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2012/07/07

耳嚢 巻之四 助廣打物の事

 助廣打物の事

 

 津田越前守助廣が打し刀劍、近年專(もつぱら)世に稱美せし事なり。右助廣は靑山下野守家の鍛冶の由。靑山家には多く所持の家來もある由。當時寺社役を勤ける浦山與右衞門が先祖、大坂より江戸へ歸る餞別に、右助廣と時代をひとしふせし井上直改兩人にて打し兩銘の刀ありて、至つて見事成ものゝ由。主人も右銘刀は無之(これなき)由、野州忠裕物語ありし也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特に連関を感じさせない。暫くなかった武辺物で、しかも刀剣なれば本格物である。

・「津田越前守助廣」津田越前守助廣(寛永十四(一六三七)年~天和二(一六八二)年)は、本話記述時(寛政九(一七九七)年)から遡る百年以上前の、江戸延宝年間(一六七三年~一六八一年)に活躍した摂津国の刀工(彼は寛文新刀の最後期を飾る刀工で、彼の死後の元禄期(一六八八年~一七〇三年)は江戸時代で刀工が最も衰微した時期でもある。その後、徳川吉宗が享保六(一七二一)年に全国の名工を集め鍛刀をさせ、一平安代(いちのひらやすよ)・主水正正清(もんどのしょうまさきよ)・信国重包(のぶくにしげかね)・南紀重国(なんきしげくに)の四人の名工に葵一葉紋を茎に刻むことを許して尚武を奨励したことから次の新々刀の時代を迎える)。通称甚之丞。以下、ウィキの「津田越前守助廣」より引用する。『新刀最上作にして大業物。ただし、刀剣書によっては、角津田・大業物、丸津田・業物などと制作年代によって刃味のランクが区別されていることもある』(日本刀は最上大業物・大業物・良業物(よきわざもの)・業物の四段階に分けられる)。『摂津国打出村に生まれ、初代助広(ソボロ助広)の養子となる。明暦三年(一六五七年)、越前守受領のち大坂城代青山宗俊に召抱えられる。大坂新刀の代表工であり、新刀屈指の巨匠である。一説に生涯に一七〇〇点あまりの作品を残したとされる。江戸の虎徹とともに新刀の横綱ともいわれ、また同じく大坂の井上真改とともに最高の評価がなされており、真改との合作刀もあり、交流があったことが伺われる。しかし、その人気とともに在銘品(「助廣」と銘のある刀剣)の多くが偽物であり、特に助広、虎徹、真改銘の偽物は数万点を超えると考えられる』(本話の冒頭の謂いから見ると、既にこの頃には多量の偽物が出回っていたものと考えてよかろう)。『刀匠であった養父に学び、二十二歳で独立。茎の銘が時期により異なる。二十二歳から三十歳までは「源・藤原」銘、三十一歳から三十八歳までは「津田」の田の字を楷書で切った角津田銘、三十八歳から晩年の四十六歳までは草書で丸く田の字を切った丸津田銘を使用した』(現在、特にこの丸津田が刀剣を扱う古物商の間では彼の特徴とされて珍重されることがネット上からは窺われる)。『初期には養父、大坂新刀諸工に見られる足の長い丁子刃等を焼くが、壮年期に大互の目乱れを波に見立て、地に玉焼きを交える濤瀾刃を創始し、後世含め諸国の刀工に多大な影響を与え、人気を博した。弟に津田越前守照広、妹婿に津田近江守助直がおり、それぞれ名工である。門人には常陸守宗重や大和守広近などがいる』。作風の特徴としては、造り込みは『脇差、二尺三寸前後の刀が多い。踏ん張りが付き先反りのつく、前時代の寛文新刀と比較して優しい姿となる。切先が伸びた姿のものが多い』(以下続くが、刀剣の専門用語が多く、注を附さねばならないので省略する)。『重要文化財に指定されている刀(銘「津田越前守助広 延宝七年二月日」、個人蔵)がある。その他、重要美術品に八件認定されている。また、都道府県、市町村で文化財に指定されているものが多い』(以上、アラビア数字を漢数字に代えた)。因みに、昔の刀鍛冶は、古くは公家に金を払って国守や国司名を貰い、「肥後守」や「上総介」を名乗ったり、召し抱えられた城主や藩主の叙任の名を賜ったりした者がいた。なお、私は「広」という間の抜けた字体が個人的に好きではない。訳でも彼の名前は「助廣」で通した。

・「靑山下野守」青山忠裕(ただやす/ただひろ 明和五(一七六八)年~天保七(一八三六)年)は丹波篠山(ささやま)藩第四代藩主。老中。寺社奉行・若年寄・大坂城代・京都所司代といった、幕閣の登龍門とされるポストを残らず勤めて文化元(一八〇四)年に老中に起用されて三十年以上勤め上げ、文化・文政期の幕閣の中心人物として活躍した。参照したウィキの「青山忠裕」によれば、文政元(一八一八)年に『藩領の王地山に、京焼の陶工欽古堂亀祐を招いて窯を開かせ』、『また、内政面では地元で義民とされる市原清兵衛ら農民の直訴を受け、農民が副業として冬季に灘など摂津方面に杜氏として出稼ぎすることを認めた』とある。

・「寺社役」青山忠裕は寛政五(一七九三)年から寛政八(一七九六)年まで寺社奉行を勤めたが、藩主が寺社奉行に就任すると、その家臣から抜擢された者が実務担当として寺社奉行の事務を執り行った。

