまと唱へる由主人の語りしと、予が元へ來る人の語りし也。
□やぶちゃん注
○前項連関:特に感じさせない。根岸の信心惇直なる神道物。
・「八尺瓊の曲珠」「天(あま)つ璽(しるし)」たるところの三種の神器(草薙剣(くさなぎのつるぎ=天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)・八咫鏡・八尺瓊勾玉)の一つ。八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)。「八坂瓊曲玉」とも書く。ウィキの「八尺瓊勾玉」によれば、『大きな勾玉とも、長い緒に繋いだ勾玉ともされ、また昭和天皇の大喪の礼時に八尺瓊勾玉が入った箱を持った従者は「子供の頭くらいの丸い物が入っている様に感じた」と証言している』。『「さか」は尺の字が宛てられているが上代の長さの単位の咫(あた 円周で径約〇・八尺)のことである。ただし、ここでいう「八尺」は文字通りの「八尺」(漢代一尺約二三・九センチ計算で約一・八メートル)ではなく、通常よりも大きいまたは長いという意味である。また、「弥栄」(いやさか)が転じたものとする説もある』。『「瓊」は赤色の玉のことであり、古くは瑪瑙(メノウ)のことである。璽と呼ぶこともあり、やはり三種の神器のひとつである剣とあわせて「剣璽」と称される。その存在について、「日(陽)」を表す八咫鏡(やたのかがみ)に対して「月(陰)」を表しているのではないかという説がある』。『神話では、岩戸隠れの際に後に玉造連(たまつくりべ)の祖神となる玉祖命(たまのおやのみこと)が作り、八咫鏡とともに太玉命(ふとだま)が捧げ持つ榊の木に掛けられた。後に天孫降臨に際して瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に授けられたとする』(アラビア数字を漢数字に直し、一部に読みを振った)。現在、三種の神器は、八咫鏡が伊勢の神宮の皇大神宮の、また天叢雲剣が熱田神宮の、それぞれの神体として祀られており、本八尺瓊勾玉は皇居吹上御殿の剣璽の間にレプリカの剣とともに安置されているとされるが、これらは皆、天皇自身も実見をしたことがなく、歴史的経緯を見ても、最早、実物ではあり得ない。また勘違いしている人も多いが、過去の事例を見ても三種の神器は即位の絶対条件ではない。
・「神璽」古くは清音「しんし」であった。通常、狭義には本八尺瓊勾玉や天子の印のことを言うが、三種の神器の総称としても用いる。
・「雨下る」底本には右に『(天さかる)』と傍注する。「天離る」で、空の彼方遠く離れてあるの意から、「ひな」「向かふ」の枕詞。
・「あらめ」底本には右に『(ママ)』注記を附す。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は「あらず」。だが、私は文脈からは「雨下る鄙の論ずべき事にあら」ず、と言っておきながら、その実(批判的視点ではあっても、事実として)、語り出してしまう以上、ここは実は根岸、「雨下る鄙の論ずべき事にこそあらめ、往古は日本も……」と「こそ」已然形の逆接用法のニュアンスであったと考える。そのように訳した。
・「璧」標題の「珠」と同義で、元来は丸い形をした美しい宝石を言うが、ここでは中国古代の玉器の一つを指す。扁平な環状で中央に円孔を持つ。身分の標識・祭器とされ、後には高級装飾品として用いられた。
・「□□□□□□□」底本には右に『(約七字分空白)』と傍注。神器に関わる禁忌を期した意識的欠字。
■やぶちゃん現代語訳
八坂瓊曲玉の事
『神璽とは八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)である。』なんどという言説は恐れ多くも畏きも天離(あまさ)る我らが鄙の者どもが軽々に論ずべきことにては、これ、御座らねど、往古は日本も璧を以って証拠契約の珍宝珍器とも致いたものなので御座ろうか。
□□□□□□□という人の元に、先祖より大切に伝えて御座るものがあるということで――それは、青色の光輝を持った石製の宝玉に紐を付け、印形(いんぎょう)程の大きさに成形したもので御座るが――それをまた、その主家の者が、幾重もの袱紗を、如何にも厳かにラッキョウの皮の如く何枚も何枚もひん剥いては、その内より大事大事に取り出だいて、
「――これ、当家にては――古来より――オッツホン!――『八坂にのまがたま』と唱えて御座るものにて御座る……」
と主人が勿体ぶって――否、不敬にも――語って御座った――と、私のところにしばしば訪れるさる人の、語った話で御座る。
三 餌を作るもの
動物は餌を見付け次第直に食ふのが常であるが、中には後に食ふために食物を貯へて置くものもある。猿が人參を頰の内に貯へ、鳩が豆を餌嚢の内に溜め、駱駝が水を胃の内に藏めることは人の知る通りであるが、かやうに身體内に貯へるのでなく、別に巣の内などに食物を貯へ込んで置く種類も少くない。例へば「もぐら」の如きは常に蚯蚓を食ふて居るが、地中で蚯蚓を見付ける毎に直に食ふのではなく、多くはこれを巣の内に貯へて置く。而して達者なまゝで置けば逃げ去る虞があり、殺してしまへば忽ち腐る心配があるが、「もぐら」は蚯蚓の頭の尖端だけを食ひ切つて生かして置く故、蚯蚓は逃げることも出來ず腐りもせず、生きたまゝで長く巣の内に貯へられ、必要に應じて一疋づつ食用に供せられる。また畠鼠の類は畦道などの土中に巣を造り、米や麥の穗を摘み來つてその中に貯へて置くが、猿が人參を狹い頰嚢に入れるのと違ひ、幾らでも貯へられるから、この鼠が繁殖すると農家の收穫が著しく減ずる。甚だしい時は殆ど收穫がない程になるが、斯かるときは毒を混じた團子を蒔いたり、鼠に傳染病を起させる黴菌の種を散らたり、村中大騷ぎをしてその撲滅を圖つて居る。「もず」は蛙や「いなご」を捕えると、之を尖つた枝に差し通して置くが、田舍道を散歩すると幾らもその干からびたのを見る。昔から、「もず」の「はやにえ」というて歌にまで詠んだものはこれである。また海邊に住んで魚を常食とする「みさご」といふ鷹は、捕へた魚を岩の上の水溜りに入れたままで捨てておくことがしばしばあるが、漁師はこれを「みさご鮓」と名づけて居る。これらも不完全ながら食物を貯へる例である。その他、蜜蜂が巣の内に蜜を貯へ、「ぢが蜂」が穴の内に「くも」を貯へるなど、類似の例は幾らもある。特に穀物を貯へる蟻の類になると、雨の降つた後に穀粒を地上に竝べ、日光に當てて一度芽を出させ、次にその芽を嚙み切つて萌(もや)しを再び巣の内に運んで貯藏するなど、實に驚くべきことをする。しかし以上述べた所は皆、後日の用意に食物を貯へて置くといふだけで、特に食物を作るのではない。
[やぶちゃん注:「駱駝が水を胃の内に藏める」について、ウィキの「ラクダ」では否定されている。『ラクダの酷暑や乾燥に対する強い耐久力については様々に言われてきた。特に、長期間にわたって水を飲まずに行動できる点については昔から驚異の的であり、背中のこぶに水を蓄えているという話もそこから出たものである』(無論、これは全くの嘘でこぶの内容物は脂肪で、『エネルギーを蓄えるだけでなく、断熱材として働き、汗をほとんどかかないラクダの体温が日射によって上昇しすぎるのを防ぐ役割もある。いわば、皮下脂肪がほとんど背中に集中したような構造であり、日射による背中からの熱の流入を妨ぎつつ、背中以外の体表からの放熱を促す』のである)。『体内に水を貯蔵する特別な袋があるとも、胃に蓄えているのだとも考えられたが、いずれも研究の結果否定された。実際には、ラクダは血液中に水分を蓄えていることがわかっている。ラクダは一度に八〇リットル、最高で一三六リットルもの水を飲むが、その水は血液中に吸収され、大量の水分を含んだ血液が循環する。ラクダ以外の哺乳類では、血液中に水分が多すぎるとその水が赤血球中に浸透し、その圧力で赤血球が破裂してしまう(溶血)が、ラクダでは水分を吸収して二倍にも膨れ上がっても破裂しない。また、水の摂取しにくい環境では、通常は三四~三八度の体温を四〇度くらいに上げて、極力水分の排泄を防ぐ。もちろん尿の量も最小限にするため、濃度がかなり高い。また、人間の場合は体重の一割程度の水が失われると生命に危険が及ぶが、ラクダは四割が失われても生命を維持できる』とある(アラビア数字を漢数字に代えた。以下同じ。)。ところが、では「胃に藏める」という謂いが完全な誤りかというと、ウィキでもラクダは水を一度に八〇リットル程度摂取することが可能であることが示されており、また、鳥取砂丘のらくだ遊覧を行なっている「らくだや」の「らくだで遊覧」のページには、鯨偶『蹄類(牛など)の多くは四室の胃をもっていますが、ラクダには第三の胃と第四の胃の区別がほとんどなく、退化してしまって、実質三室の胃を持』つが、『第一の胃の外面に多数の水泡があって、ここに水を五~六リットル蓄え、水の乏しい砂漠の旅に順応することができます』と記してある。思うに後者が誤りなのではなく、代謝量から言えば、恐らく血中保水機能の方が、有意に有効であるということではあるまいか?
『「もぐら」は蚯蚓の頭の尖端だけを食ひ切つて生かして置く』は、現在でも一般的に知られている事実とは言い難いが、富山大学環境生物研究室HPにかつて所載されていた(二〇一二年七月九日現在、検索のキャッシュで部分的に実見可能)モグラの学術的報告(著者不詳)の中に『ヨ-ロッパモグラではトンネルの一部などにミミズを貯蔵することが知られている(Skoczen,1961).この時,モグラはミミズの頭部を噛んで,生きてはいるがうまく動けない状態にし,巣(3.3 項参照)やその近くのトンネルの内壁に埋め込んでしまう.その量は数 kg にもなり,1 ケ月前後の摂食量にも相当する量であった.このミミズの貯蔵は秋期の終わりの初霜の後で行なわれるとされており,食物の少ない冬期に備えるためであろうと考えられる.日本産のヒミズやモグラにおいても飼育下では同様の行動が観察されており,そこでの観察によると,モグラはトンネルに前足でミミズの体を押しつけ,さらに枯葉などを押しつけてミミズを覆う.ヒミズで 189 回,モグラで 98 回の観察例中,貯蔵の前にミミズの頭部をかじらなかった例は皆無であり(Imaizumi,1979a;今泉,1981,1983),自然界でも同じことが行なわれている可能性が高い.また,建物の中に撒かれた粒状の殺鼠剤を,侵入してきたヒミズが 1 粒ずつ屋外へ運び去った例(御厨,1966)や,飼育下でアズマモグラがカイコガの蛹を約 20 ~ 30 個貯蔵した例(手塚,1957)が報告されている.ホシバナモグラでは雌雄ともに脂肪の蓄積によって冬期から初春にかけて尾が太くなり,食物の不足する冬期や摂食行動の鈍る交尾期や出産期の栄養の補給に役立つとされている(今泉・小原,1966;Petersen and Yates,1980).他のモグラ科動物には,このように体の一部が栄養を蓄えるように特殊化しているという報告はないと思われる.』という記載がある(引用はグーグルのキャッシュからの完全なコピー・ペーストで一切手を加えていない)。
「畠鼠」ネズミ目ネズミ上科キヌゲネズミ科ハタネズミ亜科ハタネズミ Microtus montebelli。日本固有種。背面の毛色は茶色または灰黄赤色、腹面は灰白色で、尾は短い。成獣は頭胴長は約九・五~一三・六センチメートル、尾長約二・九~五・〇センチメートル、体重約二二~六二グラム。造林地・高山のハイマツ帯・河川敷や田畑などの地表から地中約五〇センチメートルの間に網目状の巣穴を掘って生活する。イネ科・キク科を中心とする草を食べ、秋になると巣穴に食料を貯える。時に大発生してイネ・サツマイモやニンジンなどの根菜類及び植林した樹木や果樹に大きな被害を及ぼすことがある。夜行性(以上はウィキの「ハタネズミ」に拠った)。
