耳嚢 巻之四 女の幽靈主家へ來りし事
女の幽靈主家へ來りし事
鵜殿(うどの)式部と言(いへ)る人の奧にて召仕ひ、數年奉公して目をかけ使ひし女、久々煩ひて暇を乞ひし故、養生の暇を通し暫く退けるに、右女來りて式部母隱居の宅へ至り、色々厚恩にて養生いたし難有(ありがたき)由をのべければ、老母も其病氣快よきを悦び賀して、未(いまだ)色もあしき間能(よく)養生いたし歸參して勤(つとめ)よと申ければ、もはや奉公相成候由、土產とて手前にて拵(こしらへ)し品とて團子を一重持參せし儘、左もあらば先(まづ)養生がてら勤よかしとて挨拶なしければ、右女は其座を立て次へ行し故、老母も程なく勝手へ出、誰こそ病氣快(こころよき)とて歸りしが、未色もあしければ傍輩も助合(たすけあひ)て遣すべしと言しに、家内の者共右下女の歸りし事誰(たれ)もしらずと答へて、所々尋しに行方なし。さるにても土產の重箱有しとて重を見しに、重箱はかたのごとくありて内には團子の白きを詰めて有し故、宿へ人を遣して聞しに、右女は二三日已前に相果しが、知らせ延引せし迚右宿の者來り屆候に、不思議の事也と鵜殿が一族のかたりける也。
□やぶちゃん注
○前項連関:女の死霊の挨拶連作。
・「鵜殿式部」岩波の長谷川氏注に鵜殿『長衛(ながもり)。寛政二年(一七九〇)御小性組頭、七年西城御目付。』とある。西城は江戸城西の丸のこと。鵜殿氏は藤原実方の末孫と伝えられるが、本家は衰亡、庶家長忠が徳川家に仕えて旗本として名を後世に伝えているとされるので、その子孫と考えて間違いないであろう。
・「一重」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『二重』とする。主人と家内の同僚の分も含むものであろうから、二重の方が自然か。
■やぶちゃん現代語訳
女の幽霊の主家へ挨拶に参った事
鵜殿式部長衛(ながもり)殿という御仁の奥向きにて召し仕え、数年奉公致いて目をかけて使って御座った女が、永らく病を患ろうて暇を乞うた故、養生のために暇(いとま)を遣わして御座った。
そんな暫く経った、ある日のこと、かの女、式部の母の隠居致いて御座った邸宅へと訪ねて参り、
「数々の厚き御恩を蒙り、永の養生をさせて戴きまして、まことに有難たく存じました。」
と挨拶致いた。
老母も、
「そなたの病気、快方へ向こうたか?」
と悦んで、慶賀致いたが、
「……なれど……未だ、顔色も良うないのう。……さても、今少し、よう養生致いて、またすっかりようなったら、また帰参して勤めよや。」
と諭したところが、
「いえ、もうしっかりとご奉公致すこと、これ出来まする。」
と述べた上、土産と称し、
「これは手前が拵えました不束なる品にて御座いますが……」
と、団子を一重、すうっと差し出だいて御座った。
「そう申すのであれば……先ずは、養生の続きと心得て……無理せず、勤めるがよいぞ。」
と挨拶なしたところ、かの女、深々と礼を致いて、その座を立って、次の間へと引き下がって御座った。
老母もほどなく勝手方へ回り、場に御座った者どもへ、次のように声を掛けた。
「××が病気快癒とて帰って参りました。なれど、未だ顔色も悪(わろ)きことなれば、傍輩の者も、よう、皆、助けおうて遣わすように。」
と言うたところが、勝手方はもとより、家内の者ども皆、
「……大奥さま……その……お言葉ながら……手前ども誰(たれ)一人として……下女の××が帰ったとのこと……一向に存じませぬので、御座いますが……」
と答える故、
「そんな馬鹿なこと!」
と、家内のあらゆるところを捜させて御座ったれど……
……女は、忽然と消え失せて、これ、御座らなんだ。……
老母は、それでも、
「……そんな!……それ! 何と言うても、ここに、土産の重箱がある!……」
と、老母の、居間を指すを見れば、確かに、かく仰せの重箱が御座った。
そこでその重を開けて見たところ、内にはこれまた確かに、団子の白きが、綺麗に詰めおかれて御座った。
さればこそ、かの女の里方へ人を遣はして訊ねさせたところ――
「――娘××儀は、二、三日ほど前……薬石効なく、相い果てまして御座いました……が……急な事とて、先様へのお知らせ、これ、延引致す結果と相いなり……まことに申し訳の程も御座いませぬ……」
と、かの里方の者、直々に言上の上、謝罪に参って御座った。
「……いや……全く以って……不可思議なることで御座った……」
とは、鵜殿殿の一族の者が、私に語って御座った直談にて御座る。