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2012/07/05

鎌倉攬勝考 鶴岡八幡宮 石階 / 実朝暗殺の一部始終

石階 二王門正面是を登れば上(ウエ)の地なり。石階幅一丈餘、此石階の東の方に梛の樹あり。西の方に銀杏の大樹あり。《實朝横死の事》【東鑑】承久元年正月廿七日、將軍家〔實朝〕右大臣拜賀の爲に鶴岡八幡宮に御參、〔酉の刻〕夜陰に及て神拜の事終り、漸々退出の處に、當社別當阿闍梨公曉石階の際に伺ひ來り、剱を取て亟相を侵し奉る[やぶちゃん字注:底本「亟相」誤植と見て、訂した]。其後隨兵等宮中え弛參るといえども、〔此時武田五郎信光先登に進む。〕讎敵しれず。或人いふ、上(ウエ)の宮の砌にて別當公曉父の敵を討し由名謁(ナノラ)るといふ。依て各々雪の下の本坊へ襲ひ到るに、彼門弟の惡僧等籠り居て相戰ふ處に、長尾新六定景が子息太郎景茂、二郎胤景等先登を諍ふといふ。遂に惡僧等退散すといへども、阿闍梨此所に見へず。軍兵空敷退散し、諸人惘然たり。爰に阿闍梨は丞相の御首を捉て、後見の備中阿闍梨の雪の下北谷の宅〔今十二院の地なり。〕に行向はるゝ。膳をすゝむるの間も手を放さず御首を持といふ。阿闍梨此所より使者として、彌源大兵衞尉〔阿闍梨乳母子〕を三浦義村が方へ遣していふ、今既に將軍の闕あり、吾こそ東關の長なり、早く計議をめぐらすべきの由を示し合さる。義村此事を聞て、先君の恩化を忘れざるの間落涙數行し、更に詞も出し得ず。暫していふ、先蓬屋へ光臨有べし、且又御迎に兵士を獻ずべしとて、使者退去の後急ぎ使を義時へ達し、件の次第を告ければ、義時返答に、速に阿闍梨を誅すべき由を下知せしゆへ、急速に義村一族等を招集め評定せしに、阿闍梨は甚武勇に達し常人にあらず、輙く誅しかたかるべき由各評議する處に、義村勇敢の器を撰み、長尾新六定景を討手に定む。〔長尾も一族なり。[やぶちゃん注:底本「長屋」とあるが誤植と見て、訂した。]〕定景も辭退する事を得ず、座を起(タチ)て黒川縅の甲を著す、雜賀次郎〔西國の人強力の士〕以下郎徒五人を相具し、阿闍梨の在所備中阿闍梨の宅に赴く砌、阿闍梨は義村が方より迎ひの者延引の間、彼宅至らんと欲し鶴岡の後山へ登り、山傳へになさんと坊より出ける所に定景と途中に相逢ふ。御迎に參れりといふ。雜賀次郎忽に阿闍梨を懷き互に雌雄を爭ふ處に、定景大刀を取て阿闍梨の首を討落す。腹卷の上に素絹の衣を着せり。此人は金吾賴家將軍の御息也。母は賀茂六郎守長が女なり。〔是爲朝の孫女なり〕定景彼首を持歸り義村に渡す。即義村京兆〔義時〕の亭へ持參す。義時出逢て其首を見らる。安東次郎忠家脂燭を取。義時いふ。正敷ㇾ未ㇾ奉見二阿闍梨面一、猶疑給ありと云云。抑今日の異兼々怪のこととも有しといふ。出御の砌御庭の梅を覧じ給ひ、禁忌の和歌を詠じ給ふ。
 出ていなは主なき宿となりぬとも、軒はの梅よ春をわするな
[やぶちゃん字注:ここは底本では和歌の後、字間もなしに後文を続けるが、改行した。]
今朝宮内兵衞尉公氏に命じ、御髮を取あげさせ給ふ時に、御鬢の毛一筋を公氏に賜ひ、我のかたみにせよとの御意なり。公氏押いたゞき懷中せしが、右府薨逝の翌日葬し奉らんとせしに御しるしなし。昨夜新六が阿闍梨を誅せし時も丞相の御首を持給はず、所々尋しかど終にしれずといえり。仍て今日御しるしなければ、公氏に賜ひし御髮の毛を以て御鬢に入、御しるしとなし葬し奉るとあり。
[やぶちゃん注:実朝暗殺の前後を、「吾妻鏡」の記載に随って少しく見ておきたい。最後に「今日の異兼々怪のこととも有し」とあるが、まずは、右大臣拝賀の式の前々日、建保七(一二一九)年一月二十五日の条に早くもそれが現われる。
〇原文
廿五日壬辰。右馬權頭賴茂朝臣參籠于鶴岡宮。去夜跪拜殿。奉法施之際。一瞬眠中。鳩一羽居典厩之前。小童一人在其傍。小時童取杖打殺彼鳩。次打典厩狩衣袖。成奇異思曙之處。今朝廟庭有死鳩。見人怪之。賴茂朝臣依申事由有御占。泰貞宣賢等申不快之趣云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
