カテゴリ 畑耕一句集 蜘蛛うごく 創始
カテゴリ「畑耕一句集 蜘蛛うごく」を創始する。
六つ目のアンガジュマン(自己投企)である。
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畑耕一(明治一九(一八八六)年~昭和三二(一九五七)年)
(多くのデータが明治二九(一八九六)とするのは誤りである。これは平成二三(二〇一一)年、広島市立中央図書館石田浩子氏の『「畑耕一文学資料展」を開催して』によって明らかにされた新事実である。)
広島生。小説家・評論家・劇作家・俳人にして新聞人・映画人・演劇人。幻想文学作家。
俳号、蜘盞子(ちさんし)。ペンネームは汝庵・多蛾谷素一など。
東京日々新聞学芸部長(志賀直哉「暗夜行路」発表に関わるエピソードに登場)・松竹キネマ企画部長(笠智衆を始めとする多く俳優を育てる)国民新聞学芸部長・明治大学教授・日本大学講師など(講義は映画・演劇・ジャーナリズム論)。
大正二(一九一三)年、『三田文学』の「怪談」で文壇デビュー、続けて同誌に「淵」(大正三(一九一四)年)「道頓堀」(大正五(一九一六)年)などの耽美的作品を発表、その後新聞・演劇・映画の実務を熟しながら批評・随筆・戯曲・小説・作詞といった多彩な文筆活動を行う。昭和三(一九二八)年ヒット曲「浅草行進曲」は彼の多蛾谷素一名義の作詞になる。
昭和一五(一九四〇)年、全ての職を辞し、作家生活に入り、創作に専念する生活を選ぶ。この時、眼前の大東亜戦争の端緒たるものという認識のもと、日清戦争の銃後史を描いた「広島大本営」(昭和一八(一九四三)年)は、畑の作品中でも特異な代表作の一つとされる。
戦後は児童文学や評伝などを書いたが、昭和三二(一九五七)年十月六日、広島赤十字病院で胃癌のため逝去した。享年七一歳(今までは六一と考えられていたのは驚くべき錯誤である)。先に掲げた石田浩子氏の論文によれば『畑が亡くなった日の毎日新聞には、「ベッドの上でいろいろ考えたことがあるので、こんど退院したら〝ヒロシマ〟という題で小説と随筆の中間のようなものを書きたいと思う」と、病床で語ったコラムが掲載された』とある。
「別冊 幻想文学 日本幻想作家名鑑」には、『耕一は処女作「怪談」に、怪奇趣味に魅せられて内外の文献を読み漁る青年の姿を活写しているが、これは作者自身の自画像と考えてよいだろう。特に英文学方面の造詣には注目すべきものがあり』(これは石田氏の論にも詳しく、晩年に於いても、M・R・ジェームズ作品集の翻訳・出版に向けて精力を傾けていた事実が記されている)、『随筆集「ラクダのコブ」』(大正一五(一九二六)年)『所収の「新怪奇劇と映画」では、いちはやく映画における怪奇表現という問題に触れても』おり、『怪奇趣味のディレッタントとしての耕一の業績には改めて光があてられてしかるべきだろう』とある。
耕一は若き頃より詩文にも長じ、『明星』や『ホトトギス』などにも投稿、大正一五(一九二六)年、結社「十六夜会」(俳誌『藁筆』)で句作、後に俳誌『ゆく春』『海蝶』などに参加している。
本テクストはその彼の「畑耕一句集 蜘蛛うごく」(序文北原白秋)の完全テクスト化をゆっくらと目指すものである。
僕の所持する昭和一六(一九四一)年二月一五日交蘭社発行の原本を底本とした(これは今から十年程前、神田の田村の棚の隅に押し込まれてあったものを、驚くべき安さで――確か三千円代であったと記憶する――入手したものである)。
カテゴリ創始記念に扉にある畑耕一肉筆墨句の画像を示す(落款は「耕」か)。


