耳囊 卷之四 戲場者爲怪死の事
戲場者爲怪死の事
寬政八辰年春より夏へ移る事なりしが、傳馬(てんま)町に住居せる、旅芝居の座元などして國々をあるきける者、行德(ぎやうとく)にて芝居興行なし、殊の外當り繁昌して餘程金設(けねまうけ)せしとて同志の者も歡びて、芝居も濟て四人連にて海上を船にて行德河岸を心懸渡海なしけるが、彼座元の者此度は仕合(しあはせ)もよしとて酒肴(しゆかう)などを調ひ、四人にて醉を催しけるに、如何なしけん右座元海中へ落し也(や)、わづかの船中にて行衞なく成し故、殘る三人の者船頭共に大に驚き、又々行德へ乘戾し海士(あま)を懸け網を入て隈なく搜しけれども死骸も見へず、詮方なければ同船の内跡(うちあと)に殘して尙尋搜し、三人の者は彼座元が家内へも知らせんと江戶表へ便船にて立歸り、其日の晝過に先彼(まづかの)座元の住居せる傳馬町の裏店(うらだな)へいらんとせしが、三人共しきりに物凄く恐ろしきに互に讓り合て、先づ誰入り候へとて爭ひしが、所詮よき事を告るにもあらざれば迷惑もありうち也、さらば酒吞て行んとて程近き酒店へ立寄、一盃を傾け又々立向ひしが同じく三人共尻込みなしけるを、中に年嵩成(としかさなる)おのこ先に立て入りし故、跡に付て殘る者も立入しが、彼の座元の女房は門口に洗濯をなし居たりしが、三人を見て何故遲く歸り給ふや、内にては今朝戾られたりと言ふに驚きて、無滯(とどこほりなく)歸り給ふや懸御目度間(おめにかかりたきあひだ)案内なし給へといひしに、先刻歸りて酒食をなし二階に臥(ふせ)り給ふ間、直に二階へ上り給へといひし故、彌々不審にて先(まづ)行て起し給へといへど、兼て芝居者の仲間突合(つきあひ)、案内にも不及事(およばざること)故女房一圓(いちゑん)承知せず、火杯焚附居(ひなどたきつけをり)けるを無理に勸めて二階へ女房を遣しけるに、わつといふて倒れ臥しける樣子故、近所の者も驚て缺附(かけつけ)、右三人もあきれてしかじかの事を語(かたり)、家主をも呼びて一同二階へ上りしに、いづれ歸りて臥り居(をり)しとみへて調度など取散らし、其脇に女房は絕死(ぜつし)して有りける故、水抔顏へかけて漸く正氣附しゆへいか成事と尋ければ、今朝歸りて後何も常に替る事なかりしが、今更不思議と存(ぞんず)るは、人間は老少不定といへば先立者も有るならひ、我もし死しなば相應に跡吊(とむら)ひに何方へも再緣すべしといひしが、戲れ事と思ひしが其外にも不思議の咄しせしが、是は外へはもらしがたき由言けるゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、夫婦間の事には咄し難き事もあるべけれど、苦しからぬ事ならば語り給へと切に問しに、夫婦合(あひ)の事にてもなし、かたるに面(おも)テぶせなる事ならねど、此事は堅く外へ洩すまじき由口留せし故とて咄ざりしを、取込(とりこみ)て無理に尋ければ、然らばとて二言三言かたり出しける頃、二階の上にて大石を落せし如き音のしければ、女房はわつといふて倒れ、何れもそら恐ろしくて聞果ず己(おの)が家々へ歸りし由。彼三人の者の内宇田川何某の方へ出入せし故かの咄を成しけるが、彼座元の妻が二言三言申出せしはいか成事とせちに責問(せめと)ひければ、無據(よんどころなく)咄さんとせしに、次の間にて磐石(ばんじやく)を落しけるごとき音なしける故、驚き止(やめ)しと人の語りけると也。
□やぶちゃん注
○前項連関:能と旅役者では雲泥の差ではあるものの、同じく芸人譚としての連関はある。但し、寧ろ六つ前の「女の幽靈主家へ來りし事」の真正幽霊譚と、死者がその志しを述べるところで強い連関がある。
なお、底本の鈴木氏注は三村竹清氏の注『此の話、こはだ小平次の話と附会するか』を引いて「こはだ小平次」の梗概と周辺事象を記し、最後に『この事件と、耳嚢の話との間には関連がありそうであるが、具体的には分からない』と記されておられる。