五日壬辰。右馬權頭賴茂朝臣、鶴岡宮に參籠す。去ぬる夜、拜殿に跪きて法施(ほふせ)を奉るの際、一瞬の眠りの中に、鳩一羽典厩の前に居る。小童一人其の傍らに在り。小時(しばらく)あつて、童、杖を取りて彼の鳩を打ち殺し、次に典厩の狩衣の袖を打つ。奇異の思ひを成して曙(あ)くるの處、今朝、廟庭に死鳩有り。見る人、之を怪しむ。賴茂朝臣の申す事の由に依りて、御占有り。泰貞、宣賢等、不快の趣を申すと云々。
・「右馬權頭賴茂」源頼茂(治承三(一一七九)年~承久元(一二一九)年)。「典厩」は右馬権頭の唐名。大内裏守護職であったが、この後日、同年(改元して承久元年(一二一九年)の七月十三日に頼茂が将軍職に就くことを企てたとして(恐らくは討幕計画を察知された先制攻撃として)後鳥羽上皇の兵に居宅であった昭陽舎を襲撃され、仁寿殿に籠った上、火を掛け、自害している。ここに記された彼の夢告は、そこまでも予兆したものとして――ある。
・「泰貞、宣賢」安倍泰貞と安倍宣賢(のぶかた)。実朝に近侍した三人の陰陽師(もう一人は安倍親職(ちかもと)。
以下、右大臣拝賀の式当日、建保七(一二一九)年一月二十七日の条を示す(途中「阿闍梨」の「阿」の省略が認められるが、私には気持ちが悪いので「阿」を総てに附した)。
〇原文
廿七日甲午。霽。入夜雪降。積二尺餘。今日將軍家右大臣爲拜賀。御參鶴岳八幡宮。酉刻御出。
[やぶちゃん注:行列供奉随兵の条は省略。]
令入宮寺樓門御之時。右京兆俄有心神御違例事。讓御劔於仲章朝臣。退去給。於神宮寺。御解脱之後。令歸小町御亭給。及夜陰。神拜事終。漸令退出御之處。當宮別當阿闍梨公曉窺來于石階之際。取劔奉侵丞相。其後隨兵等雖馳駕于宮中。〔武田五郎信光進先登。〕無所覓讎敵。或人云。於上宮之砌。別當阿闍梨公曉討父敵之由。被名謁云々。就之。各襲到于件雪下本坊。彼門弟惡僧等。籠于其内。相戰之處。長尾新六定景与子息太郎景茂。同次郎胤景等諍先登云々。勇士之赴戰塲之法。人以爲美談。遂悪僧敗北。阿闍梨不坐此所給。軍兵空退散。諸人惘然之外無他。爰阿闍梨持彼御首。被向于後見備中阿闍梨之雪下北谷宅。羞膳間。猶不放手於御首云々。被遣使者彌源太兵衞尉〔阿闍梨乳母子。〕於義村。今有將軍之闕。吾專當東關之長也。早可廻計議之由被示合。是義村息男駒若丸依列門弟。被恃其好之故歟。義村聞此事。不忘先君恩化之間。落涙數行。更不及言語。少選。先可有光臨于蓬屋。且可獻御迎兵士之由申之。使者退去之後。義村發使者。件趣告於右京兆。京兆無左右。可奉誅阿闍梨之由。下知給之間。招聚一族等凝評定。阿闍梨者。太足武勇。非直也人。輙不可謀之。頗爲難儀之由。各相議之處。義村令撰勇敢之器。差長尾新六定景於討手。定景遂〔雪下合戰後。向義村宅。〕不能辞退。起座着黑皮威甲。相具雜賀次郎〔西國住人。強力者也。〕以下郎從五人。赴于阿闍梨在所備中阿闍梨宅之刻。阿闍梨者。義村使遲引之間。登鶴岳後面之峯。擬至于義村宅。仍與定景相逢途中。雜賀次郎忽懷阿闍梨。互諍雌雄之處。定景取太刀。梟阿闍梨〔着素絹衣腹卷。年廿云々。〕首。是金吾將軍〔頼家。〕御息。母賀茂六郎重長女〔爲朝孫女也。〕公胤僧正入室。貞曉僧都受法弟子也。定景持彼首皈畢。即義村持參京兆御亭。亭主出居。被見其首。安東次郎忠家取脂燭。李部被仰云。正未奉見阿闍梨之面。猶有疑貽云々。抑今日勝事。兼示變異事非一。所謂。及御出立之期。前大膳大夫入道參進申云。覺阿成人之後。未知涙之浮顏面。而今奉昵近之處。落涙難禁。是非直也事。定可有子細歟。東大寺供養之日。任右大將軍御出之例。御束帶之下。可令著腹卷給云々。仲章朝臣申云。昇大臣大將之人未有其式云々。仍被止之。又公氏候御鬢之處。自拔御鬢一筋。稱記念賜之。次覽庭梅。詠禁忌和歌給。
 出テイナハ主ナキ宿ト成ヌトモ軒端ノ梅ヨ春ヲワスルナ
次御出南門之時。靈鳩頻鳴囀。自車下給之刻被突折雄劔云々。
又今夜中可糺彈阿闍梨群黨之旨。自二位家被仰下。信濃國住人中野太郎助能生虜少輔阿闍梨勝圓。具參右京兆御亭。是爲彼受法師也云云。

