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2012/07/25

川風 火野葦平

   川風

 

 川風に、高橋大明神と肉太にかかれた高張提灯(たかばりちやうちん)がいまにも飛びさうにゆれる。まつ晝間なので、燈はつけてなく消える心配はない。ゆれてゐるのは提燈ばかりではない。御幣(ごへい)、幔幕(まんまく)、鈴綱、幟(のぼり)、手洗の手拭、神主の烏帽子のたれ、袖、裾、自慢の顎鬚(あごひげ)ゆれる資格のあるものはことごとくゆれる。川緣にちかく、土俵がつくられ、それをとりまいて何百といふ群衆が密集し、土俵ではさつきから、腕自慢の力士連によつてつぎつぎに番組がすすめられてゐるが、これらの多くの男女達の着物から、髮から、やはり川風にしたがつてゆれないものはない。しかし眞夏のことであるし、寒くはないのである。涼しくて氣持がよいくらゐだ。川の流れも波だつてゐるが、この筑後川(ちくごがは)の水氣をふくむはげしい川風で、もつとも多く動搖してゐるのは、ことに集つて喧騷をきはめてゐる人心かも知れない。勝負に熱中してゐる筈の群衆の眼が、とき折不安げに川面にそそがれるのでそれはわかる。或る者はその川風もどうやら生ぐさいと思つてゐるかも知れないのだ。岩にぶつつかつて走る流れの間にちらとなにかが浮かぶと、緊張の眸(まなざし)が瞳孔をひらく。河童の皿かと思ふのであらう。しかし、まだ、たれも河童の姿をつきとめた者はない。たしかに見たといふ者はあつても、指さされた者の眼にとまらないのでは仕方がない。しかし、群衆のすべてが、いまここで催されてゐる角力(すまふ)を、川のなかからかならず河童が見物してゐる筈だといふ切ない期待はいだいてゐるのである。

[やぶちゃん注:「高橋大明神」現在の福岡県うきは市吉井にある高橋神社。]

 岸から一間ほど幹れた水中に葭張(よしずば)りの祭壇がしつらはれて、五つの三寶にそれぞれ、胡瓜(きうり)、茄子(なす)、西瓜(すゐくわ)、馬鈴薯(ばれいしよ)、唐黍(たうきび)、が山にして供へられてゐる。いづれも河童の好物ばかりだ。河童が魚類の好きなことはわかつてゐるが、鯉、鮒(ふな)、鯰(なまづ)、かまつき、などの豐富な筑後川の河童に、なにもあらためて魚を獻上する要はないのである。先刻、神主の祝詞(のりと)も終つて、肝心(かんじん)の行事たる角力大會がはじまつたのだつた。大會といつても人間の祭禮ではない。近郊數箇村から選りぬきの取り手が集り、勝負を爭ふのに變りはなかつたけれども、それはまつたく筑後川に棲息する河童たちへの敬意、供養、阿諛(あゆ)、歎願、またいはば、たぶらかしの目的をもつておこなはれてゐるのだつた。筋骨隆々たる屈強の若者たちが、祕術をつくして土俵上でたたかひ、その勝敗にしたがつて、群衆のどよめきは川風にさからつて川面の方へ殺到していく。河童たちが見てゐるとすれば、かれの眼と耳とに、この颯爽たる光景がはたしていかなる效果をもたらしてゐるだらうか。人々の關心はそこにあつて、ときどき不安と期待のながし眼がそつと川面にそそがれた。千斷れ雲の走る靑空に、ぎざぎざのいただきを長々とつらねて耳納山(みなふざん)がそびえてゐる。天狗の耳をおさめたといふこの山は、九十九峰とも白峰ともいはれ、豐富な峰を屏風のやうに南北にくりひろげて、筑後川の背景として壯大の山氣をあらはしてゐる。しきりに白雲がその絶頂をかすめて過ぎる。

