生物學講話 丘淺次郎 五 生血を吸ふもの~(1)
五 生血を吸ふもの
[蛭の體の前端を腹面より切り開いて三個の顎を示す]
血は動物體の大切なもので、血を失つては命は保てぬ。食物が消化せられて滋養分だけが血の方へ吸收せられるのであるから、血は殆ど動物體の精分を集めたものというて宜しい。動物を全部食へば、毛・爪・骨などの如き不消化物も共に消化器の内を通過するが、血にはかやうな滓がない。それ故、もし血だけを吸ひ取つてしまへば、遺骸は捨て去つても、あまり惜しくはない。肉食する動物の中には實際餌を捕へると、血だけを吸つて殘りは捨てて顧みず、その肉を食ふ手間で寧ろ次の餌を捕へてその血を吸はうとする贅澤なものがある。「いたち」などはその一例で、鷄を捕へて殺しても、たゞ、血を吸つて皮を捨てる。南アメリカの「かうもり」にも生血を吸ふとて評判の高いものがある。血を十分に吸つてしまへば、吸はれた動物は、無論死ぬに定つて居るが、吸ふ動物が小さくて、吸はれる動物が大きな場合には、僅に血の一部分を吸ふだけであるから、吸はれた方は死ぬに至らず、吸つた方だけが十分に滋養分を得る。「のみ」・蚊・「だに」・「しらみ」などは、かやうな例で、常に相手に少しく迷惑をかけるだけで、これを殺さずに屢々生血を吸つて生活して居る。蛭などは毎囘稍々多くの血を吸ふから、血をとる療法として昔から醫者に用ゐられた。廣く動物界を見渡すと、陸上のものにも、海産のものにも、他の生血を吸つて生きて居るものはなほ澤山にある。金魚や鯉の表面に吸いつく「てふ」、鮫の皮膚に附著して居る「さめじらみ」、その他普通には知られて居ない種類が頗る多い。そして血を吸ふには相手の動物の皮膚に傷をつけ、若しくは細かい穴を穿つことが必要であるから、血を吸ふ動物には無論それだけの仕掛けは具はつてある。例へば、醫用蛭には口の中に三個の小さな圓鋸狀の顎があり、これで人の皮膚を傷をつける。それ故、蛭に吸はれた跡を蟲眼鏡で見ると、三つ目錐で突いた如き形の切れ目がある。貝類や魚類の血を吸ふ蛭には口のなかに細長い管があり、これを口から延し出して、相手の皮膚に差入れる。蚊の口は細い針を束ねた如く、「のみ」、「なんきんむし」の口は醫者の用ゐる注射針の如くで、いづれも尖端を皮膚に差込み、咽喉の筋肉をポンプの如くに働かせて血液を吸ひ込む。[やぶちゃん注:本文途中であるが、図を挿む。]
「しらみ」・「だに」などの口の構造も略同樣である。かやうな口の構造は血を吸ふには至極妙であるが、その代り他の食物を食ふには全く適せぬ。およそ何事によらず全く專門的に發達してしまふと、それ以外には一向役に立たぬやうになる。動物の口の構造なども或る一種の食ひ方だけに都合の宜いやうに十分發達すると、すべて他の食ひ方には到底間に合はなくなる。それ故、血を吸つて生きて居る動物は、血を吸ふ相手のないときは、たとひ眼の前に他の食物が何程あつても食ふことが出來ぬのが常であり、隨つて一度血を吸ふ機會に遇うたときに腹一杯に血を吸ひ込んでおく必要がある。血を吸ふた蚊を擲き殺すと、身體の大きさに似合はぬ程の多量の血の出ることは人の知る通りであるが、蛭類の如きも、身體の構造は恰も血を容れるための嚢の如くで、頭から尻までが殆ど全部胃嚢であるといへる。身體がかくの如くであるのみならず、性質もこれに伴つて血を吸ひ始めると、腹一杯に吸ひ溜めるまでは決して口を離さぬ。ヨーロッパ産の醫用蛭は日本産のものよりは遙に大きくておよそ五倍も多く血を吸ふが、醫者がこれを用ゐるときには尻の方を切つて置く。かくすると吸ひ入れた血は尻の切れ口から體外へ流れ出るから、いつまで經つても腹一杯にならず、蛭はいつまででも血を吸つて居る。
胃の全身に充ちたのを示す]
[やぶちゃん注:『「いたち」などはその一例で、鷄を捕へて殺しても、たゞ、血を吸つて皮を捨てる。』この叙述は現在の動物学的知見からは残念ながら誤りである。食肉(ネコ)目イタチ科イタチ亜科イタチ属
Mustela のイタチ類は肉食主体の雑食性で、カニ・ザリガニ・蛙・昆虫・小鳥・鼠・魚・木の実など様々なものを採餌するが、よく言われる(そして丘先生も信じておられた)鶏の血を吸うというのは誤りで、イタチには吸血習性はない(複数の資料で確認した)。但し、イタチは獲物が多数目の前にいた際、必要捕食量を無視して多量且つ無目的に捕殺してしまう傾向があり、尚且つ、獲物が自分より大きい場合は、獲物の首筋や喉に噛み付き、鋭い牙で血管を切断して殺傷する。そのため、家畜の鷄などが襲われた場合、致命傷を負って生きながら放血し、身体から血液が失われた状態で多数が死亡するケースがある。古人がこれを見て、イタチは鷄から吸血すると誤認したものと考えられる(以上の記載は「Yahoo!知恵袋」のイタチの食性についての質問の回答を参照にした)。丘先生のような碩学の生物学者さえも、大正期にはそれを信じていた人が多いという訳である。
