鎌倉攬勝考 樓門 / 「八幡宮」の「八」は鳩さんだって知ってたかな?
樓門 石階の上の正面檐間に八幡宮寺と四字の額を掲ぐ。曼珠院良恕親王の書なり。樓門は三間に二間あり。此左右よりして廻廓續けり。樓門の前に石の狛犬左右にあり。又銅燈籠二基有。延慶三年庚戊七月、願主滋野景義、勸進藤原行安と銘す。一基は寛文年中の造獻にて、願主向井將監忠勝の銘あり。
[やぶちゃん注:「曼珠院良恕法親王」「珠」は「殊」の誤り。「二王門」に既出。
「延慶三年」西暦一三一〇年。
「滋野景義」相模国の武将と思われるが不詳。「鎌倉市史 社寺編」には「滋野景善」とあり、こちらが正しいものと思われる。
「藤原行安」不詳。戦国武将に同姓同名がいるが、先の滋野と連名であって時代が合わないから、全くの別人。
「向井將監忠勝」(天正一十(一五八二)年~寛永十八(一六四一)年)。忠勝は江戸前期の武将・旗本で左近衛将監。徳川水軍として御船手奉行を勤めた。相模国三浦郡三崎宝蔵山を本拠とした(後に改易。罪状は不詳)。寛永九(一六三二)年には徳川家光の命により幕府の史上最大の「安宅丸」の造船を指揮、伊達政宗が支倉常長をローマに派遣した際の南蛮船「サン・フアン・バウティスタ号」の造船の際には、ウィリアム・アダムスとともに石巻まで出向いている造船の名手であった(以上はウィキの「向井忠勝」に拠る)。]
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