[やぶちゃん注:「かまつき」これはコイ目コイ科カマツカ亜科カマツカ Pseudogobio esocinus を指しているのではないかと思われる。食用淡水魚。

「耳納山」福岡県南に連なる筑後川を含む筑後平野を見下ろす耳納山地の主部を形成する山。標高三七〇メートル。こちらのyamate氏のHP耳納山の四季に、ここに書かれた伝承と思われるものがあったので、そのまま引用させて戴く(『吉武栄蔵「耳納連山の伝承を訪ねる」「田主丸郷土史研究第2号」より』とある)。

「むかし、足代山(耳納山)に怪物が出没し、人々に被害を及ぼすようになりました。

村人たちは、必死に退治しようとしましたが、とてもかないません。

そこで村人たちは相談して、今光坊然廓上人の法力にすがることにしました。

上人は、宝剣を持ち山中にこもりました。夜もふけた頃、降りしきる雷雨の中から頭は牛、身体は鬼の怪物が現れ、上人に立ち向かってきたのです。上人は少しも騒がず、宝剣でこの怪物をたおしました。

 この時、怪物の耳をとって山頂に埋めたので、それからこの山を耳納山と呼ぶようになったとも言われています。」]

 青くよどんだところや、わりあひに淺くて、河底の赤褐色(あかがつしよく)の砂が水の色のやうに見えるところや、勢あまつた流れが曲り角に來て、くるくるといくつも小さな渦をつくりながら、瀨波をたててゐるところや、筑後平野を幾筋にもなって潤してゐる分流が、出あつて飛沫をあげてゐるところや、さういふさまざまの水をあつめて、筑後川はひろびろとたゆたひながら有明海へそそいでゐる。かういふ豐かな水流が全國一の河童の群棲地となつたことは、偶然ではない。九千坊といふ名だたる頭目によつて統御せられ、全國各地に分散した河童群の孤立、放埒(はうらつ)、出鱈目さにくらべて、いくらか秩序はとれてゐたが、もともと奔放(ほんぱう)な河童の習性は、その傳説の掟にしたがつて、人間融合との關係においては、しばしば圓滑を缺くことのあつたのはやむを得なかつた。集團的には筑後川と巨瀨(こせ)川との河童たちが勢力爭ひの結果、鬪爭を展開するときに、白己の繩張りの内の水量を兩方からふやしあつて壓倒せんと企て、堤防から氾濫(はんらん)させて洪水をひきおこすことによつて、沿岸の人々を困却させた。しかし、このことは稀であつた。五年に一度もあれば頻繁(ひんぱん)の方である。殊に堤防と放水路が完備してからは、どんなに河童が氣張つてみたところで、堤防を氾濫させることも決潰(けつかい)させることもできなくなつた。困るのは、河童たちがのこのこと堤防にあらはれては、通行人に角力を挑(いど)むことである。

[やぶちゃん注:「巨瀨川」現在の福岡県うきは市及び久留米市を流れる筑後川水系の一次支流の一級河川。]