『「もず」の「はやにえ」』鵙の早贄はスズメ目スズメ亜目モズ科モズ Lanius bucephalus の特異習性として知られるが、丘先生の食糧確保という見解は、実は現在では必ずしも主流ではない。というよりもこの早贄行動は根本的には全くその理由が解明されていないというのが現状である。以下、ウィキの「モズ」の当該箇所を引用しておく。『モズは捕らえた獲物を木の枝等に突き刺したり、木の枝股に挟む行為を行い、「モズのはやにえ(早贄)」として知られる。稀に串刺しにされたばかりで生きて動いているものも見つかる。はやにえは本種のみならず、モズ類がおこなう行動である』(本邦で見られるモズ科はモズ Lanius bucephalus 以外に、アカモズ Lanius cristatus superciliosus・シマアカモズ Lanius cristatus lucionensis・オオモズ Lanius excubitor・チゴモズ Lanius tigrinus の五種)。『秋に最も頻繁に行われるが、何のために行われるかは、全く分かっていない。はやにえにしたものを後でやってきて食べることがあるため、冬の食料確保が目的とも考えられるが、そのまま放置することが多く、はやにえが後になって食べられることは割合少ない。近年の説では、モズの体が小さいために、一度獲物を固定した上で引きちぎって食べているのだが、その最中に敵が近づいてきた等で獲物をそのままにしてしまったのがはやにえである、というものもあるが、餌付けされたモズがわざわざ餌をはやにえにしに行くことが確認されているため、本能に基づいた行動であるという見解が一般的である』。『はやにえの位置は冬季の積雪量を占うことが出来るという風説もある。冬の食糧確保という点から、本能的に積雪量を感知しはやにえを雪に隠れない位置に造る、よって位置が低ければその冬は積雪量が少ない、とされる』(私も富山で山里の古老から聞いた記憶がある)。なお、「はやにえ」は正しくは「はやにへ」である。
「歌にまで詠んだもの」万年青氏の「野鳥歳時記」の「モズ」に、以下の二首が挙げられている。鑑賞文も引用させて戴く(失礼乍ら、一部の誤表記を直させて貰った)。
垣根にはもずの早贄(はやにへ)たててけりしでのたをさにしのびかねつつ 源俊頼
「夫木和歌抄」より。『この歌の意味するところは、モズは前世でホトトギスから沓(くつ)を買ったが、その代金(沓手)を払うことが出来なかった。現世になってモズはその支払いの催促を受け、はやにえを一生懸命つくってホトトギス』(しでのたおさ:ホトトギスの異称。)『に供えているのだというのである。モズの不思議な習性は、昔から人の関心を寄せていたようだ』。
榛の木の花咲く頃を野らの木に鵙の早贄はやかかり見ゆ 長塚節
『榛の木の花は、葉に先立って二月頃に咲き、松かさ状の小果実をつける。これが鳥たちにとって結構な餌となるので、この木があると野鳥が集まる所だと推測できる。謂わば、探鳥の目当てのシンボルともなる木で』ある、と記される。
「みさご」タカ目タカ亜目タカ上科ミサゴ科ミサゴ属 Pandion に属する鳥の総称。Pandion haliaetus のみとする説と、 Pandion cristatus の二種目をおく説とがある。
「みさご鮓」ウィキの「ミサゴ」には以下のようにある。『「本草綱目啓蒙」において、ミサゴは捕らえた魚を貯蔵し、漁が出来ない際にそれを食すという習性が掲載され、貯蔵された魚が自然発酵(腐敗でもある)することによりミサゴ鮨となると伝えられていた。ミサゴ鮨については「甲子夜話」(松浦静山)』(これは同書の正編巻第三十にある「みさご鮓」のことを指している)、『「椿説弓張月」(曲亭馬琴)などにも登場する。ミサゴが貯蔵した発酵し、うまみが増した魚を人間が食したのが寿司の起源であると伝承される。そのため、「みさご鮨」の屋号を持つ寿司屋は全国に少なからず点在している。また「広辞苑」にも「みさごすし」の項目があり、解説がある』(「広辞苑」には「鶚鮨(みさごすし)」として『ミサゴが岩陰などに貯えて置いた魚に潮水がかかって自然に鮨の味となったもの。』とある)。『この逸話に対して反論者もいる。動物研究家實吉達郎は自著「動物故事物語」において、ミサゴにそのような習性もなければ十分な魚を確保する能力もないとし、この話を否定している』。『なお、類似した伝説としては、サルがサルナシなどの果実を巣穴に貯めて「製造した」猿酒や養老の滝がある』と記す。少なくとも、ウィキのこの項を書いた人物は「猿酒や養老の滝」伝承を最後に引っ張る以上、本説を否定しているものと考えられる。丘先生、どうもこれは現在、肯定派には分が悪そうです。そんな気がしてました――だって、先生――ミサゴの英名は“Osprey”――今や悪名高き、先の注で出した米軍のVTOL機なんですもの……
『「ぢが蜂」が穴の内に「くも」を貯へる』膜翅(ハチ)目細腰(ハチ)亜目ジガバチ科ジガバチ亜科ジガバチ属ジガバチ Ammophila sabulosa infesta 或いはジガバチ科 Sphecidae に属するハチ類の総称。特異にして多様な習性を持つ幼年期を捕食寄生者として過ごす寄生昆虫である。餌はクモ類の他、チョウやガの幼虫で、私の大好きなファーブルの観察で知られように、麻酔針で麻痺させ、卵を産み付け、土中の穴やワラなどの管・木部の穴に封入、餌は常に新鮮にして、生きながら幼虫が内側から食い殺す、という素敵な奴である。ワラなどの管、木部の穴(穿孔性の甲虫などが開けた穴を利用することが多い)を利用する。種によっては土中に穴を穿つものもある。
★乞御教授!!!★「穀物を貯へる蟻の類になると、雨の降つた後に穀粒を地上に竝べ、日光に當てて一度芽を出させ、次にその芽を嚙み切って萌(もや)しを再び巣の内に運んで貯藏するなど、實に驚くべきことをする。」この蟻、いろいろ調べてみたが、遂に同定出来なかった。最後まで私の中で残ったのは膜翅(ハチ)目細腰(ハチ)亜目スズメバチ上科アリ科フタフシアリ亜科クロナガアリ Messor aciculatus 及び同属のクロナガアリ類である。ウィキの「クロナガアリ」によれば、『働きアリが地上で活動するのはほぼ秋に限られ、秋になると巣の入り口を開け、巣を補修した土を巣穴の周囲にうす高く積み上げる。働きアリは他のアリのように昆虫の死骸などを運ぶことはなく、もっぱら巣の周囲のオヒシバやエノコログサなどイネ科植物の実を回収し、巣穴に運びこむ。小さな草の実を回収するため、回収作業もほぼ1匹ずつで行う。巣の中では運びこんだ実の殻を剥ぎ、食料庫に蓄える』とある。しかし、『秋以外はほぼ巣穴を閉ざし地下生活をする』ともあり、そもそもが降雨時にその穀類を外に運び出して浸水発芽させ、晴天時に乾かして、それを再度食糧庫に貯蔵するという特異的行動の記載がないから違う。識者でも昆虫少年でも、どうか、御教授下されい! このアリは誰!?]
鯲を不動呪の事
鯲を買ふ時、升に入りても踊り狂ふ故、一升調ひて外器(ほかのうつは)へうつせば纔(わづ)か也。末の蓋(かさ)を臍へ當てゝ、白眼(にらみ)つけて計らせれば、頓(やが)て一倍也と人のかたりし也。
□やぶちゃん注
○前項連関:連関なし。先行する呪(まじな)いシリーズの一。――関係ないが、私は大の泥鰌好きである。――「駒形とぜう」を月一遍は喰わないと――致命的な鬱に襲われるのである。
・「鯲」は「泥鰌」「鰌」で条鰭綱骨鰾上目コイ目ドジョウ科ドジョウ
Misgurnus
anguillicaudatus。因みに、私がよく授業で言った薀蓄は、ドジョウは鰓呼吸以外に腸呼吸をすることである。水面に浮き上がって再び潜る時、彼らは口から酸素を吸い、その圧を利用して肛門から二酸化炭素を排出している。彼等は水面に出られるような環境でないと――溺死――するのである。なお、「どぜう」という表記は歴史的仮名遣いとしては明白な誤りである。由来としては「どじやう」が四文字で縁起を気にした江戸商人が同音の三文字に変えたものとも言うが、不詳である。更に関心のあられる向きは、ドジョウの博物誌として、私の「和漢三才圖會 卷第五十 魚類 河湖無鱗魚」の「泥鰌」の項及び私の注を参照されたい。
・「不動呪」は「うごかさざざるまじなひ」と読む。
・「升に入りても」江戸の泥鰌売りは桝売りであった。これを知らないと本話の意味が分からない。tachibana2007氏のブログ「食べ物歳時記」の「江戸っ子と泥鰌と川柳」に、
こはさうに泥鰌の枡を持つ女
と桝にぎゅつと一杯よ、泥鰌売りを睨みつけて買い求めても、
おちつくとどじやう五合ほどになり
という始末で、泥鰌売りは踊り暴れる泥鰌を巧みに計り売りし、泥鰌が桝の中で落ち着いてみれば、半分ほどしか入っていなかった、とある(川柳の一部の表記を正しい仮名遣に直させて頂いた)。この五合が、更に本話柄の最後と繋がるのである。即ち、「一倍」、桝正一合強は買える、というのである。
・「末の蓋」岩波版長谷川氏注に『椀のふたの一番小さいもの。』とある。
・「白眼(にらみ)つけて計らせれば、頓(やが)て」二箇所とも底本のルビ。
■やぶちゃん現代語訳
泥鰌を動かないようにさせる呪(まじな)いの事
泥鰌を買う時、桝に入れても大暴れするゆえ、一桝買(こ)うても、家に戻ってほかの器に移してみると、これ、どうみても、一枡どころか、悲しくなるほど僅かしかおらぬ――というは、これまた、世の常で御座る。
そこで妙法を御伝授致そう。
その一 椀の蓋の一とう小さなを用意致いて、
その二 その蓋を泥鰌の腹の辺りにふと当て、
その三 その泥鰌をぐぃっと睨みつけた上で、
泥鰌売りにそう仕掛けた泥鰌を計らせれば――これ、まさに桝一杯に取れるので御座る……とは、さる知人の語った話で御座った。
「やぶちゃんの電子テクスト:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇」の「鎌倉攬勝考卷之二」のテクスト化と注釈を「鶴岡八幡宮」の施設各論を総て終了した。後は新宝と附帯地名旧跡解説を残すのみ。先が見えてきた(しかし、実は植田は鶴岡八幡宮が殊の外にお好みらしく、次の第三巻も鶴岡八幡宮の行事に別当解説十二院と、まだまだ続くのであるが……。國學院出でありながら、大の神道嫌いの僕(僕は神社で素直に心から手を合わせたことはたった一度きり――瀧が御神体の那智の飛龍(ひろう)神社でだけだ)そろそろお腹がくちくなってきた……でも、御覧の通り、第三巻分は「八幡宮寺」の「寺」のパートが多いから、ま、いいか。
http://www.youtube.com/watch?v=WGIF8v6aGeY&feature=player_embedded
貴女を愛してる
生涯を賭けて
... 貴女を愛してる
遠く――二度と――逢えなくても
その絶望に――根こそぎにされても
でも――僕は貴女を愛してる
心からの誓いの言葉で
あなたへの愛を――僕は信じて疑わない
生涯を賭けて……
僕はきっと泣いてしまう……
……貴女のいない世界では……
僕は泣くに決まってる……
……貴女のいない絶対の哀しみ……
貴女が僕の胸に帰ってくる……
……ただそれだけが……
……僕の心の虚ろな心を……
……必ず埋めて呉れるというのに……
僕は久遠(とわ)に苦しむんだろうな……
この性(さが)の運命……
貴女に寄り添っていられることだけを……
それだけを……
生ある限り……
ずっと望みながら……
友人が修理に来て呉れてあっという間に直った。お騒がせした。
*
そうして――次の記事でこのトップ・ページからは教員時代の僕が――美事、消滅する――
数行の短い話なのだが――今朝6時前よりとりかかって、ハマりにハマった――実に5時間半もかかってやっと完了――「太平記」の引用部分、面白いよ!