『南アメリカの「かうもり」にも生血を吸ふとて評判の高いもの』南北アメリカ大陸に分布する哺乳綱獣亜綱コウモリ目陽翼手亜ウオクイコウモリ下目ウオクイコウモリ上科チスイコウモリ科チスイコウモリ属ナミチスイコウモリ
Desmodus rotundus。チスイコウモリ科の模式属。主に鳥類やウシ・ウマ・ブタ等の家畜類から吸血する。コウモリ目では本種のみが哺乳類の血液も摂取する。また、コウモリ類では例外的に歩行が得意であり、眠っている獲物の近くに着地し、地面を歩いて忍び寄り、鋭い歯で獲物の体毛のない部分に噛みついた後、傷口に舌を高速で出し入れすることで吸血する。三〇分程で、自分の体重の四〇%もの血液を摂取することが可能。本種は小型であるため、血液を摂取した後は血液の重量やその消化のために飛行が不可能となり、地面を飛び跳ねるようにして移動する。但し、人を襲うことは稀であれる(以上は、ウィキの「ナミチスイコウモリ」を参照した)。
『金魚や鯉の表面に吸いつく「てふ」』節足動物門甲殻亜門顎脚綱鰓尾亜綱チョウ目 Arguloida に属する甲殻類鰓尾類に含まれる一群。主に魚類の外部寄生虫で日本ではチョウ Argulus japonicas が普通種として知られ、別名ウオジラミとも呼ぶ(但し、この呼称は次注に掲げる、全く異なる種である、甲殻亜門顎脚綱橈脚(カイアシ)亜綱新カイアシ下綱後脚上目に属するシフォノストム(ウオジラミ)目
Siphonostomatoida の同形態で同様の魚類外部寄生虫にも用いられるので要注意)。漢字表記「金魚蝨」であるが、和名の由来は不詳。以下、ウィキの「鰓尾類」より引用する。『薄い円盤状の体の甲殻類で、淡水の魚類の外部寄生虫である。鰓尾綱では最もよく知られたものである。吸盤や鈎など、魚にしがみつく構造を持つと同時に、游泳の能力も持ち、よく泳ぐことができる。養魚場など、魚を多数飼育している場所では重篤な被害を出すことがある』。すべて小型で、概ね三~六ミリメートル前後、『ほぼ透明で、黒い色素が点在する。全体に円盤形をしている。これは、頭胸部が左右に広がり、さらに腹部の両側にも広がって全体の形を作っているためである。そのため、全身で吸盤になるような構造をしている。頭部の先端付近の腹面には、触角に由来する二対の小さな鈎がある。その後方、腹側に一対の大きな吸盤を持つ。その吸盤は第一小顎の変形したものである』。『腹部は頭胸部に埋もれたようになっているが、はっきりした体節があって五節あり、最初の節には顎脚が、残りの四節には遊泳用に適応した附属肢がある。尾部は頭胸部の形作る円盤から突き出しており、扁平で後端が二つに割れる』。習性は『キンギョ、コイ、フナなどの淡水魚類の皮膚に寄生して鋭い口器で、その血液を吸う外部寄生虫である。全身のどこにでもとりつき、体表に付着した姿は鱗の一枚のように見える』、『自由に游泳することができるため、時折り宿主を離れて泳』ぎ、三~五日間ならば宿主を離れても死ぬことはない。『ただし、魚を離れて泳ぎだしたものが魚に食われる例も多いようである』。本種は私は一般に知られているとは思われないので、ウィキから長々と引用したが、養魚家の間では最も嫌われる害虫の一つとして古くから知られる。『体液を吸われて魚が衰弱するだけでなく、体表に傷を付けられることからミズカビ類の侵入を引き起こしやすいと言われる』とある。
『鮫の皮膚に附著して居る「さめじらみ」』前注に掲げた甲殻亜門顎脚綱橈脚(カイアシ)亜綱新カイアシ下綱後脚上目に属するシフォノストム(ウオジラミ)目サメキジラミ科 Pandarus 属サメジラミ Pandarus satyrus。英文サイト“The Dorsal Fin –
Shark News”の“Pandarus
satyrus”で軟骨魚綱板鰓亜綱ネズミザメ目ネズミザメ科ホホジロザメ Carcharodon carcharias に寄生する本種の動画(といってもサメジラミが動くわけではないが、抽出個体などはエイリアンぽく必見)が見られる。
「圓鋸」は「まるのこ」と読む。
「南京虫」昆虫綱半翅(カメムシ)目異翅亜目トコジラミ科トコジラミ
Cimex lectularius の別称。昨今、復活の兆しを見せており、つい一昨日のニュースでもやっていたが、私が面白く思うのは、本種がシラミ目ではなく半翅(カメムシ)目である点と、近年分かってきた共生細菌である真正細菌プロテオバクテリア門αプロテオバクテリア綱リケッチア目アナプラズマ科ボルバキア属
Wolbachia(昆虫に高頻度で共生、ミトコンドリアのように母から子に遺伝、昆虫宿主の生殖システムを自身の棲息に合わせて操作することから、利己的遺伝因子の一種のように見なされている生物である)がいないと、正常な成長や繁殖が困難であることが研究で明らかにされた事実である。不快害虫として嫌がって目を瞑る前に、この辺りを調べてみると、まことに面白いですぞ。]