耳嚢 巻之四 齒の妙藥の事
齒の妙藥の事
是も柳生氏かたりけるは、同人の齒性(はのしやう)至てあしく、壯年の比、口醫(こうい)も四十迄は此齒の無難ならざらん事を示しけるが、或人の教にて、冬瓜(とうがん)を糠みそ漬にして干上(ひあ)げ、黑燒にして日三度宛ふくみしが、五十に成て未(いまだ)齒の愁ひなし。しかし一兩年又々震(ゆ)るぎ抔する事ありしに、又人の教けるは、右冬瓜の黑燒、胡栗(くるみ)の澁皮共黑燒になしたるを合せ、又チサの棠(たう)にたちたる軸を黑燒になし、三味合せて用ゆれば奇妙の由聞て、苣(ちさ)の棠は時節後れて才覺なかりし故、冬瓜胡桃兩種を去年已來(いらい)用ゆるに、聊か快き事覺へしとかたりぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:話者柳生氏及び民間療法で直連関。本話の話の運び、そしてエンディング――これ、やっぱり根岸の視線は、これ、かなり眇めな気がしてならないのである。
・「冬瓜」双子葉植物綱スミレ目ウリ科トウガン
Benincasa hispida。インド及び東南アジア原産。本邦では平安時代から栽培されてきた。漢方では、体を冷し、熱をさます効果があるとされるので、歯周病による歯肉の腫れを鎮める効果が期待出来なくもない。
・「五十に成て」もしこの「柳生氏」が前項で示した柳生俊則であるとするなら、彼は享保十五(一七三〇)年生まれであるから、本巻執筆当時(寛政九(一七九七)年)では、数え七十歳で、計算が合わない。やはり彼ではあるまい。寧ろ、この謂いから、この「柳生氏」は根岸(当時、数え六十四歳)よりも若い可能性が高いということが分かる。
・「震(ゆ)るぎ」は底本のルビ。
・「胡栗(くるみ)」は底本のルビ。
・「チサ」キク目キク科アキノノゲシ属チシャ
Lactuca sativa。聞きなれないかも知れないがレタス(“Lettuce”英名)の和名である。地中海沿岸原産で本邦には既に奈良時代に伝来している。但し、現在、我々が馴染んでいる結球型のレタスはアメリカから近年持ち込まれたもので、家庭の食卓に普及したのは一九五〇年代と新しい。それまでのチシャは巻かない(結球しない)タイプであった。キク科に属すことから分かるように本来の旬は秋である。従って、本話柄の後半のシークエンスは恐らく厳冬から春夏にかけてと推定出来る。なお、学名もレタスもチシャも語源は同根で、英名の語源となった属名の“Lacutuca”のLacはラテン語で「乳」を意味し、チシャは乳草(ちちくさ)が訛ったものである(因みに、イネ Oryza sativa の種小名と同じ“sativa”はラテン語で「栽培されている」の意)。これは新鮮なレタスを切った際に白い乳状の苦い液体が滲出することに由来する命名であるが、これはラクチュコピクリン(lactucopicrin)と呼ばれるポリフェノールの一種で、これには軽い鎮静作用や催眠促進効果があり、十九世紀頃までは乾燥粉末にしたレタスを鎮静剤として利用していたとされるから、この話柄でも歯周病による鎮痛効果が期待されるとすれば、これも強ち迷信とは言えないかも知れない。
・「棠」底本には右に『(薹)』と傍注。たまたま歴史的仮名遣でも一致して「たう」であるが、ここは「薹」が正しい。「薹(とう)が立つ」の「とう」で、これは野菜の茎が伸びてしまい、食べ頃を過ぎてしまうことをいうから、チシャが旬を過ぎてすっかり葉が固くなり広がったものの堅い軸(茎)を指している。
■やぶちゃん現代語訳
歯の妙薬の事
これも柳生氏の語られた話で御座る。
「……拙者、生来、歯の性質(たち)が、これ、殊の外、悪う御座っての、壮年の頃には、もう口腔外科医から、
「……残念なことにて御座るが……四十までには、これらの歯……無事にては、これ、御座らぬと推測致しまする……。」
と宣告されて御座ったものじゃ。……
……ところが、ある人の教授にて、
――冬瓜を糠味噌漬けに致いたものを更に干し上げ、これを今度は黒焼きに致いて、毎日一度宛て、口に含むと効果がある――
との由にて……その後は欠かさず、その通りに致いて参った。……
……されば、ほれ、この通り、五十になった今にても、未だ歯の愁いなし!
……と申したいところで御座るが……
……実は一、二年ほど前より、またぞろ、歯がぐらつき始めて御座って、の……
……そこで、先の療治を教えて呉れた者に、再び相談致いたところ、また、教授を受けた。それによれば、
――まず、冬瓜の黒焼きに、胡桃を渋皮のままに黒焼きに致いたものを混ぜ合わせたものを用意致し、更にまた、薹(とう)の十分に立ってしもうた苣(ちしゃ)の固く太い軸を黒焼きになして、さても、この二種、都合内容物三種を合わせて、用いれば絶妙――
との由にて御座ったのじゃ。
……ところがじゃ……苣の薹が立ったものと言われても、の……その折りは、これ、とんだ時期外れで御座って、とてものことに手に入らなんだによって……とりあえずは、冬瓜・胡桃両種の黒焼きを合わせたもの、これ、去年以来、ずうっと服用致いて御座ったところ……
「……いや、根岸殿、聊か軽快致いたかの如き気が、致いて御座るのじゃ。……」
と、柳生氏は語って御座った。
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