*
古へは武器にまさかりもありし事
大猷院樣の御守りを、土井酒井一同に御育て申上し靑山忠親子息因幡守は、力量勝れけるや、柄七尺程の鉞(まさかり)を越前守助廣に鍛へさせて戰場にも被用(もちひられ)しが、右を學びて同樣の鉞を遣ふ勇士ありし故、不面白(おもしろからず)とて尚又正(まさに)高(かさ)大ぶりにして用ひし由。是又野州忠裕物語なり。
□やぶちゃん注
○前項連関:名工津田越前守助廣話で青山下野守忠裕直談で本格武辺二連発。
・「まさかり」は通常の木を切り倒す斧の中でも大きい斧或いは丸太の側面を削って角材を作るための刃渡りの広い斧を特に鉞(まさかり)と呼ぶ。武器として特化した斧には、柄を長くして破壊力を増した戦斧(西洋のバトルアックス)や、目標に向かって投擲する投斧(インディアンの使用するトマホーク)などがあるが、本邦での戦斧の使用は南北朝以後と考えられており、文献では「太平記」に、観応の擾乱の末期、正平八・文和二(1353)年、幕府方の長山遠江守(藤原利仁の子孫遠山頼基か?)が南朝方の赤松氏範との一騎討ちで、五尺(約一五〇センチメートル)の大太刀二振りを佩いた上に、刃長八寸(約二四・五センチメートル)の大斫斧(まさかり)を持って戦ったという記載がある。なかなか面白いシーンなので、以下に該当箇所を示す(新潮日本古典集成「太平記 五」を一応の底本としつつ、総てを正字に代え、一部の読みや表記を変えた)。
赤松彈正少弼氏範は、いつもうちごみの軍(いくさ)を好まぬ者なりければ、手勢ばかり五、六十騎引き分けて、返す敵あれば、追つ立て追つ立て切つて落す。
『名も無き敵どもをば、何百人切つてもよしなし。あつぱれ、よからんずる敵に逢はばや。』
と願ひて、北白河を今路(いまみち)へ向て歩ませ行くところに、洗革(あらひがは)の鎧のつま取たるに、龍頭(たつがしら)の甲の緒をしめ、五尺ばかりなる太刀二振り帶(は)きて、齒のわたり八寸ばかりなる大鉞(おほまさかり)を振りかたげて、近付く敵あらばただ一打に打ちひしがんと尻目に敵を睨んでしづかに落ち行く武者あり。赤松、遙かにこれをみて、これは聞ゆる長山遠江守ごさんめれ。それならば組んで討たばやと思ければ、諸鐙(もろあぶみ)合せて後(あと)に追つ著き、
「洗革の鎧は長山殿と見るは僻目(ひがめ)か、きたなくも敵に後ろを見せらるる者かな。」
と、言葉を懸けて恥ぢしめければ、長山きつとふり返つて、からからとうち笑ひ、
「問ふはたそとよ。」
「赤松彈正少弼氏範よ。」
「さてはよい敵。ただし、ただ一打ちに失はんずるこそかはゆけれ。念佛申て西に向かへ。」
とて、くだんの鉞を以つて開き、甲の鉢を破れよ碎けよと思ふさまに打けるところを、氏範、太刀を平めて打ちそむけ、鉞の柄を左の小脇に挾みて、片手にて
「えいや。」
とぞ引きたりける。引かれて二匹の馬あひ近(ちか)に成ければ、互に太刀にては切らず、鉞を奪はん奪れじと引き合ひける程に、蛭卷(ひるまき)したる樫の木の柄を、中よりづんど引き切つて、手本は長山手に殘り、鉞の方は赤松が左の脇にぞ留まりける。長山、今まではわれに增さる大力あらじと思ひけるに、赤松に勢力を碎かれて、叶はじとや思ひけん、馬を早めて落ち延びぬ。氏範、大に牙(きば)を嚙みて、
「詮無き力態(ちからわざ)ゆゑに、組んで討べかりつる長山を、打ち漏しつる事のねたさよ。よしよし、敵はいづれも同じ事、一人も亡ぼすにしかじ。」
とて、奪ひ取りたる鉞にて、逃ぐる敵を追つ攻め追つ攻め切りけるに、甲の鉢を眞向まで破り付けられずといふ者無し。流るる血には斧の柄も朽つるばかりに成りにけり。
簡単な語釈を附しておく。
●「うちごみの軍」敵味方多数の軍勢が乱闘する集団戦。
●「今路」底本の山下宏明氏頭注に京都市左京区修学院から音羽川に沿い四明岳を経て延暦寺に至る』雲母(きらら)坂を限定的に言っているものか、とある。
●「洗革」薄紅色に染めた鹿のなめし革。揉んで柔らかくした白いなめし革とも。
●「僻目」見誤り。見間違い。
●「かはゆけれ」可哀そうだ。哀れなものよ。
●「鉞を以て開き」鉞を持って少し下がり。一騎打ちで打ち込むための助走のため。
●「太刀を平めて打ちそむけ」太刀を横に払って、鉞を振り下ろそうとする長山の機先を制し、自分の左体側にうち外させた、ということを言うものと思われる。
●「蛭卷」滑り止め・補強や装飾の目的で刀の柄や鞘、槍・薙刀・斧などの柄を、鉄や鍍金・鍍銀の延べ板で間をあけて巻いたもの。蛭が巻きついた形に似ることからの呼称。
●「詮無き力態ゆゑに」つまらぬ力較べなんどをしているうちに、の意。
●「一人も亡ぼすにしかじ」一人でも多くうち亡ぼすに若くはあるまい、の意。
●「流るる血には斧の柄も朽つるばかりに成りにけり」が慄っとするほど素敵だ! 但し、戦斧の使用は兵站の建設や城門破壊が主目的であったと考えられている(以上の戰は主にウィキの「斧」及び「戦斧」を参考にした)。本文ではこの鉞の柄の長さを「七尺」(約二メートル)とするのは、斧としては勿論、戦斧としても、とんでもなく長い。更にそれを更に一回り大振りにしたということは、斧部も柄もより大きく長くなるということになって、恐ろしく重く巨大で長い鉞――ガンダムが振りましてもおかしくない鉞ということになろうことは、これ、認識しておく必要があるであろう。
・「土井酒井」老中土井利勝(元亀四(一五七三)年~寛永二十一(一六四四)年)と酒井忠世(元亀三(一五七二)年~寛永十三(一六三六)年)。同じく老中青山忠俊(天正六(一五七八)年~寛永二十(一六四三)年)と三名で家光の傅役(ふやく・もりやく)となった。因みに各人のついて簡単に解説しておく(複数の資料を参考とした)。
●土井利勝は、系図上では徳川家康の家臣利昌の子とするも、家康の落胤とも伝えられる。幼少時より家康に近侍し、次いで秀忠側近となった。家康の死後は朝鮮通信使来聘などを務めて幕府年寄中随一の実力者として死ぬまで幕閣重鎮として君臨した。
●酒井忠世は名門雅楽頭系の重忠と山田重辰の娘の嫡男として生まれ、秀忠の家老となる。元和元(一六一五)年より土井・青山とともに徳川家光の傅役となったが、家光は平素口数少なく(吃音があったともある)、この厳正な忠世を最も畏れたとされる。但し、秀忠の没後は家光から次第に疎まれるようになり、寛永十一(一六三四)年六月に家光が三十万の軍勢を率いて上洛中(彼はそれ以前に中風で倒れているためもあってか江戸城留守居を命ぜられていた)の七月、江戸城西の丸が火災で焼失、報を受けた家光の命によって寛永寺に蟄居、老中を解任された。死の前年には西の丸番に復職したが、もはや、幕政からは遠ざけられた。
●青山忠俊は常陸国江戸崎藩第二代藩主・武蔵国岩槻藩・上総国大多喜藩主。青山家宗家二代。江戸崎藩初代藩主青山忠成次男。遠江国浜松(静岡県浜松市)生。小田原征伐で初陣を飾り、兄青山忠次の早世により嫡子となった。父忠成が徳川家康に仕えていたため、当初は同じく家康に仕え、後に秀忠に仕えた。大坂の陣で勇戦し、元和二(一六一六)年に本丸老職(後の老中)となった。忠俊は男色や女装を好んだりした家光に対して諫言を繰り返したことから次第に疎まれ、元和九(一六二三)年十月には老中を免職、減転封、最後は相模国高座郡溝郷に蟄居した。秀忠の死後、家光より再出仕の要請があったが断っている。
・「靑山忠親子息因幡守」底本鈴木氏注には、「靑山忠親」は、遠江浜松藩第二代藩主青山忠雄(あおやまただお 慶安四年(一六五一)年~貞享二(一六八五)年)の旧名とする。彼は初代藩主青山宗俊(先の注の青山忠俊長男。以下に示す)の次男である。もうお分かりのように、ここには錯誤があって、「靑山忠親子息因幡守」は「靑山忠俊子息因幡守」で、青山宗俊(慶長九(一六〇四)年~延宝七(一六七九)年)を指す。即ち、
〇青山忠俊――青山宗俊――青山忠雄(忠親・青山宗家四代)……青山忠裕(青山宗家十代)
が正しい青山家系図であるが、これを
×忠俊孫・青山忠雄(忠親)――忠俊子・忠雄(忠親)父・青山宗俊
としてしまったためにタイム・パラドックスのようになってしまっているのである(訳では事実に合わせて訂した)。因みに、前掲の青山忠俊を除く、その子と孫について簡単に解説しておく。
●青山宗俊は、元和九(一六二三)年、父忠俊が家光の勘気を受けて蟄居になった際、父とともに相模高座郡溝郷に蟄居した(当時満十九歳)が、寛永十一(一六三四)年に家光に許され再出仕。書院番頭に就任して旗本となり、次いで大番頭、加増により大名となって、後には大坂城代を勤めた。延宝六(一六七八)年に遠江浜松藩五万石藩主青山家初代となった。彼は、「耳嚢卷之三」の「大坂殿守廻祿番頭格言の事」に記されている天守閣炎上の際の、実際の(リンク先の根岸の記事には錯誤がある)当時の城代であった彼の沈着冷静な判断と処理方法をもって、賞讃された。底本の鈴木氏注には、この『大坂城代の時助広を家の刀匠とする』とある。しかし、そうすると、この本文にあるような鉞を奮うべき「戰場」が、ない。もしかすると、これは彼の父で、大坂の陣の勇士とされる青山忠俊の逸話ではあるまいか? 但し、その場合は助廣はもとより、その父ソボロ助廣であっても、この鉞の作者とするには無理が生ずる。取り敢えず、ここは本文通りに訳しておいた。
●青山忠雄は遠江浜松藩の第二代藩主。青山宗俊次男として信濃小諸にて出生、延宝七(一六七九)年、父の逝去により満二十八歳で家督を継いで第二代藩主となるも、六年後に三十四歳の若さで逝去、跡を弟で養子であった忠重が継いでいる。以下、青山忠裕に繋がる青山宗家系図は多くが養子による縁組による嗣子である。
■やぶちゃん現代語訳
古えは武器に鉞もあったという事
大猷院家光様の御傅役(もりやく)として、土井・酒井らと一丸になって将軍様をお育て申し上げた老中青山忠俊殿の御子息に当たられる青山因幡守宗俊殿は――その力量に於いては、これ、並外れたものをお持ちで御座ったのであろうか――その柄だけでも七尺程もある鉞(まさかり)を、かの名工越前守助広に鍛えさせ、実戦にてもそれを用いられたとのことで御座る。
ところが、宗俊殿のその華々しい奮戦を見、それを真似て、同様の鉞を遣うて戦う勇士が現れた故、宗俊殿、
「――面白う――ない!」
と、なおも一回りも大振りなる鉞を助広に鍛えさせ、それを用いられた、とのことで御座る。
これもまた、青山宗俊殿の御子孫に当たられる下野守忠裕殿御自身が、私に物語られた話で御座る。
私の教え子が芥川龍之介の「北京日記抄」とそこに附した私の注を読みながら、北京の芥川龍之介の現在を追跡して呉れた手記と写真を「北京日記抄 芥川龍之介 附やぶちゃん注釈」の「謝文節公祠」及び「窑臺」の注に追加した。是非、御覧あれ。
助廣打物の事
津田越前守助廣が打し刀劍、近年專(もつぱら)世に稱美せし事なり。右助廣は靑山下野守家の鍛冶の由。靑山家には多く所持の家來もある由。當時寺社役を勤ける浦山與右衞門が先祖、大坂より江戸へ歸る餞別に、右助廣と時代をひとしふせし井上直改兩人にて打し兩銘の刀ありて、至つて見事成ものゝ由。主人も右銘刀は無之(これなき)由、野州忠裕物語ありし也。
□やぶちゃん注
○前項連関:特に連関を感じさせない。暫くなかった武辺物で、しかも刀剣なれば本格物である。
・「津田越前守助廣」津田越前守助廣(寛永十四(一六三七)年~天和二(一六八二)年)は、本話記述時(寛政九(一七九七)年)から遡る百年以上前の、江戸延宝年間(一六七三年~一六八一年)に活躍した摂津国の刀工(彼は寛文新刀の最後期を飾る刀工で、彼の死後の元禄期(一六八八年~一七〇三年)は江戸時代で刀工が最も衰微した時期でもある。その後、徳川吉宗が享保六(一七二一)年に全国の名工を集め鍛刀をさせ、一平安代(いちのひらやすよ)・主水正正清(もんどのしょうまさきよ)・信国重包(のぶくにしげかね)・南紀重国(なんきしげくに)の四人の名工に葵一葉紋を茎に刻むことを許して尚武を奨励したことから次の新々刀の時代を迎える)。通称甚之丞。以下、ウィキの「津田越前守助廣」より引用する。『新刀最上作にして大業物。ただし、刀剣書によっては、角津田・大業物、丸津田・業物などと制作年代によって刃味のランクが区別されていることもある』(日本刀は最上大業物・大業物・良業物(よきわざもの)・業物の四段階に分けられる)。『摂津国打出村に生まれ、初代助広(ソボロ助広)の養子となる。明暦三年(一六五七年)、越前守受領のち大坂城代青山宗俊に召抱えられる。大坂新刀の代表工であり、新刀屈指の巨匠である。一説に生涯に一七〇〇点あまりの作品を残したとされる。江戸の虎徹とともに新刀の横綱ともいわれ、また同じく大坂の井上真改とともに最高の評価がなされており、真改との合作刀もあり、交流があったことが伺われる。しかし、その人気とともに在銘品(「助廣」と銘のある刀剣)の多くが偽物であり、特に助広、虎徹、真改銘の偽物は数万点を超えると考えられる』(本話の冒頭の謂いから見ると、既にこの頃には多量の偽物が出回っていたものと考えてよかろう)。『刀匠であった養父に学び、二十二歳で独立。茎の銘が時期により異なる。二十二歳から三十歳までは「源・藤原」銘、三十一歳から三十八歳までは「津田」の田の字を楷書で切った角津田銘、三十八歳から晩年の四十六歳までは草書で丸く田の字を切った丸津田銘を使用した』(現在、特にこの丸津田が刀剣を扱う古物商の間では彼の特徴とされて珍重されることがネット上からは窺われる)。『初期には養父、大坂新刀諸工に見られる足の長い丁子刃等を焼くが、壮年期に大互の目乱れを波に見立て、地に玉焼きを交える濤瀾刃を創始し、後世含め諸国の刀工に多大な影響を与え、人気を博した。弟に津田越前守照広、妹婿に津田近江守助直がおり、それぞれ名工である。門人には常陸守宗重や大和守広近などがいる』。作風の特徴としては、造り込みは『脇差、二尺三寸前後の刀が多い。踏ん張りが付き先反りのつく、前時代の寛文新刀と比較して優しい姿となる。切先が伸びた姿のものが多い』(以下続くが、刀剣の専門用語が多く、注を附さねばならないので省略する)。『重要文化財に指定されている刀(銘「津田越前守助広
