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2012/07/08

耳嚢 巻之四 古へは武器にまさかりもありし事

数行の短い話なのだが――今朝6時前よりとりかかって、ハマりにハマった――実に5時間半もかかってやっと完了――「太平記」の引用部分、面白いよ!



 古へは武器にまさかりもありし事

 

 大猷院樣の御守りを、土井酒井一同に御育て申上し靑山忠親子息因幡守は、力量勝れけるや、柄七尺程の鉞(まさかり)を越前守助廣に鍛へさせて戰場にも被用(もちひられ)しが、右を學びて同樣の鉞を遣ふ勇士ありし故、不面白(おもしろからず)とて尚又正(まさに)高(かさ)大ぶりにして用ひし由。是又野州忠裕物語なり。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:名工津田越前守助廣話で青山下野守忠裕直談で本格武辺二連発。

・「まさかり」は通常の木を切り倒す斧の中でも大きい斧或いは丸太の側面を削って角材を作るための刃渡りの広い斧を特に鉞(まさかり)と呼ぶ。武器として特化した斧には、柄を長くして破壊力を増した戦斧(西洋のバトルアックス)や、目標に向かって投擲する投斧(インディアンの使用するトマホーク)などがあるが、本邦での戦斧の使用は南北朝以後と考えられており、文献では「太平記」に、観応の擾乱の末期、正平八・文和二(1353)年、幕府方の長山遠江守(藤原利仁の子孫遠山頼基か?)が南朝方の赤松氏範との一騎討ちで、五尺(約一五〇センチメートル)の大太刀二振りを佩いた上に、刃長八寸(約二四・五センチメートル)の大斫斧(まさかり)を持って戦ったという記載がある。なかなか面白いシーンなので、以下に該当箇所を示す(新潮日本古典集成「太平記 五」を一応の底本としつつ、総てを正字に代え、一部の読みや表記を変えた)。

赤松彈正少弼氏範は、いつもうちごみの軍(いくさ)を好まぬ者なりければ、手勢ばかり五、六十騎引き分けて、返す敵あれば、追つ立て追つ立て切つて落す。

『名も無き敵どもをば、何百人切つてもよしなし。あつぱれ、よからんずる敵に逢はばや。』

と願ひて、北白河を今路(いまみち)へ向て歩ませ行くところに、洗革(あらひがは)の鎧のつま取たるに、龍頭(たつがしら)の甲の緒をしめ、五尺ばかりなる太刀二振り帶(は)きて、齒のわたり八寸ばかりなる大鉞(おほまさかり)を振りかたげて、近付く敵あらばただ一打に打ちひしがんと尻目に敵を睨んでしづかに落ち行く武者あり。赤松、遙かにこれをみて、これは聞ゆる長山遠江守ごさんめれ。それならば組んで討たばやと思ければ、諸鐙(もろあぶみ)合せて後(あと)に追つ著き、

「洗革の鎧は長山殿と見るは僻目(ひがめ)か、きたなくも敵に後ろを見せらるる者かな。」

と、言葉を懸けて恥ぢしめければ、長山きつとふり返つて、からからとうち笑ひ、

「問ふはたそとよ。」

「赤松彈正少弼氏範よ。」

「さてはよい敵。ただし、ただ一打ちに失はんずるこそかはゆけれ。念佛申て西に向かへ。」

とて、くだんの鉞を以つて開き、甲の鉢を破れよ碎けよと思ふさまに打けるところを、氏範、太刀を平めて打ちそむけ、鉞の柄を左の小脇に挾みて、片手にて

「えいや。」

とぞ引きたりける。引かれて二匹の馬あひ近(ちか)に成ければ、互に太刀にては切らず、鉞を奪はん奪れじと引き合ひける程に、蛭卷(ひるまき)したる樫の木の柄を、中よりづんど引き切つて、手本は長山手に殘り、鉞の方は赤松が左の脇にぞ留まりける。長山、今まではわれに增さる大力あらじと思ひけるに、赤松に勢力を碎かれて、叶はじとや思ひけん、馬を早めて落ち延びぬ。氏範、大に牙(きば)を嚙みて、