 月の夜を河童はもつとも好んで誰彼の差別なく試合を申し込む。三尺ほどしかない小柄の河童を馬鹿にして、はじめは面白がつて相手になつた人間たちは、しまひにはさんざんの目にあはせられて、もはや月の夜の通行をやめるにいたつた。ところが河童の出沒は夜とはかぎらない。黄昏(たそがれ)どき、夜あけがた、まつ晝間、雨の日、風の日、雪の日を問はず、土堤(どて)を通行する人間のまへに、飄然(へうぜん)と姿をあらはす。また、土堤とはかぎらず、橋の上、村々の辻、道路にまで出張して來るやうになつた。はては寢てゐるのを戸をたたいて起してまで人間に挑戰するのだつた。別に人間に危害を加へようといふ惡意は全然ないのだ。ただ角力が好きでたまらないのである。相手になつてやるとよろこんでゐるが、相手にしないと怒つて崇りをする。ところが、その相手になるといふことが、人間の方ではさう樂なことではないのである。小柄な癖に馬でも川にひきいれるほど強力な河童だから、力自慢といはれた連中でも多くは河童にかなはない。投げたふされたうへに發熱したり、囈言(うはごと)をいふやうになつたり、河童のさはつたところから、身體に吹きでものができたり、そこから腐つたりする。さう河童に負けてばかりもゐない。河童を投げたふす強力の者もある。引つくりかへされた河童は皿の水が流れて、死ぬ者もあるのだが、勝つた方もただではおさまらない。負けた者と同じ症状をおこす。勝つても負けても同じこと、結局河童に一度角力を挑まれたが最後、病人か狂人かになつてしまふわけなのだ。筑後川近郊の人々が迷惑、いや恐怖したのも無理はない。もつとも、川に群棲してゐた河童の數にくらべると、事件は意外に少かつたといへる。川中の河童が大擧して同じ行動に出たならば、沿郊の村民たちは日ならずしてことごとく痴呆か不具かになり終つたであらう。その被害の僅少であつたのは、頭目九千坊の訓戒と嚴格の賜ものであつた。聰明にして臆病な九千坊は、必要以上の人間との接觸によつて、一族のうへにくだされる報復と刑罰とを恐れたのである。他族のなかには、自分たちの意志がまつたく人間攻撃になかつたにもかかはらず、内輪同士の爭ひによつて間接に人間に被害をあたへたため、山伏の呪詛(じゆそ)にかかつて、永遠に地中に封じこめられるにいたつた悲慘事や、加藤淸正の逆鱗(げきりん)にふれたため、川に毒を流され、大砲を射ちこまれ、燒石を投げ落されて住所を失ふにいたつた故事や、これに類する教訓は數多くあつて、つねづね、九千坊は部下たちに、人間がいかに愚かとはいへ、輕蔑することはよろしくないと、おどろおどろしい聲に峻嚴(しゆんげん)の威壓をこめて、放埓の行動をいましめたのであつた。また實際禁をを犯すものはただちにその甲羅を一枚づつ剝ぎとることによつて、部下たちに範を示した。甲羅を一枚失ふことは五年の命を縮められたと同じ刑罰である。にもかかはらず、堤防にあらはれる河童たらの跳梁(てうりやう)はなかなか止まないのである。

[やぶちゃん注:「崇りをする」の「崇」はママ。]

 戰慄した村々の代表者が鳩首(きゆうしゆ)して協議決定したことは、角力供養をすることによつて、この難から脱れようといふことであつた。河童は角力が好きなのだ。然らばその大好きな角力を心ゆくまで見物させることによつて、その好角心を滿足せしめたならば、わざわざ自分で力を費すことの勞を止めるであらう。またさう賴まなくてはならない。河童の大好物の菰菜類も十分に進呈して懇願すれば、河童とて生あるもの、こちらの意のあるところも汲んでくれるであらう。――大評定の結果、さまざまの意見はその一點へ集中し、ただちに、高橋大明神の神官の采配のもとに、祭典の準備がすすめられたのであつた。

 川緣の廣場に、角力の番組の進行にしたがつて、喊聲(かんせい)とどよめきは湧きたつた。行司をつとめてゐるちんちくりんの神官は狸のやうな眼つきで、一勝負ごとに、川面に細い眼を投げた。河童の姿をまだ一度も見ないので、やや張りあひ拔けしてゐるのである。河童の承諾を得たわけでもない一方的行爲なので、效果のほどが察しられる。先刻、水中の祭壇にむかつて祝詞をあげたとき、懇々と事情を詳述して、害を止めてくれるようにと請願したのだが、それが通じたかどうかも怪しい。河童の言葉を知らないので、勝手に當方の慣習によつてしやべつたが、ただ賴みとするは、河童が角力を挑むときにやはり人語を使ふといふこと、だけである。もつとも、神官を長年してゐるが、神を信じたことは一度もないので、神の加護を期待する心は起らなかつた。ただ、角力好きの河童が、大好物の角力を滿喫することによつて、今後人間への挑戰を思ひとどまる可能性はないともいへぬとわづかに期待した。さすれば毎年、春秋二季くらゐの年中行事にするのである。しかし今日の大角力を河童が見てゐないとなると問題にならないのだ。なんのための大騷ぎかわからなくなる。神官はやや焦躁の色を表にあらはして、川面へ頻繁に瞳を投げた。見て居つてくれるよう、と怒鳴りたい氣持だつた。無論、今日の效果如何によつて禮金に差のあることが念頭を去らなかつたことはいふまでもない。