延宝七年二月日」、個人蔵)がある。その他、重要美術品に八件認定されている。また、都道府県、市町村で文化財に指定されているものが多い』(以上、アラビア数字を漢数字に代えた)。因みに、昔の刀鍛冶は、古くは公家に金を払って国守や国司名を貰い、「肥後守」や「上総介」を名乗ったり、召し抱えられた城主や藩主の叙任の名を賜ったりした者がいた。なお、私は「広」という間の抜けた字体が個人的に好きではない。訳でも彼の名前は「助廣」で通した。
・「靑山下野守」青山忠裕(ただやす/ただひろ 明和五(一七六八)年~天保七(一八三六)年)は丹波篠山(ささやま)藩第四代藩主。老中。寺社奉行・若年寄・大坂城代・京都所司代といった、幕閣の登龍門とされるポストを残らず勤めて文化元(一八〇四)年に老中に起用されて三十年以上勤め上げ、文化・文政期の幕閣の中心人物として活躍した。参照したウィキの「青山忠裕」によれば、文政元(一八一八)年に『藩領の王地山に、京焼の陶工欽古堂亀祐を招いて窯を開かせ』、『また、内政面では地元で義民とされる市原清兵衛ら農民の直訴を受け、農民が副業として冬季に灘など摂津方面に杜氏として出稼ぎすることを認めた』とある。
・「寺社役」青山忠裕は寛政五(一七九三)年から寛政八(一七九六)年まで寺社奉行を勤めたが、藩主が寺社奉行に就任すると、その家臣から抜擢された者が実務担当として寺社奉行の事務を執り行った。
・「井上直改」底本には『(尊・三本「眞改」)』と傍注する。「三本」とはもと、三村竹清氏が所蔵していたと考えられる「日本芸林叢書本」のことを指すものと思われる(本底本には凡例がない)。「眞改」が正しい(訳では正した)。井上真改(いのうえしんかい 寛永七(一六三〇)年~天和二(一六八二)年)摂津国の名刀鍛冶。本名、井上八郎兵衛良次。以下、参照したウィキの「井上真改」より引用する。『津田越前守助広とともに大坂新刀の双璧と称される刀工。俗に「大坂正宗」などとも呼ばれ、現在重要文化財に指定されている刀と太刀がある(現在、江戸期に製作された刀に国宝指定は無い)』。『刀の銘は壮年期まで「国貞」を用い、晩年「真改」と切る(「真改」の頃は御留鍛冶といって藩主の許可がないと作刀を引き受けられなかったため、「真改」銘の刀は少ない)。真改は陽明学を学び、中江藤樹の影響を強く受けたとも言われている。書をはじめ刀剣以外の美術・工芸にも造詣が深かったらしく、その書画も高く評価されている。酒豪だったらしい』。『一説には和泉守を受領していた国貞に儒学者の熊沢蕃山に「刀鍛冶が一国の太守を名乗るとは分不相応ではないか?」と諭され、以来「真改」銘に改めたとされている』。『作品の特徴としては直刃』が主で、『津田越前守助広との合作もある。地鉄は大坂新刀屈指の美しさ』とされる。『寛永七年(一六三〇年)、刀工であった井上国貞の次男として日向国木花村木崎にて生まれる。九歳のとき、当時京都に居た父の下に赴き作刀を学び始める。十代の後半には既に一人前の刀工としての力量を示し、二十歳ごろには盛んに父の代作を行ったといわれる。作刀は、殆ど大坂で行われた』。『慶安五年(一六五二年)、二十四歳で父の死去に伴い襲名。飫肥藩伊東家から父同様百五十石を与えられる。同年中の承応元年(一六五二年)、二十五歳の時に「和泉守」を受領(ずりょう)。銘を「和泉守国貞」と切る』ようになった(「飫肥」は「おび」と読み、日向国那珂郡南部(現在の宮崎県日南市のほぼ全域と宮崎市の南部を含む)にあった藩。藩主は外様大名であった伊東氏)。『寛文元年(一六六一年)、朝廷に作品を献上したところ賞賛され十六葉菊花紋を刀(なかご)に入れること許された。この頃より銘を「井上和泉守国貞」とした。寛文十二年(一六七二年)八月より、儒者の熊沢蕃山の命名で「真改」と改称。銘も「井上真改」と切』るようになったが、『天和二年十一月九日(一六八二年十二月七日)、急逝。食中毒とも一説に大酒の後、井戸へ転落したとも言われる。享年五十三。墓所は大阪上寺町の浄土宗重願寺』にある(以上、アラビア数字を漢数字に代えた)。
・「大坂より江戸へ歸る餞別に」私が不学にして馬鹿なのか、意味が分からない。この先祖が、何の目的で江戸から大阪に行ったのか(江戸の下屋敷詰め? 「大坂」は自藩の丹波のこととはちょっと思われない)、大阪で何をしたのか(これだけの名物の餞別を貰うということは、相応の働きがなくてはおかしい)、誰がそれを餞別として下したのか――助広の名物を持つ以上、これはもう青山の前の藩主としか思われないが、彼は「大坂」にいたということになる。すると、一つの可能性は見えてくる。実は初代藩主青山忠朝(あおやまただとも 宝永五(一七〇八)年~宝暦十(一七六〇)年)は宝暦八(一七五八)年十一月二十八日に大坂城代となっており、恐らくは現職のまま、宝暦十(一七六〇)年七月十五日に享年五十三歳で亡くなっているのである。即ち、この「浦山與右衞門が先祖」なる人物は丹波篠山藩江戸下屋敷詰めの藩士であり、当主忠朝の大阪城代就任に伴い、抜擢されて実務役を仰せ付かり、その職務を終えて、再び江戸屋敷へと帰ったことを言うのではなかろうか? 私の推理に何か不自然な点があれば、御指摘を願いたい。訳ではそのような解釈のもとに訳を敷衍した。
■やぶちゃん現代語訳
助廣打物の事
津田越前守助廣が打った刀剣は、近年専ら、世に名刀としてもてはやされておる。
この助広という刀工は、青山家(現当主・青山下野守忠裕殿)召し抱えの鍛冶師であった由にて、また、青山家には多く、助広の銘の刀剣を所持する家来がおる、とも聞く。
青山忠裕殿が寺社奉行をお勤めになっておられた当時、その寺社役方を勤めていた浦山与右衛門殿の御先祖が――何でも、初代御藩主であらせられた青山忠朝(ただとも)殿が大阪城代となられ際、その実務方として勤め上げて――その後に大阪よりもともと勤めておった江戸藩邸へと帰ることとなった折りに――殿よりの格別の――餞別として、この助広と時を同じうして活躍した名工井上真改(しんかい)と助廣とが、なんと、二人して鍛えた、珍しくもその茎(なかご)に両人の銘を切った刀を、拝領致いたという。この刀、浦山家伝家の宝刀として今に伝えるが、それはそれは至って美事なるものの由にて、現当主であらせられる青山忠裕(ただやす)殿も、
「――このような銘を切った、かくなる名刀は――二つと、ない。」
と下野守忠裕殿御自身が、私に物語られた話で御座る。
私の教え子が芥川龍之介の「上海游記」とそこに附した私の注を読みながら、上海の芥川龍之介の現在を追跡して呉れた手記と写真【二〇一二年T.S.君上海追跡録】を「上海游記 芥川龍之介 附やぶちゃん注釈」に多量に追加した。是非、御覧あれ。
*
パソコンは……辛うじて、未だ生きていた……先日、このシャーロック・ホームズばりの教え子の渾身の追跡を手にして以来、ずっと……これを『一部なりとも後代に傳へないでは、死んでも死に切れないのだ』(中島敦「山月記」)と感じていた……まずは、ほっとした――
ありがとう! トモキ君! ユキエさん!――
芥川龍之介の「江南游記」の「十七 天平と靈巖と(中)」に呪文のように現われる一読忘れ難い「モンモンケ」の注を追加した。
・「モンモンケ」を諸注は「問問咯」とし、江蘇方言で「お尋ねします」の意とする。因みに現代中国語の拼音(ピンイン)で示すと“wènwènlo”(ウェンウェンロ)であろう。岩波の倉石武四郎著「中国語辞典」に依るならば、この場合の「咯」“lo”は、現代中国語の文末の完了の助詞「了」“le”等を投げやりに発音した時に、「言うまでもなくそうだ!」という語気を示す、とある。しかしだとすれば、「お尋ねします」という丁寧語訳は少々おかしい。「訊ねん!」「教えてくんな!」「教えてくれ!」でよいのではないか? 江蘇方言にお詳しい方の御教授を乞う。【以下、二〇二一年七月五日追記】私の教え子で中国在住のT.S.君が、同僚で、蘇州語と近い上海語を母語とする日本語も話せる女性に、この場面の「モンモンケ」について意見を聴いて呉れた。その彼女の答えを以下に転載しておく。『私、蘇州方言は詳しくないけど……。そういう場合、上海方言では「メンメンク」と言います。そうですねえ、少し丁寧な感じ。日本語で言うと「ちょっと聞きたいのですが……」と言うかなあ。はい? 漢字で書くと? 「問問看」と書きます。北京語と同じく「看」には「調べてみる」「確認してみる」というニュアンスが込められています。きっと蘇州でも同じだと思いますよ。』。これだと丁寧語訳もおかしくない。この女性の「メンメンク」こそが芥川龍之介の言う「モンモンケ」の正体ではあるまいか? ここまで書いたところで、アップ・トゥ・デイトに再びさっき、T.S.君から追伸が舞い込んだ。『先生、島津四十起氏は上海語を話したのでしょうから、部下の女の子の言う「問問看」がそのまま当てはまるのであって、蘇州語を気にする必要はなかったのです。私は勘違いしていました。なお、今手元にある「江南遊記」中国語版(陳豪訳、新世界出版社)にも、この部分に「上海話‘問問看’」という注があります。』――これで「モンモンケ」の呪文は解けた。
樓門 石階の上の正面檐間に八幡宮寺と四字の額を掲ぐ。曼珠院良恕親王の書なり。樓門は三間に二間あり。此左右よりして廻廓續けり。樓門の前に石の狛犬左右にあり。又銅燈籠二基有。延慶三年庚戊七月、願主滋野景義、勸進藤原行安と銘す。一基は寛文年中の造獻にて、願主向井將監忠勝の銘あり。
[やぶちゃん注:「曼珠院良恕法親王」「珠」は「殊」の誤り。「二王門」に既出。
「延慶三年」西暦一三一〇年。
「滋野景義」相模国の武将と思われるが不詳。「鎌倉市史 社寺編」には「滋野景善」とあり、こちらが正しいものと思われる。
「藤原行安」不詳。戦国武将に同姓同名がいるが、先の滋野と連名であって時代が合わないから、全くの別人。
「向井將監忠勝」(天正一十(一五八二)年~寛永十八(一六四一)年)。忠勝は江戸前期の武将・旗本で左近衛将監。徳川水軍として御船手奉行を勤めた。相模国三浦郡三崎宝蔵山を本拠とした(後に改易。罪状は不詳)。寛永九(一六三二)年には徳川家光の命により幕府の史上最大の「安宅丸」の造船を指揮、伊達政宗が支倉常長をローマに派遣した際の南蛮船「サン・フアン・バウティスタ号」の造船の際には、ウィリアム・アダムスとともに石巻まで出向いている造船の名手であった(以上はウィキの「向井忠勝」に拠る)。]
石階 二王門正面是を登れば上(ウエ)の地なり。石階幅一丈餘、此石階の東の方に梛の樹あり。西の方に銀杏の大樹あり。《實朝横死の事》【東鑑】承久元年正月廿七日、將軍家〔實朝〕右大臣拜賀の爲に鶴岡八幡宮に御參、〔酉の刻〕夜陰に及て神拜の事終り、漸々退出の處に、當社別當阿闍梨公曉石階の際に伺ひ來り、剱を取て亟相を侵し奉る[やぶちゃん字注:底本「亟相」誤植と見て、訂した]。其後隨兵等宮中え弛參るといえども、〔此時武田五郎信光先登に進む。〕讎敵しれず。或人いふ、上(ウエ)の宮の砌にて別當公曉父の敵を討し由名謁(ナノラ)るといふ。依て各々雪の下の本坊へ襲ひ到るに、彼門弟の惡僧等籠り居て相戰ふ處に、長尾新六定景が子息太郎景茂、二郎胤景等先登を諍ふといふ。遂に惡僧等退散すといへども、阿闍梨此所に見へず。軍兵空敷退散し、諸人惘然たり。爰に阿闍梨は丞相の御首を捉て、後見の備中阿闍梨の雪の下北谷の宅〔今十二院の地なり。〕に行向はるゝ。膳をすゝむるの間も手を放さず御首を持といふ。阿闍梨此所より使者として、彌源大兵衞尉〔阿闍梨乳母子〕を三浦義村が方へ遣していふ、今既に將軍の闕あり、吾こそ東關の長なり、早く計議をめぐらすべきの由を示し合さる。義村此事を聞て、先君の恩化を忘れざるの間落涙數行し、更に詞も出し得ず。暫していふ、先蓬屋へ光臨有べし、且又御迎に兵士を獻ずべしとて、使者退去の後急ぎ使を義時へ達し、件の次第を告ければ、義時返答に、速に阿闍梨を誅すべき由を下知せしゆへ、急速に義村一族等を招集め評定せしに、阿闍梨は甚武勇に達し常人にあらず、輙く誅しかたかるべき由各評議する處に、義村勇敢の器を撰み、長尾新六定景を討手に定む。〔長尾も一族なり。[やぶちゃん注:底本「長屋」とあるが誤植と見て、訂した。]〕定景も辭退する事を得ず、座を起(タチ)て黒川縅の甲を著す、雜賀次郎〔西國の人強力の士〕以下郎徒五人を相具し、阿闍梨の在所備中阿闍梨の宅に赴く砌、阿闍梨は義村が方より迎ひの者延引の間、彼宅至らんと欲し鶴岡の後山へ登り、山傳へになさんと坊より出ける所に定景と途中に相逢ふ。御迎に參れりといふ。雜賀次郎忽に阿闍梨を懷き互に雌雄を爭ふ處に、定景大刀を取て阿闍梨の首を討落す。腹卷の上に素絹の衣を着せり。此人は金吾賴家將軍の御息也。母は賀茂六郎守長が女なり。〔是爲朝の孫女なり〕定景彼首を持歸り義村に渡す。即義村京兆〔義時〕の亭へ持參す。義時出逢て其首を見らる。安東次郎忠家脂燭を取。義時いふ。正敷ㇾ未ㇾ奉見二阿闍梨面一、猶疑給ありと云云。抑今日の異兼々怪のこととも有しといふ。出御の砌御庭の梅を覧じ給ひ、禁忌の和歌を詠じ給ふ。
