耳嚢 巻之四 淸乾隆帝大志の事
淸乾隆帝大志の事
乾隆帝(けんりゆうてい)治世の時反逆の者ありて召捕(めしとり)其罪を尋問せしに、彼主人申けるは、我は中華歴代の人物也、今の天子は夷狄(いてき)の種類なれば、是を亡(ほろぼ)して中華正流に復さんと思ふ事、あながち非とせんやと答ける時、帝の曰、人間より見れば或は華人或は夷狄人と云ふべし。天より見給はゞ華夷の差別なんぞあるべきや、縱(たとひ)堯舜(げうしゆん)の遠裔(えんえい)にて中華正流の天子たりとも、民をしいたげ惡逆桀紂(けつちう)の如くならば天なんぞ是を助けん、夷狄又しか也とありしかば、彼反人も屈伏しける由、近頃の書にて見しと黒澤儒生のかたりける。流石に五十餘年治世にて、此國と同じく四海太平に靜謐(せいひつ)ありし事、大量の英才と異國の事ながら爰に記しぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:連関なし。先行する「聖孫其のしるしある事」の珍しい中国物で連関。同じく儒学者からの話柄でもある。なお、不学にして本話が何を典拠とするものかは不明。識者の御教授を乞うものである。
・「乾隆帝」(一七一一年~一七九九年)は清第六代皇帝。在位は一七三五年~一七九六年。諱は弘暦、廟号は高宗。康熙帝・雍正帝に続く清朝絶頂期の賢帝。外征によって西域を押さえ、チベットにまで版図を広げた。学術を奨励、「明史」「四庫全書」といった多くの欽定書の編纂を命じており、中国の文物をこよなく愛し、自ら多くの漢詩ものしている(参照したウィキの「乾隆帝」によれば、現在の故宮博物院に残る多くのコレクションは彼の収集になるものと言う。本話の執筆時下限は寛政九(一七九七)年であるから、実にアップ・トウ・デイトな国外の未だホットな噂話と言える(但し、乾隆帝は祖父康煕帝の在位期間を超えることを遠慮して嘉慶帝に譲位したので、実際には院政をひいているから、実はこの話は現在進行形であるとも言えるのである)。
・「彼主人」底本に『尊本「反人」』と右に注する。訳は誤字と見て「反人」で採る。
・「縱(たとひ)」は底本のルビ。
■やぶちゃん現代語訳
清乾隆帝の大志の事
つい先日終わった清国は乾隆帝治世の出来事である。
反逆者があって、この者を召し捕って、その罪科を糺した。
するとその反逆者は以下の如くに主張した。
「私は中華歴代の正統なる漢人の子孫である。今の天子は満州人にして夷狄の類いであるから、これを亡ぼして中華の連綿たる正しき流れに復さんと思うこと――どうしてこの天道に適う志を――非道にも非とせんとするか!」
と答えた。
それを聴いた乾隆帝は、
「一介の人間より見れば――或いは華人、或いは夷狄人とも言うのであろう。――しかし、天より見給うたならば、華人と夷人とに何の差があると言うのか?――たとえ中華伝承の聖王たる尭・舜の末裔にして中華伝統の連綿たる正しき流れを受け継いだ天子であろうとも――人民を虐げ、桀・紂の如き悪逆非道の中華伝説の暴君であったならば――天はどうしてこれを助けるはずはあろうか? いや、金輪際、ない。――この理(ことわり)は華人であろうと夷狄であろうと――また、同じで、ある。」
と答えた。
かの反逆者も、流石にこれは屈服致いた、という話。……
「……近頃、唐伝来の書にて管見致いた話にて御座る。」
と、出入りの儒者黒澤殿が語ったものであるが、流石は五十有余年に亙る治世を、我が国と同じく、四海全き平らかにして波静か――搖るぎなき泰平安国を成し遂げられた皇帝なればこその、その志しを受けた出来事と言えるものにて、異国のことながら、想像を絶した度量の広さを持った英才ならんと感ずること頻りなれば、ここに記しおいて御座る。
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