[やぶちゃん注:末尾「いふまでもない」は底本「いふまでもい」。訂した。]

 炎天の下で、熱狂する角力取りも見物も汗だくになつた。川風ははげしいが、涼氣で膚を乾かすほどでもない。むしろ妙になまぐさくてべとつく。選手たちは獻身的な情熱にあふれてゐた。自分たちの角力によつて禍(わざわひ)をなす河童たちを慰め得れば、人々の難を救ふことになる。犧牲的精神の涙ぐましい快感が、日ごろの技(わざ)をさらに絢爛たるものにして、土俵上には、隆々たる筋肉の跳躍、展開、火花、龍虎の術がくりひろげられた。彼等の眼もときに川面に走り、ただ水の流れの白々しさがあるばかりに、失望と焦躁の色をあらはした。

 見物たちの眼も川面へ走り勝ちだつたことはいふまでもない。そしていまだに誰も河童の姿を確認しないことによつて、今日の失敗からひきつづく災厄への不安で、熱狂の喊聲を口から發し、勝負ごとに拍手をしてゐるにもかかはらず、顏色は晴れ晴れとしてゐなかつた。

 しかし、案ずることはなかつた。角力狂の河童がどうしてこの千載一遇(せんざいいちぐう)の盛大な興行を見のがさうか。水面にはまるで將棋の駒をならべたやうに、ずらりと河童がならんで見物してゐたのであつた。人間の肉眼に見えないだけである。河童が時に應じて姿を消すことのできることは人々の知るとほりである。人々は氣づかないのであらうか。この川風のはげしさこそは、河童の出現によつて起つたものであることを。鼻の敏感なるものだけがわづかに風の生ぐささに氣づいたが、たしかに河童との判定はできなかつた。ここに河童と角力をとつた者がゐたならば、或ひは氣づいたかも知れない。一匹の河童が出て來ても、それには川風がかならず伴ふのである。しかし河童に禍をうけた連中はここには出て来てゐなかつた。一つは病氣のため、一つは恐怖のため。

 ゐならんだ河童たちは、一勝負ごとに熱狂して、聲を發し、手を打つた。その聲も音も風とかはつて、ひとしきり、高張提灯、幔幕、幟、神主の顎髭をゆるがした。河童たらの眼はこの空前の見世物に異樣なかがやきを帶び、興奮して嘴をひらき、息荒く甲羅もきしむほど肩をうごかし、ゐたたまれぬやうに、手足を躍動させた。人間が土俵のうへで格鬪し、轉倒するたびにその身振りを眞似た。恐らくかれらは土俵へ飛び入りしたい誘惑にうづうづしてゐたかも知れない。九千坊の嚴戒を獨りでひそかに破ることにかけては果敢であつたが、知られることは好ましくはなかつた。かう大勢の仲間がゐては、密告する奴がゐないともかぎらない。甲羅の足りない河童もゐるところを見れば、經驗者もゐるのである。河童たちははやる心を押し沈めた。人間同士の角力の面白さはすこぶる河童たちを滿足せしめた。日暮れになつて、幕が閉ぢられるまで、一匹として水面を去る者はなかつた東西横綱の一番で打ち止めとなり、優勝した巨大漢が萬雷の拍手のなかに土俵入りした。神官が閉會を宣すると同時に、いままではげしく吹いてゐた川風がぴたりと止んだ。