「詮無き力態(ちからわざ)ゆゑに、組んで討べかりつる長山を、打ち漏しつる事のねたさよ。よしよし、敵はいづれも同じ事、一人も亡ぼすにしかじ。」

とて、奪ひ取りたる鉞にて、逃ぐる敵を追つ攻め追つ攻め切りけるに、甲の鉢を眞向まで破り付けられずといふ者無し。流るる血には斧の柄も朽つるばかりに成りにけり。

簡単な語釈を附しておく。

●「うちごみの軍」敵味方多数の軍勢が乱闘する集団戦。

●「今路」底本の山下宏明氏頭注に京都市左京区修学院から音羽川に沿い四明岳を経て延暦寺に至る』雲母(きらら)坂を限定的に言っているものか、とある。

●「洗革」薄紅色に染めた鹿のなめし革。揉んで柔らかくした白いなめし革とも。

●「僻目」見誤り。見間違い。

●「かはゆけれ」可哀そうだ。哀れなものよ。

●「鉞を以て開き」鉞を持って少し下がり。一騎打ちで打ち込むための助走のため。

●「太刀を平めて打ちそむけ」太刀を横に払って、鉞を振り下ろそうとする長山の機先を制し、自分の左体側にうち外させた、ということを言うものと思われる。

●「蛭卷」滑り止め・補強や装飾の目的で刀の柄や鞘、槍・薙刀・斧などの柄を、鉄や鍍金・鍍銀の延べ板で間をあけて巻いたもの。蛭が巻きついた形に似ることからの呼称。

●「詮無き力態ゆゑに」つまらぬ力較べなんどをしているうちに、の意。

●「一人も亡ぼすにしかじ」一人でも多くうち亡ぼすに若くはあるまい、の意。

●「流るる血には斧の柄も朽つるばかりに成りにけり」が慄っとするほど素敵だ! 但し、戦斧の使用は兵站の建設や城門破壊が主目的であったと考えられている(以上の戰は主にウィキの「斧」及び「戦斧」を参考にした)。本文ではこの鉞の柄の長さを「七尺」(約二メートル)とするのは、斧としては勿論、戦斧としても、とんでもなく長い。更にそれを更に一回り大振りにしたということは、斧部も柄もより大きく長くなるということになって、恐ろしく重く巨大で長い鉞――ガンダムが振りましてもおかしくない鉞ということになろうことは、これ、認識しておく必要があるであろう。

・「土井酒井」老中土井利勝(元亀四(一五七三)年~寛永二十一(一六四四)年)と酒井忠世(元亀三(一五七二)年~寛永十三(一六三六)年)。同じく老中青山忠俊(天正六(一五七八)年~寛永二十(一六四三)年)と三名で家光の傅役(ふやく・もりやく)となった。因みに各人のついて簡単に解説しておく(複数の資料を参考とした)。

●土井利勝は、系図上では徳川家康の家臣利昌の子とするも、家康の落胤とも伝えられる。幼少時より家康に近侍し、次いで秀忠側近となった。家康の死後は朝鮮通信使来聘などを務めて幕府年寄中随一の実力者として死ぬまで幕閣重鎮として君臨した。

●酒井忠世は名門雅楽頭系の重忠と山田重辰の娘の嫡男として生まれ、秀忠の家老となる。元和元(一六一五)年より土井・青山とともに徳川家光の傅役となったが、家光は平素口数少なく(吃音があったともある)、この厳正な忠世を最も畏れたとされる。但し、秀忠の没後は家光から次第に疎まれるようになり、寛永十一(一六三四)年六月に家光が三十万の軍勢を率いて上洛中(彼はそれ以前に中風で倒れているためもあってか江戸城留守居を命ぜられていた)の七月、江戸城西の丸が火災で焼失、報を受けた家光の命によって寛永寺に蟄居、老中を解任された。死の前年には西の丸番に復職したが、もはや、幕政からは遠ざけられた。