〇やぶちゃんの書き下し文(読み易くするためにシークエンスごとに改行・行空けを施し、「・」で注を挿んだ)

廿七日甲午。霽。夜に入りて、雪、降る。積ること、二尺餘り。今日、將軍家右大臣の拜賀の爲に鶴岳八幡宮に御參。酉の刻、御出。
・「酉の刻」午後六時前後。

宮寺の樓門に入らしめ御(たま)ふの時、右京兆、俄かに心神に御違例の事有り。御劔を仲章朝臣に讓りて退去し給ふ。神宮寺に於て、御解脱の後、小町の御亭へ歸らしめ給ふ。
・「宮寺の樓門」とあることから、これは社頭と言っても、現在の源平池を抜けた、流鏑馬馬場の中央あった仁王門での出来事であったことが分かる。
・「右京兆、俄かに心神に御違例の事有り」人口に膾炙しているが、一ヶ月後の同建保七(一二一九)年二月八日の義時の大蔵薬師堂を参詣した条に、
■原文
八日乙巳。右京兆詣大倉藥師堂給。此梵宇。依靈夢之告。被草創之處。去月廿七日戌尅供奉之時。如夢兮白犬見御傍之後。御心神違亂之間。讓御劍於仲章朝臣。相具伊賀四郎許。退出畢。而右京兆者。被役御劔之由。禪師兼以存知之間。守其役人。斬仲章之首。當彼時。此堂戌神不坐于堂中給云云。
■やぶちゃんの書き下し文
八日乙巳。右京兆、大倉藥師堂に詣で給ふ。此の梵宇、靈夢の告に依りて、草創せるるの處、去ぬる月、廿七日戌の尅、供奉の時、夢のごとくにして白犬を御傍らに見るの後、御心神違亂の間、御劍を仲章朝臣に讓り、伊賀四郎許りを相具し、退出し畢ぬ。而して右京兆は、御劔を役せらるるの由、禪師、兼て以て存知の間、其の役の人を守りて、仲章の首を斬る。彼の時に當り、此の堂の戌神、堂中に坐(おはしま)し給はずと云云。
と如何にも怪しげな後日譚を附すのである。
・「仲章」文書博士源(中原)仲章(なかあきら/なかあき ?~建保七(一二一九)年一月二十七日)。元は後鳥羽院近臣の儒学者であったが、建永元(一二〇六)年辺りから将軍実朝の侍読(教育係)となった。「吾妻鏡」元久元(一二〇四)年一月十二日の条に『十二日丙子。晴。將軍家御讀書〔孝經。〕始。相摸權守爲御侍讀。此「僧」儒依無殊文章。雖無才名之譽。好集書籍。詳通百家九流云々。御讀合之後。賜砂金五十兩。御劔一腰於中章。』(十二日丙子。晴。將軍家御讀書〔孝經。〕始め。相摸權守、御侍讀をたり。此の儒、殊なる文章無きに依りて、才名の譽無しと雖も、好んで書籍を集め、詳かに百家九流に通ずと云々。御讀合せの後、砂金五十兩、御劔一腰を中章に賜はる。)と記す。御存知のように、彼は実朝と一緒に公暁によって殺害されるのであるが、現在では、彼は宮廷と幕府の二重スパイであった可能性も疑われており、御剣持を北条義時から譲られたのも、実は偶然ではなかったとする説もある。
・「解脱」行列からの離脱。

