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2012/07/27

耳嚢 巻之四 大名其識量ある事

 大名其識量ある事

 

 伊達遠江守村候(むらとき)は至て面白(おもしろき)人にて、坊主に成度といへど叶はず、鏡に向ひ坊主と見へれば心持よしとて鬢口(びんくち)を深く剃(そり)、大奴(おほやつこ)にてありしが、小鼓を打(うち)て能など催されけるが、或時同席の諸侯の許に能ありて見物に參られしが、三番目の脇は寶生(ほうしやう)新之丞にて、老人にてありしが、中入に間(あひ)など出て暫くのかたり抔ありし。脇はいかにも退屈らしきものなれば、右の處を思ひやりしや、饗應に出し銚子と大盃(おほさかづき)を遠江守持てすつと立、舞臺に至り新之丞が前に居(すは)り、さぞ退屈なるべし一盃呑(ぱいのみ)候へとて、大盃に一杯を新之丞に呑ませしと也。武家の慰(なぐさみ)に見る能なれば、さも有べき事と人のかたりぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:能楽面白エピソードで直連関。私は何とも言えず、本話が好きである。

・「識量」見識と度量。伊達遠江守村候は執筆時には既に鬼籍に入っていた可能性が高い。根岸のこの標題は、もしかすると村候という稀代の「見識と度量」を持った名大名は今やなく、「見識と度量」を持たぬ凡愚の大名がそここに跋扈していることを、どこかで皮肉っているのやも知れぬ。本話者は最後に『武家の慰に見る能なれば、さも有べき事』と如何にも侮蔑的な評を附しており、そこまで根岸はしっかりと採話している。しかし、もしこれに話者(根岸ではない)の本意から見出しをつけるなら、『大名其識量ある事』とは間違ってもなるまいと思われるのである。根岸は、この話をして呉れた点に於いては、この話者に敬意を表しながらも、実はその侮蔑的な評を最後に附した話者の心底に対しては、断固「否!」と断じている、と私は思うのである。いや、寧ろ、本話は最初から評言まで総てが話者の言のように見えても、実は同時代人であった根岸の好意的な直接観察の視点が、冒頭の大奴の映像としてあるように私には思われてならないのである。さればこそ、根岸はこのかぶいた伊達村候を、まっこと『至て面白人』と実感したのであり、能舞台でのそのぶっとんだ仕儀をもってして、標題の『大名其識量ある事』としたのである、と読むのである。この私の見解については、大方の読者のご意見を俟つものである。

・「伊達遠江守村候」伊達村候(だてむらとき 享保八(一七二三)年又は享保一〇年~寛政六(一七九四)年)は伊予国宇和島藩第五代藩主。以下、ウィキの「伊達村候」より引用する(アラビア数字を漢数字に代えた)。『享保二〇年(一七三五年)、父の死去により跡を継ぐ。寛延二年(一七四九年)、仙台藩主伊達宗村が、本家をないがしろにする行為が不快であるとして、村候を老中堀田正亮に訴える。村候は、宇和島藩伊達家が仙台藩伊達家の「末家」ではなく「別家」であるとして従属関係を否定し、自立性を強めようとしていた。具体的には、仙台藩主から偏諱を受けた「村候」の名を改めて「政徳」と名乗ったり、「殿様」ではなく仙台藩主と同様の「屋形様」を称したり、仙台藩主への正月の使者を省略したり、本家伊達家と絶交状態にあった岡山藩池田家と和解したりしたのである。堀田正亮・堀川広益は両伊達家の調停にあたった。堀田は仙台藩伊達家を「家元」と宇和島藩伊達家を「家別レ」とするといった調停案を示した。表面的には、同年中に両伊達家は和解に達した。しかし、その後も両伊達家のしこりは残ったようである』。『藩政においては、享保の大飢饉において大被害を受けた藩政を立て直すため、窮民の救済や倹約令の制定、家臣団二十五か条の制定や軍制改革、風俗の撤廃や文武と忠孝の奨励を行なうなど、多彩な藩政改革に乗り出した。宝暦四年(一七五四年)からは民政三か条を出して民政に尽力し、延享二年(一七四五年)からは専売制を実施する。宝暦七年(一七五七年)一二月には紙の専売制を実施し、寛延元年(一七四八年)には藩校を創設するなどして、藩政改革に多大な成功を収めて財政も再建した』。『しかし、天明の大飢饉を契機として再び財政が悪化し、藩政改革も停滞する。その煽りを食らって、晩年には百姓一揆と村方騒動が相次いだ。そのような中で失意のうちに、寛政六年(一七九四年)九月一四日(異説として一〇月二〇日)に七〇歳で死去し、跡を四男・村寿が継いだ。法号は大隆寺殿羽林中山紹興大居士』。『教養人としても優れた人物で、「楽山文集」、「白痴篇」、「伊達村候公歌集」などの著書を残した。また、晩年には失敗したとはいえ、初期から中期まで藩政改革を成功させた手腕は「耳袋」と「甲子夜話」で賞賛されている』。最後の部分、これ以降に藩政改革の手腕を讃えた記事があるのかどうか(私の記憶では全話の中では今のところ思い出せぬ)、それとも本話を指すのか、調べるのに今少しお時間を頂きたい。