「こはだ小平次」は私も特に好きな怪談伝承で、詳しくはウィキの「小幡小平次」などを参照されたいが、少し不審なのは三村氏の『附会』という謂いである。
本話は寛政八(一七九六)年の採録であるが、ウィキの記載にもある通り、役者小幡小平次の不倫謀殺怨霊出現という幽霊譚は享和三(一八〇三)年に江戸で出版された山東京伝作・北尾重政画の伝奇小説「復讐奇談安積沼(ふくしゅうきだんあさかのぬま)」』をその嚆矢とし、次いでそれを舞台化した文化五(一八〇八)年の江戸市村座での四代目鶴屋南北作「彩入御伽艸(いろえいりおとぎぞうし)』の初演によって爆発的に流布するようになる幽霊譚である。本話はそれらから六年から十年以上前の都市伝説採録なのである。ウィキによれば、本伝承は、後に山崎美成が随筆「海録」(文政三(一八二〇)年から天保八(一八三七)年に彼が見聞したさまざまな事象の考証物)で『この小幡小平次にはモデルとなった実在の旅芝居役者がおり、その名もこはだ小平次だったという。彼は芝居が不振だったことを苦に自殺するが、妻を悲しませたくないあまり友人に頼んでその死を隠してもらっていた。やがて不審に思った妻に懇願されて友人が真実を明かそうとしたところ、怪異が起きたという』とあり、『またこれとは別に、実在した小平次の妻も実は市川家三郎という男と密通しており、やはりこの男の手によって下総国(現・千葉県)で印旛沼に沈められて殺されたという説もある。山東京伝はこの説に基いて小平次が沼に突き落とされて水死するという筋書きを考えたのかもしれないと考えられている』とある。
以上から、旅役者・水死・亡霊、更に『真実を明かそうとしたところ、怪異が起き』る点など、確かに共通してはいる。また、「耳嚢」の本話が事実であったと仮定した場合、これらは総てが周到に計画された完全犯罪であり、その犯行は座長の妻及び三人の俳優仲間が仕組んだ壮大な狂言ということになる。船上の失踪など、俄かには信じ難い。小便に舳辺りへ立った座長のふらふらするを、後ろからすうっと寄って、トンと突き落す、宴席の残りの二人がその、「ざんぶ」という音に合わせて大声で歌を歌う(芝居の見得でもよい)、船尾の船頭は気づかぬ――などというのはどうか? 例えば、この仲間の年嵩の男などが座長の妻との不倫関係にあり、二人は共犯で本殺人計画のあらましを企画し、仲間内の二人を引き込んだというのは如何であろう? そもそもが、本話は如何にも安っぽい怪談芝居染みた構成を持っているから、その年嵩の俳優が主導して全体の筋書きを書いたと考えるのは、すこぶるつきで自然である。即ち、座長の妻と年嵩の男優は共同正犯、二人の仲間は従犯という私の一つの見立てである。……閑話休題。そうすると不倫という「小幡小平次」の大事な要素が見えてこないこともない。
しかし、かくなる本話が、後に本格形成される「小幡小平次」怪異譚の一つのモデル、もしくは複数あった「小幡小平次」怪異譚構成因子としての原話であった可能性は強いと言えても、『附会』というのは如何なものか? 本話はまた「小幡小平次」譚の持つ淫靡で陰惨な雰囲気を(少なくとも表面上は)持っていない。その超常現象の眼目は、死者の帰還と愛妻への別離の告解、そうして最後の二連発の大音(これは知られた「天狗の石礫て」、ポルターガイストの一種である)の奇怪ではあるものの、寧ろ、話柄の(というよりも読者の)興味は『語られない・語ることが出来ない夫婦だけの最後の秘密』への強い好奇心に収斂する。怪談ではあるが、ある意味で陽気で健康的な色気に満ちた落語向きの話柄である、というのが私の感想なのである。
こうした私の感懐から、本話の現代語訳は事件の調書風に趣向を凝らしてみた。