 築後川の堤防にあらはれて、人間に角力を挑む河童の數はそれからはさらに數を増した。増したばかりではない。河童の好尚(かうしやう)はいつそう熱烈となり、その手口はこみいつて來た。角力供養の效果を信じた連中がうかうかと堤防を通りかかつて、たちまち河童に遭遇した。被害は減るどころか以前に倍加したのである。

 かくて、義憤をおさへかねた強力の男が(その男は角力供養の花形横綱であつた)最初から膺懲(ようちよう)の目的をもつて、土堤に出張るにいたつた。角力大會で優勝した彼は責任をも感じてゐて、その犧牲的英雄的心事は悲壯なものがあつた。彼は母親と妻子に水盃で別れをし、筑後川近郊住民の運命を一身に負ふ心意氣で、月明の夜をえらんで、堤防に立つた。彼は大聲して河童を呼びたてた。呼びたてるまでもなかつた。生ぐさい川風が芒(すすき)を騷がせる音がしたかと思ふと、眼前に膝までしかないくらゐの一匹の河童が立つてゐた。頭の皿が靑く硝子のやうに光り、嘴が烏のやうで、たえず木の實を嚙んでゐるやうな音がかすかに口のなかできこえてゐた。背後から月光をうけて河童の影は地上に、まるでつぶされた蟇蛙(がまがへる)のやうに貧弱にへたばつて見えた。ちやうどその頭のところが角力取りの足のさきのところにあつて、這ひつくばつて許しを乞うてゐるやうに見えた。膂力(りよりよく)に自信があるとはいへ、多少は不安でもあつた村の横綱は、それを眺めてにはかに勇氣百倍した。さらさらと芒の鳴る音が連續して、しきりに川風が堤防を流れる。河童たちが見物に來た模様である。萬物の靈長たる人間に災厄をもたらすこの矮軀醜惡(わいくしゆうあく)の動物にたいして、關取は憎惡と憤激の情に驅られた。ひと摑みとばかり躍かかつた。勝敗はいふまでもない。横綱は足を挫き、手折られ、身體中傷だらけ血だらけになつて、翌朝、高橋權現の手洗鉢のなかで發見された。神主はじめ村人、肉親が駈けつけても全然意識がない樣子で、たれの警顏も判別できず妙な節まはしの歌をうたひ、げらげらと笑つてばかりゐた。彼がどうして手洗鉢をベッドにしてゐたか、誰も知る者はない。ただ彼が何者のためにかかる慘憺たる目にあはされたかは誰もが暗默に知つてゐて、並ゐる者ことごとくあらためて恐怖に鳥肌だつたのであつた。

 しかし、河童の方とて何匹かの犧牲者を出した。さすがに近郊一の力持、さうたやすくはいかなかつた。もしこれが昔だつたら、或ひは河童たらはもつと多くの被害者を出してゐたかも知れない。否、或る古老のごときは、角力供養をしない前であつたら、横綱は河童をことごとく投げたふして、その災厄を消滅させたかも知れないとさへいつてゐる。角力供養以後、案に相違して、河童の行動はとみに活況を呈し、その手口がこみいつて來たといふのもまことにかの角力供養のもたらした成果であつた。河童は見物によつてたしかに滿足はしたが、やめるどころか、角力の面白さに一段と興味を感じ、おまけに、これまで知らなかつた角力の手までおぼえた。あれ以後、出沒する河童たちは、さまざまの角力の手を、(あのとき、土俵で選手たちが祕術を展開するたびに熱心に眞似てゐたのだが)投げ、掛け、反(そ)り、捻(ひね)り、そのおのおのの十二手、さらにその裏表、上手投げ、背負ひ投げ、上矢倉、卷落し、はたきこみ、内掛け、一本掛け、手組み倒し、撞木(しゆもく)反り、はては、鴨の入れ首、合掌捻り、右手草摺りがへし、五輪くづし、――もともと力のあるところへ、手をおぼえたのだから、鬼に金棒である。それでなくてさへ、人間の負ける率が多かつたのに、この河童の勉強によつて生じた結果は述べるまでもあるまい。悲壯な決意のもとに起(た)つた、膂力拔群、六尺六寸の巨漢、角力祕法四十八手裏表の自由自在の使い手、筑後川流域に名をとどろかした横綱も、つひに河童に名を成さしめたのである。つまり自分の技術によつてたふれた結果になつたのであつた。關取は死にはしかつたが、痴呆状態となつて生ける屍と化した。角力の手を全部忘れてしまつたのは無論である。ところが、あらゆる記憶と意識を喪失してゐたにもかかはらず、角力とい言葉聞くや否や、どろんと濁つた眼をかつと見ひらいて、異樣な恐怖の聲を發し、慟哭(どうこく)するごとく大笑するのを常としたといふ。