・「井上直改」底本には『(尊・三本「眞改」)』と傍注する。「三本」とはもと、三村竹清氏が所蔵していたと考えられる「日本芸林叢書本」のことを指すものと思われる(本底本には凡例がない)。「眞改」が正しい(訳では正した)。井上真改(いのうえしんかい 寛永七(一六三〇)年~天和二(一六八二)年)摂津国の名刀鍛冶。本名、井上八郎兵衛良次。以下、参照したウィキの「井上真改」より引用する。『津田越前守助広とともに大坂新刀の双璧と称される刀工。俗に「大坂正宗」などとも呼ばれ、現在重要文化財に指定されている刀と太刀がある(現在、江戸期に製作された刀に国宝指定は無い)』。『刀の銘は壮年期まで「国貞」を用い、晩年「真改」と切る(「真改」の頃は御留鍛冶といって藩主の許可がないと作刀を引き受けられなかったため、「真改」銘の刀は少ない)。真改は陽明学を学び、中江藤樹の影響を強く受けたとも言われている。書をはじめ刀剣以外の美術・工芸にも造詣が深かったらしく、その書画も高く評価されている。酒豪だったらしい』。『一説には和泉守を受領していた国貞に儒学者の熊沢蕃山に「刀鍛冶が一国の太守を名乗るとは分不相応ではないか?」と諭され、以来「真改」銘に改めたとされている』。『作品の特徴としては直刃』が主で、『津田越前守助広との合作もある。地鉄は大坂新刀屈指の美しさ』とされる。『寛永七年(一六三〇年)、刀工であった井上国貞の次男として日向国木花村木崎にて生まれる。九歳のとき、当時京都に居た父の下に赴き作刀を学び始める。十代の後半には既に一人前の刀工としての力量を示し、二十歳ごろには盛んに父の代作を行ったといわれる。作刀は、殆ど大坂で行われた』。『慶安五年(一六五二年)、二十四歳で父の死去に伴い襲名。飫肥藩伊東家から父同様百五十石を与えられる。同年中の承応元年(一六五二年)、二十五歳の時に「和泉守」を受領(ずりょう)。銘を「和泉守国貞」と切る』ようになった(「飫肥」は「おび」と読み、日向国那珂郡南部(現在の宮崎県日南市のほぼ全域と宮崎市の南部を含む)にあった藩。藩主は外様大名であった伊東氏)。『寛文元年(一六六一年)、朝廷に作品を献上したところ賞賛され十六葉菊花紋を刀(なかご)に入れること許された。この頃より銘を「井上和泉守国貞」とした。寛文十二年(一六七二年)八月より、儒者の熊沢蕃山の命名で「真改」と改称。銘も「井上真改」と切』るようになったが、『天和二年十一月九日(一六八二年十二月七日)、急逝。食中毒とも一説に大酒の後、井戸へ転落したとも言われる。享年五十三。墓所は大阪上寺町の浄土宗重願寺』にある(以上、アラビア数字を漢数字に代えた)。

・「大坂より江戸へ歸る餞別に」私が不学にして馬鹿なのか、意味が分からない。この先祖が、何の目的で江戸から大阪に行ったのか(江戸の下屋敷詰め? 「大坂」は自藩の丹波のこととはちょっと思われない)、大阪で何をしたのか(これだけの名物の餞別を貰うということは、相応の働きがなくてはおかしい)、誰がそれを餞別として下したのか――助広の名物を持つ以上、これはもう青山の前の藩主としか思われないが、彼は「大坂」にいたということになる。すると、一つの可能性は見えてくる。実は初代藩主青山忠朝(あおやまただとも 宝永五(一七〇八)年~宝暦十(一七六〇)年)は宝暦八(一七五八)年十一月二十八日に大坂城代となっており、恐らくは現職のまま、宝暦十(一七六〇)年七月十五日に享年五十三歳で亡くなっているのである。即ち、この「浦山與右衞門が先祖」なる人物は丹波篠山藩江戸下屋敷詰めの藩士であり、当主忠朝の大阪城代就任に伴い、抜擢されて実務役を仰せ付かり、その職務を終えて、再び江戸屋敷へと帰ったことを言うのではなかろうか? 私の推理に何か不自然な点があれば、御指摘を願いたい。訳ではそのような解釈のもとに訳を敷衍した。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 助廣打物の事

 

 津田越前守助廣が打った刀剣は、近年専ら、世に名刀としてもてはやされておる。

 この助広という刀工は、青山家(現当主・青山下野守忠裕殿)召し抱えの鍛冶師であった由にて、また、青山家には多く、助広の銘の刀剣を所持する家来がおる、とも聞く。

 青山忠裕殿が寺社奉行をお勤めになっておられた当時、その寺社役方を勤めていた浦山与右衛門殿の御先祖が――何でも、初代御藩主であらせられた青山忠朝(ただとも)殿が大阪城代となられ際、その実務方として勤め上げて――その後に大阪よりもともと勤めておった江戸藩邸へと帰ることとなった折りに――殿よりの格別の――餞別として、この助広と時を同じうして活躍した名工井上真改(しんかい)と助廣とが、なんと、二人して鍛えた、珍しくもその茎(なかご)に両人の銘を切った刀を、拝領致いたという。この刀、浦山家伝家の宝刀として今に伝えるが、それはそれは至って美事なるものの由にて、現当主であらせられる青山忠裕(ただやす)殿も、

「――このような銘を切った、かくなる名刀は――二つと、ない。」

と下野守忠裕殿御自身が、私に物語られた話で御座る。

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