・「爲怪死」は「怪死を爲す」。
・「春より夏へ移る事なり」旧暦三月下旬から四月上旬の頃。暦算ページで調べると寛政八年の三月三〇日は西暦一七九六年五月七日である。現在の五月上旬の陽気をイメージしよう。
・「傳馬町」ここは四谷伝馬町。現在の新宿区・四谷一丁目付近。四谷御門(現在の中央線四谷駅付近)の西方の地域。
・「行德」下総国行徳。現在の千葉県市川市南部、江戸川放水路以南の地域で、広大な塩田が広がる製塩地帯であった。
・「行德河岸」これは行徳にある河岸ではなく、江戸の小網町三丁目南端の箱崎川に沿った河岸の名である。江戸から大正にかけてここと下総国行徳を行徳船が往復した。行徳船は寛永九(一六三二)年頃から行徳の塩を江戸へ運ぶために運行が始まり、やがて人や物資の回送にも使われるようになった。本話の船はチャーターらしいが、ウィキの「行徳船」によれば、定期の行徳船は毎日午前六時から午後六時まで江戸と行徳の間を往復、通常は船頭一人が漕ぎ手で、二十四人乗りの客船で、旅客や野菜や魚介類のほか日用品などの輸送を行った、とある。本話では海に落ちた座長を漕手の船頭も現認していない。それが不自然でないとすれば、この船はまさに『二十四人乗り』の大船であることが分かる。せめて本話の水上の景にこれらの船を点じてみるのも、また一興ではないか。
・「金設」底本には右に『(金儲)』と注する。
・「詮方なければ同船の内跡に殘して尚尋搜し」ここは「詮方なければ同船の内、跡に殘して尚尋搜し」で、『失踪した船の漕ぎ手である船頭に後を頼んで、なお、海上の捜索を行って貰い』の意。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『詮方なければ同船の内を跡に殘して尋捜(たずねさが)し』となっている。
・「ありうち」有り内。「ありがち」に同じ。世間によくあること。
・「仲間突合」底本では「突合」の右に『(附合)』と傍注する。
・「面テぶせなる」不面目なこと。死者の名誉が傷つくような破廉恥なこと。
・「取込て」うまく取り入って。相手を丸め込んで。
・「宇田川何某」底本の鈴木氏注に『幕臣に宇田川姓は二家ある』とある。文脈上は特に同定候補を挙げるまでもあるまい。
■やぶちゃん現代語訳
旅芸人一座座元変死事件の事
寛政八年辰年の、晩春から初夏へと移る頃合いの事件であった。
伝馬町に居住する、旅芝居等の座元なんどを生業(なりわい)とし、全国を巡回興行しておる者が、下総国行徳にて興行、これが殊の外当たって連日の満員御礼、予想外の木戸銭大儲けと一座の者皆大喜びし、舞台が撥(は)ねた後(のち)、仲間内の役者三名と四人連れで行徳から乗船、行徳河岸を指して江戸湾海上を渡っていた。――
*
――同船せる役者甲の証言――
……座長は、
「この度の興行は至って大成功じゃ! 一つ、景気良う、やってくんない!」
と、乗船する前に買い調えた酒肴を船中に並べ、我らもご相伴に与(あず)かり、四人とも、すっかり酔うておりました。
……ところが、三人とも……ふと気づいてみると……座長の姿が見えんようになっとったんです。
「……何があったんや!……我らが座長どのが、おらぬ!」
「……まさか海へ……落ちたのではなかろうのぅ?」
などと口々に申したのを覚えております。
……客は……いえ、我らたった四人にて……その船中にて、行方知れずとなればこそ……我ら三人は勿論のこと、船頭も痛(いと)う驚いて、舳を返してまた行徳へと戻り、地元の海士(あま)を雇って、心当たりの海へ潜らせるやら、漁師には網を入れて引いてもらうやらして、隈無く捜してみたつもりではありますが……はい……死体は上がりませなんだ。……
――同船せる役者乙の証言――