出ていなは主なき宿となりぬとも、軒はの梅よ春をわするな
[やぶちゃん字注:ここは底本では和歌の後、字間もなしに後文を続けるが、改行した。]
今朝宮内兵衞尉公氏に命じ、御髮を取あげさせ給ふ時に、御鬢の毛一筋を公氏に賜ひ、我のかたみにせよとの御意なり。公氏押いたゞき懷中せしが、右府薨逝の翌日葬し奉らんとせしに御しるしなし。昨夜新六が阿闍梨を誅せし時も丞相の御首を持給はず、所々尋しかど終にしれずといえり。仍て今日御しるしなければ、公氏に賜ひし御髮の毛を以て御鬢に入、御しるしとなし葬し奉るとあり。
[やぶちゃん注:実朝暗殺の前後を、「吾妻鏡」の記載に随って少しく見ておきたい。最後に「今日の異兼々怪のこととも有し」とあるが、まずは、右大臣拝賀の式の前々日、建保七(一二一九)年一月二十五日の条に早くもそれが現われる。
〇原文
廿五日壬辰。右馬權頭賴茂朝臣參籠于鶴岡宮。去夜跪拜殿。奉法施之際。一瞬眠中。鳩一羽居典厩之前。小童一人在其傍。小時童取杖打殺彼鳩。次打典厩狩衣袖。成奇異思曙之處。今朝廟庭有死鳩。見人怪之。賴茂朝臣依申事由有御占。泰貞宣賢等申不快之趣云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
五日壬辰。右馬權頭賴茂朝臣、鶴岡宮に參籠す。去ぬる夜、拜殿に跪きて法施(ほふせ)を奉るの際、一瞬の眠りの中に、鳩一羽典厩の前に居る。小童一人其の傍らに在り。小時(しばらく)あつて、童、杖を取りて彼の鳩を打ち殺し、次に典厩の狩衣の袖を打つ。奇異の思ひを成して曙(あ)くるの處、今朝、廟庭に死鳩有り。見る人、之を怪しむ。賴茂朝臣の申す事の由に依りて、御占有り。泰貞、宣賢等、不快の趣を申すと云々。
・「右馬權頭賴茂」源頼茂(治承三(一一七九)年~承久元(一二一九)年)。「典厩」は右馬権頭の唐名。大内裏守護職であったが、この後日、同年(改元して承久元年(一二一九年)の七月十三日に頼茂が将軍職に就くことを企てたとして(恐らくは討幕計画を察知された先制攻撃として)後鳥羽上皇の兵に居宅であった昭陽舎を襲撃され、仁寿殿に籠った上、火を掛け、自害している。ここに記された彼の夢告は、そこまでも予兆したものとして――ある。
・「泰貞、宣賢」安倍泰貞と安倍宣賢(のぶかた)。実朝に近侍した三人の陰陽師(もう一人は安倍親職(ちかもと)。
以下、右大臣拝賀の式当日、建保七(一二一九)年一月二十七日の条を示す(途中「阿闍梨」の「阿」の省略が認められるが、私には気持ちが悪いので「阿」を総てに附した)。
〇原文
廿七日甲午。霽。入夜雪降。積二尺餘。今日將軍家右大臣爲拜賀。御參鶴岳八幡宮。酉刻御出。
[やぶちゃん注:行列供奉随兵の条は省略。]
令入宮寺樓門御之時。右京兆俄有心神御違例事。讓御劔於仲章朝臣。退去給。於神宮寺。御解脱之後。令歸小町御亭給。及夜陰。神拜事終。漸令退出御之處。當宮別當阿闍梨公曉窺來于石階之際。取劔奉侵丞相。其後隨兵等雖馳駕于宮中。〔武田五郎信光進先登。〕無所覓讎敵。或人云。於上宮之砌。別當阿闍梨公曉討父敵之由。被名謁云々。就之。各襲到于件雪下本坊。彼門弟惡僧等。籠于其内。相戰之處。長尾新六定景与子息太郎景茂。同次郎胤景等諍先登云々。勇士之赴戰塲之法。人以爲美談。遂悪僧敗北。阿闍梨不坐此所給。軍兵空退散。諸人惘然之外無他。爰阿闍梨持彼御首。被向于後見備中阿闍梨之雪下北谷宅。羞膳間。猶不放手於御首云々。被遣使者彌源太兵衞尉〔阿闍梨乳母子。〕於義村。今有將軍之闕。吾專當東關之長也。早可廻計議之由被示合。是義村息男駒若丸依列門弟。被恃其好之故歟。義村聞此事。不忘先君恩化之間。落涙數行。更不及言語。少選。先可有光臨于蓬屋。且可獻御迎兵士之由申之。使者退去之後。義村發使者。件趣告於右京兆。京兆無左右。可奉誅阿闍梨之由。下知給之間。招聚一族等凝評定。阿闍梨者。太足武勇。非直也人。輙不可謀之。頗爲難儀之由。各相議之處。義村令撰勇敢之器。差長尾新六定景於討手。定景遂〔雪下合戰後。向義村宅。〕不能辞退。起座着黑皮威甲。相具雜賀次郎〔西國住人。強力者也。〕以下郎從五人。赴于阿闍梨在所備中阿闍梨宅之刻。阿闍梨者。義村使遲引之間。登鶴岳後面之峯。擬至于義村宅。仍與定景相逢途中。雜賀次郎忽懷阿闍梨。互諍雌雄之處。定景取太刀。梟阿闍梨〔着素絹衣腹卷。年廿云々。〕首。是金吾將軍〔頼家。〕御息。母賀茂六郎重長女〔爲朝孫女也。〕公胤僧正入室。貞曉僧都受法弟子也。定景持彼首皈畢。即義村持參京兆御亭。亭主出居。被見其首。安東次郎忠家取脂燭。李部被仰云。正未奉見阿闍梨之面。猶有疑貽云々。抑今日勝事。兼示變異事非一。所謂。及御出立之期。前大膳大夫入道參進申云。覺阿成人之後。未知涙之浮顏面。而今奉昵近之處。落涙難禁。是非直也事。定可有子細歟。東大寺供養之日。任右大將軍御出之例。御束帶之下。可令著腹卷給云々。仲章朝臣申云。昇大臣大將之人未有其式云々。仍被止之。又公氏候御鬢之處。自拔御鬢一筋。稱記念賜之。次覽庭梅。詠禁忌和歌給。
出テイナハ主ナキ宿ト成ヌトモ軒端ノ梅ヨ春ヲワスルナ
次御出南門之時。靈鳩頻鳴囀。自車下給之刻被突折雄劔云々。
又今夜中可糺彈阿闍梨群黨之旨。自二位家被仰下。信濃國住人中野太郎助能生虜少輔阿闍梨勝圓。具參右京兆御亭。是爲彼受法師也云云。
〇やぶちゃんの書き下し文(読み易くするためにシークエンスごとに改行・行空けを施し、「・」で注を挿んだ)
廿七日甲午。霽。夜に入りて、雪、降る。積ること、二尺餘り。今日、將軍家右大臣の拜賀の爲に鶴岳八幡宮に御參。酉の刻、御出。
・「酉の刻」午後六時前後。
宮寺の樓門に入らしめ御(たま)ふの時、右京兆、俄かに心神に御違例の事有り。御劔を仲章朝臣に讓りて退去し給ふ。神宮寺に於て、御解脱の後、小町の御亭へ歸らしめ給ふ。
・「宮寺の樓門」とあることから、これは社頭と言っても、現在の源平池を抜けた、流鏑馬馬場の中央あった仁王門での出来事であったことが分かる。
・「右京兆、俄かに心神に御違例の事有り」人口に膾炙しているが、一ヶ月後の同建保七(一二一九)年二月八日の義時の大蔵薬師堂を参詣した条に、
■原文
八日乙巳。右京兆詣大倉藥師堂給。此梵宇。依靈夢之告。被草創之處。去月廿七日戌尅供奉之時。如夢兮白犬見御傍之後。御心神違亂之間。讓御劍於仲章朝臣。相具伊賀四郎許。退出畢。而右京兆者。被役御劔之由。禪師兼以存知之間。守其役人。斬仲章之首。當彼時。此堂戌神不坐于堂中給云云。
■やぶちゃんの書き下し文
八日乙巳。右京兆、大倉藥師堂に詣で給ふ。此の梵宇、靈夢の告に依りて、草創せるるの處、去ぬる月、廿七日戌の尅、供奉の時、夢のごとくにして白犬を御傍らに見るの後、御心神違亂の間、御劍を仲章朝臣に讓り、伊賀四郎許りを相具し、退出し畢ぬ。而して右京兆は、御劔を役せらるるの由、禪師、兼て以て存知の間、其の役の人を守りて、仲章の首を斬る。彼の時に當り、此の堂の戌神、堂中に坐(おはしま)し給はずと云云。
と如何にも怪しげな後日譚を附すのである。
・「仲章」文書博士源(中原)仲章(なかあきら/なかあき ?~建保七(一二一九)年一月二十七日)。元は後鳥羽院近臣の儒学者であったが、建永元(一二〇六)年辺りから将軍実朝の侍読(教育係)となった。「吾妻鏡」元久元(一二〇四)年一月十二日の条に『十二日丙子。晴。將軍家御讀書〔孝經。〕始。相摸權守爲御侍讀。此「僧」儒依無殊文章。雖無才名之譽。好集書籍。詳通百家九流云々。御讀合之後。賜砂金五十兩。御劔一腰於中章。』(十二日丙子。晴。將軍家御讀書〔孝經。〕始め。相摸權守、御侍讀をたり。此の儒、殊なる文章無きに依りて、才名の譽無しと雖も、好んで書籍を集め、詳かに百家九流に通ずと云々。御讀合せの後、砂金五十兩、御劔一腰を中章に賜はる。)と記す。御存知のように、彼は実朝と一緒に公暁によって殺害されるのであるが、現在では、彼は宮廷と幕府の二重スパイであった可能性も疑われており、御剣持を北条義時から譲られたのも、実は偶然ではなかったとする説もある。
・「解脱」行列からの離脱。
夜陰に及び、神拜の事終り、漸く退出せしめ御(たま)ふの處、當宮別當阿闍梨公曉、石階の際に窺ひ來たり、劔を取りて丞相を侵し奉る。
・「丞相」は大臣の唐名。
其の後、隨兵等、宮中に馳せ駕すと雖も〔武田五郎信光、先登に進む。〕、讎敵(しゆうてき)を覓(もと)る所無し。或人の云はく、上宮の砌に於て、別當阿闍梨公曉、父の敵を討つの由、名謁(なのら)ると云々。
・「馳せ駕す」騎馬で乗り入れる。神域であるから異例中の異例である。
・「武田五郎信光」(応保二(一一六二)年~宝治二(一二四八)年)平家追討以来、頼朝に付き従った旧臣。
之に就きて、各々件の雪下本坊に襲ひ到る。彼の門弟悪僧等、其の内に籠り、相ひ戰ふの處、長尾新六定景、子息太郎景茂・同次郎胤景等と先登を諍ふと云々。勇士の戰塲に赴くの法、人以て美談と爲す。遂に惡僧、敗北す。阿闍梨、此の所に坐し給はず。軍兵空しく退散す。
・「長尾新六定景」(生没年不詳)石橋山の合戦では大庭景親に従がって平家方についたが、源氏勝利の後、許され、和田合戦で功を立てた。ここで公暁を打ち取った時には既に相当な老齢であったと考えられる。今、私の書斎の正面に見える鎌倉市植木の久成寺境内に墓所がある。
諸人惘然(ぼうぜん)の外無し。爰に阿闍梨、彼の御首を持ち、後見備中阿闍梨の雪の下北谷の宅に向はる。膳を羞(すす)むる間、猶ほ手を御首から放たずと云々。
使者彌源太兵衞尉〔阿闍梨の乳母子(めのとご)。〕を義村に遣はさる。「今將軍の闕(けつ)有り。吾、專ら東關の長に當るなり。早く計議を廻らすべし。」の由、示し合はさる。是れ、義村が息男、駒若丸、門弟に列するに依りて、其の好(よし)みを恃まるるの故か。
・「闕」は欠。
・「東關の長」征夷大将軍。
・「駒若丸」(元久元(一二〇五)年~宝治元(一二四七)年)。三浦義村四男。三浦家当主となる泰村の同母弟。一説に公暁の若衆道の相手であったともされる。
義村此の事を聞き、先君の恩化を忘れざる間、落涙數行(すうかう)、更に言語に及ず。少選(しばらく)ありて、「先づ蓬屋(ほうをく)に光臨有るべし。且つは御迎への兵士を獻ずべし。」の由、之を申す。
・「先君の恩化」亡き将軍実朝に対する恩義の念。
・「蓬屋」自邸の謙遜語。
使者退去の後、義村使者を發し、件の趣を右京兆に告ぐ。京兆左右(さう)無く、阿闍梨を誅し奉るべしの由、下知し給ふの間、一族等を招き聚め、評定を凝らす。「阿闍梨は、太(はなは)だ武勇に足り、直人(ただびと)に非ず。輙(たやさす)く之を謀るべからず。頗る難儀たるの由、各々相ひ議すの處、義村、勇敢の器(うつは)を撰ばしめ、長尾新六定景を討手に差す。定景、遂に〔雪の下の合戰の後、義村が宅に向ふ。〕辞退に能はず。
・この下りが、私のとって永い間、疑問なのである。真の黒幕を追求すべき必要性が少しでもあるとならば、義時は生捕りを命ぜねばならない。源家の嫡統である公暁を「誅し奉る」というのは如何にも変である。そのおかしさには誰もが気づくはずであり、そこを突かれれば、義時は後々までも追及されかねないのである。逆に私の肯んじ得ない三浦陰謀説に立つならば、ここで義村が期を見極め(義時に謀略がばれたことの危険性が最も高いであろう)公暁の蜂起に利あらずと諦めたのならば、義時に伺いを立てる前に、自律的に公暁の抹殺を計ればよい(実際の公卿の行動やそれを追撃する三浦同族の長尾定景という絶妙の配置からも、義村は失敗した謀略ならばそれを簡単に総て末梢することが出来たのである)。その「不自然さ」を十全に説明しないで、乳母一連托生同族説から三浦陰謀説(中堅史家にも支持者は多い)を唱える永井路子氏には、私は今以って同調出来ないでいるである。