[やぶちゃん注:「捻(ひね)り」のルビは底本では「ひねり」。訂した。なお、本段落に登場する相撲の四十八手については「日本相撲協会」監修の一覧」及び旧来の手を解説したウィキ四十八手などを参照されたいが、それでも聞きなれない手が含まれている。それを想像するのも、また、一興である。]

 河童の跳梁はいまもなほ絶えない。筑後川流域を旅する人には注意を喚起(くわんき)しておきたい。地元の人々は被害に耐へかねて、種々研究するところがあり、このごろでは災厄を蒙(かうむ)ることがきはめて減少したといふことである。それは久留米(くるめ)水天宮の權威による傳説の掟の解明によつて、河童への封じ手が發見されたからである。河童は佛飯(ぶつぱん)(佛に供へた御飯)がすこぶるきらひである。河童に角力を挑まれた男がちよつと待てといつて用意の佛飯を口中にのみこみ、さあといつて手をひろげたところ、お前の眼は光るから止めたいといつて退散したといふ。また、左遷されて筑紫へくだつて來た菅原道眞が河童と交渉のあつたことが、舊記に發見されて以來、簡便の河童撃退策となつた。「いにしへの約束せしを忘るなよ川だち男氏(うぢ)は菅原」さう唱へれば河童は近づくことができないのである。かういふことは地元で流布(るふ)し、最近では河童の方が脾肉(ひにく)の歎をかこつてゐるらしいが、旅人は知らないで遭難するかも知れないので注意を申しておくのである。

[やぶちゃん注:「久留米水天宮」は現在の福岡県久留米市にある神社。全国の水天宮総本社である。天御中主神・安徳天皇・高倉平中宮(建礼門院平徳子)・二位の尼(平時子)を祀る。ここに記された本社と河童伝承は例えば、水天宮河童」ページ(但し、総てリンクは落ち)や坂田健一の「神様になったカッパなどで披見出来る。]

 聰明にて臆病な頭見千坊は、度(たび)かさなる戒告にもかかはらず、人間にしきりに接觸して恨みを買ふ部下たちを時を見てはさらに嚴訓することがあつた。ところが暗愚な部下たちはなんのため自分たちが叱られるのか、どうしてもわからないのである。害をなすなとか、惡事を働くなとか、人間から恨まれるとか、いくらいはれてもわからない。かれらはただ鬱勃(うつぼつ)と身内にわきあがつて來る情熱のままに、虛心に行動してゐるだけなのだつた。角力が好きでたまらないから人間と角力をとるだけの話なのだ。そのことがどんな結果になるか、そんなことは知らないし、どうでもよいのである。河童はだからこのごろはさびしい。おたがひ同士でやつてみたところですこしも面白くない。八百長(やほちやう)になつてしまふからだ。筑後川の土堤にはしきりに川風が吹く。季節季節で、その川風に吹かれるものが、蒲公英(たんぽぽ)であつたり、虎杖(いたどり)であつたり、野菊であつたり、芒であつたりする。草や花では角力の相手にならない。川風はやけのやうにびゆうびゆう吹くときがある。氣が立つてゐるのである。何度もいふが、旅人はとくと氣をつけた方がよろしい。

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