……そのぅ、どうにも仕様が御座いませんでしたので……我らが乗船しておりました船の船頭を残し、その後の海の捜索方を頼みおきまして……そのぅ、とりあえず、我ら三名の者、
「……ともかくも……座長の奥方へ……このこと、知らせずんばなるまい……」
ということになって、江戸表へ向かう早船に乗って、戻りました。
……はい、もう、その日の昼過ぎには、あの、座長の住んでおられた伝馬町(てんまちょう)の裏店(うらだな)に着きましたが……着きはしましたものの……そのぅ、何ですな……我らが親しき人の死を、また、その愛する奥方に告げんとするは……これ、三人とも、しきりに物凄う、恐ろしさを感じておりました次第でして……そのぅ、戸の前にて……互いに譲り合(お)うてばかりで、
「……先ずそなたが……」
「……いや、ここはそちが……」
「……とてものこと、どうか貴殿が……」
……と争うばかりで、そのぅ、なかなか戸が、いや、埒(らち)が開きません。
……その内、
「……所詮、良い知らせを告げるのではないからなぁ……」
「……決して聞きとうない……哀しい嫌な話じゃ……」
「……心傷つく迷惑事じゃわい……」
「……迷惑事は……我らも言うとうない……」
「……言うとうないが、言わずばなるまい……世間にありがちな不幸せというもんじゃて……」
「……さればじゃ!……ここは一つ、迷惑序でに……」
「……おう! 気付けに、一つ引っ掛けて!……」
「……されば! 酒を呑んで勢いつけて! 参らんとしょう!……」
……へえ……そのぅ、お恥ずかしい……かくなる仕儀と相い成り申した。……
――同船せる役者丙の証言――
……近所の一杯飲み屋にて一献傾けまして、再び座長の家の前に立ったのですが、同じ体たらくで、三人とも尻込み致すばかりで御座った。
……こうして御座っても埒も開きませぬ故、拙者が――あ、拙者は三人の中では年嵩(としかさ)で御座って、座長やその奥方との付き合いも、これ、長(なご)う御座る――先に立って、門を潜りました。
……座長の奥方は、丁度、庭で洗濯をしておりましたが、我ら三人を視止めると、
「ああら、遅いお帰りでござんすねぇ。宅(たく)はもう今朝方にはお戻りでござんしたよ。」
……我ら三人……はい、そりゃもう顔を見合わせて吃驚仰天致しまして、
「……ご無事で……お帰りに……なったと?……」
と問いかけると、奥方はきょとんとした顔をして、
「はい。」
と平然としておりました故――我らは、何やらん、訳の分からぬ、不吉な思いが致し、
「……そ、そうでござんしたか……あの、その……ちょいとお目にかかりたき儀が御座いまして……ここは一つ、その……御家内(おんいえうち)へ案内(あない)して貰えませぬか、の?……」
奥方は奇妙な顔をして、
「……今朝方戻って、酒を呑んで、食事を終え、今は二階で横になっておりますが……『御家内(おんいえうち)へ案内(あない)して貰えませぬか』とはお笑いじゃ……いつものように勝手に上がっておくんない。」
と申します故――我ら、いよいよ不審と恐懼が綯(な)い交ぜと相い成りまして、
「……まことに……済みませぬが、のっぴきならぬことにて……奥さまにまず、お声掛けして戴き、お起こし申し上げて……出来れば、こちらへお出で下さいますように、と……どうか、お願い、申します……」
と申しましたが、確かにかねてからの芝居小屋での、ざっくばらんな付き合いなれば、
「何が『案内(あない)』よ! さっさとお入りな!」
と奥方は見得を切って一向に我らをものともせず……洗濯を終えると、今度は厨(くりや)へ入って、炊事の支度に火なんど焚きつけようと致しますので、我ら三人して、無理強いを致しまして、やっとのことで二階へ奥方に行って貰(もろ)うたので御座います。
……と……突然、
「ワアーーッ!!」
という激しい悲鳴とともに、
――ドスン!!