座を起ち、黑皮威(をどし)甲(よろひ)を着て、雜賀(さいか)次郎〔西國の住人、強力の者なり。〕以下の郎從五人を相ひ具し、阿闍梨の在所、備中阿闍梨宅于赴くの刻(きざみ)、阿闍梨は、義村の使ひ遲引するの間、鶴岳後面の峯に登り、義村宅に至らんと擬す。
・「擬す」~という目的のためにある行動に移ったことを言う。
仍りて定景と途中に相逢ふ。雜賀次郎、忽ち阿闍梨を懷き、互に雌雄を諍(あらそ)ふの處、定景、太刀を取り、阿闍梨〔素絹の衣に腹卷を着る。年廿と云々。〕の首を梟(けう)す。
・それでなくても、実朝殺害直後の公暁の行方は不明で神出鬼没なればこそ、これは三浦義村が予め、使者であった北弥源太兵衛尉に、それとなく援軍の移送経路は峯筋であると指示したものと考えなければ、こんなに都合よく行くはずがないと私は思う。
・「腹卷」鎧の一種で、胴を囲み、背中で引き合わせるようにした簡便なもの。
・「年廿」公暁の生年は正治二(一二〇〇)年であるから、満十九歳であった。
是れ、金吾將軍〔頼家。〕の御息、母は賀茂六郎重長が女〔爲朝の孫女也。〕。公胤(こういん)僧正に入室。貞曉僧都受法の弟子なり。
・「賀茂六郎重長」足助重長(あすけしげなが ?~治承五(一一八一)年?)のこと。伝承では墨俣川の戦いで敗れ、平家方に拘束された後に殺害されたとする。
・「公胤」(久安元(一一四五) 年~建保四(一二一六)年)天台僧。明王院と称す。園城寺長吏(園城寺での首長の呼称)に補され承元(一二〇七)年に僧正。後白河法皇や後鳥羽上皇の信仰を得て園城寺を興隆、源実朝や北条政子も帰依して鎌倉にも招請された。法然の「選択本願念仏集」(建久九(一一九八)年)を論難する「浄土決疑抄」を書くも、後に法然に逢って帰依し、自著は破棄したとされる。
・「貞曉」「定曉」のこと。前項「北斗堂跡」の私の注を参照されたい。
定景、彼の首を持ち皈(かへ)り畢んぬ。即ち義村、京兆の御亭に持參す。亭主、出居(いでゐ)て其の首を見らる。安東次郎忠家、指燭(しそく)を取る。李部、仰せられて云はく、「正に未だ阿闍梨の面(おもて)を見奉ず。猶ほ疑貽(ぎたい)有りと云々。
・「安東次郎忠家」(生没年不詳)は北条義時の被官。先立つ和田合戦後にも、和田義盛らの首実験を担当している。
・「脂燭」は「指燭」、正しくは紙燭である。
・「李部」式部丞の唐名。北条泰時。但し、彼は建保四(一二一六)年に式部丞に遷任されている。当時は満二十一歳。
・「疑貽」正しくは「疑殆」であるが、「吾妻鏡」すべて「疑貽」。疑惑の意。
抑々今日の勝事(しようし)、兼ねて變異を示す事、一に非ず。 所謂、御出立の期に及び、前大膳大夫入道、參進し申して云はく、「覺阿成人の後、未だ涙の顏面に浮ぶを知らず。而るに今、昵近奉るの處、落涙禁じ難し。是れ、直(ただ)なる事に非ず。定めて子細有るべきか。東大寺供養の日、右大將軍御出の例に任せ、御束帶の下に、腹卷を著けしめ給ふべき。」と云々。仲章朝臣、申して云はく、「大臣大將に昇るの人、未だ其の式有らず。」と云々。仍りて之を止めらる。又、
公氏(きんうぢ)、御鬢(ごびん)に候ずるの處、御鬢より一筋抜き、「記念。」と稱して、之を賜はる。次で、庭の梅を覽(みられ)て、禁忌の和歌を詠じ給ふ。
出でていなば主なき宿と成ぬとも軒端の梅よ春をわするな
次に南門を御出の時、靈鳩、頻に鳴き囀(さへづ)り、車より下り給ふの刻(きざみ)、雄劔(ゆうけん)を突き折らると云々。
・「勝事」快挙の意以外に、驚くべき大事件の意がある。
・「前大膳大夫入道」「覺阿」大江広元。
・「公氏」宮内公氏。秦姓とも。
・この辺り、辛気臭い注よりも、私が二十一歳の時に書いた拙い小説「雪炎」をお読み戴けると――恩幸、これに過ぎたるはない――
又、今夜中に阿闍梨の群黨を糺彈すべきの旨、二位家より仰せ下さる。信濃國の住人、中野太郎助能、少輔阿闍梨勝圓を生虜(いけど)り、右京兆の御亭へ具し參る。是れ、彼の受法の師をたるなりと云々。
・「二位家」北条政子。
・「中野太郎助能」(生没年未詳)幕府御家人。「吾妻鏡」では本件(公暁後見人であった勝円阿闍梨を捕縛し、北条義時邸へ連行)以外に、寛喜二(一二三〇)年二月八日の条で承久の乱での功績により、領していた筑前勝木荘の代わりに筑後高津・包行(かねゆき)の両名田を賜るという記事に出現する。
・「少輔阿闍梨勝圓を生虜」勝円は同月末日の三十日に義時の尋問を受けるが、申告内容から無罪となって、本職を安堵されている。一方、「吾妻鏡」同条には、公暁が最初に逃げ込んだ同じく「後見」の「備中阿闍梨」については雪の下宅地及び所領の没収が命ぜられている。
本文の最後、実朝葬送の部分は、翌日の建保七(一二一九)年一月二十八日の条に基づく。
〇原文
廿八日。今曉加藤判官次郎爲使節上洛。是依被申將軍家薨逝之由也。行程被定五箇日云云。辰尅。御臺所令落飾御。莊嚴房律師行勇爲御戒師。又武藏守親廣。左衛門大夫時廣。前駿河守季時。秋田城介景盛。隱岐守行村。大夫尉景廉以下御家人百餘輩不堪薨御之哀傷。遂出家也。戌尅。將軍家奉葬于勝長壽院之傍。去夜不知御首在所。五體不具。依可有其憚。以昨日所給公氏之御鬢。用御頭。奉入棺云云。
〇やぶちゃんの書き下し文
廿八日乙。今曉、加藤判官次郎、使節として上洛す。是れ、將軍家薨逝の由申さるるに依りてなり。行程五箇日と定めらるると云云。 辰の尅、御臺所、落ちる落飾(らくしよく)せしめ御(たま)ふ。莊嚴房律師行勇、御戒師たり。又、武藏守親廣、左衛門大夫時廣、前駿河守季時、秋田城介景盛、隱岐守行村、大夫尉景廉以下の御家人百餘輩、薨御の哀傷に堪へず、出家を遂ぐなり。戌の尅、將軍家、勝長壽院の傍に葬り奉る。去ぬる夜、御首の在所を知らず、五體不具なり。其の憚り有るべきに依りて、昨日、公氏に給はる所の御鬢(ごびん)を以て、御頭(みぐし)に用ゐ、棺に入れ奉ると云云。
実朝の首は一体、何処へ行ってしまったのか? これも謎である。現在、秦野市東田原に「源実朝公御首塚(みしるしづか)」なるものがあるが、同市観光協会の記載などには、『公暁を討ち取った三浦氏の家来、武常晴(つねはる)』や大津兵部『によってこの秦野の地に持ちこまれ』、『当時この地を治める波多野忠綱に供養を願い出て、手厚く葬られたと伝えられ』とするが、これは到底、信じ難い。……失われた実朝の首の謎……例えば、実朝は実は生きていて、行きたくて行きたくて仕方のなかった宋へ目出度く渡って……僧となった……という義経ジンギスカン説の亜流は如何?]
目黑不動門番の事
目黑不動の門番、眼を病みて兩眼とも痛みて苦しみける故、藥など用ひて其しるしもなければ、心安き陰陽師(おんやうじ)に八卦(はつけ)を置貰(おきもら)ひけるに、彼陰陽師筮(ぜい)をとりて、是は佛神の罰し給ふ所也といひしに、驚き候躰(てい)にかへりしが無程眼病癒し故、如何なし給ふと尋ければ、誠に卜筮(ぼくぜい)の通(とほり)佛罰を受し也(なり)、恐るべし恐るべしといひしが、無程一眼又々惡敷(あしく)成しを尋て、彼陰陽師切に尋問(たづねと)ひしかば、門番答へけるは、我等年久敷(ひさしく)門番をなせしに、日暮境内の門を〆て後も、參詣の者ありて門外より賽錢を投入れ候て拜する者少なからず、右投入し賽錢を我々の所持として、好める酒にかへて年月を過しぬ、卦面(けめん)に佛罰との給ふに考合(かんがへあは)すれば、誠に是ならんと不動へ深く懺悔して誤をのべて祈誓せしに、不思議に兩眼共其病ひ癒へけるに、右門へ投入(いる)る賽錢を所持とせざれば好める酒も呑(のむ)事なりがたく、其悲しさ右投入るゝ賽錢を半分は不動へ納(をさめ)、半分は酒の價(あた)ひとなしけるに、又一眼かくの如し、と懺悔しとや。目黑不動尊も勘定筋はくわしき佛と、おかしさの儘爰に記しぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:妖狐教訓譚から仏罰教訓談へ。本話は私には――眼病の「目」――目黒の「目」――八卦の「目」――賽銭鳥目の「目」――番人と不動の目算のその相違の「目」――といった類感的側面が、まっこと、興味深いのである。
・「目黑不動」東京都目黒区下目黒にある天台宗泰叡山瀧泉寺(りゅうせんじ)の通称。ここ(グーグル・マップ・データ)。本尊不動明王は江戸五色不動(目黒・目白・目赤・目黄・目青)の一つとして知られる。江戸五色不動とは目の色ではなく、五方角(東・西・南・北・中央)を色で示したもので、一般には江戸城(青:江戸城紅葉山付近に創建された最勝寺教学院。現在は世田谷区太子堂に移転)を中心として水戸街道(黄:現在の墨田区東駒形隅田川畔に創建された最勝寺。現在は江戸川区平井に移転)・日光街道(黄:台東区三ノ輪の永久寺)・中山道(赤:文京区本駒込の南谷寺)・甲州街道(白:豊島区高田の金乗院)・東海道(黒:瀧泉寺)五街道起点附近より内側の江戸御府内を結界とする機能を持つと考えられているようである。
・「陰陽師(おんやうじ)」は歴史的仮名遣ではこう表記し、読む際に連声(れんじょう)で「おんみょうじ」「おんにゃうじ」となる。歴史的仮名遣で「おんみやうじ」とは表記しないということである。
・「勘定筋」ものを計算すること、財政収支決算の分野、という意味であろうが、私はこの頃、根岸が罪刑を計量して処罰を下すことを日々の主要な仕事としていた公事方勘定奉行であったことを考え合わせれば、単に収支決算という意味ではなく、番人への違反相当の追徴金や当該犯罪行為への処罰の勘案といったニュアンスが含まれていると感じる。訳ではそれを出した。
■やぶちゃん現代語訳
目黒不動門の門番の事
目黒不動の門番が目を病んで、両眼とも激しく痛み、あまりに堪え難かった故、薬なんども用いてはみたものの、一向に効き目がない。そこで親しくして御座った陰陽師に八卦を占(うらの)うて貰(もろ)うたところ、陰陽師は最後の筮竹を取り置いて目を見た後、
「――これは――神仏が貴殿を罰せられたもの――と出て御座る。――」
と告げたところ、門番は驚愕の体(てい)ながら、そのまま何やらん、むっとしつつも黙ったまま、帰って行って御座った。
が、ほどのう、かの陰陽師、たまたま出逢(お)うたかの番人に声を掛けて訊ねたところが、眼病はすっかり癒えたとのこと故、陰陽師が、
「如何なる『処置』を、これ、なされた?」
と訊ねた。ところが、番人はただ、
「……いやいや……まっこと卜筮(ぼくぜい)の通り……いやいや……仏罰を受けて御座ったじゃて……いやいや……恐るべし……恐るべし……」
と独り言の如、呟いておったそうな。
ところが――ほどのう――またしても――片眼が悪うなった――とのことなれば、かの陰陽師、己れの八卦への自信もあればこそ、番人に詰め寄り、執拗(しゅうね)くその辺りに謂われあらんと問い質いたところ……門番は、やっと重い口を開いた。
「……我ら、永年、目黒のお不動さんの門番をして御座ったが……毎日、日暮れとともに境内の門を閉めるが勤めじゃ。……ところが閉めた後も参詣の者がおって、の……門外より、賽銭を投げ入れては拝む者、これ、少のうないのじゃ。……さても……かく投げ入れられた賽銭……その鳥目……これ実は永らく、我らが役得と致いて参ったものに御座って、の……それを好める酒に代えては……永の年月、暮らいて御座ったのじゃ。……なれど……過日、お主の打った八卦の目がしろしめしたところが……仏罰とのたまうたのと、これを考え合わすれば……まっこと、この役得と致いてきたことが……これ、悪因ならんと感じ入って、の……お不動さまへ深く懺悔致いて……我らが誤れる賤しき行いを総て述べ曝して……仏前に心より祈誓致いたのじゃ。……すると……不思議に両眼ともに、かの執拗(しゅうね)き病い……これ、嘘のように癒えて御座ったじゃ。……じゃが、の……かの閉じた門の内へと投げ入れらるる、かの鳥目……これ、役得とせずんば……好める酒も、これ、呑む能はざるが如し、じゃて、の……さもしい、さもしい、我らの哀しさじゃ……またぞろ、かの落ち散らばった鳥目を……半分はお不動さまへ納め、残りの半分は……これまた、酒を買(こ)うための価いと致すに至ったので御座る……ところが……そうしたら、の……またしても、の……今度は、片方の眼(めえ)、だけ……かくの如くなったじゃて…………」
と懺悔致いて語った、とかいうことで御座る。
――いや――目黒不動尊も金銭勘定収支決算、当該追徴処罰勘案に至るまで――まっこと、細かい仏ならん、と可笑しく思うたによって、ここに記しおいたもので御座る。
一時間程前――15:12:10――Yahoo検索――「アオミノウミウシと僕は愛し会っていたのだ」――という文字列で検索をかけたあなた――あなたは明らかにリピーターですね、このワードは僕のものだもの――あなたが記念すべき2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、380000アクセスでした!――やはり今までの最短、35日の達成であった――今後とも、よろしくお引き立ての程、お願い申し上げまする!