夜陰に及び、神拜の事終り、漸く退出せしめ御(たま)ふの處、當宮別當阿闍梨公曉、石階の際に窺ひ來たり、劔を取りて丞相を侵し奉る。
・「丞相」は大臣の唐名。

其の後、隨兵等、宮中に馳せ駕すと雖も〔武田五郎信光、先登に進む。〕、讎敵(しゆうてき)を覓(もと)る所無し。或人の云はく、上宮の砌に於て、別當阿闍梨公曉、父の敵を討つの由、名謁(なのら)ると云々。
・「馳せ駕す」騎馬で乗り入れる。神域であるから異例中の異例である。
・「武田五郎信光」(応保二(一一六二)年~宝治二(一二四八)年)平家追討以来、頼朝に付き従った旧臣。

之に就きて、各々件の雪下本坊に襲ひ到る。彼の門弟悪僧等、其の内に籠り、相ひ戰ふの處、長尾新六定景、子息太郎景茂・同次郎胤景等と先登を諍ふと云々。勇士の戰塲に赴くの法、人以て美談と爲す。遂に惡僧、敗北す。阿闍梨、此の所に坐し給はず。軍兵空しく退散す。
・「長尾新六定景」(生没年不詳)石橋山の合戦では大庭景親に従がって平家方についたが、源氏勝利の後、許され、和田合戦で功を立てた。ここで公暁を打ち取った時には既に相当な老齢であったと考えられる。今、私の書斎の正面に見える鎌倉市植木の久成寺境内に墓所がある。

諸人惘然(ぼうぜん)の外無し。爰に阿闍梨、彼の御首を持ち、後見備中阿闍梨の雪の下北谷の宅に向はる。膳を羞(すす)むる間、猶ほ手を御首から放たずと云々。

使者彌源太兵衞尉〔阿闍梨の乳母子(めのとご)。〕を義村に遣はさる。「今將軍の闕(けつ)有り。吾、專ら東關の長に當るなり。早く計議を廻らすべし。」の由、示し合はさる。是れ、義村が息男、駒若丸、門弟に列するに依りて、其の好(よし)みを恃まるるの故か。
・「闕」は欠。
・「東關の長」征夷大将軍。
・「駒若丸」(元久元(一二〇五)年~宝治元(一二四七)年)。三浦義村四男。三浦家当主となる泰村の同母弟。一説に公暁の若衆道の相手であったともされる。

義村此の事を聞き、先君の恩化を忘れざる間、落涙數行(すうかう)、更に言語に及ず。少選(しばらく)ありて、「先づ蓬屋(ほうをく)に光臨有るべし。且つは御迎への兵士を獻ずべし。」の由、之を申す。
・「先君の恩化」亡き将軍実朝に対する恩義の念。
・「蓬屋」自邸の謙遜語。

使者退去の後、義村使者を發し、件の趣を右京兆に告ぐ。京兆左右(さう)無く、阿闍梨を誅し奉るべしの由、下知し給ふの間、一族等を招き聚め、評定を凝らす。「阿闍梨は、太(はなは)だ武勇に足り、直人(ただびと)に非ず。輙(たやさす)く之を謀るべからず。頗る難儀たるの由、各々相ひ議すの處、義村、勇敢の器(うつは)を撰ばしめ、長尾新六定景を討手に差す。定景、遂に〔雪の下の合戰の後、義村が宅に向ふ。〕辞退に能はず。
・この下りが、私のとって永い間、疑問なのである。真の黒幕を追求すべき必要性が少しでもあるとならば、義時は生捕りを命ぜねばならない。源家の嫡統である公暁を「誅し奉る」というのは如何にも変である。そのおかしさには誰もが気づくはずであり、そこを突かれれば、義時は後々までも追及されかねないのである。逆に私の肯んじ得ない三浦陰謀説に立つならば、ここで義村が期を見極め(義時に謀略がばれたことの危険性が最も高いであろう)公暁の蜂起に利あらずと諦めたのならば、義時に伺いを立てる前に、自律的に公暁の抹殺を計ればよい(実際の公卿の行動やそれを追撃する三浦同族の長尾定景という絶妙の配置からも、義村は失敗した謀略ならばそれを簡単に総て末梢することが出来たのである)。その「不自然さ」を十全に説明しないで、乳母一連托生同族説から三浦陰謀説(中堅史家にも支持者は多い)を唱える永井路子氏には、私は今以って同調出来ないでいるである。