と、何やらん、人の倒れ伏すような物音が致しました。
……これには、流石に近所の者どもも、何事かと駈けつけて参りましたによって……我ら三人、一連の出来事につき、しかじかの事情を話しまして、ともかくもと、御店(おたな)の家主を呼んで貰い、また縷々説明の上、皆して二階へと上がったので御座います。……
――伝馬町裏店家主の証言――
……二階の部屋には……見た感じでは……かの座長は帰宅した後(あと)、ついさっきまでは横になっておったと見えて……敷かれた布団や枕などが、幾分、寝乱れた感じになっておりました。
……へえ、女房は、その布団のすぐ脇に、気絶して倒れておりましたんで……まずは店子(たなこ)に命じて一階の真下の居間へと運び、横たわらせて、すぐに水を運ばせると、顔にざっとかけました。
……それで漸っと。正気付きましたんで、少し落ち着いたところで、
「一体、何があったのじゃ?」
と訊ねましたところ、
「……あの人は今朝、帰ってから後、これといって何も常に変わったところは御座いませんでした。……でも今、思い返すと……不思議に思えることが、これ、御座いました。あの人は、
『……儂が……もし死んだら……我らに分相応の葬いさえあげてもろうたら……それでよい……お前は……何方(いづかた)へなりと再縁致すがよいぞ……』
なんと申しておりました。……あの時は、冗談と思うて気にも止めずにおりましたが。……そう言えば、そのほかにも……あの人、不思議な話を、致しました。……でも、これはちょっと……人へは……申せませぬ……」
と申しました。そこで私は――本件の謎を解く鍵はここにあらんとも思いまして、
「夫婦(めおと)の間のことじゃて、他人には、なかなかに話し辛きことも御座ろうが――これ、怪しきことの一件なればこそ――そなたが耐え切れぬような話にては御座らぬのであれば、一つ、話して下されよ。」
と頻りに諭しました。すると、
「……別段――夫婦だけの隠し事――というわけでも御座いませぬし――語るに恥ずかしい秘め事――というわけでも、これ、御座いませぬが……このことは……その折りに……あの人から、
『――このこと、決して他人に漏らしては、ならぬ――』
と、堅く口止めされましたことにて座いますれば……」
と、なおも話し渋っておりました。……ええ、はいそりゃもう、あれやこれやと、宥めすかし、ねじ込む如くにきつく糺いて……へえ、したら、
「……そうまで仰いますのなら……」
と、二言三言、語り始めました。
……と……その瞬間!
――ズッドーン!!――
と、真上の、誰もおらぬはずの、先程の二階の部屋にて、何やらん、大石を落といたような音が致しましたので御座います!
……いや、もう
……女房は、
「ワアーッ!!」
と叫ぶが早いか、またしても昏倒致し……その場におりました他の者どもも皆、誰(たれ)もが、そら恐ろしき心地ちのままに――私めも、奥方の下女に介抱を命じて――情けなきことに、私も含めました誰(たれ)もが……かの『禁忌の秘事』を……これ聴かず仕舞いに……それぞれの家へと退散致しました次第にて御座いまする。はい……
〇附記:後日聞き込みによって分かった同船せる役者の間接証言
(注:甲乙丙の何れか不詳であるが、丙であった可能性が高い。)
……この事件に関わった三人の役者の内の一人が、たまたま宇田川某殿の屋敷方へ出入りしていたため、ある時、その宇田川家家内の知人居室にて、本事件について、その知人に仔細を語ったことがあった。
その知人も、この話を聴くにつけ、かの妻の言う『禁忌の秘事』が大いに気になったのであったが、
「……有体(ありてい)に言って……その女房は確かに『二言三言』は喋った、わけだ。……では、その『二言三言』とは、どんな言葉だったのか?」
と、これまた執拗(しつこ)く問い質したため、拠無(よんどころ)く、その役者はその時、自分の耳に入(い)った、その『二言三言』の『禁忌の秘事』の『触りの言葉』を、口にしかけた……
「それは、の……」
……と……その瞬間!
――グワッシャ!! ズッドーン!!!――
と、隣の誰もいない部屋で、巨大な岩石でも落したかの如き轟音が鳴り響いた。
……それを聴いた役者は――恐懼して――口を噤んだ。……
*
以上は、私がさる御仁から聴取致いた、ごく最近の出来事にて御座る。