数秒前、ブログ380000アクセス記念として、「心朽窩 新館」(「やぶちゃんの電子テクスト:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇」の片山廣子にも)に「おき忘れた帽子 (全一幕) ロード・ダンセイニ 松村みね子(片山廣子)訳」(附縦書版)を公開した。
これを記したのは、注を読んで戴きたいからである。実朝暗殺の黒幕の一人と僕が踏んでいる人物について、である……
*
北斗堂跡 社地に今其舊跡しれず。此所に始て別當の勸請せし堂なり。此後仁治年中、將軍家〔賴朝〕勸請の堂は大倉に祀り給ふ由【東鑑】に見ゆ。同書に建保四年八月十九日、鶴岳の宮の傍に、別當定曉僧都建立北斗堂、今日供養、小河法印忠快導師也、尼御臺御參云云、同十月廿九日、將軍家〔實朝〕爲御願、於鶴岡北斗堂有一切經供養、導師三位僧都定曉、將軍家御出、御臺御同車也、相州等扈從、廣元朝臣爲奉行云云、或記にいふ應永年中再興せしことあれば、其後廢したるべしともいえり。
[やぶちゃん注:「仁治年中、將軍家〔賴朝〕勸請の堂は大倉に祀り給ふ由【東鑑】に見ゆ」とあるのは、仁治元(一二四〇)年十月十九日の条「十九日己酉。天晴。大倉北斗堂地曳始事。佐渡前司。兵庫頭等可奉行之云々。」(十九日己酉。天晴。大倉の北斗堂地曳始めの事、佐渡前司、兵庫頭等之を奉行すべしと云々。)を指す。
「定曉」「ぢやうぎやう(じょうぎょう)」と読む。本件とは全く無関係であるが、私はこの鶴岡八幡宮別当阿闍梨定暁なる人物にある疑念を抱いている(尊暁と同一人物とする記載がネット上に散見されるが、これは誤りである。尊暁は定暁の前の鶴岡八幡宮別当であり、定暁は彼から建永元(一二〇六)年五月三日に別当職を委譲されている)。着目すべきは建暦元(一二一一)年九月十五日に頼家の子善哉十二歳が、彼の下で出家している事実である。かれの法名は公暁――彼は公暁の師なのである。園城寺系の僧で、同年九月二十二日には公暁を伴って園城寺にて授戒するために上洛もしており、その関係は如何にも親密なのである。建保五(一二一七)年五月十一日に定暁は腫物を患って入滅するが、翌六月二十日には即座に、園城寺より帰った公暁が彼を継いで鶴岡八幡宮別当に就任する。――そして――翌々年の建保七(一二一九)年一月二十七日のカタストロフへと雪崩れ込んでゆくのである。――公暁の実朝暗殺に於いて、私は十代の終りから、この「定暁」なる人物がキー・パースンなのではないかと秘かに疑り続けてきた。定暁の出自……また、曾て調べた折りには、同名異人で定暁なる人物が見つかり、その人物がまた、本暗殺に繋がるような非常に興味深い人物であったと記憶する(資料を散佚したため、残念ながらこれ以上は書けない)……これは管見する限りでは誰も問題にしていないはずである。……しかし、もう、私の貧しい知見では、この問題をディグすることは不可能かも知れぬ。どなたかに衣鉢を嗣ぎたいと思う。
「或記にいふ應永年中再興せしこと」応永は三十五年続き、昭和・明治に続く三番目の長きに亙った元号である。西暦一三九四年から一四二八年まで。この「或記」とは「鎌倉市史 社寺編」によって十四世紀の鶴岡社務記録である「鶴岡事書日記」を指すものと思われる。そこには応永四(一三九七)年に北斗堂造替が決まり、同年七月十六日に立柱上棟が行われたと記されているらしい(「鎌倉市史 社寺編」の「五 室町時代」に拠った)。]
現在、ブログ・アクセス数379905――
本日昼間には380000を突破するものと思われる。
本日の昼は、我が尊敬する師(数学者にして哲学者)と逢うこととなっており、恐らくは突破のリアル・タイムには立ち逢えぬが――
既に記念テクストは、転送すれば一瞬で公開完了可能なように、用意万端整って御座る。
乞うご期待。
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老狐名言の事
右の彌二部狐也けるか、又は外の老狐爲りけるや。人に古き事などかたりて、人の爲(ため)をなしけることなど咄しけるに、或人後老狐に向ひて、畜類ながらも斯迄(かくまで)理にさとくして、吉凶危福を兼て悟りて人にも告る程の術(じゆつ)あれば、げにも名獸ともいふべきに、いかなれば人をたぶらかし欺(あざむ)きなどする事、合點行ざる事と申ければ、彼老狐答て、人をたぶらかしなどの惡業をなす事、狐たる物殘らずさにはあらず。かゝるいたづら事をなすは、人間の多き内にもいたづら不屆をなす者あるが如しといひて笑ひけると也。
□やぶちゃん注
○前項連関:妖狐直連関。――というより、それに引っ掛けた現代へ直連関する痛烈な皮肉である。原発、政治、犯罪、不倫……「いたづら不屆をなす者あるが如し」……
・「爲(ため)」利益。役に立つこと。
■やぶちゃん現代語訳
老狐名言の事
この弥次郎狐か、他の老狐で御座ったか――ちょっと失念致いてござるが――ともかくもさる老狐で、人に古き出来事を語っては、しばしば有意に、人の役に立つ助言など致いて御座った老狐が御座ったと思召されい。ある人が、この老狐に向かって、
「……畜類にてあり乍らも、かくまで道理に聡くして、しかも吉凶・禍福を事前に悟って人にも告ぐるほどの術を持って御座ればこそ、これはもう、狐は名獣とも言うてよかろうほどに……いかなれば、その狐が、片や、人を誑かして欺きなんど致すものか……これ、合点が行かぬことじゃ……」
と申したところ、かの老狐、答えて曰く、
「――人を誑かすなんどの悪行をなすこと、これ、如何なる狐も、皆、する、という訳では御座らぬ。……かかる悪戯(いたずら)なんどをやらかすは……沢山の人間の内にも、ほうれ、悪戯や不届きなることをなす者も……たんと、ある、のと……同なじ、ことじゃ……」
と笑って御座った、とのことで、御座る。
魚類は總べて水中に住むもの故、昔から到底出來ぬことを「木によつて魚を求むる如し」というて居るが、よく調べて見ると、魚でありながら陸上に出るものが全くないこともない。熱帶地方から東京灣あたりまでの海岸に住む「とびはぜ」いう小さな魚があるが、これなどは潮の引いた時は、砂や泥の乾いた上を何時間も蛙の如くに躍ね廻つて、柔かい蟲を拾うて食うて居る。比較的大きな眼玉が頭の頂上に並んで居るので、容貌までが幾分か蛙めいて見える。更に驚くべきはインド地方に産する「きのぼりうを」というふ淡水魚で、形は稍々鮒に似て大きさは一尺〔約三〇・三センチメートル〕近くにもなるが、鰓の仕掛が普通の魚とは少しく違ふので、水から出ても容易には死なず、鰓蓋の外面にある小さな鉤を用ゐて樹の幹を登ることが出來る。されば東インドまで行けば、「木によつて魚を求める」といふ語は、物事の出來ぬ譬としては通用せぬ。
[やぶちゃん注:「とびはぜ」条鰭綱スズキ目ハゼ亜目ハゼ科オキスデルシス亜科トビハゼ
Periophthalmus modestus。は頭頂部に突き出て左右がほぼ接している眼球は平坦な干潟を見渡すのに適応している。胸鰭の付け根部分の発達した筋肉と尾鰭を使い、カエルのような連続ジャンプを行い、想像以上に素早く移動する。トビハゼは皮膚呼吸の能力が高い上に、代謝によって発生する有害物質であるアンモニアをアミノ酸に変える能力を持ち、空気に触れての長時間の活動が可能となった。
「きのぼりうを」スズキ目キノボリウオ亜目キノボリウオ科キノボリウオ(アナバス)
Anabas testudineus。中国南部から東南アジアの湖沼・河川にすむ淡水魚。丘先生は、「樹の幹を登ることが出來る」とするが、参照したウィキの「キノボリウオ」によれば、『実際は木に登ることはなく、実際には、雨天時などに地面を這い回る程度である。
このような名が付いたのは、鳥に捕まって木の上まで運ばれ、生きているのを目撃した人が、木に登ったと勘違いしたためである。このように地上に進出できるのは、同じ仲間のベタやグラミーと同様に、エラブタの中に上鰓器官(ラビリンス器官)を持ち、これを利用して空気呼吸ができることと、他の仲間と異なり、這い回りやすい体型のためである』とあり、私も、木に登っているのは図像ばかりで、かなり湿った草地の泥の中を這うようにしているものしか見たことがない。因みに、上鰓器官とはベタなどを含むキノボリウオ亜目の共通の特徴で、鰓蓋の鰓の鰓上皮組織が変形したもの(構造が迷路状になっていることから「ラビリンス器官」とも呼ばれる)で、口を空気中に出して直接空気を吸い込み、ここを通して直接、空気呼吸をする器官。これは水中の溶存酸素が少ない劣悪な状況にも堪えうることを意味している。]
[長さ二十糎ほどの淡水魚である。東印度の河に産する。水上を飛ぶ昆蟲を狙ひ口から一滴の水を吹き當てこれを落して捕へ食ふ]
尚東印度には「水玉魚」〔テッポウウオ〕といふ面白い淡水魚が居る。これは身長五、六寸〔約一五~一八センチ〕の扁平な魚であるが、自身は水の中に居ながら巧に空中の蟲を捕へて食ふ。その方法は、先づ水面まで浮び出で、口を水面上に突き出して、飛んで居る昆蟲を覗うて一滴の水玉を吹き當てるのである。當てられた蟲は水玉と共に水中へ落ちて食はれてしまふ。「あんかう」の類は海の底に居て、上顎の前方から突出して居る釣竿の如きものを動かし、巧に小さな魚類を誘つて急に之を丸呑みにするが、數百尋〔一尋は、約一・八二メートル/百尋で凡そ一八三メートルであるから、五百メートル前後。日本産アンコウの棲息深度は五百メートルまで。〕の深い底で年中日光の達せぬ暗黑な處に居る「あんかう」の類には、釣竿の先が光つて恰も提燈を差出して居る如きものもある。皆口が非常に大きくて、口を開けば直に胃の奧までが見えるかと思ふ程であるが、深海の底に棲む魚には之よりも遙に口の大きな種類が幾らもある。こゝに掲げた「おほのどうを」〔フウセンウナギ〕と稱するものは、身體は殆ど全部口であるともいふべき程で、口だけを切り去つたら、唯細長い尾だけとなつて身體は何程も殘らぬ。但し二千尋〔約三六五七メートル〕以上の深い海に住む魚であるから、餌を求めるに當つて何故かやうな驚くべく大きな口が必要であるか、その習性の詳しいことは分らぬ。
[おほのど魚]
[やぶちゃん注:「水玉魚」スズキ目スズキ亜目テッポウウオ
Toxotes jaculatrix 及び同テッポウウオ属に属する一属七種の総称。東南アジアとその熱帯域周辺を中心に分布。以下、参照したウィキの「テッポウウオ」には、『体型はタイのように左右に平たい。口先は下顎が上顎より前に出て、前上方に向けて尖る。背鰭は体の後方に偏って臀鰭のほぼ反対側に付き、ここで最も体高が高くなる。横から見ると水滴形を横倒しにしたような体型で』、『口に含んだ水を発射して、水面上の葉に止まった昆虫などを撃ち落とし、捕食する行動がよく知られており、和名「鉄砲魚」はここに由来する』英名“Archerfish”(射手魚)、学名属名の“Toxotes”も「射手」を意味する。『口蓋には前方へ向けて細くなる溝があり、そこに下から舌を当てることで喉から口先にかけて水路が形成される。鰓蓋を強く閉じることで』一メートル以上『水を飛ばすことができる。また、水面近くの獲物はジャンプして捕食することもある。水面を隔てると垂直以外の角度では屈折が起こり、実際の位置からずれて見えるが、テッポウウオ類は屈折を計算して水の噴射やジャンプができる。ただし射程距離や命中率には個体差がある』。本邦には棲息しないと考えられていたが、一九八〇年、沖縄県西表島で
Toxotes jaculatrix が発見された。本国産種はまた、『河口沖合いの刺し網に大型個体が掛かった例が報告されていて、川と海をまた』いで、淡水・汽水・海水の広域に適応している可能性があるとされる。『水面より上の小動物以外にも、水面のアメンボ類や落下生物、小魚や甲殻類など水生小動物も食べる。採餌行動に水鉄砲が不可欠というわけでもなく、どうして水鉄砲による捕食を身に付けたのかは謎となっている』とある。
「あんかう」新鰭亜綱側棘鰭上目アンコウ目 Lophiiformes。現在、三亜目十八科六十六属三百十三種から構成される海水魚で、ここに挙がった頭部の誘引突起(イリシウム)で知られるアカグツ亜目チョウチンアンコウ上科チョウチンアンコウ科チョウチンアンコウ
Himantolophus
groenlandicus を始めとして深海域を生息場所とする種が多い。因みに、イリシウムは“illicium”で、ラテン語の“illicio”(誘惑する)+-ium(ラテン語系名詞語尾で化学元素・器官部名・生体組織名などを表わす)の合成語であろう。このイリシウムから発光液を噴出する様子は昭和四十二(一九六七)年二月に鎌倉の海岸に打ち上げられたチョウチンアンコウを江の島水族館が八日間飼育に成功した際、世界で初めて観察された。その二度目の江ノ島水族館で観測された発光映像がここにある。
『「おほのどうを」〔フウセンウナギ〕』カライワシ上目フウセンウナギ目フウセンウナギ亜目フウセンウナギ科フウセンウナギ属
