耳嚢 巻之四 館林領にて古き石槨を掘出せし事
館林領にて古き石槨を掘出せし事
寛政八年の春、館林松平久五郎領内の寺院、三四日續て夢見しに、誰ともしらず來りて境内の畑地を掘りて見ば靈佛あらんと告し故、此僧律義篤實のものにて、其村長へ斯(かく)と告ければ、かゝる事は何とやら奇怪にいたらんとて取合ざりしが、度々に及び右の僧迷ひを晴し度(たき)趣にかたりし故、然らば寺内の儀勝手次第たるべしといひしゆへ、寺にて人を集め深さ壹丈程巾貮間四方程も掘しに、一つの石槨(せつかく)を掘出せしが、内に太刀一振差添樣(さしぞへやう)の物ありて、差添の方は朽て銘のごとき文字もあれどわからず、且祠(かつやしろ)やうのものに文字を彫り付たる壹尺四方程の物ありて、文字間滅(まめつ)して讀兼(よみかね)ぬれど、藤原の田原藤太秀郷を葬りし樣成(なる)文言の由、領主役人へも申立けれど、餘り怪異にも流れ如何の事と評議しけれど、又士民の口説(くぜち)にて風聞も有んとて、月番の寺社奉行へ聞合て屆もせんと、右家士伊藤郡兵衞久世家へ來りて語りける由。公邊へ出なば委細の事も知れなんなれど、先聞し儘を爰に記しぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:特に感じさせない。四つ前の新田義興から藤原秀郷で古武士武辺物奇譚連関。
・「石槨」古墳時代の石製の、棺を入れる外棺。
・「松平久五郎」これは上野館林藩主松平(越智)家第四代松平武寛(宝暦四(一七五四)年~天明四(一七八四)年)、通称久五郎のことであるが、彼はご覧の通り、寛政八(一七九六)年前に亡くなっているからおかしい。これは武寛の長男で第五代当主であった松平斉厚(なりあつ 初名・武厚(たけあつ) 天明三(一七八三)年~天保十(一八三九)年)の誤りである。訳でも訂した。
・「差添」名詞。刀岩波のに添えて腰に差す短刀。脇差。
・「祠」カリフォルニア大学バークレー校版では『銅』であるが、銅製の埋葬碑文で磨滅というのは私にはしっくりこないので、採らない。
・「藤原の田原藤太秀郷」平将門追討や百足退治で知られる藤原秀郷(生没年未詳)は、下野国の在庁官人として勢力を保持していたが、延喜十六(九一六)年に隣国上野国衙への反対闘争に加担連座し、一族とともに流罪とされている(但し、彼は王臣子孫であり、かつ秀郷の武勇が流罪の執行を不可能としたためか服命した様子は見受けられない)。将門天慶の乱では天慶三(九四〇)年にこれを平定、複数の歴史学者は平定直前に下野掾兼押領使に任ぜられたと推察している。この功により同年中に従四位下、下野守に任ぜられ、後には武蔵守及び鎮守府将軍も兼任した(以上の事蹟はウィキの「藤原秀郷」に拠った)。彼の墓と称せられるものは現在、かつて居城とした栃木県佐野市新吉水や群馬県伊勢崎市赤堀今井町(こちらは秀郷の死後、三男田原千国による供養塔と伝えられる)にあるが、館林藩内に相当する旧群馬県邑楽郡(おうらぐん)内には、管見する限りでは見当たらない。もしあれば、御教授を乞う。
・「月番の寺社奉行」寺社奉行定員は四名前後で自邸をそのまま役宅とし、月番制の勤務であった。勘定奉行・町奉行と並んで評定所を構成、各種訴訟処理を行った。寛政八年当時は土井利厚・板倉勝政・脇坂安董・青山忠裕。
・「間滅」底本「間」の右に『(磨)』と傍注。
・「久世家」岩波版長谷川氏注には後掲される「津和野領馬術の事」に出る「久世丹州」久世広民(享保十七(一七三二)年又は元文二(一七三七)年~寛政十一(一八〇〇)年)か、とされる。天明四(一七八四)年に勘定奉行となって寛政の改革を推進、寛政八年当時は寛政四(一七九二)年よりの関東郡代をも兼ねていたので、本記述に合致する。これで採る。
■やぶちゃん現代語訳
館林領内にて古き石槨が掘り出された事
寛政八年の春、館林藩松平斉厚殿御領内の寺院の住僧、三、四日続けて同じ夢を見た、その夢――
……誰とも分らぬ者が立ち現れ、
「――境内の、どこそこの畑地を掘りなば――霊仏、有らん――」
と告げては消える……
――という体(てい)のもので御座った。
この僧、律儀にして篤実なる者で御座った故、その村の村長に、かくかくの由、告げたところ、
「……そのようなこと……これ何やらん、奇体なる趣きの話なればのぅ……」
と、当初は取り合わずに御座ったれど、この僧、何度も村長に面会に及び、
「――何としても、この疑念を晴らしたく存ずればこそ……。」
と執拗に掛け合って参る故、遂に村長も折れ、
「……然らば……寺内(てらうち)のことなれば……勝手に致すがよかろう。」
と許諾致いた。
そこで、寺では檀家衆を集め、かの夢告の指し示した場所を、深さ一丈、幅二間四方程も掘ったところが――
――一つの石槨(せっかく)を掘り出だいた。
――石槨の中には太刀が一振と脇差様(よう)のものが封じられてあったが、その脇差様のものは、すっかり朽ち果ててしまっており、切った銘の如き文字もありはするものの、判読は、これ、不能で御座った。
――且つまた、石槨中にはそれとは別に、石碑様のものに文字を彫り付けた一尺四方程のものも入って御座って、その文字は、これやはり、摩滅して読み難くう御座ったれど、読もうなら、
『――藤原の田原の藤太秀郷を葬れり――』
といった文言で、御座ったという。
以上の事実を領主及び役人へも申告致いたが、
「……発掘の経緯も出土の品々も……いや、これ、あまりに奇怪(きっかい)に過ぐればこそ……如何(いかが)なものか……」
と、評議百出、なれどもまた、
「……このまま等閑(なおざり)に致さば……いずれ、土民の噂ともなり、尾鰭も附いて、突拍子もない風聞としてお上のお耳に入らばこそ……これ、我らが対応の不備を咎め立てられんとも、限らぬ……」
ということになって、結局、月番の寺社奉行へ正式に申告致すことと相い成って御座った――ということを、かの館林藩家士伊藤郡兵衛殿が関東郡代久世広民殿方へ参上の上、物語って御座った由。
御公儀への正式な調査報告書が提出されれば、もっと細かな事実も判明致すものと思われるが、先ずは伝え聞いたままを、ここに記しおくことにする。