座を起ち、黑皮威(をどし)甲(よろひ)を着て、雜賀(さいか)次郎〔西國の住人、強力の者なり。〕以下の郎從五人を相ひ具し、阿闍梨の在所、備中阿闍梨宅于赴くの刻(きざみ)、阿闍梨は、義村の使ひ遲引するの間、鶴岳後面の峯に登り、義村宅に至らんと擬す。
・「擬す」~という目的のためにある行動に移ったことを言う。

仍りて定景と途中に相逢ふ。雜賀次郎、忽ち阿闍梨を懷き、互に雌雄を諍(あらそ)ふの處、定景、太刀を取り、阿闍梨〔素絹の衣に腹卷を着る。年廿と云々。〕の首を梟(けう)す。
・それでなくても、実朝殺害直後の公暁の行方は不明で神出鬼没なればこそ、これは三浦義村が予め、使者であった北弥源太兵衛尉に、それとなく援軍の移送経路は峯筋であると指示したものと考えなければ、こんなに都合よく行くはずがないと私は思う。
・「腹卷」鎧の一種で、胴を囲み、背中で引き合わせるようにした簡便なもの。
・「年廿」公暁の生年は正治二(一二〇〇)年であるから、満十九歳であった。

是れ、金吾將軍〔頼家。〕の御息、母は賀茂六郎重長が女〔爲朝の孫女也。〕。公胤(こういん)僧正に入室。貞曉僧都受法の弟子なり。
・「賀茂六郎重長」足助重長(あすけしげなが ?~治承五(一一八一)年?)のこと。伝承では墨俣川の戦いで敗れ、平家方に拘束された後に殺害されたとする。
・「公胤」(久安元(一一四五) 年~建保四(一二一六)年)天台僧。明王院と称す。園城寺長吏(園城寺での首長の呼称)に補され承元(一二〇七)年に僧正。後白河法皇や後鳥羽上皇の信仰を得て園城寺を興隆、源実朝や北条政子も帰依して鎌倉にも招請された。法然の「選択本願念仏集」(建久九(一一九八)年)を論難する「浄土決疑抄」を書くも、後に法然に逢って帰依し、自著は破棄したとされる。
・「貞曉」「定曉」のこと。前項「北斗堂跡」の私の注を参照されたい。

定景、彼の首を持ち皈(かへ)り畢んぬ。即ち義村、京兆の御亭に持參す。亭主、出居(いでゐ)て其の首を見らる。安東次郎忠家、指燭(しそく)を取る。李部、仰せられて云はく、「正に未だ阿闍梨の面(おもて)を見奉ず。猶ほ疑貽(ぎたい)有りと云々。
・「安東次郎忠家」(生没年不詳)は北条義時の被官。先立つ和田合戦後にも、和田義盛らの首実験を担当している。
・「脂燭」は「指燭」、正しくは紙燭である。
・「李部」式部丞の唐名。北条泰時。但し、彼は建保四(一二一六)年に式部丞に遷任されている。当時は満二十一歳。
・「疑貽」正しくは「疑殆」であるが、「吾妻鏡」すべて「疑貽」。疑惑の意。