Saccopharynx の一属十一種の総称。学名のサッコファリンクス属の呼称も一般的である。学名は“Saccus”(ラテン語で「袋」)+“pharynx”(ギリシア語で「喉」)で、「袋状に膨らむ喉(のみの生き物)」の意である。以下、参照したウィキの「フウセンウナギ」によれば、大西洋・インド洋・太平洋の深海二〇〇〇メートル前後から約四〇〇〇メートル付近までの間に生息する漸深層遊泳性深海魚で、巨大な口を持つことで知られる。全長は六〇センチメートルから一六〇センチメートル程度。色は何れも黒っぽく、口器には小さな歯が多く並ぶ。尾部先端には発光器を持ち、『他のフウセンウナギ目の魚と同様、接続骨、鰓蓋骨、鰓条骨、鱗、肋骨、幽門垂、鰾(うきぶくろ)などを持たない。ウナギ目と同様にレプトケファルス幼生(葉形幼生)期を経て成長する』。『その奇妙な形態からかつては硬骨魚類ではないと考えた研究者もいた』が二〇〇〇年代に行われたミトコンドリアDNA解析によって『本科および他のフウセンウナギ目魚類はウナギ目の内部に分岐し、特にシギウナギ科・ノコバウナギ科・ウナギ科に近縁であることが示唆されている』とある。――因みに私はこのサッコファリンクス属の殆んどの種の学名を暗唱出来る程、サッコファリンクス好きである。
フウセンウナギ科フウセンウナギ属
Saccopharynx
ampullaceus
Saccopharynx
berteli
Saccopharynx
harrisoni
Saccopharynx
hjorti
Saccopharynx
lavenbergi
Saccopharynx
paucovertebratis
Saccopharynx
ramosus
Saccopharynx
schmidti
Saccopharynx
thalassa
Saccopharynx
trilobatus
……小学生の時、かの小学館の学習図鑑「魚貝の図鑑」で初めて出逢った、この「口だけ頭」のエイリアン・フィッシュ……奇態な生き物は……ものの美事に……怪獣少年の僕のハートを摑んで離さなかったのだ……
[魚を食うてゐるひとで]
進んで餌を求める動物の例として尚一つ「ひとで」類の餌の食ひ方を述べやう。「ひとで」類は淺い海の底に住む星形の動物で、どこの國でも「海の星」という名がつけてあるが、體には唯裏と表との別があるだけで前も後もない。裏からは澤山の細長い管狀の足を出し、足を延ばして何かに足の先の吸盤で吸ひ附き、次に足を縮めて身體をその方へ引きずつて漸々進行する。好んで貝類を食するから、牡蠣や眞珠の養殖場には大害をなすものであるが、その食ひ方を見るに、小さな貝ならば體の裏面の中央にある口で丸呑みにし、口に入らぬやうな大きな貝ならば、まず五本の腕で之を抱へ、胃を裏返しにして口より出し、之を以て貝を包んでその肉を溶かして吸ひ入れるのである。「ひとで」が暫時抱へて居た貝を取つて見ると、貝殼は舊のまゝで少しも傷はないが、内は已に空虛になつて居る。海中の中に「ひとで」と魚とを一處に飼つて置くと、往々「ひとで」が魚を食ふことがあるが、その時も同樣な食ひ方をする。
以上掲げた若干の例によつても分る通り、進んで餌を求めることは大多數の動物の行ふ所で、その方法に至つては、世人の常に見慣れて居るものの外に隨分意表に出た食ひやうをするものがある。而して如何なる場合にも、同樣な方法で食つて居る競爭者が澤山にあるから決して樂は出來ぬ。
鳥の嘴には隨分奇妙な形のものがある。「いすか」の嘴の上下相交叉して居ることは誰も知つて居るが、これは「いすか」に取つては都合がよい。「いすか」が松の實を食ふ所を見るに、足で摑んで嘴を鱗片の間に挿し入れ、一つ頭を振つたかと思ふと、その奧にある松の種は已に「いすか」の口に移つて居るが、雀や「やまがら」のやうな眞つ直ぐな嘴では到底斯く速には取れぬに違ひない。折角の目論見が「いすか」の嘴と食ひ違ふことは人間にとつては甚だ都合の惡いことであるが、「いすか」は若しも嘴が食ひ違つてゐなかつたならば、日々の生活に差し支へが生ずるであらう。また「そりはししぎ」に似た鴫の一種では、細長い嘴の先の方が右に曲つて頗る不自由らしく見えるが、これは海濱の泥砂の上に落ちて居る介殼を起して、その下の蟲を探したりするには却つて具合が宜しい。外國産の鶴の類には、口を閉じても上下の嘴がよく締まらず、その間に大きな窓の明いて居るものがあるが、これも蛤などを啣へるには或は便利かも知れぬ。總べて動物にはそれぞれ專門の餌があつて、口の構造はそれを取るに適するやうになつて居るから、中々他の習性の異なつたものが、急に競爭に加はらうとしても困難である。
[やぶちゃん注:「いすか」スズメ目アトリ科イスカ
Loxia curvirostra。「鶍」「交喙」などと書く。和名は「食ひ違ひ」→「クヒスガヒ」→「ヒスガ」→「イスカ」と転訛したものとされる。嘴の特異性から「いすかの嘴(はし)」という諺があるが、本邦では冬の渡り鳥ではあるものの(北海道や本州の内陸山間部での少数の繁殖が認められる)、現認数は昔から少なかったか、民俗誌が諺以外にはあまり伝わらない。西洋ではキリストが十字架に貼り付けとなった際、その釘を引き抜こうとして、今のような嘴になったという伝承があり、疾病(風邪・痛風・リューマチ・癲癇など)から人を守る幸運のシンボルとされる。
「そりはししぎ」チドリ目シギ科ソリハシシギソリハシシギ
Xenus cinereus。本邦では個体数は少ないが、渡り鳥として知られる。挿絵のキャプションは標準和名ではなく、「はしまがりしぎ」としか読めない名称で示されてある。コツルシギという異名はあるが、これは異名としても一般的とは思われず、次の「窓嘴鶴」同様、異名ではなく、丘先生による形態を説明したキャプションと採るべきであろう。
「窓嘴鶴」本文でも「外國産の鶴の類」とあるのだが、私はこれはツル目ツル科
Gruidaeの「鶴」の類ではなく、コウノトリ目コウノトリ科 Ciconiidae の「鸛」の類とすべきではないかと思う(実際にはコウノトリは鶴に似てはいるが)。この図や本文にあるような嘴の形状はコウノトリ科のスキハシコウAnastomus oscitans 及び同属の種に特徴的なものだからである。挿絵は頭部が有意に黒い(Anastomus oscitans は白く、より鶴らしくは見える)ので北アフリカに主に群生するクロスキハシコウ
Anastomus lamelligerus (もしくはその近縁種か亜種)を描いたもののように見える。「窓嘴鶴」という名は検索にかかってこない。]
美濃國彌次郎狐の事
美濃國に彌次郎狐とて年を經し老獸ある由。郡村寺號共に忘れたり。右老狐出家に化して折節古き事を語りけるが、紫野の一休和尚の事を常に咄しけるは、一休和尚道德の盛(さかん)なるといふ事聞及びて其樣子をためさんと、其頃彼寺の門前に親子住ける婦人聟(むこ)をとりしが、親子夫婦合(あい)も穩やかならずして離縁しけるを聞て、彼女に化て一休のもとへ來りて、夫とは離れぬ、母の勘氣を受けて詮方なし、今宵は此寺に止(と)め給はれといゝければ、-休答て、我々門前の者ゆへ是迄は對面もなしぬ、其門前を出ぬれば若き女を寺には留(と)めがたしと斷ければ、出家の御身なれば何か外(ほかの)疑(うたがひ)もあるべき。女の闇夜に迷はんを捨給ふは情なしと恨かこちければ、さあらば臺所の角(すみ)に成(なり)とも客殿の椽頰(えんばな)に成共(なりとも)夜を明し給へ、座敷内へは入難しと被申ける故、其意に任せて宿しけるが、元來道德を試んとの心なれば、夜に入て一休の臥所(ふしど)へ忍入りて戲れよりければ、一休不屆の由聲を懸け、有合(ありあふ)扇やうの物にて背を打れしに、誠に絶入(たえいり)もすべき程に身にこたへ苦しかりし、實(げに)も道德の高き人也と彼(かの)老狐語りし由。其外古き事など常に語りしが、今も活けるやと人の語りける。
□やぶちゃん注
○前項連関:特に連関しないが、本巻では既出の通り、既に直接的な妖狐譚が有意に多く、これもその一連の妖狐シリーズの一つ(それ以外にも、既出記事ではその超常現象を「狐狸の仕業」とするものも多かったが、これは当時の一般的な物謂いであるから、連関というほどではない)。またこの一休咄の類は、既に「巻之二」の「一休和尚道歌の事」で挙げており、且つそれは本話同様、女色絡み(本話は堅固だが、あっちは奔放)である。なお、リンク先の私の注も参照されたい。
・「紫野」京都府京都市北区紫野にある大徳寺。一休(応永元(一三九四)年~文明十三(一四八一)年)。は応永二十二(一四一五)年にここで高僧華叟宗曇(かそうそうどん)の弟子となり、師の公案「洞山三頓の棒」に対し、「有漏路(うろじ)より無漏路(むろじ)に帰る一休み雨降らば降れ
風吹かば吹け」(「有漏路」は煩悩の世俗、「無漏路」は悟達の仏界の意)と答えて、それに因んで華叟より「一休」の道号を授けられた。応永二十七(一四二〇)年のある夜、鴉の鳴き声を聞いて俄かに大悟した。華叟は印可状を与えようとしたが、一休はそれを辞退、華叟は「馬鹿者!」と笑いつつ送り出したとされる。各地を流浪行脚、応仁の乱後の文明六(一四七四)年には後土御門天皇の勅命によってここ大徳寺の住持に任ぜられた。その再興に尽力はしたが、寺には住まなかったという(リンク先では一休の事蹟に「世界大百科事典」を用いたので、こちらはウィキの「一休宗純」を参考にした)。
・「古き事」本執筆時を寛政九(一七九七)年として一休の没年で計算しても、三〇六年前、この「彌次郎狐」は有に三百歳を越えている。
・「外(ほかの)疑(うたがひ)」と訓じたが、底本は「がいぎ」と音読みして、他人からの疑いの意で用いているのかも知れない。しかし、若き女の台詞として「外疑(がいぎ)」は如何にも相応しくないと思うのである。
・「臺所」禅宗ではこういう言い方はしない。厨房は典座(てんぞ)という。
■やぶちゃん現代語訳
美濃国の弥次郎狐の事
美濃国に弥次郎狐と呼ばれた年を経た老獣がおるとの由――話柄の舞台となる郡村も寺号もともに失念致いた。――
――この老狐、出家に化けては、しばしば恐ろしく古い話を語ったりして御座ったが、殊の外、紫野の一休和尚の話を好んで話した。その中でも、弥次郎狐自身が女人に化け、一休和尚に挑んだという、とっておきの話で御座る――
……あるときのことじゃ、我ら、『一休和尚は道徳堅固なる名僧じゃ』というを聞き及び、それがまっことなるものか、一つ試したろう、と思うたのじゃった。
丁度その頃、一休の御座った小さき寺の前に、母と娘の二人が住んで御座った。その若い娘が婿をとったものの、若夫婦との仲、また、母と娘との仲が、これ、穏やかならずして、どうも丁度その日、かの夫婦(めおと)は、これ、離縁したというを地獄耳じゃ……かの肉の炎(ほむら)の冷めやらぬ娘にまんまと化けると、やおら、寺に入(い)ったのじゃ……
「……夫とは離縁致し……母からは勘気を被(こうぶ)り……万事休して、御座りまする。……今宵、一夜……どうか、この寺に……お泊め下されぃ……」
と、よよと縋ったところが、一休、
「――我とそなたは寺と門前という仏縁の一つ世に住まいする者で御座ったが故、これまでは対面(たいめ)致いて参った者じゃ――なれど、かくも門前を出でて俗界へと奔ったとなれば――まこと、人の縁を断って、うら若き女人の丸のままと相いなって御座るそなたを――この寺内(てらうち)に泊めんというは、これ、如何にも難きことじゃ……」
と否んだによって、我らは、
「……悟りを開いたご出家の……外ならぬ徳道堅固のあなたさまにて御座いますれば……一体、何処の誰が、疑いを抱きましょうや!……女の一人、この闇夜に、行くあてものう、さ迷うて――この『女』独り、この真暗な『闇世』に、さ迷うておるを……お見捨てなさるとは……あまりに……あまりに……情けなきこと…………」
と恨みを含んで歎きつつ、そのまま地に泣き伏せば、
「……されば――座敷内に上ぐることはならずとも――典座(てんぞ)の隅なりとも、客殿の縁の端なりとも、一夜(ひとよ)をお明かしなさるが――よい。」
と申された。
……これも思う壺に嵌まったものじゃ……
……我ら、その意に随(したご)う振り致いて、まんまと泊まること、これ、出来た。
……元来が――一休なる者が、まこと、徳道堅固ならんかを試さんとの心なれば――夜に入って……一休の臥所(ふしど)に忍び入り、我らの柔肌にて戯れ寄った……ところが一休……
「――喝ッ!――不届者ッ!――」
と一喝すると――辺りに御座った小さな扇子のような物をもって――我が背を――
――タン!
と――お打ちになられた――
「……いや! あの一撃! それは鉄槌よりも重う、強う御座った! いや! 正に死なんかと思う痛打で御座った!……いや! げにも……徳道を究めたお人の警策で、御座ったわいのう……」
と、かの老狐は、しみじみと語って御座ったという。
「……その他にも、かの老僧、いやさ、老狐……やはり信じ難いほど古いことなんどを年中、語って御座ったが……さても、今も生きておるものやら、どうやら……」
と私の知れる人が語って御座った。