●青山忠俊は常陸国江戸崎藩第二代藩主・武蔵国岩槻藩・上総国大多喜藩主。青山家宗家二代。江戸崎藩初代藩主青山忠成次男。遠江国浜松(静岡県浜松市)生。小田原征伐で初陣を飾り、兄青山忠次の早世により嫡子となった。父忠成が徳川家康に仕えていたため、当初は同じく家康に仕え、後に秀忠に仕えた。大坂の陣で勇戦し、元和二(一六一六)年に本丸老職(後の老中)となった。忠俊は男色や女装を好んだりした家光に対して諫言を繰り返したことから次第に疎まれ、元和九(一六二三)年十月には老中を免職、減転封、最後は相模国高座郡溝郷に蟄居した。秀忠の死後、家光より再出仕の要請があったが断っている。

・「靑山忠親子息因幡守」底本鈴木氏注には、「靑山忠親」は、遠江浜松藩第二代藩主青山忠雄(あおやまただお 慶安四年(一六五一)年~貞享二(一六八五)年)の旧名とする。彼は初代藩主青山宗俊(先の注の青山忠俊長男。以下に示す)の次男である。もうお分かりのように、ここには錯誤があって、「靑山忠親子息因幡守」は「靑山忠俊子息因幡守」で、青山宗俊(慶長九(一六〇四)年~延宝七(一六七九)年)を指す。即ち、

〇青山忠俊――青山宗俊――青山忠雄(忠親・青山宗家四代)……青山忠裕(青山宗家十代)

が正しい青山家系図であるが、これを

×忠俊孫・青山忠雄(忠親)――忠俊子・忠雄(忠親)父・青山宗俊

としてしまったためにタイム・パラドックスのようになってしまっているのである(訳では事実に合わせて訂した)。因みに、前掲の青山忠俊を除く、その子と孫について簡単に解説しておく。

●青山宗俊は、元和九(一六二三)年、父忠俊が家光の勘気を受けて蟄居になった際、父とともに相模高座郡溝郷に蟄居した(当時満十九歳)が、寛永十一(一六三四)年に家光に許され再出仕。書院番頭に就任して旗本となり、次いで大番頭、加増により大名となって、後には大坂城代を勤めた。延宝六(一六七八)年に遠江浜松藩五万石藩主青山家初代となった。彼は、「耳嚢卷之三」の「大坂殿守廻祿番頭格言の事」に記されている天守閣炎上の際の、実際の(リンク先の根岸の記事には錯誤がある)当時の城代であった彼の沈着冷静な判断と処理方法をもって、賞讃された。底本の鈴木氏注には、この『大坂城代の時助広を家の刀匠とする』とある。しかし、そうすると、この本文にあるような鉞を奮うべき「戰場」が、ない。もしかすると、これは彼の父で、大坂の陣の勇士とされる青山忠俊の逸話ではあるまいか? 但し、その場合は助廣はもとより、その父ソボロ助廣であっても、この鉞の作者とするには無理が生ずる。取り敢えず、ここは本文通りに訳しておいた。

●青山忠雄は遠江浜松藩の第二代藩主。青山宗俊次男として信濃小諸にて出生、延宝七(一六七九)年、父の逝去により満二十八歳で家督を継いで第二代藩主となるも、六年後に三十四歳の若さで逝去、跡を弟で養子であった忠重が継いでいる。以下、青山忠裕に繋がる青山宗家系図は多くが養子による縁組による嗣子である。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 古えは武器に鉞もあったという事

 

  大猷院家光様の御傅役(もりやく)として、土井・酒井らと一丸になって将軍様をお育て申し上げた老中青山忠俊殿の御子息に当たられる青山因幡守宗俊殿は――その力量に於いては、これ、並外れたものをお持ちで御座ったのであろうか――その柄だけでも七尺程もある鉞(まさかり)を、かの名工越前守助広に鍛えさせ、実戦にてもそれを用いられたとのことで御座る。

 ところが、宗俊殿のその華々しい奮戦を見、それを真似て、同様の鉞を遣うて戦う勇士が現れた故、宗俊殿、

「――面白う――ない!」

と、なおも一回りも大振りなる鉞を助広に鍛えさせ、それを用いられた、とのことで御座る。

 これもまた、青山宗俊殿の御子孫に当たられる下野守忠裕殿御自身が、私に物語られた話で御座る。

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