抑々今日の勝事(しようし)、兼ねて變異を示す事、一に非ず。 所謂、御出立の期に及び、前大膳大夫入道、參進し申して云はく、「覺阿成人の後、未だ涙の顏面に浮ぶを知らず。而るに今、昵近奉るの處、落涙禁じ難し。是れ、直(ただ)なる事に非ず。定めて子細有るべきか。東大寺供養の日、右大將軍御出の例に任せ、御束帶の下に、腹卷を著けしめ給ふべき。」と云々。仲章朝臣、申して云はく、「大臣大將に昇るの人、未だ其の式有らず。」と云々。仍りて之を止めらる。又、
公氏(きんうぢ)、御鬢(ごびん)に候ずるの處、御鬢より一筋抜き、「記念。」と稱して、之を賜はる。次で、庭の梅を覽(みられ)て、禁忌の和歌を詠じ給ふ。
 出でていなば主なき宿と成ぬとも軒端の梅よ春をわするな
次に南門を御出の時、靈鳩、頻に鳴き囀(さへづ)り、車より下り給ふの刻(きざみ)、雄劔(ゆうけん)を突き折らると云々。
・「勝事」快挙の意以外に、驚くべき大事件の意がある。
・「前大膳大夫入道」「覺阿」大江広元。
・「公氏」宮内公氏。秦姓とも。
・この辺り、辛気臭い注よりも、私が二十一歳の時に書いた拙い小説「雪炎」をお読み戴けると――恩幸、これに過ぎたるはない――

又、今夜中に阿闍梨の群黨を糺彈すべきの旨、二位家より仰せ下さる。信濃國の住人、中野太郎助能、少輔阿闍梨勝圓を生虜(いけど)り、右京兆の御亭へ具し參る。是れ、彼の受法の師をたるなりと云々。
・「二位家」北条政子。
・「中野太郎助能」(生没年未詳)幕府御家人。「吾妻鏡」では本件(公暁後見人であった勝円阿闍梨を捕縛し、北条義時邸へ連行)以外に、寛喜二(一二三〇)年二月八日の条で承久の乱での功績により、領していた筑前勝木荘の代わりに筑後高津・包行(かねゆき)の両名田を賜るという記事に出現する。
・「少輔阿闍梨勝圓を生虜」勝円は同月末日の三十日に義時の尋問を受けるが、申告内容から無罪となって、本職を安堵されている。一方、「吾妻鏡」同条には、公暁が最初に逃げ込んだ同じく「後見」の「備中阿闍梨」については雪の下宅地及び所領の没収が命ぜられている。

本文の最後、実朝葬送の部分は、翌日の建保七(一二一九)年一月二十八日の条に基づく。
〇原文
廿八日。今曉加藤判官次郎爲使節上洛。是依被申將軍家薨逝之由也。行程被定五箇日云云。辰尅。御臺所令落飾御。莊嚴房律師行勇爲御戒師。又武藏守親廣。左衛門大夫時廣。前駿河守季時。秋田城介景盛。隱岐守行村。大夫尉景廉以下御家人百餘輩不堪薨御之哀傷。遂出家也。戌尅。將軍家奉葬于勝長壽院之傍。去夜不知御首在所。五體不具。依可有其憚。以昨日所給公氏之御鬢。用御頭。奉入棺云云。
〇やぶちゃんの書き下し文
廿八日乙。今曉、加藤判官次郎、使節として上洛す。是れ、將軍家薨逝の由申さるるに依りてなり。行程五箇日と定めらるると云云。 辰の尅、御臺所、落ちる落飾(らくしよく)せしめ御(たま)ふ。莊嚴房律師行勇、御戒師たり。又、武藏守親廣、左衛門大夫時廣、前駿河守季時、秋田城介景盛、隱岐守行村、大夫尉景廉以下の御家人百餘輩、薨御の哀傷に堪へず、出家を遂ぐなり。戌の尅、將軍家、勝長壽院の傍に葬り奉る。去ぬる夜、御首の在所を知らず、五體不具なり。其の憚り有るべきに依りて、昨日、公氏に給はる所の御鬢(ごびん)を以て、御頭(みぐし)に用ゐ、棺に入れ奉ると云云。

 実朝の首は一体、何処へ行ってしまったのか? これも謎である。現在、秦野市東田原に「源実朝公御首塚(みしるしづか)」なるものがあるが、同市観光協会の記載などには、『公暁を討ち取った三浦氏の家来、武常晴(つねはる)』や大津兵部『によってこの秦野の地に持ちこまれ』、『当時この地を治める波多野忠綱に供養を願い出て、手厚く葬られたと伝えられ』とするが、これは到底、信じ難い。……失われた実朝の首の謎……例えば、実朝は実は生きていて、行きたくて行きたくて仕方のなかった宋へ目出度く渡って……僧となった……という義経ジンギスカン説の亜流は如何?]

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