・「鬢口」月代(さかやき)の左右側面の鬢の辺り。

・「大奴」中間の奴などが結った髪形。月代を広く深く剃り込み、極端に狭く残した両方の鬢と後ろの頂に残した髪とで、髷を極短く結んだもの。奴頭。

・「寶生新之丞」宝生英蕃(ほうしょうひでしげ 宝永七(一七一〇)年~寛政四(一七九二)年)宝生流能役者ワキ方。四世新之丞。享年八十三歳であるから、アップ・トゥ・デイトな話柄とするなら寛政期、伊達村候は寛政六年の逝去であるから、寛政初年頃なら、英蕃八十前後、村候は六十五前後となる。

・「間」間狂言(あいきょうげん)。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 それなりの大名にはまっこと見識と度量のある事

 

 伊達遠江守村候(むいらとき)殿は、まっこと、面白き御仁にて御座る。

 

 坊主になりたいと思うたが叶うべくもなく、

「――鏡に向こうてみたならば、坊主に見えれば、これ、心地よし!」

とて、鬢口(びんくち)を深く剃り込み、美事なる大奴(おおやっこ)であられた。

 

 その異形の村侯殿はまた、小鼓を打ち、能など催さるるがお好みでも御座った。

 

 ある日のこと、同席諸侯の屋敷にて、能が催され、遠江守殿も見物に参られた。

 その三番目のワキは宝生新之丞が演じて御座ったが、この時、新之丞は相当な老人で御座った。

 中入りに長い間狂言なんどが御座って、更に、暫く語りなどが続く。

 客として御座った遠江守殿、舞台を見るに……その出番をひたすら待つ御座る老ワキ方新之丞……何やらん、如何にも手持ち無沙汰ならんと……見えた。

……されば、その面には出ださぬ新之丞の心持ちを思いやられてでも御座ったものか……

 饗応に出されて御座った銚子と大盃(おおさかずき)、これ、異形の遠江守殿、両の手に

ぐっ!

と持つ。――

――と――

すっくと立ち――

そのまま

すすっ!

と舞台へと登る。――

――して――

新之丞が前に

ずん!

と座るや、

「――さぞ、退屈で御座ろう。一杯、呑まれるがよろしい――」

――と――

大盃になみなみと注(つ)いだ酒を、新之丞に呑ませた。――

 

「……とのことで御座る。まあ所詮、武家の慰みに見る能なれば、そんなこともあってもおかしくは御座るまいて……」

とは、それを語った御仁の附言にては御座る。

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